夜。瓊環は庭に立ち、ひとり桜を見上げていた。
一年を通して、枯れることなく同じ花を咲かせ続ける神域の桜。それは、彼の力の象徴だった。だが、万年桜だけは咲かせることができない。あれは瓊環自身の命そのものだからだ。
ふと、人間の少女──奈珠那の姿が彼の脳裏を過った。その影を吹き消すように、ため息をつく。
もともと、瓊環は人間という生き物が嫌いだった。
人間たちはいつだって、醜い欲や身勝手な祈り、他社への不幸を神に向けるだけ。利己的でうるさく、脆いくせに強欲で、矮小な存在。それこそが、彼にとっての「人間」という定義だった。
だから奈珠那も同じだと思っていた。
だが、初めて会ったときから彼女はどこかおかしな人間だった。生きることに執着がなく、死を恐れている様子もない。そのくせ無駄に頭を下げ、人の一挙手一投足に怯えるように顔色を伺う。与えられた温もりにはどう反応すればいいのか分からず、戸惑うように目を伏せる。
与えられた環境に慣れ、欲を募らせればすぐに本性を見せると思ったが──彼女は変わらない。奈珠那は瓊環が定義する「人間」という生態から、大きく外れていた。
それゆえに、最初はただの面倒な存在だと思った。
しかし共に過ごしていくうちに、彼女が他の人間とは決定的に違うことに気づかされる。
奈珠那は瓊環に何も求めない。奇跡も、富も、不老不死も。彼が与えた「契約」という名の居場所で、ひっそりと呼吸をしている。
「ここにいていいのか」と不安げに揺れていた緋い瞳は、今はもう瓊環の前では過剰に怯えることもなくなっていた。自分の視線に気づくと、花の蕾がほころぶように、かすかに笑うことが増えた。
その変化に気づいたとき、胸の奥がざわついた。理由などわからない。しかし瓊環が自覚している以上に、同じ屋根の下で静かに時を刻む彼女の気配は、いつの間にか凍てついた彼の日常に溶け込みはじめていたのだった。
「……愚かな」
呟きは夜気に溶けて消える。奈珠那に向けたものではない。たった一人の人間にこれほど意識を割いている、自分自身への苦い自嘲だった。
「瓊環」
背後から聞き慣れた声がかかる。
「……天寧」
振り返るより先に、女神はいつものように気安く距離を詰めてきた。慣れなれしく腕に絡みついてくる彼女の指先からは、濃厚な神気の香りが漂っている。
「こんな夜更けに迷惑だと思わないのか?」
「いいじゃない。私と瓊環の仲でしょ」
天寧の声は甘く、親密さを誇示するようだった。かつては気にも留めなかったはずの距離が、どうしてかひどく煩わしい。
「いつもみたいに騒ぐなよ。……あいつが起きる」
「あいつって……」
「奈珠那だ」
その名を口にした瞬間、天寧の眉間にしわが寄る。あからさまに不快そうな顔をして、彼女は弾かれたように腕を離した。
「……瓊環、やっぱり変わったわね」
「何が?」
「あの子に執着してるみたい。前は他人のことなんて全然気にすることなかったのに」
「阿呆くさい」
冷たく突き放すが、天寧の追及は止まらない。彼女の瞳に嫉妬と苛立ちが混じり合う。
「あの子は……瓊環を助けなんかしない! あんな内気で自分のことすら大事にしていない子が、あなたを愛するはずないわ! 瓊環だって……!」
天寧が必死に訴えかけている最中、瓊環の身体がわずかに前傾した。心臓に鋭い熱が走ったからだ。ただの熱ではなかった。自分の魂の一部が千切れるような、凄まじい痛みを含んだ一閃の熱。
「……奈珠那?」
胸の奥で何かが警鐘を鳴らしている。
契約によって繋がれた人間の気配。それが屋敷の中から消えている。いないと察知したときには、身体はもう動いていた。
「ちょ、瓊環……!? どこに……!」
天寧が慌てて腕を掴もうとするが、瓊環はそれを冷酷に振り払った。
「奈珠那のところだ」
「待ってよ! あの子は自分から……!」
言いかけて、天寧は言葉を噛み殺す。その一瞬の沈黙がすべてを語っていた。
瓊環の金の瞳が冷ややかに細められる。
「お前、あいつに何が起きているのか知っているな?」
「……それは……」
天寧が口ごもる。小さく舌打ちをした瓊環は彼女の答えを待つこともなく、夜の庭から駆け出した。
──奈珠那……!
