夏の陽射しは神域にも等しく降り注ぐ。庭の葉は緑を濃くし、風に揺れる影はくっきりと地に落ちていた。ただ桜だけは変わらず、季節を切り取ったように薄桃色の花弁を結んだまま佇んでいた。
奈珠那は洗い終えた布を干して、縁側に腰を下ろしているところだった。
神域での暮らしにも、少しずつ「日常」と呼べるものが生まれている。それが奇跡のようなことだと、彼女自身が一番よくわかっていた。
「奈珠那様、お疲れ様です」
背後からかけられた声に、奈珠那は振り返った。
「ありがとう、珀弥」
感謝の言葉を口にすることにも、以前のような躊躇はなかった。ひと仕事終えたように「んー!」と伸びをした珀弥が、並んで縁側に座る。
「今日も平和ですね、奈珠那様」
「ええ」
「仕事にも精が出ますよ」
「珀弥の場合は、頑張りすぎな気もしますけど」
「いえいえ、奈珠那様だって」
珀弥は「様」という敬称を嫌がった。最初こそ抵抗があったものの、名を呼んだ瞬間に見せる屈託のない笑顔が、奈珠那の心を少しずつほどいてくれた。
穏やかな時間。縁側の向こうでは、神域の主──瓊環が静かに庭を眺めている。その横顔を見ているだけで気持ちが不思議と落ち着くのを、奈珠那はもう否定しなかった。
──この平穏が、ずっと続けばいいな。
そう願った瞬間だった。
「た・ま・きぃ〜!」
場違いなほど明るい声が神域に響き渡り、風が跳ねた。庭の草花が一斉にざわめき、空気そのものがかき乱される。ぽうっと浮かび上がった光の中から、ひとりの女が姿を現した。
肩を大胆に晒した艶やかな着物。豊かな布地は花街の花魁を思わせるが、まとう空気はそれよりもずっと高貴で、近寄りがたい。あおあおしい葉が露を弾いたような翠色の長い髪は高く結い上げられ、飾り紐が陽を弾いて煌めいている。
迷いのない足取りで瓊環へ駆け寄ると、女性はそのまま彼に抱きついた。
「久しぶり、瓊環。相変わらず堅っ苦しい顔ね。そこもかっこいいけど」
「……天寧」
瓊環は避ける間もなかったのか、その抱擁を受け止めざるを得ない体勢になっている。近すぎる二人の距離が奈珠那の目に焼きついた。
──あれ……?
胸の奥が、わずかに軋んだ。痛みとは少し違うような。小さな棘が引っかかったような、感じたことのないちょっとした違和感だった。
「うっとおしい。離れろ」
「瓊環、冷た〜い」
奈珠那は二人のやり取りをぼんやりと見つめながら、無意識に指先を握りしめていた。
「珀弥……あの人は……?」
「あの人は豊穣の女神、天寧様です。瓊環様とは、古くからのご縁のあるお方でして」
珀弥はそう言って、少しだけうんざりしたように視線を外した。
「よく訪れては、勝手に騒いで帰られるのですよ」
「ちょっと、珀弥。『勝手に』は余計でしょう?」
「事実ですので」
軽く言い合う二人の様子は気安く見えた。神同士だから、という言葉では片付けられない距離感がそこにはある。
奈珠那は胸に残った違和感を無理やり押し込めた。あの人──瓊環は神様で、ここは神の世界。本来なら、自分が並び立てる場所ではない。
──当たり前……のことなのに。
どうして今更、こんな場違いとも思える感情が込み上げてくるのだろう。けれど、この場にいればいるほど、自分の立ち位置がはっきりしてしまいそうだった。
「お客様でしたら……私、お茶を用意してきます」
「あ、それならオレが……!」
珀弥の言葉を待たず、奈珠那は首を振る。それらしい理由をつけて、逃げるように台所へ向かった。
⁂
台所は静まり返っていた。その静寂に奈珠那は少しだけ胸を撫で下ろした。
火を起こす準備をし、やかんに水を張る。いつもと同じ手順のはずなのに、指先がわずかに震えているのがわかった。
──私、なんだか変……。
理由はわからない。ただ押し込めたはずの小さな違和感は、消えずに胸の中で燻っていた。
湯を沸かすため竈に火を入れようとしたところで、人の気配が近づいた。
