その日の夕餉は、ほとんど味がしなかった。
向かいに座る瓊環は相変わらず淡々としており、珀弥もいつも通り軽妙な口を叩いている。彼らの顔を見るたび、胸の奥に凍てついた風が吹き抜けていくような冷たい痛みを覚えた。
何も言わずに屋敷を抜ける──それは、彼らの信頼を裏切ることにならないだろうか。だが、誰かの手を借りたとわかれば、天寧は奈珠那を認めはしないだろう。
もし女神が認めてくれたのなら。ここにいる意味がもっと確かなものになる。そんな気がした。
箸を置く指先がわずかに震える。隠すように膝の上に手を重ねて、視線を落とした。
──いつも通りに……やらなきゃ。
気づかれないよう、悟られないよう。奈珠那は箸を動かしながら、夕餉と一緒に緊張と不安と、少しの後ろめたさを飲み込んだ。
食事が終わると、奈珠那は立ち上がり器をまとめる。台所へ運び、水に浸し、布巾で卓を拭く。その一つひとつは、これまでと何も変わらない動作だった。
淡々と雑役をこなすのは昔から慣れている。考えることを放棄した、腐った性根のように染みついた習性。だからこそ、誰にも悟られない。今夜の決行を秘めていることも、きっと気づかれないだろう。
すべてを終えたとき、奈珠那はようやく顔を上げた。そして、いつもと同じ声色で告げる。
「おやすみなさい」
いつも通りの挨拶。いつも通りの一礼。瓊環がふと奈珠那を見たような気がしたが、彼女は振り返らずに自室へと戻った。
⁂
部屋の明かりを消してから、二刻ほどが過ぎた。
屋敷は寝静まり、時折、風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。奈珠那は手近な衣を羽織り、小さな提灯を手に掲げた。
一度大きく息を吐き出し、気を引き締めふ。音を立てないよう慎重に障子を引き部屋から顔を出すと、湿り気のある夏の夜気が頬を撫でた。
屋敷は静まり返っている。瓊環の気配も、珀弥の足音もない。屋敷を出ても気づかれた様子はなさそうだ。
──大丈夫……。
自分に言い聞かせるように頷き、提灯へ明かりを灯す。奈珠那は夜の闇へと足を踏み出した。
目指すのは、神域の北端にある一本杉。
神域に来たばかりの頃、珀弥から聞いたことがある。「あれを越えた先は、神しか通れないんですよ」と。だから一本杉から外へは出るな、という注意だったのだろう。
聞いた当時は、逃げられない結界に閉じ込められたような気がして身震いがした。けれど、今は違う。与えられた平穏を守るため、そして答えを見つけるため、自らの意志で踏み越えなければならない境界なのだ。
「……行かなきゃ」
提灯の小さな光が暗闇の中でぼんやりと輝く。その光は、かつて失いかけた彼女の命そのもののようでもあり、同時に奈珠那自身の意思を映すように足元を照らしていた。
どれほど歩いただろうか。
夜の森は想像以上に重苦しい闇に包まれていた。風が吹くたび、低く唸るような音が耳元をかすめていく。空気は肌にまとわりつき、息をするたび肺がひりついた。夏なのに、ここの風はやけにひんやりと感じる。
決して、引き返そうとは思わなかった。怖くないわけではない。むしろ足は隠しようがないくらい震えているし、心音は大きく乱れている。
しかし彼女は歩みを止めようとしない。もがくように、拙い光を頼りにしながら前へ進んだ。
やがて視界が開けた先、天を突くほどに巨大な一本の杉がそびえ立っているのが見えた。
「本当に来たのね。馬鹿正直に」
杉の根元で艶やかに影が揺れた。天寧だ。彼女は木にもたれかかり、退屈そうに指先で髪を弄んでいた。
「逃げるかと思ったのに。案外、根性あるじゃない」
「……約束、ですから」
天寧はふんと鼻を鳴らし、一本杉の向こう側の、さらに暗く沈んだ森の奥を指差した。
