万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 屋敷に戻ると、月明かりに照らされた縁側に艶めかしい影が一つあった。

「瓊環!」

 出迎えたように天寧が勢いよく縁側から立ち上がった。その視線は、瓊環の腕の中にいる人間へと向けられる。奈珠那の顔色の悪さと胸に抱えられた紅玉の果実を見て、天寧の表情が一瞬だけ強張った。

「奈珠那をあそこに仕向けたはお前だな、天寧」
「私は別に……! その子に『どうしたらいい』って聞かれたから答えただけよ! それに、ちゃんと危険な場所だって言ったわ!」

 必死に弁解する天寧の顔には、わずかな冷や汗が浮かんでいた。瓊環から感じるのは、怒気以上にひりついた殺気とも取れる神圧。それに彼女は気圧されていた。
 緊張の糸が走る。だが、か細い声がすぐに断ち切った。

「天寧様の……仰る通りです」

 奈珠那は瓊環の腕の中で、彼の衣をぎゅっと掴む。これ以上は言わないでほしいと訴えるようだった。

「天寧様は、ちゃんと危険だと教えてくださいました。行くと決めたのは……私です」
 
 彼の怒りは奈珠那に向けられているものではない。だが、その刃のような感情が誰かに向けられているのは嫌だった。

「どうか……怒らないでください。怒るなら、私を……」
「もういい」

 短く遮られた彼の声に、先ほどまでの鋭さはなかった。
 瓊環の身体から張りつめていた神気が抜けていく。怒りが収まったというより、奈珠那の必死な庇い立てを前に、これ以上刃を振るうことをやめた、というような諦観(ていかん)に近いものだった。

「なによ、なによ……! 私を悪者みたいに……!」

 強がったような天寧の言葉に、奈珠那はかつての記憶を思い出した。

 “──私を悪者にしたいのかしら?”

 蔑んだ視線。それから飛んできた扇子の感触。
 否定したかっただけだった。口答えをしたつもりなどなかった。けれど、義妹は最初から聞く気などなかったのだ。
 奈珠那は目の前の女神をまっすぐに見た。天寧は、千佳とは違う。やり場のない怒りの奥に、責められることへの恐れがある。自分は悪くないと言いながら、どこか罪悪感を思わせるように表情が曇っていく。
 それがわかってしまった以上、黙ってやり過ごすことはできなかった。

「瓊環様……少しだけ、天寧様とお話しさせてください」

 恐る恐る願い出ると、瓊環の腕の力が緩んだ。完全に納得したわけではないのだろう。彼は何かを言いかけて、やめた。
 地面に下ろされた奈珠那は天寧のほうへと歩み寄った。

「……なによ。言っとくけど、私のせいじゃないからね。勝手に言ったのはあなたでしょ」

 瓊環の視線から逃げるように、天寧は棘のある言葉を吐き出す。奈珠那は彼女の言葉を遮ることなく、深く丁寧に頭を下げた。

「ありがとうございました」
「はあ……!? なにそれ、嫌味か何か?」

 奈珠那は小さく首を横に振ってみせる。そして一度息を整えて、ゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。

「……嬉しかったんです。何も持たない私に、どうすればいいのか教えてくださって。それに……危険な場所だと、きちんと教えてくださいました」
「別に、怖気付いてくれたほうが楽だと思ったからよ」

 天寧は言葉に詰まったように口をすぼめる。腕を組む仕草はいつもより強く、指先は袖をきつく握り締めていた。
 
「……本当に、どうでもいい相手なら。あるいは、憎い相手なら……黙って行かせることもできたはずです。けれど天寧様は、危険だと教えて、断る道も与えて……それでも進むならと、選べるようにしてくださいました」

 何も言わずにいる天寧。腕を組んだまま、指先だけが強く袖を掴んでいる。

「だから……天寧様は、お優しい方だと思いました」

 再度、奈珠那は深く腰を折った。疑いようがないほど誠実な感謝の形。無垢ともいえる奈珠那の仕草に、天寧の中で何かが決定的に弾けた。
 
「……馬鹿にしてるの!? 優しくなんてしてないわ! わかったような顔しないで!」

 感情を叩きつけるような声が屋敷に響く。その声には怒りだけではなく、焦りと戸惑いも孕んでいた。
 
「天寧様は……以前お出ししたお茶も、飲んでくださいました。お菓子だって、私の分を用意してくださいました。今回だって……そうです」

 奈珠那は、ほんの一瞬だけ視線を伏せる。
 頭の片隅に古い記憶が滲んだ。似たような場面は、これまでにも何度もあった。だが、茶をかけられることはあっても、差し出されたことはない。菓子を与えられることなど、一度もなかった。生贄として出されたあの夜も、真実はずっと隠さたままだった。
 だからこそ、天寧の些細な行為は奈珠那に深く刻まれていたのだ。

「天寧様は、本当は優しい方なんだと……私には、そう思えたんです」

 返す言葉が見つからないというように、天寧はしばらく黙り込む。怒りや苛立ちが一瞬だけ表情に浮かんだあと、それを振り払うように彼女は月を見上げて、大きく息を吐いた。

「……あなた、やっぱりズレてるわ」

 その言い方に先ほどまでの棘はない。嘲りではなく、目の前にいる変わった人間への困惑と、わずかな観念が混じったものだった。
 
「そう……かもしれません」

 奈珠那は少しだけ困ったように微笑む。その歪な微笑みを前に、天寧は大きくため息をついた。

「あーあ。なんか意地張ってる私のほうが馬鹿みたい」

 そう言って小さく苦笑する。憑き物が落ちたように、さっぱりとしていた。

「もう帰るわ。夜分にお邪魔しちゃって、ごめんないね」

 天寧は踵を返しかけて、ふと足を止める。そして、照れくさそうに奈珠那へと身体を近づけた。

「……あなたなら、瓊環を助けられるのかもね」

 耳元で囁かれた低い声は、ほんの少しの悔しさが混じっていたようにも聞こえる。でもそれ以上に、素直になりきれない女神の本音がこぼれたもののように思えた。
 それきり、ふんっと小さく鼻を鳴らして、彼女の姿は夜の闇へと紛れ消えていった。

 嵐が去り静まった庭に、流星のような呟きが一つ落ちた。

「身体は?」

 瓊環はいつも通り淡々として問いかけていた。声音も表情も、普段と変わらない。けれど奈珠那は、金色の瞳が必要以上に自分から逸れないことに気づいていた。
 
「はい……瓊環様のおかげで、もうだいぶ落ち着いています」

 そう答えると瓊環はふっと息を吐いた。安堵とも、緊張を解くためともつかない短い吐息。彼の吐息が風を連れてきたように庭に一筋の風が吹いて、瓊環の白銀の髪をなびかせた。

「もう二度と、俺の前から勝手にいなくなるな。許可なく死ぬことなど……許さん」

 月明かりの下で冷たく輝くその佇まいは、誰が見ても凛と君臨する神そのものである。
 しかし奈珠那には、彼の口調が冷たいものには聞こえなかった。叱責にしては語気が弱く、命令にしては覇気がない。何かを失うことを恐れるような切迫感が滲んでいたからだ。

「……はい」
「部屋へ戻れ。夏とはいえ、夜風は冷える」

 それだけ言うと瓊環は視線を逸らし、縁側へ腰を下ろした。
 
「おやすみなさい、瓊環様。……ありがとうございました」

 頭を下げて、奈珠那は自室へと歩み出す。夜風に紛れて返ってきた「……ああ」という短い返事を、奈珠那は確かに聞き取った。