世界には、人間が約八十三億人いるらしい。
それだけの数がいれば、さまざまな人間が存在していてもおかしくはない。とは思うものの、世の中には消えた方がいい人間で溢れかえっている。
たとえば、飲食店における不衛生および迷惑行為をする者。
すれ違いざまに故意に身体をぶつけてくる者。
相手への過度な要求、暴言を吐く者も増加傾向にある。
果てには、他者の命を容易に奪う者まで。
悲しいほどに、誰かを悲しませる者の多いこと。
誰が言い出したかは知らないが、多種多様とはよく言ったものだ。
こんな者達をこんな言葉で表してまで、この世界に存在していてほしいだろうか。
世界を乱し、汚している者達など。
「おい! 余所見してんじゃねえよ! ブス!」
怒鳴り声がした方向を振り向けば、腹部が大きく膨らんだ女性が地面に倒れていた。
その女性の前にいるのは、灰色のスーツを身につけ、焦茶色の革靴を履いた中年のサラリーマン。倒れた女性を助けることなく、眉尻を吊り上げて怒鳴りつけている。
はあ、と溜息を吐くと、足早に女性の元へと向かった。
その場面を見ていたわけではないが、助けることなく怒鳴りつける輩は、大体が故意に身体をぶつけにきて相手を転かしている。今回もそれで間違いないだろう。
いわゆる「ぶつかりおじさん」と呼ばれる存在だ。
ぶつかるのはフラストレーションの解消だと指摘されているが、彼らは自分よりも弱い女性しか狙わない。何とも卑怯で姑息な奴らだ。
(他にも発散のやり方なんてあるでしょ。これだからミソジニーは嫌いなんだよね)
そう思いつつ、女性の元で片膝をついて背に触れた。
「大丈夫ですか?」
声をかけた後、サラリーマンを横目で見る。睨みつけてはいないが、見られるとは思っていなかったようだ。舌打ちをし、逃げるようにして人混みの中に戻ってしまった。
この見目を見て、何かしら言われるとでも思ったのだろう。情けない奴だと、もう姿も見えないサラリーマンを鼻で笑った。
プラチナシルバーの髪色に、ツインテール。服はフード付きの黒色のミニワンピース。あえてこの髪色と髪型、服装にしている。
というのも、人間は視覚から得た情報だけで相手を見定める傾向があるからだ。実際、髪色を派手なものに変えるだけで迷惑行為が止んだという声もあるほど。
視線を女性へと向ける。対して、この女性は肩まで伸ばした黒髪に、丈が長めで派手ではないおとなしめのグレーのマタニティウェア。見た目の情報だけでは、物静かな女性だ。
つまり、あのサラリーマンは、狙いを女性に定めながらも「言い返しそうにない女性」を選んでいる。
「す、すみません。ありがとうございます」
申し訳なさそうに目を伏せる女性。安心させるように、口角を上げて微笑んだ。
「お姉さんが謝る必要ないですよ。どうせあのおっさんがわざとぶつかりにきたんでしょ?」
「そ、そうなんです! 本当にあんな人がいるんですね。ああ、もう最悪! 打ちつけたところが痛い……」
「ですよね、痛いですよね」
ゆっくりと視線を女性の腹部へと移動させる。
「念のため、病院で診てもらいましょう。付き添いますよ」
「えっ、あっ」
「立てますか?」
先に立ち上がって右手を差し出すも、女性は手を取ることなく視線を彷徨わせて狼狽えた。
「どうしました?」
「あ、あー、い、痛いですけど、病院に行くほどではないので!」
そう言うと、女性は勢いよく立ち上がった。地面についていた部分を両手で叩き、大丈夫ですと言いたげな笑顔を浮かべる。
「それならいいんですけど……でも」
「大丈夫です! 心配してくれてありがとうございます、失礼します!」
まだ話している途中だったのだが、足早に去ってしまった。再び溜息を吐くと、右手を腰に当てて右足に重心を傾ける。
あのサラリーマンのように、女性もまた都合が悪くなって逃げたのだろう。
なんて浅はかなのか。そのような態度を取れば、怪しんでくださいと自ら主張しているようなものだというのに。
(まあ、全部知ってるわけなんだけど)
女性が小走りで向かっていった方向を眺めていると、ポケットに入れていたスマートフォンが小刻みに震えた。取り出して画面に表示された発信者の名前を確認すると、緑色の受話器のマークをスライドさせて耳元へ当てる。
