「君では物足りない」と婚約破棄された翌朝、十年前に助けた隣国王太子に求婚されました


「君では物足りない」

 婚約者のガイウス様の口から、その一言が落ちた瞬間、私は手にしていたティーカップを音もなく受け皿に戻した。
 明かりの絞られた応接間に、彼の小さな咳払いだけが響いている。
 五年。私が伯爵家の令嬢として、カルディナの家紋を背負い、彼の隣に立つことを学んできた歳月だ。
 その五年が、たったいま、たった六文字の発言で終わろうとしていた。

「君は完璧すぎる、ヴィオレッタ」

 ガイウス様は私の顔を見ようとしない。
 暖炉の火だけが、彼の整った輪郭を朱色に染めて揺らしている。

「君は私が望むままに振る舞い、私が望むままに微笑み、私が望むままに沈黙してきた。それは令嬢の鏡だ。誰もが君を称賛する。私自身も、君を非のうちどころのない婚約者として、誇りに思ってきた。だが――」

 彼は一拍置き、視線をようやく私に向けた。

「だが、私は君と話しているとき、君と踊っているとき、君と並んで馬車に揺られているとき、いつも、誰か別の人と話しているような気がするのだ。君の中には、君自身がいない。私の心は、それでは満たされない」

 私は黙って聞いていた。
 五年の婚約期間のあいだ、私はガイウス様の声を遮ったことが一度もない。今夜もそれを覆すつもりはなかった。
 ただ、心の中で、ひとつだけ呟いた。
 ――それは、たぶん、半分は正しいですわ。
 私はあなたの望むままに振る舞ってきました。あなたが「もう少し控えめに」と言えば控えめに。「もう少し賑やかに」と言えば賑やかに。「もう少し笑顔を」と言われれば笑顔を。
 そうして、五年。
 私の中の私が、私の中で薄くなっていったのを、あなたは「物足りない」と呼ぶのですわね。

「だから、私は」

 ガイウス様の指が、上着の内ポケットへ伸びた。
 取り出されたのは、二つに折り畳まれた羊皮紙だった。両家の家紋――モンフォール侯爵家の鷲と、カルディナ伯爵家のスミレ――が、紙の上で並んで赤い封蝋に押されていた。
 私はそれを見て、ようやく静かに微笑むことができた。
 ――ああ。
 あなたはこれを、今夜のために用意してきたのですね。
 私が承諾するかどうかを、確かめにきたのではなかったのですね。
 もう、決めてあったのですね。

 ガイウス様は羊皮紙を私の前に滑らせた。

「婚約解消の同意書だ。両家の弁護士が形を整えた。君が署名すれば、明日には貴族会議に通知される」

 私はうなずいた。

「承知いたしました」

 一拍。

「……君は、何も言わないのか」

 ガイウス様の声が、ほんのわずか、揺れた。
 私はすでに、ペンスタンドから万年筆を取り上げていた。
 紫色の蝋燭の灯りで、ペン先のインクがほのかに光って見える。

「申し上げることは、ございませんわ」

 私はそう答え、羊皮紙の私の名を記す欄に、迷いなくサインを置いた。
 ヴィオレッタ・カルディナ。
 父が私に与え、五年間ガイウス様の隣で名乗ってきた、その名を。
 ガイウス様の喉が小さく鳴った。

「……ヴィオレッタ」

「ガイウス様も、どうぞ。お早いほうがよろしいでしょう」

 私は万年筆を彼のほうへ向けた。ペン先ではなく、握りの方を相手に差し出すのが、淑女としての作法だ。五年のあいだ、何度も繰り返した動作だった。
 ガイウス様は、その手を取らなかった。

