光の届かない底なし沼に沈んでいくような感覚だった。手足の感覚はなく、極寒の地に裸で放り出されたかのような冷えが内側から身体を貫いていく。
重苦しいほどの神気は、容赦なく奈珠那の細い命を削り取ろうとしていた。胸元に抱いた果実の重みだけが、彼女をこの世に繋ぎ止めている。
まぶたが重い。息が詰まる。もはや奈珠那は、身体が崩れるのを待つだけだった。そして意識が闇に溶け落ちようとした、その刹那。
「奈珠那!」
鼓膜を震わせたのは、これまで聞いたこともない切迫した叫び。空気が裂けるように濃密な神気が一瞬で押しのけられ、眩いくるいの光が闇に差し込んだ。
かすみきった目を細めた瞬間、冷え切った身体が強く抱き寄せられる。
「しっかりしろ!」
鋭い声と同時に、ほのかな熱が身体に触れた。神の力よりも温かな、誰かの温もりだった。
奈珠那は気力を振り絞り、わずかにまぶたを押し上げる。視界の中に映ったのは、夜闇の中でも鮮明に輝く金色の双眸。いつも凪いでいるはずのその瞳が、今は荒れ狂う水面のように揺れていた。
「……たま、き……さま……?」
掠れた声で名を呼ぶと、抱きしめる腕がさらに強くなった。
「今は喋るな」
叱責のような声は少しだけ震えている。言うやいなや、瓊環は彼女の身体をためらいなく腕の中に抱き上げた。
冷え切っていた身体にじわりと熱が戻る。凍りついていた血がゆっくりと巡り始め、浅く乱れていた呼吸が次第に整っていった。前に体調を崩したときと同じだ。安らかで優しい光の膜が身体を包み込んでいる。きっとまた、自分のために力を使ってくれているのだろう。
「こんな場所に、なぜ一人で……」
奈珠那を抱きかかえ屋敷へと歩き出した瓊環の声は、ところどころで途切れていた。発するよりも、もれ出したような吐息混じり声。怒りよりも先に抑えきれない動揺が滲んでいた。
「……申し訳……ごさまいません」
奈珠那は震える両手を動かし、胸元に隠していたものを差し出した。
「これ……を……取って、きました……」
花弁に守られた紅玉の珠は、彼女の胸の上で心臓のように脈打ち、煌めきを放っている。
命を懸けて摘みとったそれを直視した瓊環は、言葉を失っていた。目をわずかに見開いて視線を紅い果実に落としている。
「こんな、もののために?」
呆然とした様子だった。だが、すぐに彼の瞳から動揺が消える。状況を理解したと同時に、感情が一気に反転したかのように語気が強まった。
「この辺りがどれほど危険か、珀弥が教えなかったはずはない。お前、もしかして……」
歩みを進めていた瓊環の足が、ぴたりと止まる。一筋の風が吹いた。銀色の髪がなびく。月光のように輝く金の瞳まで、その風と一緒に揺らいだように見えた。
「死にたくなったのか?」
核心だけを突くような問いかけ。奈珠那は彼の瞳の奥で揺らいだものを、怒りとは思わなかった。彼からの問いは、凍てつくような怒りを上回るほど切実なものに聞こえたからだ。
「そうじゃ……ありません」
奈珠那は必死に言葉を紡ぐ。
「私は……何も持っていません。守られて、生かされているだけ……そう思ったら、自分が嫌になったんです」
果実を抱えている指先に自然と力がこもる。
「だけど、どうすればいいのか、わからなくて……。そうだとしても、何もしないままここに居続けるなんて……できませんでした。だから……果実を取りに来たんです」
言いながら呼吸をするのが楽になっていった。肺を刺していた濃い神気から、彼が守り続けてくれているのだろう。毛布に包まれているような温もりが全身を満たしていた。
──また、守ってもらってる……。
優しさに甘えてしまいたい気持ちと、このままではいけないという思いがせめぎ合う。それでも今は目を逸らしたくなかった。
奈珠那は初めて、胸の奥にある感情を言葉に変えた。
「私……今は死にたいなんて思っていません。生きてみたいって、少しだけ、思えるようになったんです」
それが何を意味するのか理解できないほど、彼女は鈍くもなかった。
「生きる」という選択は、この神と向き合い続けるということだ。期限付きの契約も、その内容も、忘れていたわけではない。自分のような人間が愛を知ることができるのか。ましてや、それを神に向けることなど。
それでも──。
「……瓊環様」
奈珠那は小さく息を吸った。
「私、戻りたかったんです。瓊環様のいる場所に」
瓊環はすぐには答えなかった。
代わりに彼女を抱える腕にかすかに力が入る。落とさぬように、離さぬようにと、彼女を繋ぎ止めるかのような仕草だった。
