万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 まぶたの裏に淡い光を感じた。沈んでいた奈珠那の意識が、光に導かれるように引き上げられていく。ゆっくりと目を開くと、部屋は月明かりに満たされていた。

 ──夜……?

 ぼんやりとした頭のまま息を吸うと、昼間よりも凛とした空気がすとんと肺に満ちる。うなされるような熱も、全身の倦怠感も、始めからなかったかのように抜け落ちていた。

「奈珠那様……!」

 寝台の傍らから焦った声が飛んだ。顔を向けると、小さな神使が覗き込んでいる。青磁色の瞳は潤み、ふさふさの耳も不安げに伏せられていた。
 
「珀弥……様」
「ごめんなさい。オレ、全然気づかなくて……」

 珀弥は深く頭を下げた。
 
「珀弥様は、何も悪くありません。私が……勝手に無理をしていただけですから」

 奈珠那は上半身を起こし、胸に手を当てる。鼓動は緩やかで呼吸も苦しくない。少しだけ、それがかえって不思議だった。

「瓊環様が力を使われました。だから、もう大丈夫です」
「……そう、だったんですね……」

 あの心地よい温もりは夢ではなかったのだと、奈珠那は改めて実感した。
 
「喉、乾いていませんか? オレ、お水持ってきますね」

 珀弥は小さな足音を立てて、寝台から離れていく。その背を見送りながら、奈珠那は胸に苦く込み上げるものを感じていた。
 休ませてもらい、看病までされて、何も言わずに眠ってしまった自分。

 ──また、ご迷惑をかけてしまった……。

 それが真っ先に浮かんだ思いだった。

「お待たせしました」

 急ぎ足で戻ってきた珀弥が、両手で大切そうに水の入ったグラスを差し出す。だが奈珠那はそれを受け取らず、布団の端を握ったまま俯いていた。
 
「奈珠那様? 大丈夫ですか?」
「……あの……」

 言葉が喉につかえる。布団の端を無意識にきゅっと握りしめていた。
 
「瓊環様は……怒って、いませんか……?」
「え?」
「ご迷惑を……かけてしまったので……」

 瓊環に世話を焼かせてしまった、手を煩わせてしまった。それは奈珠那にとって、「怒られて当然」のことである。
 珀弥は一瞬きょとんとした顔をしてから、困ったように笑った。

「怒る、ですか?」
「はい……。勝手に倒れて、お力まで使っていただいたなんて……」
「うーん」
 
 少し考える素振りを見せて、珀弥は首を振る。

「怒ってなんかいませんよ」

 言葉を選ぶように珀弥が一度視線を落とす。青磁色の瞳は隠しきれない何かを含んで揺れた。

「瓊環様、何度も様子を(うかが)いにいらっしゃってましたから。とても心配されてました」
「……そう、なんですか……?」

 それ以上、奈珠那は何を言えばいいのかわからなかった。怒っていないことへの安堵なのか、または戸惑いなのか、自分でもわからない。

「お水、ここに置いておきますね。何かあったらすぐ呼んでください」

 軽く会釈をし、珀弥は奈珠那を気遣うように部屋を出る。障子を静かに閉める音だけが神域の夜に響いた。
 
 月明かりが障子越しに部屋へ差し込んでいる。与えられたこの部屋も、この寝台も、初めて自分の部屋だと思えるくらい安らぎと安心感に満ちていた。
 布団に身を預けたまま、奈珠那はかすかに息を吐く。
 追い出されなかった。責められなかった。厄介者として、切り捨てられなかった。それどころか、神である彼が自分のような人間の傍にいてくれた。
 その事実だけが、月明かりよりもしんしんと奈珠那の心を照らしていた。

 ⁂

 枕元に置かれた水で喉を潤す。清らかな冷たさ。ひと口含むだけで、手足の先まで水分が巡った。
 
 乾ききっていた身体が目を覚ましたころ。奈珠那は寝台から起き上がり、身支度を整え始めた。
 着ているのは見慣れない寝巻きだった。柔らかな手触りの白絹。着物の締め付けを感じなかったのは、この寝巻きに替えられていたからだろう。これも神の力だと、すぐにわかった。

