「この穀潰しが!」
戸口が乱暴に開き、義母である沙都子の怒声が土間に叩きつけられた。
「米の一粒すらまともに炊けないなんて、いったい何のつもりでこの家に居座っているの!?」
「……申し訳、ございません」
聞き慣れた罵声に、奈珠那は頭を垂れるしかなかった。黒鳶色の髪が頬を滑り、視界をかすかに遮る。
「いつもそう。謝れば済むと思ってるの?」
沙都子は奈珠那が抱える鍋をにらみつけた。
鍋の底は炭のように黒く焦げている。炊き上がったばかりの香ばしい米の匂いがかすかに漂うが、焦げた匂いがそれを打ち消していた。
米が台無しになった原因を、奈珠那は知っていた。
この家──藤ノ宮家の炊事、洗濯、掃除など雑役のすべてを担ってきた自分が、いまさら火の加減を誤るはずがない。これは意図的な妨害なのだ、と。
だが、決してそれを口にするとこはなかった。
「なによ、その目は。本当に忌々しい目だこと」
奈珠那は緋い瞳をさらに床へと伏せる。そして言葉を返す間もなく、土間に小さく扇子を開く音が響いた。
この瞬間を待っていたかのように、上品な着物に身を包んだ若い女──義妹の千佳が姿を現したのだ。
「お母様。そんな子に何を言っても時間の無駄ですわ。だって奈珠那姉様、祟り子なんですもの」
口元を扇子で隠しながらも、千佳の茶色い瞳は興味深げに奈珠那を見下ろしていた。
──ああ、またか……。
焦げた米の原因は明白だった。千佳が「井戸まで水を汲んでこい」と奈珠那を遠ざける間に、火加減を操作したのだ。
奈珠那はそれを予想していたものの、抗う手段は何一つ持ち合わせていなかった。いや、もはや抗う心すら、とっくの昔に消えてしまったのだろう。両親が家からいなくなって十年。その間、彼女は家の中で押し潰され続けてきたのだから。
「万年桜が十七年間も咲かないなんて、普通じゃないわ。姉様が生まれた年からですものね? やっぱりそういうことなんでしょう?」
奈珠那は言葉を返さず、薄く唇を噛んだ。言い返せば火に油を注ぐだけだと、彼女は身に染みて知っていた。
藤ノ宮家は代々、万年桜の神を祀る家系である。
四季を通して薄桃色の花を咲かせる万年桜は、春の陽に煌めき、夏の光に透け、秋の風に舞い、冬の雪をも照らす神秘の桜として長く崇められてきた。
しかし、奈珠那が生まれた年、その桜は枯れ果てた。それ以来、十七年間、一度も花をつけていない。
原因は不明だった。
だが、緋い瞳を持って生まれた奈珠那と、彼女の誕生を機に咲かなくなった万年桜。その数奇な重なりは、やがて人々の口にのぼり、彼女はいつしか「祟り子」と呼ばれる存在になっていった。
奈珠那を庇う者は、誰もいなかった。両親は彼女が七つのときに家から姿を消している。そして、その日を境に義母と義妹の仕打ちは露骨に冷酷さを増していった。
神に見放されたように、村で一番高い丘の上に立つ万年桜は沈黙を守り続けている。
「私の演舞が効かないのも、奈珠那姉様がいるからじゃなくて?」
千佳は嫌味を重ねた。
年に一度、この村では万年桜の神に捧げる奉納の儀が行われる。藤ノ宮家の女性は巫女に扮し、祝詞や舞を捧げるのが習わしなのだが──奈珠那が舞を披露したことは、一度だってない。
一つ年下の千佳が巫女としてその役目を務め、神前で舞を披露し、村人たちの注目を一身に集めていたのだ。
だが、何年経っても千佳の演舞が神に届くことはなかった。怒りと苛立ちは年々募り、その矛先はさらに奈珠那へ向けられるようになったのだった。
「……申し訳ございません」
「姉様ったら、謝ってばっかりね。私が悪者みたいじゃない。それとも、私を悪者にしたいのかしら?」
「私は……そんなつもりじゃ……」
「うるっさいわね! 口答えしないでよ!」
扇子が勢いよく飛んできて、ぱしんと奈珠那の頬を打つ。親骨がかすめ、鋭い痛みが走った。
何と言葉を返したところで、こうなる結末は変わらない。鍋を抱えている奈珠那は、頬に手を当てることすらもできなかった。
「姉様、その米……まさか捨てるつもりじゃないですよね?」
千佳はわざとらしいため息をつく。
「ああ、別に捨てても構いませんよ。でも姉様のせいなんですから、姉様の夕餉はその米で済ませてくださいね。穀潰しには相応の報いですわ」
扇子を拾い上げることもせず、千佳は嘲るような笑いを一つ落として土間から出ていった。
沙都子もまた奈珠那を一瞥し、冷えた声で言い残す。
「一族の恥ね」
ふたりの足音が遠ざかり、土間に静けさが戻る。
奈珠那は小さく息をこぼすだけだった。涙など、とうに枯れ果てている。
──いつまで、こんな生活を続けるんだろう……。
咲かぬままの万年桜の影が、沈みきった意識の中でゆらりと揺れた気がした。