「……帰るぞ」
それだけ言って、瓊環は再び歩き出した。
重苦しいほどの神気は、容赦なく奈珠那の細い命を削り取ろうとしていた。胸元に抱いた果実の重みだけが、彼女をこの世に繋ぎ止めている。
まぶたが重い。息が詰まる。もはや奈珠那は、身体が崩れるのを待つだけだった。そして意識が闇に溶け落ちようとした、その刹那。
「奈珠那!」
鼓膜を震わせたのは、これまで聞いたこともない切迫した叫び。空気が裂けるように濃密な神気が一瞬で押しのけられ、眩いくるいの光が闇に差し込んだ。
かすみきった目を細めた瞬間、冷え切った身体が強く抱き寄せられる。
「しっかりしろ!」
鋭い声と同時に、ほのかな熱が身体に触れた。神の力よりも温かな、誰かの温もりだった。
奈珠那は気力を振り絞り、わずかにまぶたを押し上げる。視界の中に映ったのは、夜闇の中でも鮮明に輝く金色の双眸。いつも凪いでいるはずのその瞳が、今は荒れ狂う水面のように揺れていた。
「……たま、き……さま……?」
掠れた声で名を呼ぶと、抱きしめる腕がさらに強くなった。
「今は喋るな」
叱責のような声は少しだけ震えている。言うやいなや、瓊環は彼女の身体をためらいなく腕の中に抱き上げた。
冷え切っていた身体にじわりと熱が戻る。凍りついていた血がゆっくりと巡り始め、浅く乱れていた呼吸が次第に整っていった。前に体調を崩したときと同じだ。安らかで優しい光の膜が身体を包み込んでいる。きっとまた、自分のために力を使ってくれているのだろう。
「こんな場所に、なぜ一人で……」
奈珠那を抱きかかえ屋敷へと歩き出した瓊環の声は、ところどころで途切れていた。発するよりも、もれ出したような吐息混じり声。怒りよりも先に抑えきれない動揺が滲んでいた。
「……申し訳……ごさまいません」
奈珠那は震える両手を動かし、胸元に隠していたものを差し出した。
「これ……を……取って、きました……」
花弁に守られた紅玉の珠は、彼女の胸の上で心臓のように脈打ち、煌めきを放っている。
命を懸けて摘みとったそれを直視した瓊環は、言葉を失っていた。目をわずかに見開いて視線を紅い果実に落としている。
「こんな、もののために?」
呆然とした様子だった。だが、すぐに彼の瞳から動揺が消える。状況を理解したと同時に、感情が一気に反転したかのように語気が強まった。
「この辺りがどれほど危険か、珀弥が教えなかったはずはない。お前、もしかして……」
歩みを進めていた瓊環の足が、ぴたりと止まる。一筋の風が吹いた。銀色の髪がなびく。月光のように輝く金の瞳まで、その風と一緒に揺らいだように見えた。
「死にたくなったのか?」
核心だけを突くような問いかけ。奈珠那は彼の瞳の奥で揺らいだものを、怒りとは思わなかった。彼からの問いは、凍てつくような怒りを上回るほど切実なものに聞こえたからだ。
「そうじゃ……ありません」
奈珠那は必死に言葉を紡ぐ。
「私は……何も持っていません。守られて、生かされているだけ……そう思ったら、自分が嫌になったんです」
果実を抱えている指先に自然と力がこもる。
「だけど、どうすればいいのか、わからなくて……。そうだとしても、何もしないままここに居続けるなんて……できませんでした。だから……果実を取りに来たんです」
言いながら呼吸をするのが楽になっていった。肺を刺していた濃い神気から、彼が守り続けてくれているのだろう。毛布に包まれているような温もりが全身を満たしていた。
──また、守ってもらってる……。
優しさに甘えてしまいたい気持ちと、このままではいけないという思いがせめぎ合う。それでも今は目を逸らしたくなかった。
奈珠那は初めて、胸の奥にある感情を言葉に変えた。
「私……今は死にたいなんて思っていません。生きてみたいって、少しだけ、思えるようになったんです」
それが何を意味するのか理解できないほど、彼女は鈍くもなかった。
「生きる」という選択は、この神と向き合い続けるということだ。期限付きの契約も、その内容も、忘れていたわけではない。自分のような人間が愛を知ることができるのか。ましてや、それを神に向けることなど。
それでも──。
「……瓊環様」
奈珠那は小さく息を吸った。
「私、戻りたかったんです。瓊環様のいる場所に」
瓊環はすぐには答えなかった。
代わりに彼女を抱える腕にかすかに力が入る。落とさぬように、離さぬようにと、彼女を繋ぎ止めるかのような仕草だった。
「……帰るぞ」
それだけ言って、瓊環は再び歩き出した。



