万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 いくつかの月日が流れた。
 季節は巡り、葉桜の時期もとうに過ぎて、初夏の湿った風が神域を抜けていく。
 しかし庭の桜だけは、万年桜を象徴するように春の名残を抱えたまま散る気配を見せずにいる。薄桃色の花弁を付けたその場所は、季節を閉じ込めているようだった。

 奈珠那は、その景色を毎朝のように眺めながら過ごしていた。
 ここへ来たばかりの頃は息をするだけで胸が締め付けられるようだったのに、今では日々の雑役にも身体が馴染んできている。罵声も怒号も飛ばない環境に、少しずつ心と身体が軽くなっているのがわかった。
 
 特に珀弥が傍にいるときは、それが顕著に現れていた。
 嘘も打算もない、無邪気な表情。奈珠那にとっては見たことのない種類の笑顔だった。気づけば、珀弥の前では張りつめていた胸の内が少しだけ緩むようになっていた。
 彼の主である瓊環に対しては、まだ緊張で身体がこわばったりもする。だが、初対面のときに抱いた恐怖心はだいぶ薄らいでいた。ぶっきらぼうな物言いに聞こえて、突き放すような冷たさは感じられない。(さげす)みも嫌悪の気配も、一度も感じたことがなかったとと気づいたからだ。
 動きが遅くても咎められたことはなく、足元がふらついたときは無言で手を伸ばしてくれた。優しさを示すような仕草は決して多くない。しかし、確かに一つひとつが奈珠那の胸には積もっていた。

 ⁂

 穏やかな日々を過ごしていても、身体だけは正直だ。
 その日の奈珠那は、朝から身体が重かった。手足の指先は言うとこを聞かず、頭の内側だけがぼんやりしている。湧き立ったような熱さに、歩くたび視界がくらりと歪んだ。
 
 奈珠那は瞬時に風邪だと理解できた。そして、季節の変わり目には熱を出していことを思い出す。
 あの家では熱が出ても動き続けていた。倒れれば嫌味を言われ、休めば怒られ、泣けば「泣けるなら手を動かせ」と言わるからだ。そのせいだろう。いくら熱が出ようとも、彼女には「休む」という選択肢は出なかった。

 ──大丈夫……まだ、動ける……。

 今はもう、あの頃のように無茶を強いられているわけではない。だから、まだ大丈夫なはず。
 そう自分に言い聞かせて掃除を続けていたが、ふいに視界が揺れる。床がわずかに波打つように見え、思わず棚に手をついた。

 ──こんなの、なんともない……。
 
 揺れる視界を押さえつけるように無理やり深く息を吸い込む。頬を軽く叩き、どうにか意識を引き戻そうとする。せめて、誰にも迷惑をかけたくなかった。
 その瞬間だった。

「なにをしている」

 背後から落ちてきた低い声に奈珠那の肩がびくりと跳ねた。振り返ると、柱にもたれかかるように瓊環が立っている。表情は変わらないのに、金色の瞳だけがわずかに険しい。
 
「……瓊環、さま」
「その様子、風邪でも引いたのだろう」
「大丈夫……です。いつもの、ことですから……」

 掠れ気味の声でそう言い切る。自分を落ち着かせようとするように、奈珠那は胸元を握りしめた。
 
「お前は、本当に……」

 呆れのような怒りのような、なにか別の感情ともつかない短い息が瓊環からもれた。
 彼に迷惑をかけているのではないか。そんな不安に襲われた奈珠那が口を開くより早く、瓊環の腕が彼女の腰に回った。
 ふわりと床から足が離れ、目線が頭ひとつ分くらい高くなる。そして近くから感じたのは、ほのかに甘い、あの桜の香り。抱き上げられたのだと気づくのに、一拍の遅れがあった。

「……瓊環様!? そ、そんな、申し訳が……」
「黙ってろ」

 押し返すような声音だったが、抱き方はひどく慎重だった。壊れ物を扱うように、けれど決して手放しはしないという強さもある。
 瓊環の厚意なのかもしれない。そう思ってみても、奈珠那は戸惑いを隠せなかった。こんな(ほどこ)しを自分が受けていいはずがないと知っていたからだ。黙っていろと言われても、黙ってなどいられなかった。

「……私、自分で歩けますから……。瓊環様の胸を借りるなんて……」
「歩ける状態なら、俺がこうしていると思うか?」
「ですが……本当に……」

 瓊環はそれきり何も言わなかった。奈珠那の弱々しい抗議は、抱えられた腕の温度にかき消されていく。否定の言葉を続けようと口を開きかけても、何一つ言い返すつもりはない、という彼の息を潜めるような気配だけが返った。
 だが、腕にこもる力は無機質な態度とは正反対だった。奈珠那の身体が揺れないように抱え直し、ほんの少し苦しげに息をすれば支え方を調整してくる。

 ──どうして、ここまで……。

 問いは喉の奥で消えて、言葉にはならなかった。腕の中から伝う彼の体温に、意識が雪解けのように溶けていく。発熱とは違う、人の温かさ。
 自分は契約相手で、生贄で、代わりはいくらでもいるはずなのに。この腕だけは、「たった一人だ」と言うように自分を扱ってくれる。
 奈珠那は、知らずのうちに瓊環の胸元に身を委ねていた。この距離の近さが怖いとさえ思ったのに──今は彼から離れがたかった。

 ⁂

 寝台に降ろされた奈珠那の身体は、鉛になったように深く沈み込んだ。己でも気づかぬほど限界だったのだと、ようやく思い知らされる。
 
「瓊環、さま……」

 うつろな呼びかけだった。返事の代わりに、彼は手のひらを奈珠那の額にかざす。直接触れたわけでもないのに、木漏れ日のような温もりが額から全身へと染み渡った。薄い光の膜が肌を包み、ゆっくりと熱を(しず)めていく。

 ──これが、神様の力……。

 目を開こうとしたが、まぶたが重くて動かない。温もりに満たされるほど、意識は深い海の底まで落ちていくように揺蕩(たゆた)う。息苦しいほどの胸の詰まりは、呼吸するたびにほどかれていった。
 
「眠れ。これ以上は倒れるだけだ」

 遠くで響く声は、触れたことがないほど優しいものに聞こえた。だが、それも熱による聞き間違いだったかもしれない。労りなどという類の言葉が、自分に向けられるはずがないのだから。
 ぷつり、と奈珠那の思考はそこで途切れた。

 ──ああ……あったかい……。

 その心地よさだけ残して、奈珠那の世界は静かに落ちた。