「待ってくれ。少し――少し、考えてはくれないか」

「考えるべきことが、ございましたかしら」

 私の声は、自分でも驚くほどに穏やかだった。

「君は……君は、こんなにあっさりと、私を捨てるのか」

 ――それは私の台詞ではないかしら。
 心の中だけで、そう呟いた。
 ガイウス様は唇を引き結び、それから、震える指で万年筆を受け取った。
 鷲とスミレの紋の下に、彼のサインが落ちる。
 私は同意書をそっと折り畳み、立ち上がった。

「夜分に長くお邪魔をいたしました。お見送りは結構ですわ」

 応接間の扉を、自分の手で閉めた。
 廊下を歩く靴音は、いつもより静かだった。
 玄関で外套を受け取り、待たせていた馬車に乗り込む。
 御者には、いつもどおりの口調で行き先を告げた。
 自分の家へ。
 五年ぶりに、ただ自分の家へ、誰の隣でもなく帰る馬車だった。

 街灯の少ない夜の街路を、馬車は揺れながら進む。
 私は窓の外を眺め、それから、自分の手のひらに視線を落とした。
 万年筆を握っていた指先が、まだほんのわずかに、震えていた。
 ――五年。
 五年もの間、私が守ってきたものが、たった一晩で同意書一枚に変わったのだ。
 それでも、不思議と涙は出なかった。
 馬車がカルディナ伯爵家の門前に止まる。
 私は御者に礼を言って降り、屋敷へ続く石畳の上で、一度だけ夜空を見上げた。
 春の終わりの、薄い雲がかかった空だった。
 月は出ていない。
 ――これで、終わったのだ。
 そう、自分に向けて呟いた。
 まだ何も始まっていないことを、そのときの私は、知らなかった。

  ◇ ◇ ◇

 翌朝。
 朝食の席に着いたのは、いつもの三人だった。
 父であるカルディナ伯爵。母であるカルディナ伯爵夫人。そして、私。
 銀の食器が白いクロスの上で控えめに音を立て、窓から差し込む春の光が、紅茶のカップに琥珀色の影を作っていた。
 私は紅茶を一口含み、それから、卓上に同意書を置いた。

「お父様。昨夜、ガイウス様より婚約解消のお申し出を頂きました。両家のサインも済んでおります」

 父は新聞を取り落としそうになり、母は持ち上げかけたカップを途中で止めた。
 二人の視線が、揃って私の置いた羊皮紙へ向かう。
 鷲とスミレの紋の下、二つの名前が並んでいるのが、朝の光の中ではっきりと見えた。

「……ヴィオレッタ。これは、いったい」

「申し上げにくいのですが」

 私は紅茶のカップを受け皿に戻した。

「ガイウス様は、私では物足りない、と。長くお仕えしてきたのに、心が満たされないと、そう仰いまして」

 父の眉が寄った。
 ガイウス殿は何と、と呟こうとして、言葉を呑む。
 母は無言のまま、テーブルの下で、そっと私の手の甲を一度だけ撫でた。
 五年間、母が私にしてきたよりも、ずっと長い、一度だった。

「私は、即座にお受けいたしました。これ以上、お引き留めする理由がございませんでしたから」

「即座に、というのは」

「その場でサインを、ということでございます」

 父はしばらく羊皮紙を見つめ、それから、ゆっくりと視線を上げた。

「……お前は、本当に、それでよかったのか」

 私はうなずいた。
 言葉にすると、何かが崩れそうな気がしたからだ。

 そのときだった。
 ダイニングの扉が静かに叩かれ、白髪の執事クロードが入ってきた。
 五十を過ぎたクロードは、私が生まれた頃からこの家に仕えている。彼の歩幅は普段、廊下の絨毯一枚分と決まっていた。
 けれど今朝のクロードは、その一枚分よりも、半歩、速かった。

「旦那様。失礼いたします」

 クロードの声が、わずかに緊張していた。

「ご朝食中に、まことに恐縮ではございますが――レフトニア王国より、王太子殿下の使者を名乗る方が、表玄関にお越しでございます。同行は近衛が三名。馬車の家紋はレフトニア王家のもの、間違いございません」

