屋敷の中も外と同じように荒れ果てていて、陽が差し込むと埃が舞っているのがわかるほど。実際、埃とカビの匂いが充満している。その中をアリスとキャリーバッグを持ったチェシャが歩いて行き、帽子屋と三月ウサギは人間を物のように担ぎながら後ろをついてきた。
向かう先は、かつて「ペナルティルーム」と呼ばれていた場所。
しばらく無言で歩き続け、アリス達は一階の北側の端までやってきた。薄汚れた白い壁の前で立ち止まると、アリスはチェシャを見る。二人は頷き合うとチェシャは壁の右端へ、アリスは壁の左端へとそれぞれ移動した。
「チェシャ、いい?」
「いつでも」
「せーの」
アリスの合図で二人は同時に壁を押した。壁は重い音を立てながら後ろへと下がっていく。三十センチメートルほど動いたところで左へスライドし、地下へと続く階段が姿を現した。
中に入ると壁にスイッチが上下に二つあり、上の方を押すとオレンジ色の電気が灯った。チェシャが先に階段をおりていき、帽子屋と三月ウサギがそれに続く。彼らが階段をおりていく姿を見送ると、アリスは下の方のスイッチを押した。再び壁が動き出して元の位置へと戻る。
こんな古びた屋敷に誰かが入ってくるとは思えないが、万が一のことがあってはならない。そのため、こうして壁を戻すことにしている。
壁を戻した後は、アリスも階段をおりていく。鈍色の重厚な扉は開けっぱなしになっており、中央にある椅子に立河が座らされている光景が目に入った。
そろそろ起きてもらわなければ。とりあえず頬を叩いて起こすか、などと考えながら中に踏み入れた瞬間、つんと鼻につく匂いがアリスを襲った。急いで左手で鼻と口を覆う。つい最近使用したばかりということもあり、消毒液の匂いがまだ充満しているのだ。
「……くっさ」
漏れ出た不満に、眉間に皺を寄せたチェシャが振り向いた。
「仕方ないじゃん。使った後は綺麗にしないとこびれついて取れなくなるし、今よりもっと臭くなるんだよ?」
「わかってるよ、ごめんってば」
帽子屋と三月ウサギは、相手に逃げられないようにと両手両足を結束バンドで結んでいる。チェシャもそうだが、この匂いの中で平然としていられるのが不思議だ。
アリスはチェシャが運んでくれたキャリーバッグの近くへ行き、しゃがみ込む。意を決して左手を離し、キャリーバッグを開けた。手作りの器具を取り出し、最後の仕上げとしてベルトをつける。
何度も見ているが、いい出来栄えだ。匂いのことなど忘れてうっとりとしていると、「アリス」とチェシャに名を呼ばれた。
「起こす?」
「ああ、うん、そうだね。起こさないとつけられないし」
この器具は、相手が起きていないとつけることができない。アリスは立ち上がると、立河の元まで歩いていく。
目の前に立つと、そばにいた帽子屋が項垂れていた彼女の頭を持ち上げた。
「まずはたっちーね。これまで眠らせてあげたんだから、これからは眠るの禁止でーす」
右手を大きく振りかぶり、眠る立河の頬を引っ叩いた。
乾いた音が響く。痛みから立河もようやく目が覚めたようで、おそるおそる辺りを見渡した後にアリスへ視線を向けた。
交じる視線。その視線からは戸惑いや恐怖、不安を感じる。だからなんだと蔑むように、アリスは口角を上げた。
「おはよう、たっちー。よく眠れた?」
「よく、眠れ……? そうだ、あたし、車に轢かれて……ここ、どこ? え? やだ、何これ、動かない!」
「車でドーン! ってして、おじさんと一緒に連れてきたんだよ」
「はあ!? 何してくれてんの!? めっちゃ身体痛いし! ってか、ねえ、おじさんってあの人のこと!?」
あの人、という言葉に、アリスの心が静かに冷えていく。そうとも知らず、立河は顔を真っ赤にしながら口を大きく開けて喚き散らし続ける。
「あの人しか考えられない! ねえ、何であたし達にこんなことしてんの!? あ、もしかして奥さん!? 何だよあいつ! マジでふざけん」
「なわけないじゃん。もう少し考えて発言しなよ」