「奈珠那」
びくりと肩が跳ね、手が止まる。振り返らなくても誰が呼んだのかすぐにわかった。
「……瓊環、様」
彼は戸口に立っていた。光を背にしているせいで、その表情は読み取れない。
「どうか……されましたか? せっかく天寧様がいらっしゃってるのなら……」
「あいつのことは、どうでもいい」
言葉が遮られるほどの即断だった。温度のない声音なのに、そこに冷たさは感じない。金色の瞳は関心めいたように奈珠那に向けられている。
「お前の様子がおかしい。それだけだ」
一瞬、奈珠那の息が止まる。心配をして来てくれたのだろうか。淡々とした言い方だったのに、そう思った途端、胸に刺さった棘が音もなく抜け落ちた気がした。
「あの……私……ここにいても、いいのでしょうか?」
なぜ、そんなことを口走ってしまったのだろう。
奈珠那は数ヶ月ほど前、瓊環から契約の証として額に口づけされたことを思い出した。
あのときは確かに、自分の居場所がやっと見つかったような感覚さえ覚えた。だがそれは、風が吹けば揺らいでしまう灯火のように、すぐに不安へと傾いていく。
慣れてきたつもりでいた。居場所を与えられ、拒まれず、責められずに過ごす日々だったのに、それでも心の奥ではずっと怯えている。これはいつまで許されるのだろう、と。
「くだらない」
瓊環はため息をひとつ落とした。
「契約は続いている」
「……はい」
「それが答えだ」
それだけ言い残し、瓊環は踵を返す。
「……ありがとうございます」
ほとんど息に紛れるほど小さな声だった。だが、その言葉が考えるより先に自然とこぼれ落ちたことに奈珠那自身がいちばん驚いていた。
瓊環の足音が、ふっと止まる。
「茶を淹れたら、早く戻って来い」
背中越しに響いたその声は命令でありながら、奈珠那の存在を認める合図のように聞こえた。
再び歩み去る背を見送りながら、奈珠那は胸に手を当てる。台所には湯の沸き始める音と、少し早まった鼓動だけが残っていた。
奈珠那は洗い終えた布を干して、縁側に腰を下ろしているところだった。
神域での暮らしにも、少しずつ「日常」と呼べるものが生まれている。それが奇跡のようなことだと、彼女自身が一番よくわかっていた。
「奈珠那様、お疲れ様です」
背後からかけられた声に、奈珠那は振り返った。
「ありがとう、珀弥」
感謝の言葉を口にすることにも、以前のような躊躇はなかった。ひと仕事終えたように「んー!」と伸びをした珀弥が、並んで縁側に座る。
「今日も平和ですね、奈珠那様」
「ええ」
「仕事にも精が出ますよ」
「珀弥の場合は、頑張りすぎな気もしますけど」
「いえいえ、奈珠那様だって」
珀弥は「様」という敬称を嫌がった。最初こそ抵抗があったものの、名を呼んだ瞬間に見せる屈託のない笑顔が、奈珠那の心を少しずつほどいてくれた。
穏やかな時間。縁側の向こうでは、神域の主──瓊環が静かに庭を眺めている。その横顔を見ているだけで気持ちが不思議と落ち着くのを、奈珠那はもう否定しなかった。
──この平穏が、ずっと続けばいいな。
そう願った瞬間だった。
「た・ま・きぃ〜!」
場違いなほど明るい声が神域に響き渡り、風が跳ねた。庭の草花が一斉にざわめき、空気そのものがかき乱される。ぽうっと浮かび上がった光の中から、ひとりの女が姿を現した。
肩を大胆に晒した艶やかな着物。豊かな布地は花街の花魁を思わせるが、まとう空気はそれよりもずっと高貴で、近寄りがたい。あおあおしい葉が露を弾いたような翠色の長い髪は高く結い上げられ、飾り紐が陽を弾いて煌めいている。
迷いのない足取りで瓊環へ駆け寄ると、女性はそのまま彼に抱きついた。
「久しぶり、瓊環。相変わらず堅っ苦しい顔ね。そこもかっこいいけど」
「……天寧」
瓊環は避ける間もなかったのか、その抱擁を受け止めざるを得ない体勢になっている。近すぎる二人の距離が奈珠那の目に焼きついた。
──あれ……?