 父の手から、新聞が完全に滑り落ちた。
 母も、紅茶のカップを置いた。
 そして、私だけが、なぜか――いまの今まで応接間で響いていた、ガイウス様の咳払いの音を、ふと思い出していた。

「使者、ではなく、ご本人がお越しでございます。お通ししてもよろしいでしょうか」

 クロードは続けた。

「アレクサンドロス王太子殿下、御自ら」

 父が立ち上がった。
 母も、ナプキンを置いた。
 私だけが、まだ椅子に座ったまま、自分の手のひらを見つめていた。
 昨夜、震えていた指先は、いまは静かだった。

「お通ししてください、クロード」

 私の声は、自分でも驚くほど自然だった。

 応接間――昨夜、ガイウス様と座っていたあの応接間――に、私は両親と共に通された。
 朝の光の入る応接間は、夜のそれとはまるで別の場所のように見えた。
 暖炉に火は入っていない。代わりに、紫色のクッションが、窓辺の椅子に並んでいるのが新鮮に見える。
 やがて扉が開き、クロードに先導されて、その方は入ってきた。

 黒い髪に、海の色の瞳。
 黒地に金の刺繍をあしらった、隣国レフトニアの王太子の正装。
 背は高く、歩幅は静かで、足音はほとんどしなかった。
 私は立ち上がり、淑女の礼をとった。

「カルディナ伯爵閣下、伯爵夫人、そしてヴィオレッタ嬢。突然の訪問、失礼いたします」

 王太子殿下――アレクサンドロス様、と心の中で呼んでみる――は、両親へ短く目礼してから、私の方へまっすぐに視線を向けた。
 視線が合った瞬間、私は奇妙な感覚を覚えた。
 初対面の方だ。私はこの方を、たしかに知らない。
 けれど、この方の瞳の色を、私はどこかで見たことがある。
 そう思った。

「ヴィオレッタ・カルディナ嬢」

 アレクサンドロス様は、私の名を、まるで久しく口にしてこなかった言葉を確かめるように、ゆっくりと呼んだ。

「ご無事と聞いて、参上しました」

 ――無事、というのは。
 私は心の中だけで首を傾げた。
 私は昨夜、婚約解消されただけだ。怪我をしたわけでもなければ、命を狙われたわけでもない。
 そもそも、隣国の王太子殿下が、伯爵家の一令嬢の婚約事情を、なぜご存知なのだろうか。
 父も同じことを思ったのだろう、低い声で口を開いた。

「殿下。誠に光栄ではございますが、その――無事、と仰せられるのは、いったい」

 アレクサンドロス様は、静かに微笑んだ。
 王族の威厳を保ちながらも、どこか、長い旅から戻った者の安堵が、その微笑には混じっていた。

「十年前の話を、させていただきたく存じます」

 十年前。
 父も、母も、視線を交わした。
 私だけが、まだその数字の意味を測りかねていた。

「十年前の春、私は十四歳でした。海洋会議への随行で、この国を訪問していた最中、王都とレフトニア国境の中間、カルディナ伯爵領の街道で、馬車の事故に遭いました」

 父の眉が、ゆっくりと上がっていく。
 私の記憶の奥で、何かが、薄く、ゆっくりと、動き始めた。

「車軸が折れ、馬車が街道脇の谷へ滑り落ちかけました。私は頭を強く打ち、意識を失いました。後で聞いた話では、近くを通りかかった伯爵家の馬車から、一人の少女が降りてきたそうです。少女は御者に救援を呼ぶよう指示し、自身は私の傍らで、私の名と家紋を覚え、それを街道警備の騎士たちに伝えました」