心の中で強く名を呼ぶ。
一人の人間が消えるだけ。それなのに、この焦燥はなんなのだろう。この神域から何かが欠ける予感がしてならない。
彼女の額に刻んだ契約の脈動が、いよいよ細くなっていく。かすかな震えが止まることを想像しただけで、胸がひやりと締めつけられた。息をするたび、そこに冷たい空白が広がっていくような、不快な感覚。
なぜ、こんなにも落ち着かないのか。なぜ、奈珠那の顔が頭から離れないのか。
答えの出ない自問を、彼は力ずくでねじ伏せた。理由など、今はどうでもいい。指の間からこぼれ落ちようとしている、この小さな熱を繋ぎ止める。
それだけを考えて瓊環は闇を切り裂いた。
一年を通して、枯れることなく同じ花を咲かせ続ける神域の桜。それは、彼の力の象徴だった。だが、万年桜だけは咲かせることができない。あれは瓊環自身の命そのものだからだ。
ふと、人間の少女──奈珠那の姿が彼の脳裏を過った。その影を吹き消すように、ため息をつく。
もともと、瓊環は人間という生き物が嫌いだった。
人間たちはいつだって、醜い欲や身勝手な祈り、他社への不幸を神に向けるだけ。利己的でうるさく、脆いくせに強欲で、矮小な存在。それこそが、彼にとっての「人間」という定義だった。
だから奈珠那も同じだと思っていた。
だが、初めて会ったときから彼女はどこかおかしな人間だった。生きることに執着がなく、死を恐れている様子もない。そのくせ無駄に頭を下げ、人の一挙手一投足に怯えるように顔色を伺う。与えられた温もりにはどう反応すればいいのか分からず、戸惑うように目を伏せる。
与えられた環境に慣れ、欲を募らせればすぐに本性を見せると思ったが──彼女は変わらない。奈珠那は瓊環が定義する「人間」という生態から、大きく外れていた。
それゆえに、最初はただの面倒な存在だと思った。
しかし共に過ごしていくうちに、彼女が他の人間とは決定的に違うことに気づかされる。
奈珠那は瓊環に何も求めない。奇跡も、富も、不老不死も。彼が与えた「契約」という名の居場所で、ひっそりと呼吸をしている。
「ここにいていいのか」と不安げに揺れていた緋い瞳は、今はもう瓊環の前では過剰に怯えることもなくなっていた。自分の視線に気づくと、花の蕾がほころぶように、かすかに笑うことが増えた。
その変化に気づいたとき、胸の奥がざわついた。理由などわからない。しかし瓊環が自覚している以上に、同じ屋根の下で静かに時を刻む彼女の気配は、いつの間にか凍てついた彼の日常に溶け込みはじめていたのだった。
「……愚かな」
呟きは夜気に溶けて消える。奈珠那に向けたものではない。たった一人の人間にこれほど意識を割いている、自分自身への苦い自嘲だった。
「瓊環」
背後から聞き慣れた声がかかる。
「……天寧」
振り返るより先に、女神はいつものように気安く距離を詰めてきた。慣れなれしく腕に絡みついてくる彼女の指先からは、濃厚な神気の香りが漂っている。
「こんな夜更けに迷惑だと思わないのか?」
「いいじゃない。私と瓊環の仲でしょ」
天寧の声は甘く、親密さを誇示するようだった。かつては気にも留めなかったはずの距離が、どうしてかひどく煩わしい。
「いつもみたいに騒ぐなよ。……あいつが起きる」
「あいつって……」
「奈珠那だ」
その名を口にした瞬間、天寧の眉間にしわが寄る。あからさまに不快そうな顔をして、彼女は弾かれたように腕を離した。
「……瓊環、やっぱり変わったわね」
「何が?」
「あの子に執着してるみたい。前は他人のことなんて全然気にすることなかったのに」
「阿呆くさい」
冷たく突き放すが、天寧の追及は止まらない。彼女の瞳に嫉妬と苛立ちが混じり合う。
「あの子は……瓊環を助けなんかしない! あんな内気で自分のことすら大事にしていない子が、あなたを愛するはずないわ! 瓊環だって……!」
天寧が必死に訴えかけている最中、瓊環の身体がわずかに前傾した。心臓に鋭い熱が走ったからだ。ただの熱ではなかった。自分の魂の一部が千切れるような、凄まじい痛みを含んだ一閃の熱。
「……奈珠那?」
胸の奥で何かが警鐘を鳴らしている。
契約によって繋がれた人間の気配。それが屋敷の中から消えている。いないと察知したときには、身体はもう動いていた。
「ちょ、瓊環……!? どこに……!」
天寧が慌てて腕を掴もうとするが、瓊環はそれを冷酷に振り払った。
「奈珠那のところだ」
「待ってよ! あの子は自分から……!」
言いかけて、天寧は言葉を噛み殺す。その一瞬の沈黙がすべてを語っていた。
瓊環の金の瞳が冷ややかに細められる。
「お前、あいつに何が起きているのか知っているな?」
「……それは……」
天寧が口ごもる。小さく舌打ちをした瓊環は彼女の答えを待つこともなく、夜の庭から駆け出した。
──奈珠那……!
心の中で強く名を呼ぶ。
一人の人間が消えるだけ。それなのに、この焦燥はなんなのだろう。この神域から何かが欠ける予感がしてならない。
彼女の額に刻んだ契約の脈動が、いよいよ細くなっていく。かすかな震えが止まることを想像しただけで、胸がひやりと締めつけられた。息をするたび、そこに冷たい空白が広がっていくような、不快な感覚。
なぜ、こんなにも落ち着かないのか。なぜ、奈珠那の顔が頭から離れないのか。
答えの出ない自問を、彼は力ずくでねじ伏せた。理由など、今はどうでもいい。指の間からこぼれ落ちようとしている、この小さな熱を繋ぎ止める。
それだけを考えて瓊環は闇を切り裂いた。



