万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 闇夜を照らす満月の明かりさえも、彼女の目には届かなかった。
 深く澄んだ空気の中、ただ一つ──枯れ果てた万年桜だけが、闇に呑まれずそこにある。

 じりっと、後ろ手に縛られた両腕に痺れが伝いはじめた。薄手の長襦袢は衣の役目を成さず、容赦なく夜風が肌を刺す。
 齢十七、普通のうら若き少女には、とても耐えきれない環境だろう。そんな状況に置かれも、彼女にはもはや恐怖という感情すら湧いてこなかった。

 ──もう、どうでもいい……。

 命を投げ出すように目を伏せようとしたとき、空気が変わった。
 それまでただの枯れ木だった万年桜から、淡い光が滲み出す。集まりだした光の粒は花びらのように舞い出し、少女の頬に触れた。
 そして──。

「ずいぶんと粗略に扱われた女だな」

 その声は、どこからともなく落ちてきた。気づけば、枯れ木の影に一人の男が立っている。
 白銀とも薄桜色ともつかない、肩下まで伸びた長い髪。衣服は月光をまとったかのような白絹。黄金の瞳は無感情のまま少女を映す。
 人ならざるものだと、彼女は一瞬で悟った。
 
「……神、さま……?」
「だとしたら、どうする」

 彼女の震える声を前にしても、男は興味もなさそうに目を細めるだけだった。その存在感は、恐ろしいほどに美しい。
 男は一歩近づき、淡く笑った。

「その有様、生贄か」
「……はい」
「くだらない」

 打ち捨てるような一言が続く。
 
「名は?」

 彼女は少しだけ唇を開いた。名を告げる声は、風に溶けるほど弱々しい。

「……奈珠那(なずな)、と申します」

 男は「ふうん」と短く息をもらし、彼女のあごを指で持ち上げた。奈珠那に怯えは見当たらない。彼女もまた、男と同じように感情を置き去りにしてた。

「死にたいのか?」
「……生きることにも、死ぬことにも……もう、興味ありません」

 自嘲の気配を帯びたその言葉に、男はわずかに目を細める。嗤うような、呆れるような、それでいて楽しげな色が混ざり始めたのがわかった。

「はは、つまらん娘だな」

 奈珠那のあごから手を離した男は、改めて彼女を見やった。

「一年、猶予をやろう」
「……一年?」
「どうせここで死ぬと思っていたんだろう。なら、今でも一年後でも、なにも変わらん」

 男が彼女の顔を覗き込む。奈珠那の緋の瞳に映ったのは、酷薄な美貌。それは無慈悲でありながらも、崇高で抗い難い輝きを孕んでいた。
 
「一年以内に、俺を愛せ」

 突然の宣告に奈珠那は息を呑む。射抜くような瞳に、逃げることも目を逸らすこともできず、ただその男を見つめていた。

「できなければ……一年後、俺がお前を殺してやる」

 桜の花びらが落ちるように残酷なその言葉は、すべてを終わらせる救いの言葉にも似ていた。

 夜の気配が震えた。世界の軸がきしりとずれるような感覚が、奈珠那の全身を貫く。
 男の瞳が月光を映した水面のように淡く揺れた。ほんの一瞬、少女に興が湧いたとでもいうように、光がかすかに色を変えたのだ。

「……はい」

 奈珠那からこぼれた呟きは、本人さえ意図しないものだった。果たしてそれは、救済を求めた返事だったのか。それとも、逃れられぬ運命に身を委ねた証だったのか。彼女自身にも、もう判別がつかなかった。
 
 咲かない万年桜の下。少女の運命は、この夜を境に大きく動き始めたのだった。