「紅玉の果実はこの先よ。赤い石みたいに見えるけど、生きてるの。月の光を吸って脈打つように光るわ。見ればすぐわかる」
「はい……わかりました」
奈珠那が頷くと、天寧は細めた目でじとっと彼女を見据えた。
「あなた、本当にわかってる? この奥は危険だって教えてもらわなかったの?」
「珀弥が……教えてくれました」
「それを承知で行くってことね」
一瞬、天寧の視線が奈珠那から逸れる。その表情は嘲るようでもあり、どこか諦めを含んだような複雑な色を見せていた。
「……いいわ。私はもう何も言わないから」
天寧は一歩引き、ため息をこぼした。
奈珠那は暗い森の奥へと目を向ける。足を踏み入れれば、もう戻れないかもしれない。だが、胸に芽生えた「何かを成し遂げたい」という思いだけは、はっきりとそこにあった。
⁂
足を踏み出すごとに、目に見えない重圧が全身を蝕んだ。肺に吸い込む空気は鉛のように重く、身体が地面に沈むような感覚がする。天寧が言っていた通り、神気が濃すぎるこの場所は人間にとって猛毒そのもののようだった。
視界はどんどん狭くなり、膝が笑いだす。足元の土が柔らかく沈み、方向感覚が曖昧になっていった。
今からでも引き返せる、この苦しみからも解放される。そんな甘い考えが頭をもたげる。だがここで踵を返したら、過去の自分に逆戻りしてしまうだけだ。
脳裏に浮かんだのは、あの金色の瞳。冷徹で、感情を知らないと言われた神が見せる、ほんの一瞬の揺らぎ。
それまで彼は、奈珠那に優しい言葉をくれたわけでも慰めてくれたわけでもない。
けれど、当たり前の日常を奈珠那に与えた。体調が悪いと気づき、助けた。そして、彼女の命を繋ぎ留めた。
あの人は、きっと気づいていないだろう。誰かを救うほどの優しさを、すでに持っていることを。だからこそ思う。このまま何もせずに戻るわけにはいかないのだ、と。
足を引きずり、息を切らしながら進み続ける。そして、顔を上げたその先に──それは、あった。
先の見えない暗闇の中、点々とした紅い輝きが幻影のように浮かび上がっている。地に星屑を撒いたように、無数の紅が寄り集まっていた。
「……あった……」
声に出した瞬間、肺が焼けつくように痛んだ。喉元が締め付けられ、視界の縁がじわじわと滲む。けれど、目は離せなかった。
見ればすぐにわかる、と言った天寧の言葉が脳裏をよぎる。月明かりを閉じ込めたように朧げで、それでいて鮮やかな紅。闇の中で脈打つように淡く明滅している。
近づくにつれ、たるい蜜の香りが鼻腔を満たした。果実というより花に近い。薔薇を思わせる花弁が幾重にも重なり、その中心に透き通った紅い珠を実らせている。宝石のように冷たく、けれど内側では生き物の心臓のように光を放っていた。
この珠が紅玉の果実なのだろう。
──綺麗……。
見たことがないほどの美しさだった。人の世には存在しない色、存在しない形。神の世界のものだと本能が理解した。
息は絶え絶えで、いよいよ視界がかすみだす。酩酊のような感覚が身体を支配する。立っていることすら、もう難しい。
──これさえ……持って帰れば……。
その思考だけが奈珠那の意識を繋ぎ止めていた。もはや使命感というよりも、「あの場所へ帰りたい」という切実な祈りに近かったかもしれない。
震える指先を伸ばし、一輪、その茎を手折る。瞬間、甘い香りが弾けるように濃くなった。くらりと足がふらつきながらも、彼女は宝物を扱うように胸に抱き込んだ。
──これで……きっと……。
そう安堵するよりも早く、意識が急速に遠のいた。世界がぐらりと傾く。足から力が抜け、視界が沈む。奈珠那の身体が地面へと崩れ落ちようとした、その刹那。
額に熱が帯びた。手で触れられたような、いつかの温かい感覚が全身を巡る。
──ああ……もう……。
意識が闇に沈む中で、かすかな声が耳に届いた。それは自分を呼ぶ、焦燥に満ちた誰かの声だった。