 ――ああ。
 私はその記憶を、ようやく一つ、思い出した。
 春の街道。曲がりくねった坂。横転した馬車。意識のない少年。
 父が「危ないから近づくな」と言うのを、私は無視して馬車を降りた。
 九つだった。
 私は、それが当たり前のことだと思っていた。誰かが倒れているなら、御者を呼ぶ、警備の方を呼ぶ、家紋を覚える、名を聞ける状態なら聞いておく。
 父に何度も叱られて覚えていた、礼儀作法の延長のような行動だった。
 私はその少年の顔を、ほとんど見ていなかった。
 血の色のほうが、強く印象に残っていたから。

「私はその少女の顔を覚えていません。意識がありませんでしたから。けれど、目を覚ました私の枕元には、彼女が伝えてくれた名前と家紋が、報告書として置かれていました――ヴィオレッタ・カルディナ嬢。銀のスミレの家紋」

 アレクサンドロス様は、そこで一度、言葉を区切った。
 そして、姿勢を正し、私だけを見て言った。

「以来、十年。私はあなたを、ずっと探しておりました」

 ――ずっと、探していた。
 その一言が、応接間の朝の光のなかで、まるで紙の上に落ちた羊皮紙のように、私の前に静かに置かれた。

「私は、あなたを覚えていないでしょう。あの日、あなたは私の顔をほとんど見ていないはずですから。けれど私は、報告書に書かれたあなたの名と家紋を、十年間、覚えていました」

 アレクサンドロス様は、ゆっくりと、頭を下げた。
 隣国の王太子が、他国の伯爵令嬢に対して、礼をとった。

「あの日のお礼を、十年遅れで申し上げに参りました。ヴィオレッタ嬢。あなたが九つで、私を救ってくださったことに、感謝いたします」

  ◇ ◇ ◇

 父と母が、ほとんど同時に息を吐いた。
 私だけが、まだ椅子に座ったままだった。
 ――十年遅れ、と仰せられたけれど。
 私はゆっくりと、心の中で繰り返した。
 ――十年も、なぜ。

「殿下」

 私はようやく口を開いた。
 礼を返すべきだとわかってはいたが、それより先に、聞いておきたいことがあった。

「お礼を仰せくださったのは光栄ですが、十年もの間、わたくしの名前と家紋をご記憶でいらっしゃったのに、なぜ今、お越しくださったのでしょうか」

 アレクサンドロス様は、姿勢を戻し、頭を上げた。
 そして、ほんの少しだけ、表情を緩めた。

「それは、こちらの落ち度です。お叱りを受ける覚悟で、申し上げます」

 アレクサンドロス様の声は、王族の威厳を保ったまま、しかし誠実に、一段だけ低くなった。

「事故から半年後、私は意識を取り戻し、すぐにあなたを探しました。けれど、隣国の伯爵令嬢への外交ルートを正式に通すには、当時の私にはまだ立場が足りなかった。母国レフトニアでは、私の叔父が王太子の座を望み、長く継承争いが続いていました。私はその争いを収めるために、十年のほとんどを、母国で費やしました」

 ――継承争い。
 私はその言葉の重みを、すぐには測れなかった。
 海洋国家レフトニアの政治事情を、私は社交界で耳にする程度しか知らない。けれど「十年のほとんど」という言い方の重さは、聞き慣れぬ国の名でも、伝わるものがあった。

「叔父との和解が成り、私の即位が正式に決定したのが、半年前のことです。それから私は、十年前の探索を再開しました。あなたが伯爵家の正式な令嬢として婚約中であることを、レフトニアの外交網はすでに把握しておりました。私はあなたが婚約者と幸せに過ごしておられるのなら、礼状を送るだけに留めるつもりでした」

 アレクサンドロス様は、視線を私から外さなかった。

「しかし、昨夜遅く、私のもとへ早馬の知らせが届きました。モンフォール侯爵令息ガイウス殿が、ヴィオレッタ・カルディナ嬢に婚約解消を申し入れた、と。両家のサインも済んだ、と」

