アフタージャーニー

「早かったね、侑樹」

 悠愛の部屋の扉がカチャリと開いた。足を踏み入れると、甘いバニラの香りが俺を包む。彼女は静かに微笑むと指を伸ばし、俺の前髪を掬い、頬を気まぐれに撫でる。

 ひんやりとした体温と柔らかい肌に触れるたび、いっそ俺を責めてめちゃくちゃにしてくれと願った。そう思うたび、想いはまだ薄れていないと安堵する。
 
 けれど俺ばかり焦って熱くなりすぎたら、あっという間に溶けてしまう。
 少し心を冷まして、曖昧な距離ぐらいがちょうどいい。

 ベッドの上で肌を重ねた後、俺は彼女の左足の古い傷にそっと触れた。
 かすかに震える指先をゆっくりと滑らせると、蘇る苦い記憶に胸の奥が疼く。

「痛くない?」
「あれから何年経ってると思ってるの? もう大丈夫に決まってるでしょ」

 彼女は小さく笑うと、ベッドサイドに置いたスマホを手に取った。すぐに視線を落とすと、俺に背を向ける。ふたりの間に流れる沈黙に、身体ごと腐っていく気がして言葉を探した。

「ならいい。けど俺は……」
「ねぇ、その話はもういいよ。私、今の仕事楽しくって」

 スマホから顔を上げ、こちらを振り返った悠愛は、精巧に作られた人形のようにきれいだった。だるそうに長い髪を掻きあげ「なに拗ねてんの、子供じゃないんだし」と軽くキスをされ、ようやく目が合った──けれどその瞳は、俺を映していない。

「侑樹もさ、ダンススクールで働き始めたんでしょ? 蒼樹くんに聞いた。よかったじゃん、それでもう十分じゃない?」

 ……俺の話は、聞いてくれないんだな。
 喉まで出かかった言葉が、少しのためらいで行き場を失う。

 さっき触れ合ったはずなのに、心はどこまでも遠い。
 きっと俺が抱いたのは、抜け殻になった恋心と罪悪感だ。

 この関係に、最初から名前はなかったのかもしれない。