向かいに座る瓊環は相変わらず淡々としており、珀弥もいつも通り軽妙な口を叩いている。彼らの顔を見るたび、胸の奥に凍てついた風が吹き抜けていくような冷たい痛みを覚えた。
何も言わずに屋敷を抜ける──それは、彼らの信頼を裏切ることにならないだろうか。だが、誰かの手を借りたとわかれば、天寧は奈珠那を認めはしないだろう。
もし女神が認めてくれたのなら。ここにいる意味がもっと確かなものになる。そんな気がした。
箸を置く指先がわずかに震える。隠すように膝の上に手を重ねて、視線を落とした。
──いつも通りに……やらなきゃ。
気づかれないよう、悟られないよう。奈珠那は箸を動かしながら、夕餉と一緒に緊張と不安と、少しの後ろめたさを飲み込んだ。
食事が終わると、奈珠那は立ち上がり器をまとめる。台所へ運び、水に浸し、布巾で卓を拭く。その一つひとつは、これまでと何も変わらない動作だった。
淡々と雑役をこなすのは昔から慣れている。考えることを放棄した、腐った性根のように染みついた習性。だからこそ、誰にも悟られない。今夜の決行を秘めていることも、きっと気づかれないだろう。
すべてを終えたとき、奈珠那はようやく顔を上げた。そして、いつもと同じ声色で告げる。
「おやすみなさい」
いつも通りの挨拶。いつも通りの一礼。瓊環がふと奈珠那を見たような気がしたが、彼女は振り返らずに自室へと戻った。
⁂
部屋の明かりを消してから、二刻ほどが過ぎた。
屋敷は寝静まり、時折、風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。奈珠那は手近な衣を羽織り、小さな提灯を手に掲げた。
一度大きく息を吐き出し、気を引き締めふ。音を立てないよう慎重に障子を引き部屋から顔を出すと、湿り気のある夏の夜気が頬を撫でた。
屋敷は静まり返っている。瓊環の気配も、珀弥の足音もない。屋敷を出ても気づかれた様子はなさそうだ。
──大丈夫……。
自分に言い聞かせるように頷き、提灯へ明かりを灯す。奈珠那は夜の闇へと足を踏み出した。
目指すのは、神域の北端にある一本杉。
神域に来たばかりの頃、珀弥から聞いたことがある。「あれを越えた先は、神しか通れないんですよ」と。だから一本杉から外へは出るな、という注意だったのだろう。
聞いた当時は、逃げられない結界に閉じ込められたような気がして身震いがした。けれど、今は違う。与えられた平穏を守るため、そして答えを見つけるため、自らの意志で踏み越えなければならない境界なのだ。
「……行かなきゃ」
提灯の小さな光が暗闇の中でぼんやりと輝く。その光は、かつて失いかけた彼女の命そのもののようでもあり、同時に奈珠那自身の意思を映すように足元を照らしていた。
どれほど歩いただろうか。
夜の森は想像以上に重苦しい闇に包まれていた。風が吹くたび、低く唸るような音が耳元をかすめていく。空気は肌にまとわりつき、息をするたび肺がひりついた。夏なのに、ここの風はやけにひんやりと感じる。
決して、引き返そうとは思わなかった。怖くないわけではない。むしろ足は隠しようがないくらい震えているし、心音は大きく乱れている。
しかし彼女は歩みを止めようとしない。もがくように、拙い光を頼りにしながら前へ進んだ。
やがて視界が開けた先、天を突くほどに巨大な一本の杉がそびえ立っているのが見えた。
「本当に来たのね。馬鹿正直に」
杉の根元で艶やかに影が揺れた。天寧だ。彼女は木にもたれかかり、退屈そうに指先で髪を弄んでいた。
「逃げるかと思ったのに。案外、根性あるじゃない」
「……約束、ですから」
天寧はふんと鼻を鳴らし、一本杉の向こう側の、さらに暗く沈んだ森の奥を指差した。
「紅玉の果実はこの先よ。赤い石みたいに見えるけど、生きてるの。月の光を吸って脈打つように光るわ。見ればすぐわかる」
