「お前は……」
紫鬼が奈津を見る。
けれど次の瞬間。
ぶわり、と再び瘴気が溢れ出した。
「そんな……!」
コマが顔を青ざめさせる。
「癒し子様のお力でも駄目だなんて……!」
「――いえ」
静かな声が響いた。
奈津が振り向く。
いつの間にか、一人の男が前へ進み出ていた。
焦茶の長髪。穏やかに細められた目元。
額から伸びる鬼角は、青みを帯びた黒。
柔らかな灯りを受け、静かに艶めいている。
「効果はあるようです」
男は静かに言った。
見ると、先ほどまで室内を覆っていた瘴気は、明らかに薄くなっていた。
紫鬼の姿が、はっきり視認できるほどに。
紫鬼は自らの手を見下ろす。
「……そのようだな」
男は奈津へ向き直った。
「申し遅れました。私は九重と申します」
男はゆるやかに一礼した。
その所作は美しく、張り詰めていた空気をわずかに和らげる。
「どうか我が主のため、この屋敷へ留まり、お力をお貸しいただけませんか」
穏やかな声音だった。
けれど、その瞳の奥には切実な願いが滲んでいた。
奈津は戸惑う。
妖の屋敷に留まる。
それがどれほど危険なことなのか、奈津にだって分かる。
周囲の妖たちから向けられる視線は、明らかに歓迎のものではなかった。
「人間を屋敷に置くだと!?」
「あり得ない!」
「そうだ、人間なんて信用できるか!」
怒号が飛び交う。
奈津は思わず肩を震わせた。
やっぱり、ここにいてはいけないのではないか。
そんな不安が胸を過った、その時だった。
「――黙れ」
低い声が響く。
一瞬で、室内が静まり返った。
奈津ははっと顔を上げる。
紫鬼だった。
紫の瞳が、真っ直ぐ奈津を見据えている。
「人間」
低く静かな声。
「お前は、どうしたい」
奈津は息を呑んだ。
ここは妖の世界だ。
誰も助けてくれない。
何が起きても、おかしくない場所。
怖い。
けれど――。
苦しそうな紫鬼の姿が脳裏をよぎる。
あんなにも苦しんでいた。
それなのに、誰よりも強くあろうとしていた。
(助けたい)
そう、思ってしまったから。
奈津はぎゅっと拳を握る。
「……やります」
小さな声だった。
それでも、はっきりと続ける。
「……私が、お役に立てるのなら」
室内が静まり返る。
紫鬼はしばらく奈津を見つめていたが、やがて静かに目を伏せた。
「……好きにしろ」
それだけ言って、再び瘴気の奥へ身を沈めていく。
「紫鬼様!」
コマがほっとしたように顔を輝かせる。
一方で、周囲の妖たちは未だ納得していない様子だった。
奈津へ向けられる視線は鋭い。
けれど九重だけは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます、癒し子様」
そうして奈津は、妖たちの屋敷で暮らすことになった。