胸の奥が、わずかに軋んだ。痛みとは少し違うような。小さな棘が引っかかったような、感じたことのないちょっとした違和感だった。
「うっとおしい。離れろ」
「瓊環、冷た〜い」
奈珠那は二人のやり取りをぼんやりと見つめながら、無意識に指先を握りしめていた。
「珀弥……あの人は……?」
「あの人は豊穣の女神、天寧様です。瓊環様とは、古くからのご縁のあるお方でして」
珀弥はそう言って、少しだけうんざりしたように視線を外した。
「よく訪れては、勝手に騒いで帰られるのですよ」
「ちょっと、珀弥。『勝手に』は余計でしょう?」
「事実ですので」
軽く言い合う二人の様子は気安く見えた。神同士だから、という言葉では片付けられない距離感がそこにはある。
奈珠那は胸に残った違和感を無理やり押し込めた。あの人──瓊環は神様で、ここは神の世界。本来なら、自分が並び立てる場所ではない。
──当たり前……のことなのに。
どうして今更、こんな場違いとも思える感情が込み上げてくるのだろう。けれど、この場にいればいるほど、自分の立ち位置がはっきりしてしまいそうだった。
「お客様でしたら……私、お茶を用意してきます」
「あ、それならオレが……!」
珀弥の言葉を待たず、奈珠那は首を振る。それらしい理由をつけて、逃げるように台所へ向かった。
⁂
台所は静まり返っていた。その静寂に奈珠那は少しだけ胸を撫で下ろした。
火を起こす準備をし、やかんに水を張る。いつもと同じ手順のはずなのに、指先がわずかに震えているのがわかった。
──私、なんだか変……。
理由はわからない。ただ押し込めたはずの小さな違和感は、消えずに胸の中で燻っていた。
湯を沸かすため竈に火を入れようとしたところで、人の気配が近づいた。
「奈珠那」
びくりと肩が跳ね、手が止まる。振り返らなくても誰が呼んだのかすぐにわかった。
「……瓊環、様」
彼は戸口に立っていた。光を背にしているせいで、その表情は読み取れない。
「どうか……されましたか? せっかく天寧様がいらっしゃってるのなら……」
「あいつのことは、どうでもいい」
言葉が遮られるほどの即断だった。温度のない声音なのに、そこに冷たさは感じない。金色の瞳は関心めいたように奈珠那に向けられている。
「お前の様子がおかしい。それだけだ」
一瞬、奈珠那の息が止まる。心配をして来てくれたのだろうか。淡々とした言い方だったのに、そう思った途端、胸に刺さった棘が音もなく抜け落ちた気がした。
「あの……私……ここにいても、いいのでしょうか?」
なぜ、そんなことを口走ってしまったのだろう。
奈珠那は数ヶ月ほど前、瓊環から契約の証として額に口づけされたことを思い出した。
あのときは確かに、自分の居場所がやっと見つかったような感覚さえ覚えた。だがそれは、風が吹けば揺らいでしまう灯火のように、すぐに不安へと傾いていく。
慣れてきたつもりでいた。居場所を与えられ、拒まれず、責められずに過ごす日々だったのに、それでも心の奥ではずっと怯えている。これはいつまで許されるのだろう、と。
「くだらない」
瓊環はため息をひとつ落とした。
「契約は続いている」
「……はい」
「それが答えだ」
それだけ言い残し、瓊環は踵を返す。
「……ありがとうございます」
ほとんど息に紛れるほど小さな声だった。だが、その言葉が考えるより先に自然とこぼれ落ちたことに奈珠那自身がいちばん驚いていた。
瓊環の足音が、ふっと止まる。
「茶を淹れたら、早く戻って来い」
背中越しに響いたその声は命令でありながら、奈珠那の存在を認める合図のように聞こえた。
再び歩み去る背を見送りながら、奈珠那は胸に手を当てる。台所には湯の沸き始める音と、少し早まった鼓動だけが残っていた。