聞こえてきたのは、コロン、と何かを転がすような音。
「どうしたの、チェシャ」
《ターゲットと接触したから、何か情報を得たかなって思って》
電話の向こうにいる男性──チェシャは、言い終えるとコロンと音を立てた。いつも食べている飴を口の中に入れているようだ。
「チェシャが調べてくれたこと以上の収穫はないよ。大嘘吐きってことを再認識したってくらいかな」
あの女性の腹部は大きく膨らんではいたものの、中には誰もいない。
本物の妊婦であれば、転けた際に自分の身体よりも腹の中にいる胎児を心配するだろう。だが、あの女性は腹の中にいるであろう胎児よりも自分の身ばかり。極めつけは、病院へ診てもらおうと提案をすれば、大丈夫だと慌てて姿を消してしまった。
服の下で何を詰めていたのかまでは知る由もない。
ただ、病院に行けば自分が偽の妊婦だということが露見してしまう。だからこそ、彼女は逃げるしかなかったのだと推測ができる。
「馬鹿だよね。嘘のためにわざとお腹を膨らませて。都合が悪くなったら逃げて。自分のことばっかり」
あまりの馬鹿さ加減に心底呆れる。周りを引き込もうと命を弄び、腹を膨らませることはするのに、他は何も考えていなかった。なんて浅はかなのか。
自分がついた嘘で起こり得る事態も想定せずにのうのうと生きているから、何かが起きたときこうなる。
きっと、この嘘で何が起きているかも想像できていないのだろう。知れば、女性はどのような反応を示すのだろうか。
《あ、あの人電話してる》
「相手は? ……って、聞くまでもないか」
《うわぁ、これはボクですら聞くに耐えないよ。どうする?》
「別件もできたことだし、今夜決行で決まりだね。何より、一秒でも早く綺麗な世の中にしないと」
電話の向こうで微かに笑う声が聞こえた。
《アリスの仰せのままに》
耳元に当てていたスマートフォンを話すと、赤色のボタンを押して通話を切る。ポケットに仕舞い込むと、アリスは人混みの中を歩いて行った。
それだけの数がいれば、さまざまな人間が存在していてもおかしくはない。とは思うものの、世の中には消えた方がいい人間で溢れかえっている。
たとえば、飲食店における不衛生および迷惑行為をする者。
すれ違いざまに故意に身体をぶつけてくる者。
相手への過度な要求、暴言を吐く者も増加傾向にある。
果てには、他者の命を容易に奪う者まで。
悲しいほどに、誰かを悲しませる者の多いこと。
誰が言い出したかは知らないが、多種多様とはよく言ったものだ。
こんな者達をこんな言葉で表してまで、この世界に存在していてほしいだろうか。
世界を乱し、汚している者達など。
「おい! 余所見してんじゃねえよ! ブス!」
怒鳴り声がした方向を振り向けば、腹部が大きく膨らんだ女性が地面に倒れていた。
その女性の前にいるのは、灰色のスーツを身につけ、焦茶色の革靴を履いた中年のサラリーマン。倒れた女性を助けることなく、眉尻を吊り上げて怒鳴りつけている。
はあ、と溜息を吐くと、足早に女性の元へと向かった。
その場面を見ていたわけではないが、助けることなく怒鳴りつける輩は、大体が故意に身体をぶつけにきて相手を転かしている。今回もそれで間違いないだろう。
いわゆる「ぶつかりおじさん」と呼ばれる存在だ。
ぶつかるのはフラストレーションの解消だと指摘されているが、彼らは自分よりも弱い女性しか狙わない。何とも卑怯で姑息な奴らだ。
(他にも発散のやり方なんてあるでしょ。これだからミソジニーは嫌いなんだよね)
そう思いつつ、女性の元で片膝をついて背に触れた。
「大丈夫ですか?」
声をかけた後、サラリーマンを横目で見る。睨みつけてはいないが、見られるとは思っていなかったようだ。舌打ちをし、逃げるようにして人混みの中に戻ってしまった。
この見目を見て、何かしら言われるとでも思ったのだろう。情けない奴だと、もう姿も見えないサラリーマンを鼻で笑った。
プラチナシルバーの髪色に、ツインテール。服はフード付きの黒色のミニワンピース。あえてこの髪色と髪型、服装にしている。