 ──瓊環様……。

 胸がざわつく。だが恐れや不安に紛れて、安堵が広がってしまったことに奈珠那は気づいてしまった。
 初めて受けた、無償ともいえるような優しさ。その源に触れてみたい。
 衝動に背を押されるように、奈珠那は部屋を出た。

 廊下を抜け、縁側に出る。夜の神域は、ひっそりと息づいていた。
 更けきった夜の月明かりに照らされた庭は、昼とはまるで別の顔をしている。手入れの行き届いた白砂の庭園は、月光を反射して銀色に輝き、池の水面は鏡のように空の星々を映していた。
 神秘的ともいえる庭で何より目を惹かれたのは、桜の並木だった。内側から淡く光を放ち、枝先までその輝きを行き渡らせている。月が反映しているかと思ったが、どうにも違う。夜露の反射でもない。永い時を生きた神の意志そのものが、形を得て立ち並んでいるかのようだった。
 
「……綺麗」

 思わずこぼれた言葉は、夜の輝きに吸い込まれる。

「起きたか」

 振り返ると、瓊環が立っていた。月光を背に、金の瞳が静かに奈珠那を映している。

「……あ……はい」
「ならいい」

 短く頷いた彼は、それ以上何も言わず縁側へ歩み寄り腰を下ろした。
 少し迷ってから、奈珠那も隣に正座する。夜気に晒された板張りは冷たかったが、不思議と寒さは感じない。視線を上げれば、月光に照らされた桜並木と、それを眺める瓊環の端正な横顔があった。

「人間は(もろ)い」
「……はい」
「契約の途中で勝手に死なれては困る」
「……はい。もう二度と……ご迷惑はおかけしません」
「お前は本当に極端だな」

 謝罪しか知らないその習性に、瓊環は呆れを滲ませる。
 奈珠那はしばらく言葉を探すように指先を弄んだ。ほのかな光の下で、その仕草がやけに幼く見える。
 
「あの……瓊環様」
「なんだ」
「私……こんなにも身体と心が軽いのは、初めてで……だから……」

 言葉に想いを込めるように、ぐっと息を呑み込む。
 
「私を受け入れてくださって、ありがとうございます」

 瓊環は初めて桜から視線を外し、奈珠那を見やった。彼女の緋い瞳が、月明かりを吸って煌めいている。その瞳で、奈珠那は瓊環を見つめていた。
 いつもなら伏せてしまうはずの視線も、今は逸れない。光をまとった緋い瞳。胸を満たす感謝と、誰かを頼ってもいいのだという安堵を滲ませていた。

「勘違いするな。情ではない」
「それでも……嬉しいです」

 一瞬、沈黙が落ちる。何かを切り出すように、やがて瓊環は小さく息を吐いた。

「厄介なやつだな」

 呟いたあと、瓊環が身を乗り出す。そして、ためらいもなく奈珠那の頬へと指先を伸ばした。

「……瓊環様?」
 
 奈珠那が戸惑いを見せるより先に、月光を宿した瓊環の唇が彼女の額に触れた。
 その瞬間、奈珠那の思考がふっと白んだ。触れたのは一瞬だったのに、額には確かな温もりがかすかに残る。彼の唇から力が染み渡り、身体の芯にまで行き届いていくような感覚がした。
 
「契約の証だ」

 一瞬で離れた瓊環の表情は、依然として無感情だった。  

「二度と俺の許可なく倒れるな。この刻印が、お前の命を保つ証だ」
「……はい」

 額の温もりはすぐに消えてしまったはずなのに、なぜか胸の奥だけには灯火のように残っていた。
 月の下、桜は淡い光を宿し続けている。その輝きの中で、奈珠那の呼吸が大きく緩んだ。

 ──ここにいても、許されるのかもしれない。

 あまりにも小さな予感。けれど、これまでの人生で一度も抱いたことのない温かな感情だった。