目を覚ましたとき、部屋の中はすでに夕暮れに染まっていた。障子越しに差し込む橙色の光が、畳の上に長い影を落としている。どうやら半日以上眠っていらしい。
「……あ」
身を起こそうとして、いつもより身体が軽いことに気づく。重だるさも、息苦しさもない。代わりに、身体の奥側にかすかな温もりが残っていた。
──ああ……。
理由を考えるよりも先に、答えは浮かんだ。
──瓊環様……。
抱き上げられた彼の腕の感触を、肌がまだ覚えている。身体に残るその温もりは、自分を守るように巡らされていた彼の体温と力の名残りだと、言葉にしなくてもわかった。
「奈珠那様!」
のそりと上半身を起こした瞬間、目に飛び込んできたのは狼狽した幼い狐の神使。震える耳と忙しなく動く尻尾は、彼の動揺を表しているようだった。
「珀弥……」
「よ、よかった……! お身体の具合はいかがですか!? 話は瓊環様から強引に聞き出しました!」
奈珠那は布団の上でゆっくりと頭を下げる。
「はい。もう大丈夫みたいです」
「本当ですか……はあ……」
大きく息を吐き、珀弥はようやく肩の力を抜いた。
彼の仕草を見て、初めてこの屋敷に来た日のことがぼんやりと頭に浮かんだ。あのときも、こうして彼が傍にいてくれた。
すぐに心が落ち着いたのも、こうして珀弥が気にかけてくれたからなのだろう。
「まったく。天寧様の奔放さには毎回振り回されますよ。次に来られたら、オレがびしっと言いますからね!」
珀弥の言葉に小さく首を振る奈珠那。
「天寧様は……悪くないんです」
「え?」
「だから、珀弥も……どうか、いつも通り接してあげてください」
「……わかりました! 奈珠那様がそう仰るのであれば」
ほんの少し訝しげに顔をしかめた珀弥だったが、すぐにぱっと顔を上げ、いつもの調子で小さく胸を張った。
「オレ、奈珠那様の選ぶ言葉はちゃんと信じてますから!」
「ありがとうございます」
互いに微笑みを交わしたあと、珀弥がふっと力を抜くように息を吐いた。
「……それにしても」
珀弥の声色がわずかに変わった。ぴんの伸びていた耳が悠然と落ち着いていく。猫のように無邪気に揺れていた尻尾も、いつの間にか静止していた。
青磁色の瞳が、まっすぐに奈珠那を映す。瞳に宿っている輝きは、いつもの幼いものではない。長く神に仕えてきた神使としての輝きだった。
「奈珠那様は、本当に不思議なお方ですね」
珀弥は顔を傾げて、くすりと微笑んだ。
「どんなにきつい言葉を向けられても、傷つけられても、人を拒まず、恨まず……ちゃんと相手を見ようとする。天寧様がおとなしく引かれたのも、奈珠那様のその在り方に思うところがあったからでしょう」
「私は……そんなつもりじゃ……」
「もちろん、ご本人に自覚がないところも含めて、ですよ」
否定しようとした言葉を珀弥の穏やかな声が遮る。奈珠那は戸惑い、自分の指先を見つめた。自分はただ必死だっただけだ。
けれど、そんな無防備な自分の振る舞いが神の心を動かしたのだと珀弥は言った。
「瓊環様も、奈珠那様を見過ごせなくなっているんです。気持ちが変わっているのではなく、揺らいでいる、と言ったほうが近いかもしれませんね」
「……揺らいで、いる……」
「ええ。あの人にとって、それはとても大きなことなんですよ」
一瞬、部屋に静寂が落ちた。
揺らいでいるのは、奈珠那も同じなのかもしれない。生きたいと思ってしまったこと、戻りたいと願ってしまったこと。そのすべてが、まだ名前を持たないまま胸で小さく波打っている。
「あの……珀弥」
「はい、なんでしょう?」
少しだけ声の調子が明るく戻った。珀弥はいつもの人懐っこい表情を浮かべ、彼女の言葉を待つように首を傾げる。
奈珠那は机の上に置かれた紅玉の果実を見つめ、昨夜、夜風に消えた女神の言葉を拾い上げた。
「天寧様が……『私なら、瓊環様を助けられるかもしれない』って言ったんです」
珀弥の表情が、ぴたりと止まる。
「それって……どういう意味か、わかりますか?」
問いかけると、彼は一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せ、それから神妙な面持ちで口を開いた。
「奈珠那様の世界……人間界の万年桜。最近、咲かなくなりましたよね」
「え、ええ……」
思いがけない言葉だったが、奈珠那は小さく頷いた。
「あれは、ただの象徴ではありません。瓊環様の命そのものなんです」
「……命?」
「はい。五百年余り、万年桜は花を結び続けてきました。でも……もう、限界が近いんです」
珀弥の声は静かだった。事実のみを告げるように。
「神が神として在り続けるには、必要なものがあります。それが欠ければ、どれほど強大でも、やがて消えてしまう。瓊環様には……それが足りていないんです」
「足りない、もの……?」
ほんのわずかな間を置いて、珀弥は告げた。
「愛です」
短い言葉は散り際の花弁のように奈珠那の胸に触れて、はらりと落ちた。
「神は、愛を知らなければ……消えてしまうんです」
奈珠那の胸に波紋が広がった。それは落ちた花弁が水面に触れたように音もなく、けれど身体の隅々まで浸透していく。
──愛……。
瓊環を愛せなければ、彼は消える。
衝撃的な事実に、奈珠那は思わず胸元の衣を握りしめた。
彼を愛すること。それは奈珠那に課された残酷や運命だと、どこかで思っていた。
だが、本当は違う。それが彼の救いになると気づいた瞬間、胸の奥で小さく何かが疼いた。