「はい……わかりました」
奈珠那が頷くと、天寧は細めた目でじとっと彼女を見据えた。
「あなた、本当にわかってる? この奥は危険だって教えてもらわなかったの?」
「珀弥が……教えてくれました」
「それを承知で行くってことね」
一瞬、天寧の視線が奈珠那から逸れる。その表情は嘲るようでもあり、どこか諦めを含んだような複雑な色を見せていた。
「……いいわ。私はもう何も言わないから」
天寧は一歩引き、ため息をこぼした。
奈珠那は暗い森の奥へと目を向ける。足を踏み入れれば、もう戻れないかもしれない。だが、胸に芽生えた「何かを成し遂げたい」という思いだけは、はっきりとそこにあった。
⁂
足を踏み出すごとに、目に見えない重圧が全身を蝕んだ。肺に吸い込む空気は鉛のように重く、身体が地面に沈むような感覚がする。天寧が言っていた通り、神気が濃すぎるこの場所は人間にとって猛毒そのもののようだった。
視界はどんどん狭くなり、膝が笑いだす。足元の土が柔らかく沈み、方向感覚が曖昧になっていった。
今からでも引き返せる、この苦しみからも解放される。そんな甘い考えが頭をもたげる。だがここで踵を返したら、過去の自分に逆戻りしてしまうだけだ。
脳裏に浮かんだのは、あの金色の瞳。冷徹で、感情を知らないと言われた神が見せる、ほんの一瞬の揺らぎ。
それまで彼は、奈珠那に優しい言葉をくれたわけでも慰めてくれたわけでもない。
けれど、当たり前の日常を奈珠那に与えた。体調が悪いと気づき、助けた。そして、彼女の命を繋ぎ留めた。
あの人は、きっと気づいていないだろう。誰かを救うほどの優しさを、すでに持っていることを。だからこそ思う。このまま何もせずに戻るわけにはいかないのだ、と。
足を引きずり、息を切らしながら進み続ける。そして、顔を上げたその先に──それは、あった。
先の見えない暗闇の中、点々とした紅い輝きが幻影のように浮かび上がっている。地に星屑を撒いたように、無数の紅が寄り集まっていた。
「……あった……」
声に出した瞬間、肺が焼けつくように痛んだ。喉元が締め付けられ、視界の縁がじわじわと滲む。けれど、目は離せなかった。
見ればすぐにわかる、と言った天寧の言葉が脳裏をよぎる。月明かりを閉じ込めたように朧げで、それでいて鮮やかな紅。闇の中で脈打つように淡く明滅している。
近づくにつれ、たるい蜜の香りが鼻腔を満たした。果実というより花に近い。薔薇を思わせる花弁が幾重にも重なり、その中心に透き通った紅い珠を実らせている。宝石のように冷たく、けれど内側では生き物の心臓のように光を放っていた。
この珠が紅玉の果実なのだろう。
──綺麗……。
見たことがないほどの美しさだった。人の世には存在しない色、存在しない形。神の世界のものだと本能が理解した。
息は絶え絶えで、いよいよ視界がかすみだす。酩酊のような感覚が身体を支配する。立っていることすら、もう難しい。
──これさえ……持って帰れば……。
その思考だけが奈珠那の意識を繋ぎ止めていた。もはや使命感というよりも、「あの場所へ帰りたい」という切実な祈りに近かったかもしれない。
震える指先を伸ばし、一輪、その茎を手折る。瞬間、甘い香りが弾けるように濃くなった。くらりと足がふらつきながらも、彼女は宝物を扱うように胸に抱き込んだ。
──これで……きっと……。
そう安堵するよりも早く、意識が急速に遠のいた。世界がぐらりと傾く。足から力が抜け、視界が沈む。奈珠那の身体が地面へと崩れ落ちようとした、その刹那。
額に熱が帯びた。手で触れられたような、いつかの温かい感覚が全身を巡る。
──ああ……もう……。
意識が闇に沈む中で、かすかな声が耳に届いた。それは自分を呼ぶ、焦燥に満ちた誰かの声だった。