あまりの馬鹿さ加減に、つい上から言葉を被せてしまった。
馬鹿という生き物は、とことんめでたい頭を持っているようだ。立河の頭頂部辺りの髪の毛を右手で鷲掴みにすると、強く後ろへ引っ張った。
「い、痛い痛い!」
「あの人はね、たっちーとは違って善良な人間なの。こんなところ似つかわしくないくらいに」
「わ、わかった、わかったから離して!」
「何もわかってない。あの人がたっちーの顔なんて見たくないくらい恨んでるって知ってた? 知らないでしょ」
「ま、待ってよ、恨まれる意味がわかんないんだけど!」
耳を劈くほどの金切り声に、まだ自分が置かれている状況がわかっていないのかとほとほと呆れた。たくさんの嘘を吐き、嘘の数だけ人を傷つけてきたというのに、その自覚すらないなんて。
だが、立河のような者は得てしてそういう生き物なのかもしれない。何せ、このような目に遭っているのは被害者のせいなのかと、ふざけたことを抜かすほどなのだから。
アリスは立河の髪の毛を握る手に力を込め、更に後ろへ引っ張った。
「いっ……!」
「本当、救いようのない馬鹿は笑えないね。ここにたっちーがいるのは、あの人が依頼したからだよ」
「依頼?」
目を丸くする立河に、彼女の髪の毛を握っていた右手を離した。
「たっちーは、ワンダーランドっていうXのアカウント、知ってる?」
「……ワンダーランドって、何でも願いを叶えてくれるっていうあれだよね。所詮、噂でしょ。そんなことできるわけがないんだから」
巷で噂になっていることは、チェシャが情報収集済みだ。有名になるまで、コツコツと時間をかけてきた甲斐があった。
ただ、ワンダーランドは何でも願いを叶えるものではない。どこでそうなってしまったのか。噂には尾鰭がつきものだが、これは修正が必要だ。
「別に、何でも願いを叶えてないよ。たっちーの言うとおり、そんなことはできないから」
「じゃあ、何の依頼を受けてこんなことしてんのよ!」
外せと言わんばかりにガタガタと椅子を動かす立河の頭に再び右手を置くと、彼女はびくりと肩を震わせた。そっと耳元に顔を寄せ、言葉を囁く。
「ワンダーランドに相応しくない者の排除、だよ」
向かう先は、かつて「ペナルティルーム」と呼ばれていた場所。
しばらく無言で歩き続け、アリス達は一階の北側の端までやってきた。薄汚れた白い壁の前で立ち止まると、アリスはチェシャを見る。二人は頷き合うとチェシャは壁の右端へ、アリスは壁の左端へとそれぞれ移動した。
「チェシャ、いい?」
「いつでも」
「せーの」
アリスの合図で二人は同時に壁を押した。壁は重い音を立てながら後ろへと下がっていく。三十センチメートルほど動いたところで左へスライドし、地下へと続く階段が姿を現した。
中に入ると壁にスイッチが上下に二つあり、上の方を押すとオレンジ色の電気が灯った。チェシャが先に階段をおりていき、帽子屋と三月ウサギがそれに続く。彼らが階段をおりていく姿を見送ると、アリスは下の方のスイッチを押した。再び壁が動き出して元の位置へと戻る。
こんな古びた屋敷に誰かが入ってくるとは思えないが、万が一のことがあってはならない。そのため、こうして壁を戻すことにしている。
壁を戻した後は、アリスも階段をおりていく。鈍色の重厚な扉は開けっぱなしになっており、中央にある椅子に立河が座らされている光景が目に入った。
そろそろ起きてもらわなければ。とりあえず頬を叩いて起こすか、などと考えながら中に踏み入れた瞬間、つんと鼻につく匂いがアリスを襲った。急いで左手で鼻と口を覆う。つい最近使用したばかりということもあり、消毒液の匂いがまだ充満しているのだ。
「……くっさ」
漏れ出た不満に、眉間に皺を寄せたチェシャが振り向いた。
「仕方ないじゃん。使った後は綺麗にしないとこびれついて取れなくなるし、今よりもっと臭くなるんだよ?」
「わかってるよ、ごめんってば」
帽子屋と三月ウサギは、相手に逃げられないようにと両手両足を結束バンドで結んでいる。チェシャもそうだが、この匂いの中で平然としていられるのが不思議だ。
