消えた方がいい人間は、言葉のとおりこの世界から消すべきだ。
そうすれば、嫌な目に遭う人がいなくなる。
悲しむ人がいなくなる。
笑顔の人が増える。
結果、世のため人のためになる。
誰もがわかっている。誰もが望んでいる。
それなのに、誰も実行に移そうとしない。
法律が、倫理が、人権が、とやらない理由を口にする。
相手は消えた方がいい人間。この世から消したところで何も気にすることはない。むしろ、世界は救われるのだ。消えるべき存在が消えることで、大勢の人間が救われるのだから。
それでも、できない理由を口にする。ならば、やるしかない。
誰も動かないのであれば。自分が、この手で。
そう決意したのは、いつだったか。
「アリス、おかえり」
扉を開けた先にいたのは、ピンク色の目立つ髪の色をした男性。サイズが合っていないネイビーのスウェットを引き摺ってトイレから出てきた。
「ただいま、チェシャ」
彼のことはチェシャと呼んでいる。付き合いはそこそこ長いが、本名は知らない。
というよりも、ない。
(まあ、わたしもないけど)
チェシャは、インターネットさえ繋がっていればどこへでも侵入できる凄腕のハッカー。アリスにとって、頼りになる相棒だ。
「チェシャ、たっちーの様子はどう?」
「え、立河彩乃のことたっちーって呼んでるんだ……」
立河彩乃──先程、ぶつかりおじさんにぶつかられて転けた妊婦を装った女性の名だ。
「たっちーこと立河彩乃なら、電話を切った後はふて寝してるよ」
「ふぅん、ふて寝。ってことは、電話の相手とはうまくいかなかったんだ」
「そ。ヒステリックな叫び声を上げながら部屋の中で大暴れしてたよ。近所迷惑だよねぇ」
間延びした声は、どこか他人事のように聞こえる。
チェシャはペタペタと音を立てて廊下を歩き、リビングへと向かう。机の上に置いてあったお気に入りの飴を口に放り込むと、つけっぱなしにしていたノートパソコンの前に座った。
コロコロと口内で飴を転がしながら、キーボードを打ち込んでいく。彼の後ろから画面を覗くと、立河彩乃がベットでうつ伏せになっている姿が見えた。大きかった腹はどこへやら。
「アリスが帰ってくる少し前からこの状態。腹に入れてたのは今日は風船だね。帰ってきてから割ってたよ」
「そんなことして自分が惨めに思わないのかな。……思わないか、馬鹿だから」
「そうそう。馬鹿だから惨めにも思わず、恥ずかしげもなく同じことを繰り返せる」
立河彩乃。二十六歳。調べによると、これまで付き合ってきた男性は数多いが、すべて彼女がいるか既婚者。友人の彼氏にも手を出すほど見境がなく、どうしようもない女だ。事実が発覚するたびに周りからは縁を切られ、配偶者がいる場合は慰謝料を請求されている。──この慰謝料については、一銭も支払うことなく逃げているようだが。
立河の元友人達曰く、当の本人を詰めても「男が私を好きになったからだ。私は悪くない」と開き直っているらしい。立河がこのようなことを繰り返せるのも、そういう馬鹿げた理由からだろう。
ちなみに、手口としてはありきたりなものだ。過剰なスキンシップやありもしない相談を持ちかけたりと、相手との距離を縮めていく。自分からそうなるように仕向けておいて、相手が立河を好きになればその相手が悪いというのは何ともたちが悪い。
だが、今やその手口はどんどん悪質なものへと変わっていった。年齢を重ね、この方法もいけるだろうと思ったのか。
妊娠した、という嘘を平気でつくようになった。
アリスは画面から目を離すと背を向け、チェシャが座る椅子の背もたれに身体を預けた。
「立河もそうだけどさ。こんな嘘をつく奴って、赤ちゃんのこと何だと思ってんだろ」
「残念だけど、便利な道具くらいにしか思ってないよ。じゃないと、妊娠したなんて嘘は吐かない」
「救いようのないクズ。反吐が出る」
たとえ立河の中にその命が宿っていないのだとしても、いいように利用される赤子が可哀想でならない。
「ねえ、チェシャ。馬鹿は不治の病って本当だね。特効薬も何もないから、死ぬ以外に治す方法がない」
「今更何言ってんの。お母さんが教えてくれたことわざにもあったでしょ。馬鹿は死ななきゃ治らないって。だから僕達がいるわけだし」
「だね。早くお母さんの夢を叶えなきゃ」
「うん、絶対に喜んでくれるよ」
コロン、とチェシャが飴を転がす音がした。
「ところで、今日決行するんだよね。方法は?」
「方法はぁ……」
椅子から身体を離し、リビングの隣の部屋へ向かった、今のところ、この部屋はアリスの作業部屋としている。工具を利用するため、防音は完璧だ。アリスは作業をする机の上に置いてあった手作りの器具を手に取った。
両端がフォーク状に尖った長い鉄が二本。あとはベルトかストラップを括り付けたら完成だ。
「実物は見たことないんだけど、大体こんな感じかなって。ふふ、どう? うまくできたでしょ」
どういうところに苦労したかと話しながらリビングへ戻り、チェシャへ器具を見せる。目にした瞬間、彼は顔を引き攣らせた。
「よく見つけたねこんなの……」
「お母さんがたくさん本を残してくれてるから、たっちーにふさわしいものを探したんだ」
「えげつないけどいいんじゃない? 馬鹿に遠慮する必要もないしね」
チェシャの言葉に、アリスは口元を綻ばせる。
「長いこと、苦しませてあげようね」