というのも、人間は視覚から得た情報だけで相手を見定める傾向があるからだ。実際、髪色を派手なものに変えるだけで迷惑行為が止んだという声もあるほど。
視線を女性へと向ける。対して、この女性は肩まで伸ばした黒髪に、丈が長めで派手ではないおとなしめのグレーのマタニティウェア。見た目の情報だけでは、物静かな女性だ。
つまり、あのサラリーマンは、狙いを女性に定めながらも「言い返しそうにない女性」を選んでいる。
「す、すみません。ありがとうございます」
申し訳なさそうに目を伏せる女性。安心させるように、口角を上げて微笑んだ。
「お姉さんが謝る必要ないですよ。どうせあのおっさんがわざとぶつかりにきたんでしょ?」
「そ、そうなんです! 本当にあんな人がいるんですね。ああ、もう最悪! 打ちつけたところが痛い……」
「ですよね、痛いですよね」
ゆっくりと視線を女性の腹部へと移動させる。
「念のため、病院で診てもらいましょう。付き添いますよ」
「えっ、あっ」
「立てますか?」
先に立ち上がって右手を差し出すも、女性は手を取ることなく視線を彷徨わせて狼狽えた。
「どうしました?」
「あ、あー、い、痛いですけど、病院に行くほどではないので!」
そう言うと、女性は勢いよく立ち上がった。地面についていた部分を両手で叩き、大丈夫ですと言いたげな笑顔を浮かべる。
「それならいいんですけど……でも」
「大丈夫です! 心配してくれてありがとうございます、失礼します!」
まだ話している途中だったのだが、足早に去ってしまった。再び溜息を吐くと、右手を腰に当てて右足に重心を傾ける。
あのサラリーマンのように、女性もまた都合が悪くなって逃げたのだろう。
なんて浅はかなのか。そのような態度を取れば、怪しんでくださいと自ら主張しているようなものだというのに。
(まあ、全部知ってるわけなんだけど)
女性が小走りで向かっていった方向を眺めていると、ポケットに入れていたスマートフォンが小刻みに震えた。取り出して画面に表示された発信者の名前を確認すると、緑色の受話器のマークをスライドさせて耳元へ当てる。
聞こえてきたのは、コロン、と何かを転がすような音。
「どうしたの、チェシャ」
《ターゲットと接触したから、何か情報を得たかなって思って》
電話の向こうにいる男性──チェシャは、言い終えるとコロンと音を立てた。いつも食べている飴を口の中に入れているようだ。
「チェシャが調べてくれたこと以上の収穫はないよ。大嘘吐きってことを再認識したってくらいかな」
あの女性の腹部は大きく膨らんではいたものの、中には誰もいない。
本物の妊婦であれば、転けた際に自分の身体よりも腹の中にいる胎児を心配するだろう。だが、あの女性は腹の中にいるであろう胎児よりも自分の身ばかり。極めつけは、病院へ診てもらおうと提案をすれば、大丈夫だと慌てて姿を消してしまった。
服の下で何を詰めていたのかまでは知る由もない。
ただ、病院に行けば自分が偽の妊婦だということが露見してしまう。だからこそ、彼女は逃げるしかなかったのだと推測ができる。
「馬鹿だよね。嘘のためにわざとお腹を膨らませて。都合が悪くなったら逃げて。自分のことばっかり」
あまりの馬鹿さ加減に心底呆れる。周りを引き込もうと命を弄び、腹を膨らませることはするのに、他は何も考えていなかった。なんて浅はかなのか。
自分がついた嘘で起こり得る事態も想定せずにのうのうと生きているから、何かが起きたときこうなる。
きっと、この嘘で何が起きているかも想像できていないのだろう。知れば、女性はどのような反応を示すのだろうか。
《あ、あの人電話してる》
「相手は? ……って、聞くまでもないか」
《うわぁ、これはボクですら聞くに耐えないよ。どうする?》
「別件もできたことだし、今夜決行で決まりだね。何より、一秒でも早く綺麗な世の中にしないと」
電話の向こうで微かに笑う声が聞こえた。
《アリスの仰せのままに》
耳元に当てていたスマートフォンを話すと、赤色のボタンを押して通話を切る。ポケットに仕舞い込むと、アリスは人混みの中を歩いて行った。


