朝の神域は、どこかざわついていた。いつもなら鳥の声と風の音が満ちているはずなのに、今日は違う。張り詰めた空気が屋敷の奥から滲み出している。
──様子が変……。
奈珠那が縁側に足をかけた、そのときだった。
「どうして私じゃないの!?」
鋭い声がはっきりと響いた。豊穣の女神、天寧のものだ。奈珠那の足がぴたりと止まり、鼓動が一つ大きく鳴った。
「答えてよ、瓊環! 私じゃなくて、どうして……!」
言葉の途中で、低く抑えた声がそれを遮った。
「騒ぐな、天寧」
「騒いでない! 抗議してるのよ! なんで黙って人間なんかを……!」
襖の向こう、声はすぐ近で聞こえる。会話から、すぐに奈珠那は自分のことを言っているのだと察した。以前感じた胸のざらつきがよみがえる。
ここから立ち去るべきだとわかっているのに、どうしてか身体が動かない。
「お前には関係ない」
「関係なくない! 契約まで結んで、印までつけて……!」
一瞬、言葉が途切れる。
「……私を愛してくれれば、それでいいじゃない」
彼女の声は怒りよりも切実で、縋るように聞こえた。
「どうして私じゃ駄目なの? 私のほうが、ずっと……!」
「天寧」
瓊環の声はいつもより低く、冷静だった。彼女を鎮めるためではなく、最初から瓊環の感情など揺らぐことがないように。
「この際、はっきり言っておく。お前から愛は得られないし、与えられない」
彼が放ったその一言は、天寧の悲痛な訴えを切り捨てる刃のようだった。
「あの人間になら……それができるってこと?」
「さあな」
「……ひどい言い方。でも、そうよね。瓊環は昔からそうだった」
天寧の自嘲気味に笑う声がする。その笑みは艶やかで、けれどどこか歪んでいた。
「感情を知らないから……! だから、瓊環は……!」
「出ていけ」
「どこ行くの!? まだ話は終わってない!」
天寧の声が大きくなり、わずかに声が震えた。
「あなた、このままだと……!」
その言葉の続きを、奈珠那は聞くことができなかった。すうっと襖が開いたからだ。
反射的に視線を向けると、姿を見せたのは瓊環だった。自ずと視線が合う。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、金の瞳がわずかに細められた気がした。
「奈珠那……」
名を呼ばれた瞬間、心臓が急激に冷えた。立ち聞きするつもりなどなかった、身体が動かなかっただけ。そんな言い訳など、通じるはずもない。
天寧は開かれた襖の向こうに立ち尽くす人間を見て、怒りに顔を赤くした。
「あなた! 盗み聞きなんて、趣味悪くない!?」
「申し訳……ございません……」
「やっぱり、こんな人間! 私は……!」
「天寧」
鋭く冷たい声。それ以上を許さないと告げるような、短いひと声だった。
「……なによ、なによ!」
天寧は唇を噛みしめ、悔しさを隠すこともなく瓊環を睨みつける。
「私は瓊環のことを心配してあげてるだけじゃない!」
「余計なお世話だ」
「……っ!」
天寧の表情が怒りと悲しみの間で歪む。
「もう……知らない!」
涙ぐみながら叫ぶ声に合わせて風が巻き起こり、襖がばたばたと音を立てて揺れた。突風のような風に思わず目をつむったのも束の間、豊穣の女神の姿は、そこから跡形もなく消えている。去る直前、怒りの名残のような生暖かい風が奈珠那の頬を叩いていった。
後に残されたのは襖の向こうにいる瓊環と、重い沈黙だけだった。
奈珠那は立ち尽くしたまま、胸がひどくざわつくのを感じていた。自分が聞いてしまった言葉の重さ。そして、自分がはっきりと話題の中心にいたという事実。
「奈珠那」
呼ばれて、はっと顔を上げる。瓊環はいつもと変わらない表情をしていた。怒っている様子はない。こちらを責めているようでもない。本当に、いつも通りの静けさだった。
「申し訳、ごさいません……立ち聞きするつもりは……」
「わかっている」
短く、それだけ言われる。瓊環の言葉は、かえって奈珠那の胸を締めつけた。許されたのか、あるいは咎める価値もないのか。その判断がつかない奈珠那は、怒られたほうが楽だとさえ思ってしまう。
そのとき、廊下を小走りに近づく足音がした。
「瓊環様、お茶のご用意が……あれ、天寧様は?」
姿を現した珀弥が、きょろりと辺りを見回す。
「帰った」
「……ああ、なるほど」
それだけで察したのか、小さく息をつく珀弥。いつもの柔らかな表情に切り替して、奈珠那に声をかける。
「大丈夫ですか、奈珠那様」
「……はい」
返事はしたものの、心までは追いついていなかった。
「今は少し休まれたほうがいいですね」
さりげなく珀弥が奈珠那の前に立つ。
「後のことはオレたちに任せてください」
「……ありがとうございます」
礼を言いながら、奈珠那はふと瓊環のほう見た。
射抜くような金色の瞳がこちらに向けられて、喉元がきゅっと閉まる。何か言うべきなのか、それとも何も言わないほうがいいのか。
奈珠那が迷っているうちに、瓊環は視線を逸らした。
「行きましょう、奈珠那様」
