万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 珀弥に促され、奈珠那は一度自室へ戻った。障子を閉めると、一気に肩の力が抜ける。外の空気が遠ざかったように部屋には静寂が満ちた。
 それなのに心だけが落ち着かない。胸に残った瓊環の言葉が、何度も反芻(はんすう)されていたからだ。

“──愛は得られないし、与えられない”

 意味を考えようとするたび、なぜか怖くなり身震いがした。奈珠那は身体を抱きしめる。
 一年以内に瓊環のことを愛す──そういう契約で、神域へ連れてこられた。だが周りからも、果ては肉親からの愛も知らずに育ってきた奈珠那にとって、それはあまりにも途方な使命に思えた。
 
 ──私に……できるのかな……。

 いや、それよりも。神域に来る前の自分は、生きることも死ぬことも、どちらでもよかったはずだ。明日が来なくても構わない。だから一年後、瓊環に殺されていようとも──そう思っていたのに。

 ふと珀弥の屈託のない笑顔が脳裏をよぎる。それから、つむじを曲げながらも菓子を差し出した天寧の横顔。そして何より、契約という形で命を繋ぎとめてくれた瓊環の存在。
 彼らが与えたのは、奈珠那以外の人間からすればきっと特別な優しさではない。鳥のさえずりとともに目覚める心地よい朝、ご飯や団欒(だんらん)の温もり、生きていることを責められない場所。
 
 そして、その“当たり前”は、いつの間にか彼女の心に根を張っていた。死んでもいいと思えていたはずの心が、ここに留まりたいと願ってしまっている。恐ろしくもあり、同時に、どうしようもなく温かかった。

 ──私に、愛なんて……。

 できるかどうかは、まだわからない。けれど少なくとも、今の奈珠那は「生きたい」と思ってしまった自分を否定できずにいた。

 ⁂
 
 珀弥に「休んだほうがいい」と言われても、奈珠那は部屋でじっとしているのが耐えられなかった。
 何かをしていないと落ち着かない。それはいつもの癖のはずなのに、今日は少し違う。ただ与えられるだけで終わりたくない、そんな思いが奈珠那を突き動かした。
 部屋を出ようと障子に手をかざそうとした、そのとき。

 深い山の香りがふわりと漂い、すんと空気が変わる。部屋の奥がわずかに歪み、数刻ほど前に奈珠那の頬を叩いた、あの生暖かい風が渦を巻いた。

「贅沢な部屋ね」

 艶を含んだ声。奈珠那はその声を聞くより先に、訪れたのが誰なのか悟っていた。
 
「天寧、様……」

 翠の髪をゆるくまとめ腕を組んだその姿は、昼間の眩しさとは打って変わって(あで)やかである。神としての威圧と女としての苛立ちが、あからさまなほどに浮き彫りになっていた。

「なに、その顔? 化け物でも見るような顔しちゃって」
「……申し訳、ございません」
「はあ? 本当に化け物として見てたわけ?」
「あ……いえ、そんなつもりは……」

 奈珠那は、しまったと肝を冷やした。本心ではそんなふうに思ってなどいない。それなのに口をついて出たのは、否定でも説明でもなく、いつもの謝罪だった。
 
 波風を立てないために、相手の機嫌を損ねないために先に頭を下げる。そうすることで、これまで何度も自分を守ってきた。だが今は、その癖がかえって誤解を生んでいるのだとはっきりとわかる。
 言葉を探す奈珠那を天寧は一瞥(いちべつ)し、蔑視(べっし)したため息をはく。

「ったく。本当に、なんで瓊環はこんな人間なんかを……」

 吐き捨てるような言葉に胸がきりっと小さく軋む。だが、俯く気にはなれなかった。

「あの……私は、どうしたらいいのでしょうか?」

 それは許しを乞う言葉ではなく、与えられたものをどう返せばいいのかを探す問いだった。淡くも生きたいと思ってしまった以上、ただ庇護(ひご)される存在ではいたくない。
 けれど奈珠那には、ここで生きるために何を差し出せばいいのかが、まだわからなかった。救われた命をどう返せばいいのか。瓊環たちに与えられたこの日々に、どんな意味を持たせればいいのか。
 その答えを欲していた。だから奈珠那は、目の前に立つ女神に無意識のうちに問いを投げてしまったのだ。
 
「はあ!? そんなの、なんで私に聞くわけ?」
「……すみません」
「うざったいわね」

 苛立ちを隠そうともせず、軽く舌打ちする天寧。

「でも、そうね。どうしらって聞くなら……」

 一拍置いて唇が歪んだ。

「神域の奥にある『紅玉の果実』を取ってきなさい」
「……紅玉の、果実?」
「ええ。それを取ってこれたら、私はあなたのことを少しだけ認めてあげる」

 天寧は一歩、奈珠那へと詰め寄った。彼女の身からあふれる神気に触れ、肌にピリピリとした痛みが走る。
 
「神域の奥は神しか近づけない場所よ。空気は濃いし、道も歪む。人間には毒でしかない。運が悪ければ、そのまま消えるわ」

 あえて突き放すような言い草は脅しには聞こえない。神としての、慈悲のない事実の提示だ。

「私はね、納得してないの。人間なんて簡単に壊れる。愛を知らない神を救えるほど、強くない」

 天寧のきつくなった視線が奈珠那を射抜いた。

「あなたに、できるはずがない」

 それは試練のことを指していると同時に、奈珠那が瓊環の契約者であることを否定する言葉だった。

 奈珠那は深く息を吸う。かつての彼女なら、何を考えるでもなく、漠然と「申し訳ございません」と視線を伏せていただろう。
 けれど、今は違う。ここで頭を下げ、「やりません、できません」と口にすることは、命を繋いでくれた瓊環の恩と、自分を「奈珠那様」と呼び温かな茶を出してくれた珀弥の真心を根底から否定してしまう気がする。

 何より、あれほど希薄だったはずの自分の心は今、「ここにいたい」と叫ぶように鼓動している。ただ生きるのではなく、瓊環が自分を生かしてくれたことに意味を持たせたい。

「……やります」

 言葉は短く、そして揺らぎがなかった。自分でも不思議なほど落ち着いている。
 奈珠那の返事を目の当たりにした天寧の目が一瞬だけ見開かれた。それは驚きというより、想定外のものを見たときの反応だった。

「へえ……」

 値踏みするような視線が奈珠那を上から下へとなぞる。その瞳には、先ほどまでの苛立ちとは異なる色が混じっていた。

「逃げないんだ。てっきり怖気付くとでも思ったのに」

 試すような口調。受けた度胸を褒めるでも、かといって認めたわけでもなさそうだ。しかし、突き放すにはどこか甘い。
 
「決行は夜よ。寝静まったと思わせて、屋敷を抜けなさい」

 当然のように告げられ奈珠那は小さく息をのむ。でも、もう迷いはなかった。
 覚悟を決めたように奈珠那は大きく頷いた。彼女は初めて、生きることを前提にした選択をしたのだ。
 
「後悔しても遅いんだから」

 最後にそう言い捨てて、天寧の姿は風に溶けるように消えた。
 残された空気がわずかに甘い。その甘さはほんの少しだけ、試練を課した女神の本心を隠しているように思えた。