あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

気づけば、奈津は屋敷を飛び出していた。

 冷たい夜風が頬を刺す。
 けれど、あの場所にはいたくなかった。
 胸の奥が空っぽだった。

 洋司に裏切られたことも。
 後妻になれと言われたことも。
 全部もう、どうでもよかった。

 ただ、苦しかった。
 雪混じりの風が吹き抜ける。
 ふらふらと人気のない道を歩き続けるうち、奈津はいつの間にか、見知らぬ廃屋の前へ辿り着いていた。

 朽ちかけた木戸。
 崩れた塀。
 人の気配はない。

 こんな場所なら、少しくらい休んでも怒られないだろうか。
 そう思って足を踏み入れた、その時だった。

 ――ガタ。

 物音。
 奈津はびくりと肩を震わせる。

 暗がりの奥。
 何かが、うずくまっていた。

「……っ」

 目を凝らした瞬間、息を呑む。

 それは、小さな妖だった。

 幼子ほどの姿。
 淡い金色の髪の間から、犬のような耳がぴんと覗いている。
 背後には、ふわりとした尾が弱々しく垂れていた。

 けれど、その愛らしい姿は、全身を覆う傷によって痛々しく歪められていた。

 着物は裂け、細い腕には無数の裂傷が走っている。
 今にも消えてしまいそうなほど弱っていた。
 琥珀色の瞳が、怯えたように奈津を見上げる。

 同じだ、あの時と。



 ――十歳の目覚めの儀式の日。

 奈津と綾乃の前には、二匹の小さな妖がいた。
 どちらも縄で縛られ、ぶるぶると震えている。

「その刀で祓いなさい」

 父が言った。

 綾乃の刀は、美しい青の霊力をまとっていた。
 一方で奈津の刀に宿る力は、今にも消えてしまいそうなほど弱い。

 綾乃はためらわなかった。
 片方の妖に刀が振り下ろされ、血飛沫が飛ぶ。

「んー、いい斬れ味!」

 綾乃は満足そうに笑った。

「見事だ、綾乃!」

 父の声が響く。
 それから、奈津へ鋭い目が向いた。

「何をしている、奈津。早くもう一匹を祓え」

 奈津は刀を握りしめた。
 目の前の小さな妖が、怯えた目でこちらを見ている。

 怖い。
 痛い。
 助けて。

 そう言っている気がした。
 殺したくない。

「早くしなさい!」

 苛立ちのこもった母の声が飛ぶ。
 奈津は泣きながら首を横に振った。

「……できない」

 その瞬間、刀を包んでいたわずかな霊力が消えた。
 手の中の刀が、はらはらと崩れていく。
 
 この日以降、奈津は祓い屋としての能力を完全に失った。