手作りの二つの器具を優しく抱き締めた。
そうすれば、嫌な目に遭う人がいなくなる。
悲しむ人がいなくなる。
笑顔の人が増える。
結果、世のため人のためになる。
誰もがわかっている。誰もが望んでいる。
それなのに、誰も実行に移そうとしない。
法律が、倫理が、人権が、とやらない理由を口にする。
相手は消えた方がいい人間。この世から消したところで何も気にすることはない。むしろ、世界は救われるのだ。消えるべき存在が消えることで、大勢の人間が救われるのだから。
それでも、できない理由を口にする。ならば、やるしかない。
誰も動かないのであれば。自分が、この手で。
そう決意したのは、いつだったか。
「アリス、おかえり」
扉を開けた先にいたのは、ピンク色の目立つ髪の色をした男性。サイズが合っていないネイビーのスウェットを引き摺ってトイレから出てきた。
「ただいま、チェシャ」
彼のことはチェシャと呼んでいる。付き合いはそこそこ長いが、本名は知らない。
というよりも、ない。
(まあ、わたしもないけど)
チェシャは、インターネットさえ繋がっていればどこへでも侵入できる凄腕のハッカー。アリスにとって、頼りになる相棒だ。
「チェシャ、たっちーの様子はどう?」
「え、立河彩乃のことたっちーって呼んでるんだ……」
立河彩乃──先程、ぶつかりおじさんにぶつかられて転けた妊婦を装った女性の名だ。
「たっちーこと立河彩乃なら、電話を切った後はふて寝してるよ」
「ふぅん、ふて寝。ってことは、電話の相手とはうまくいかなかったんだ」
「そ。ヒステリックな叫び声を上げながら部屋の中で大暴れしてたよ。近所迷惑だよねぇ」
間延びした声は、どこか他人事のように聞こえる。
チェシャはペタペタと音を立てて廊下を歩き、リビングへと向かう。机の上に置いてあったお気に入りの飴を口に放り込むと、つけっぱなしにしていたノートパソコンの前に座った。
コロコロと口内で飴を転がしながら、キーボードを打ち込んでいく。彼の後ろから画面を覗くと、立河彩乃がベットでうつ伏せになっている姿が見えた。大きかった腹はどこへやら。
「アリスが帰ってくる少し前からこの状態。腹に入れてたのは今日は風船だね。帰ってきてから割ってたよ」
「そんなことして自分が惨めに思わないのかな。……思わないか、馬鹿だから」
「そうそう。馬鹿だから惨めにも思わず、恥ずかしげもなく同じことを繰り返せる」
立河彩乃。二十六歳。調べによると、これまで付き合ってきた男性は数多いが、すべて彼女がいるか既婚者。友人の彼氏にも手を出すほど見境がなく、どうしようもない女だ。事実が発覚するたびに周りからは縁を切られ、配偶者がいる場合は慰謝料を請求されている。──この慰謝料については、一銭も支払うことなく逃げているようだが。
立河の元友人達曰く、当の本人を詰めても「男が私を好きになったからだ。私は悪くない」と開き直っているらしい。立河がこのようなことを繰り返せるのも、そういう馬鹿げた理由からだろう。
ちなみに、手口としてはありきたりなものだ。過剰なスキンシップやありもしない相談を持ちかけたりと、相手との距離を縮めていく。自分からそうなるように仕向けておいて、相手が立河を好きになればその相手が悪いというのは何ともたちが悪い。
だが、今やその手口はどんどん悪質なものへと変わっていった。年齢を重ね、この方法もいけるだろうと思ったのか。
妊娠した、という嘘を平気でつくようになった。
アリスは画面から目を離すと背を向け、チェシャが座る椅子の背もたれに身体を預けた。
「立河もそうだけどさ。こんな嘘をつく奴って、赤ちゃんのこと何だと思ってんだろ」
「残念だけど、便利な道具くらいにしか思ってないよ。じゃないと、妊娠したなんて嘘は吐かない」
「救いようのないクズ。反吐が出る」
たとえ立河の中にその命が宿っていないのだとしても、いいように利用される赤子が可哀想でならない。
「ねえ、チェシャ。馬鹿は不治の病って本当だね。特効薬も何もないから、死ぬ以外に治す方法がない」
「今更何言ってんの。お母さんが教えてくれたことわざにもあったでしょ。馬鹿は死ななきゃ治らないって。だから僕達がいるわけだし」
「だね。早くお母さんの夢を叶えなきゃ」
「うん、絶対に喜んでくれるよ」
コロン、とチェシャが飴を転がす音がした。
「ところで、今日決行するんだよね。方法は?」
「方法はぁ……」
椅子から身体を離し、リビングの隣の部屋へ向かった、今のところ、この部屋はアリスの作業部屋としている。工具を利用するため、防音は完璧だ。アリスは作業をする机の上に置いてあった手作りの器具を手に取った。
両端がフォーク状に尖った長い鉄が二本。あとはベルトかストラップを括り付けたら完成だ。
「実物は見たことないんだけど、大体こんな感じかなって。ふふ、どう? うまくできたでしょ」
どういうところに苦労したかと話しながらリビングへ戻り、チェシャへ器具を見せる。目にした瞬間、彼は顔を引き攣らせた。
「よく見つけたねこんなの……」
「お母さんがたくさん本を残してくれてるから、たっちーにふさわしいものを探したんだ」
「えげつないけどいいんじゃない? 馬鹿に遠慮する必要もないしね」
チェシャの言葉に、アリスは口元を綻ばせる。
「長いこと、苦しませてあげようね」
手作りの二つの器具を優しく抱き締めた。