戸口が乱暴に開き、義母である沙都子の怒声が土間に叩きつけられた。
「米の一粒すらまともに炊けないなんて、いったい何のつもりでこの家に居座っているの!?」
「……申し訳、ございません」
聞き慣れた罵声に、奈珠那は頭を垂れるしかなかった。黒鳶色の髪が頬を滑り、視界をかすかに遮る。
「いつもそう。謝れば済むと思ってるの?」
沙都子は奈珠那が抱える鍋をにらみつけた。
鍋の底は炭のように黒く焦げている。炊き上がったばかりの香ばしい米の匂いがかすかに漂うが、焦げた匂いがそれを打ち消していた。
米が台無しになった原因を、奈珠那は知っていた。
この家──藤ノ宮家の炊事、洗濯、掃除など雑役のすべてを担ってきた自分が、いまさら火の加減を誤るはずがない。これは意図的な妨害なのだ、と。
だが、決してそれを口にするとこはなかった。
「なによ、その目は。本当に忌々しい目だこと」
奈珠那は緋い瞳をさらに床へと伏せる。そして言葉を返す間もなく、土間に小さく扇子を開く音が響いた。
この瞬間を待っていたかのように、上品な着物に身を包んだ若い女──義妹の千佳が姿を現したのだ。
「お母様。そんな子に何を言っても時間の無駄ですわ。だって奈珠那姉様、祟り子なんですもの」
口元を扇子で隠しながらも、千佳の茶色い瞳は興味深げに奈珠那を見下ろしていた。
──ああ、またか……。
焦げた米の原因は明白だった。千佳が「井戸まで水を汲んでこい」と奈珠那を遠ざける間に、火加減を操作したのだ。
奈珠那はそれを予想していたものの、抗う手段は何一つ持ち合わせていなかった。いや、もはや抗う心すら、とっくの昔に消えてしまったのだろう。両親が家からいなくなって十年。その間、彼女は家の中で押し潰され続けてきたのだから。
「万年桜が十七年間も咲かないなんて、普通じゃないわ。姉様が生まれた年からですものね? やっぱりそういうことなんでしょう?」
奈珠那は言葉を返さず、薄く唇を噛んだ。言い返せば火に油を注ぐだけだと、彼女は身に染みて知っていた。
藤ノ宮家は代々、万年桜の神を祀る家系である。
四季を通して薄桃色の花を咲かせる万年桜は、春の陽に煌めき、夏の光に透け、秋の風に舞い、冬の雪をも照らす神秘の桜として長く崇められてきた。
しかし、奈珠那が生まれた年、その桜は枯れ果てた。それ以来、十七年間、一度も花をつけていない。
原因は不明だった。
だが、緋い瞳を持って生まれた奈珠那と、彼女の誕生を機に咲かなくなった万年桜。その数奇な重なりは、やがて人々の口にのぼり、彼女はいつしか「祟り子」と呼ばれる存在になっていった。
奈珠那を庇う者は、誰もいなかった。両親は彼女が七つのときに家から姿を消している。そして、その日を境に義母と義妹の仕打ちは露骨に冷酷さを増していった。
神に見放されたように、村で一番高い丘の上に立つ万年桜は沈黙を守り続けている。
「私の演舞が効かないのも、奈珠那姉様がいるからじゃなくて?」
千佳は嫌味を重ねた。
年に一度、この村では万年桜の神に捧げる奉納の儀が行われる。藤ノ宮家の女性は巫女に扮し、祝詞や舞を捧げるのが習わしなのだが──奈珠那が舞を披露したことは、一度だってない。
一つ年下の千佳が巫女としてその役目を務め、神前で舞を披露し、村人たちの注目を一身に集めていたのだ。
だが、何年経っても千佳の演舞が神に届くことはなかった。怒りと苛立ちは年々募り、その矛先はさらに奈珠那へ向けられるようになったのだった。
「……申し訳ございません」
「姉様ったら、謝ってばっかりね。私が悪者みたいじゃない。それとも、私を悪者にしたいのかしら?」
「私は……そんなつもりじゃ……」
「うるっさいわね! 口答えしないでよ!」
扇子が勢いよく飛んできて、ぱしんと奈珠那の頬を打つ。親骨がかすめ、鋭い痛みが走った。
何と言葉を返したところで、こうなる結末は変わらない。鍋を抱えている奈珠那は、頬に手を当てることすらもできなかった。
「姉様、その米……まさか捨てるつもりじゃないですよね?」
千佳はわざとらしいため息をつく。
「ああ、別に捨てても構いませんよ。でも姉様のせいなんですから、姉様の夕餉はその米で済ませてくださいね。穀潰しには相応の報いですわ」
扇子を拾い上げることもせず、千佳は嘲るような笑いを一つ落として土間から出ていった。
沙都子もまた奈珠那を一瞥し、冷えた声で言い残す。
「一族の恥ね」
ふたりの足音が遠ざかり、土間に静けさが戻る。
奈珠那は小さく息をこぼすだけだった。涙など、とうに枯れ果てている。
──いつまで、こんな生活を続けるんだろう……。
咲かぬままの万年桜の影が、沈みきった意識の中でゆらりと揺れた気がした。



