アフタージャーニー

 午後八時。

「おっと、忘れてた」

 部屋を出る直前、俺は思い出したかのように机の上の小さなボトルに手を伸ばした。

 いつの間にか残り少なくなった香水を、手首にそっとつける。息を吸い込むと、甘くスパイシーなバニラとラムの奥に深い苦みが混ざった香りが、身体に染み込んでいく。夏の気配をはらんだ夜の空気になじむ、慣れ親しんだ香り。

 今度こそ行かなければと、部屋の扉に手をかけた時のこと。パンツのポケットに無造作に突っ込んだスマホが小刻みに震えた。 

『ごめーん! 今夜やっぱ無理』

 スマホの待ち受けに表示された新着通知に、俺はため息をついた。

「もっと早く言えって」

 呼び出しておいて、直前にドタキャンはさすがにない。一言ぐらい文句を言ってやろうか──でも、熱くなりすぎたら、あっという間に溶けてしまうとグッと堪えた。その代わりに胸の奥から迫り上がってきた、予感めいたネガティブな感情に押し流され、SNSを開く。

 飛び込んできたのは、投稿されたばかりの悠愛の短い動画。

 華やかな夜の背景に、男の影がチラつく。
 笑顔で誰かと笑う、楽しそうな彼女の横顔に、俺の価値は限りなく低いと改めて突きつけられる。

『また別の日に会いにきて』

 俺の返信を待たず、追い打ちをかけるように再びメッセージが届く。
 本心のありかが掴めなくて、それっていつだよ、と打ちかけた指が止まる。
  
 ……見ててくれ。まだ俺を見ててくれ。

 今更、何を?
 もうとっくに、見せられるようなものなんてないのに。

 再びスイッチを入れた、エアコンの低い音だけが部屋に響く。
 アクセサリーを外し机の上のトレイに戻すと、カランという音がした。
 
「あぁ。そうだ、グラス返さないとな」

 俺はその横に置かれた、珠生が貸してくれたグラスにふと指を伸ばした。
 
 無価値の連続ばかりの俺に、彼女はベランダで愚痴をこぼすぐらいの価値は見出してくれたのだろうか。グラスに残された優しさに、胸の奥が疼く。

 不可思議な感情がゆっくりと燻り、消えていった。