アリスはチェシャが運んでくれたキャリーバッグの近くへ行き、しゃがみ込む。意を決して左手を離し、キャリーバッグを開けた。手作りの器具を取り出し、最後の仕上げとしてベルトをつける。
何度も見ているが、いい出来栄えだ。匂いのことなど忘れてうっとりとしていると、「アリス」とチェシャに名を呼ばれた。
「起こす?」
「ああ、うん、そうだね。起こさないとつけられないし」
この器具は、相手が起きていないとつけることができない。アリスは立ち上がると、立河の元まで歩いていく。
目の前に立つと、そばにいた帽子屋が項垂れていた彼女の頭を持ち上げた。
「まずはたっちーね。これまで眠らせてあげたんだから、これからは眠るの禁止でーす」
右手を大きく振りかぶり、眠る立河の頬を引っ叩いた。
乾いた音が響く。痛みから立河もようやく目が覚めたようで、おそるおそる辺りを見渡した後にアリスへ視線を向けた。
交じる視線。その視線からは戸惑いや恐怖、不安を感じる。だからなんだと蔑むように、アリスは口角を上げた。
「おはよう、たっちー。よく眠れた?」
「よく、眠れ……? そうだ、あたし、車に轢かれて……ここ、どこ? え? やだ、何これ、動かない!」
「車でドーン! ってして、おじさんと一緒に連れてきたんだよ」
「はあ!? 何してくれてんの!? めっちゃ身体痛いし! ってか、ねえ、おじさんってあの人のこと!?」
あの人、という言葉に、アリスの心が静かに冷えていく。そうとも知らず、立河は顔を真っ赤にしながら口を大きく開けて喚き散らし続ける。
「あの人しか考えられない! ねえ、何であたし達にこんなことしてんの!? あ、もしかして奥さん!? 何だよあいつ! マジでふざけん」
「なわけないじゃん。もう少し考えて発言しなよ」
あまりの馬鹿さ加減に、つい上から言葉を被せてしまった。
馬鹿という生き物は、とことんめでたい頭を持っているようだ。立河の頭頂部辺りの髪の毛を右手で鷲掴みにすると、強く後ろへ引っ張った。
「い、痛い痛い!」
「あの人はね、たっちーとは違って善良な人間なの。こんなところ似つかわしくないくらいに」
「わ、わかった、わかったから離して!」
「何もわかってない。あの人がたっちーの顔なんて見たくないくらい恨んでるって知ってた? 知らないでしょ」
「ま、待ってよ、恨まれる意味がわかんないんだけど!」
耳を劈くほどの金切り声に、まだ自分が置かれている状況がわかっていないのかとほとほと呆れた。たくさんの嘘を吐き、嘘の数だけ人を傷つけてきたというのに、その自覚すらないなんて。
だが、立河のような者は得てしてそういう生き物なのかもしれない。何せ、このような目に遭っているのは被害者のせいなのかと、ふざけたことを抜かすほどなのだから。
アリスは立河の髪の毛を握る手に力を込め、更に後ろへ引っ張った。
「いっ……!」
「本当、救いようのない馬鹿は笑えないね。ここにたっちーがいるのは、あの人が依頼したからだよ」
「依頼?」
目を丸くする立河に、彼女の髪の毛を握っていた右手を離した。
「たっちーは、ワンダーランドっていうXのアカウント、知ってる?」
「……ワンダーランドって、何でも願いを叶えてくれるっていうあれだよね。所詮、噂でしょ。そんなことできるわけがないんだから」
巷で噂になっていることは、チェシャが情報収集済みだ。有名になるまで、コツコツと時間をかけてきた甲斐があった。
ただ、ワンダーランドは何でも願いを叶えるものではない。どこでそうなってしまったのか。噂には尾鰭がつきものだが、これは修正が必要だ。
「別に、何でも願いを叶えてないよ。たっちーの言うとおり、そんなことはできないから」
「じゃあ、何の依頼を受けてこんなことしてんのよ!」
外せと言わんばかりにガタガタと椅子を動かす立河の頭に再び右手を置くと、彼女はびくりと肩を震わせた。そっと耳元に顔を寄せ、言葉を囁く。
「ワンダーランドに相応しくない者の排除、だよ」