珀弥の気遣いに奈珠那は小さく頷き、促されるまま踵を返す。背中にまだあの金の視線が残っている気がして、振り返ることはできなかった。
──様子が変……。
奈珠那が縁側に足をかけた、そのときだった。
「どうして私じゃないの!?」
鋭い声がはっきりと響いた。豊穣の女神、天寧のものだ。奈珠那の足がぴたりと止まり、鼓動が一つ大きく鳴った。
「答えてよ、瓊環! 私じゃなくて、どうして……!」
言葉の途中で、低く抑えた声がそれを遮った。
「騒ぐな、天寧」
「騒いでない! 抗議してるのよ! なんで黙って人間なんかを……!」
襖の向こう、声はすぐ近で聞こえる。会話から、すぐに奈珠那は自分のことを言っているのだと察した。以前感じた胸のざらつきがよみがえる。
ここから立ち去るべきだとわかっているのに、どうしてか身体が動かない。
「お前には関係ない」
「関係なくない! 契約まで結んで、印までつけて……!」
一瞬、言葉が途切れる。
「……私を愛してくれれば、それでいいじゃない」
彼女の声は怒りよりも切実で、縋るように聞こえた。
「どうして私じゃ駄目なの? 私のほうが、ずっと……!」
「天寧」
瓊環の声はいつもより低く、冷静だった。彼女を鎮めるためではなく、最初から瓊環の感情など揺らぐことがないように。
「この際、はっきり言っておく。お前から愛は得られないし、与えられない」
彼が放ったその一言は、天寧の悲痛な訴えを切り捨てる刃のようだった。
「あの人間になら……それができるってこと?」
「さあな」
「……ひどい言い方。でも、そうよね。瓊環は昔からそうだった」
天寧の自嘲気味に笑う声がする。その笑みは艶やかで、けれどどこか歪んでいた。
「感情を知らないから……! だから、瓊環は……!」
「出ていけ」
「どこ行くの!? まだ話は終わってない!」
天寧の声が大きくなり、わずかに声が震えた。
「あなた、このままだと……!」
その言葉の続きを、奈珠那は聞くことができなかった。すうっと襖が開いたからだ。
反射的に視線を向けると、姿を見せたのは瓊環だった。自ずと視線が合う。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、金の瞳がわずかに細められた気がした。
「奈珠那……」
名を呼ばれた瞬間、心臓が急激に冷えた。立ち聞きするつもりなどなかった、身体が動かなかっただけ。そんな言い訳など、通じるはずもない。
天寧は開かれた襖の向こうに立ち尽くす人間を見て、怒りに顔を赤くした。
「あなた! 盗み聞きなんて、趣味悪くない!?」
「申し訳……ございません……」
「やっぱり、こんな人間! 私は……!」
「天寧」
鋭く冷たい声。それ以上を許さないと告げるような、短いひと声だった。
「……なによ、なによ!」
天寧は唇を噛みしめ、悔しさを隠すこともなく瓊環を睨みつける。
「私は瓊環のことを心配してあげてるだけじゃない!」
「余計なお世話だ」
「……っ!」
天寧の表情が怒りと悲しみの間で歪む。
「もう……知らない!」
涙ぐみながら叫ぶ声に合わせて風が巻き起こり、襖がばたばたと音を立てて揺れた。突風のような風に思わず目をつむったのも束の間、豊穣の女神の姿は、そこから跡形もなく消えている。去る直前、怒りの名残のような生暖かい風が奈珠那の頬を叩いていった。
後に残されたのは襖の向こうにいる瓊環と、重い沈黙だけだった。
奈珠那は立ち尽くしたまま、胸がひどくざわつくのを感じていた。自分が聞いてしまった言葉の重さ。そして、自分がはっきりと話題の中心にいたという事実。
「奈珠那」
呼ばれて、はっと顔を上げる。瓊環はいつもと変わらない表情をしていた。怒っている様子はない。こちらを責めているようでもない。本当に、いつも通りの静けさだった。
「申し訳、ごさいません……立ち聞きするつもりは……」
「わかっている」
短く、それだけ言われる。瓊環の言葉は、かえって奈珠那の胸を締めつけた。許されたのか、あるいは咎める価値もないのか。その判断がつかない奈珠那は、怒られたほうが楽だとさえ思ってしまう。
そのとき、廊下を小走りに近づく足音がした。
「瓊環様、お茶のご用意が……あれ、天寧様は?」
姿を現した珀弥が、きょろりと辺りを見回す。
「帰った」
「……ああ、なるほど」
それだけで察したのか、小さく息をつく珀弥。いつもの柔らかな表情に切り替して、奈珠那に声をかける。
「大丈夫ですか、奈珠那様」
「……はい」
返事はしたものの、心までは追いついていなかった。
「今は少し休まれたほうがいいですね」
さりげなく珀弥が奈珠那の前に立つ。
「後のことはオレたちに任せてください」
「……ありがとうございます」
礼を言いながら、奈珠那はふと瓊環のほう見た。
射抜くような金色の瞳がこちらに向けられて、喉元がきゅっと閉まる。何か言うべきなのか、それとも何も言わないほうがいいのか。
奈珠那が迷っているうちに、瓊環は視線を逸らした。
「行きましょう、奈珠那様」
珀弥の気遣いに奈珠那は小さく頷き、促されるまま踵を返す。背中にまだあの金の視線が残っている気がして、振り返ることはできなかった。