消えないでほしい──そう思ってしまった自分の心が、灯のようにそこにあった。
「……あ」
身を起こそうとして、いつもより身体が軽いことに気づく。重だるさも、息苦しさもない。代わりに、身体の奥側にかすかな温もりが残っていた。
──ああ……。
理由を考えるよりも先に、答えは浮かんだ。
──瓊環様……。
抱き上げられた彼の腕の感触を、肌がまだ覚えている。身体に残るその温もりは、自分を守るように巡らされていた彼の体温と力の名残りだと、言葉にしなくてもわかった。
「奈珠那様!」
のそりと上半身を起こした瞬間、目に飛び込んできたのは狼狽した幼い狐の神使。震える耳と忙しなく動く尻尾は、彼の動揺を表しているようだった。
「珀弥……」
「よ、よかった……! お身体の具合はいかがですか!? 話は瓊環様から強引に聞き出しました!」
奈珠那は布団の上でゆっくりと頭を下げる。
「はい。もう大丈夫みたいです」
「本当ですか……はあ……」
大きく息を吐き、珀弥はようやく肩の力を抜いた。
彼の仕草を見て、初めてこの屋敷に来た日のことがぼんやりと頭に浮かんだ。あのときも、こうして彼が傍にいてくれた。
すぐに心が落ち着いたのも、こうして珀弥が気にかけてくれたからなのだろう。
「まったく。天寧様の奔放さには毎回振り回されますよ。次に来られたら、オレがびしっと言いますからね!」
珀弥の言葉に小さく首を振る奈珠那。
「天寧様は……悪くないんです」
「え?」
「だから、珀弥も……どうか、いつも通り接してあげてください」
「……わかりました! 奈珠那様がそう仰るのであれば」
ほんの少し訝しげに顔をしかめた珀弥だったが、すぐにぱっと顔を上げ、いつもの調子で小さく胸を張った。
「オレ、奈珠那様の選ぶ言葉はちゃんと信じてますから!」
「ありがとうございます」
互いに微笑みを交わしたあと、珀弥がふっと力を抜くように息を吐いた。
「……それにしても」
珀弥の声色がわずかに変わった。ぴんの伸びていた耳が悠然と落ち着いていく。猫のように無邪気に揺れていた尻尾も、いつの間にか静止していた。
青磁色の瞳が、まっすぐに奈珠那を映す。瞳に宿っている輝きは、いつもの幼いものではない。長く神に仕えてきた神使としての輝きだった。
「奈珠那様は、本当に不思議なお方ですね」
珀弥は顔を傾げて、くすりと微笑んだ。
「どんなにきつい言葉を向けられても、傷つけられても、人を拒まず、恨まず……ちゃんと相手を見ようとする。天寧様がおとなしく引かれたのも、奈珠那様のその在り方に思うところがあったからでしょう」
「私は……そんなつもりじゃ……」
「もちろん、ご本人に自覚がないところも含めて、ですよ」
否定しようとした言葉を珀弥の穏やかな声が遮る。奈珠那は戸惑い、自分の指先を見つめた。自分はただ必死だっただけだ。
けれど、そんな無防備な自分の振る舞いが神の心を動かしたのだと珀弥は言った。
「瓊環様も、奈珠那様を見過ごせなくなっているんです。気持ちが変わっているのではなく、揺らいでいる、と言ったほうが近いかもしれませんね」
「……揺らいで、いる……」
「ええ。あの人にとって、それはとても大きなことなんですよ」
一瞬、部屋に静寂が落ちた。
揺らいでいるのは、奈珠那も同じなのかもしれない。生きたいと思ってしまったこと、戻りたいと願ってしまったこと。そのすべてが、まだ名前を持たないまま胸で小さく波打っている。
「あの……珀弥」
「はい、なんでしょう?」
少しだけ声の調子が明るく戻った。珀弥はいつもの人懐っこい表情を浮かべ、彼女の言葉を待つように首を傾げる。
奈珠那は机の上に置かれた紅玉の果実を見つめ、昨夜、夜風に消えた女神の言葉を拾い上げた。
「天寧様が……『私なら、瓊環様を助けられるかもしれない』って言ったんです」
珀弥の表情が、ぴたりと止まる。
「それって……どういう意味か、わかりますか?」
問いかけると、彼は一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せ、それから神妙な面持ちで口を開いた。
「奈珠那様の世界……人間界の万年桜。最近、咲かなくなりましたよね」
「え、ええ……」
思いがけない言葉だったが、奈珠那は小さく頷いた。
「あれは、ただの象徴ではありません。瓊環様の命そのものなんです」
「……命?」
「はい。五百年余り、万年桜は花を結び続けてきました。でも……もう、限界が近いんです」
珀弥の声は静かだった。事実のみを告げるように。
「神が神として在り続けるには、必要なものがあります。それが欠ければ、どれほど強大でも、やがて消えてしまう。瓊環様には……それが足りていないんです」
「足りない、もの……?」
ほんのわずかな間を置いて、珀弥は告げた。
「愛です」
短い言葉は散り際の花弁のように奈珠那の胸に触れて、はらりと落ちた。
「神は、愛を知らなければ……消えてしまうんです」
奈珠那の胸に波紋が広がった。それは落ちた花弁が水面に触れたように音もなく、けれど身体の隅々まで浸透していく。
──愛……。
瓊環を愛せなければ、彼は消える。
衝撃的な事実に、奈珠那は思わず胸元の衣を握りしめた。
彼を愛すること。それは奈珠那に課された残酷や運命だと、どこかで思っていた。
だが、本当は違う。それが彼の救いになると気づいた瞬間、胸の奥で小さく何かが疼いた。
消えないでほしい──そう思ってしまった自分の心が、灯のようにそこにあった。



