あやかしの癒し子〜祓い屋の出来損ないは、鬼の王の最愛〜

 気づけば、奈津は屋敷を飛び出していた。

 冷たい夜風が頬を刺す。
 けれど、あの場所にはいたくなかった。
 胸の奥が空っぽだった。

 洋司に裏切られたことも。
 後妻になれと言われたことも。
 全部もう、どうでもよかった。

 ただ、苦しかった。

 雪混じりの風が吹き抜ける。
 ふらふらと人気のない道を歩き続けるうち、奈津はいつの間にか、見知らぬ廃屋の前へ辿り着いていた。

 朽ちかけた木戸。
 崩れた塀。
 人の気配はない。

 こんな場所なら、少しくらい休んでも怒られないだろうか。
 そう思って足を踏み入れた、その時だった。

 ――ガタ。

 物音。
 奈津はびくりと肩を震わせる。

 暗がりの奥。
 何かが、うずくまっていた。

 「……っ」

 目を凝らした瞬間、息を呑む。

 それは、小さな妖だった。

 幼子ほどの姿。
 淡い金色の髪の間から、犬のような耳がぴんと覗いている。
 背後には、ふわりとした尾が弱々しく垂れていた。

 けれど、その愛らしい姿は、全身を覆う傷によって痛々しく歪められていた。

 着物は裂け、細い腕には無数の裂傷が走っている。
 今にも消えてしまいそうなほど弱っていた。
 涙に濡れた琥珀色の瞳が、怯えるように奈津を見上げている。

 今にも殺されると、そう分かっている目だった。

 奈津の胸が、きゅっと締め付けられる。

 ――同じだ。

 あの時の、小さな妖と。

 *
 
 ――十歳の“目覚めの儀式”の日。

 祓い屋の子どもは十歳になると、
 初めて儀式として妖を祓い、正式に“祓い屋”として認められる。

 奈津と綾乃の前には、二匹の小さな妖がいた。

 どこか面差しの似た、兄弟らしい幼い妖たち。
 
 縄で縛られ、怯えるように震えている。
 兄らしき妖は、幼い弟を庇うように前へ出ていた。
 
 「その刀で祓いなさい」

 父が言った。

 綾乃の刀は、美しい青の霊力をまとっていた。
 一方で奈津の刀に宿る力は、今にも消えてしまいそうなほど弱い。

 綾乃はためらわなかった。
 片方の妖へ、刀が振り下ろされる。

 赤い飛沫。

 弟らしき妖が、ひっと息を呑んだ。

 「んー、いい斬れ味!」

 綾乃は満足そうに笑った。

 「見事だ、綾乃!」

 父の声が響く。
 それから、奈津へ鋭い目が向いた。

 「何をしている、奈津。早くもう一匹を祓え」

 奈津は刀を握りしめた。

 兄を失った小さな妖が、琥珀色の瞳で奈津を見上げている。

 小さな身体は恐怖に震えていた。

 ぽろり、と。
 その瞳から涙が零れ落ちた。

 助けて。
 そう言っている気がした。

 奈津の喉がひゅっと震える。

 殺したくない。

 「早くしなさい!」

 苛立ちのこもった母の声が飛ぶ。

 奈津は泣きながら首を横に振った。

 「……できない」

 その瞬間。
 刀を包んでいたわずかな霊力が消えた。
 手の中の刀が、はらはらと崩れていく。
 
 この日以降、奈津は祓い屋としての能力を完全に失った。