 父が、低く呻いた。
 隣国の外交網の速さに対する驚きと、娘の婚約解消が他国の王太子の耳に届いたことへの困惑が、その呻きには混ざっていた。
 私は、不思議と落ち着いていた。
 むしろ、ようやく腑に落ちた、と思っていた。
 ――昨夜、私がサインをした時、ガイウス様の喉が小さく鳴ったあの音は、たぶん、別の意味だったのですわね。
 彼は彼で、何かを失っていた。
 私はその意味を、今になって、ようやく理解した。

「私はその知らせを受けて、夜のうちに馬車を仕立てさせ、国境を越え、こちらへ参りました。礼を申し上げるのは、十年前の事故への礼です。これは正式な訪問理由です」

 アレクサンドロス様は、そこで初めて、少し言葉を選んだ。
 そして、姿勢を正し直し、私の父――カルディナ伯爵に対して、王族としてのまっすぐな視線を向けた。

「ですが、伯爵閣下。本日、私がもう一つ、申し上げたいことがございます」

 父は、何かを察したのだろう。
 静かにうなずき、椅子から少しだけ姿勢を正した。

「ヴィオレッタ・カルディナ嬢に、求婚を申し上げたく存じます」

 ダイニングの方から、遠くで、銀の食器が片付けられる音がした。
 朝の応接間の中で、その音だけが、現実の側に残っていた。
 私はゆっくりと、まばたきを一つした。
 ――求婚。
 さっき、ガイウス様との間で羊皮紙にサインをしたばかりの単語が、私の耳に、まるで違う形で戻ってきた。

「殿下。それは――」

 父は言葉を続けようとして、止めた。
 王太子殿下に対して、まず確認すべきことを、たぶん父はいくつも数えただろう。隣国レフトニアでの私の身分、政治的な意味、両国の関係。
 だが、結局父が選んだのは、最も親としての一言だった。

「娘の意志を、お聞きいただけますでしょうか」

 アレクサンドロス様は、深くうなずいた。

「もちろんです。ヴィオレッタ嬢のお返事を、まず伺いに参りました」

 視線が、私に戻った。
 父も、母も、私の方を見ていた。

 ――私は、何を欲しているのだろう。
 五年間、私はそれを考えたことがなかった。
 ガイウス様の望みを叶えること。婚約者として完璧に振る舞うこと。両家のために、波風を立てぬこと。
 それが私の欲求だと、ずっと思い込んできた。
 けれど昨夜、ガイウス様の「物足りない」という一言が、私の中の私を、ようやく自由にしたのかもしれなかった。

 ――この方は、十年間、私を覚えていてくださった。
 ――この方は、私の顔を知らないままに、私という存在を探していてくださった。
 ――この方は、私が「完璧な婚約者」だったから、私を選んでくださったのではない。

 そうだ。
 アレクサンドロス様の知っているヴィオレッタ・カルディナは、五年間ガイウス様の隣で完璧に振る舞った私ではない。
 ただ、九つで、街道脇の谷で、横転した馬車の少年に水を運ぼうとした、その私だ。

 私は、少し笑いそうになった。
 ――それなら。
 ――それなら、わたくしは、ようやく、自分の答えを言ってもよいのですわね。

 私は、立ち上がった。
 立ち上がる前と後で、私の足の重さが、少しだけ違っていた気がした。

「殿下」

 私は淑女の礼をとった。
 五年間、何度も繰り返した、けれど、今朝のそれは、私の意志のためにとった、初めての礼だった。

「お受けいたします」

 アレクサンドロス様の青い瞳が、ほんの一瞬、わずかに揺れた。
 王族の威厳を保ったまま、けれど、その一瞬だけ、十四歳で意識を失った少年の素顔が、そこに見えた気がした。

 アレクサンドロス様は、私の前に進み出て、片膝をついた。
 そして、私の右手を、両手で、そっと包んだ。

「光栄に存じます、ヴィオレッタ・カルディナ嬢」

 王太子殿下の指は、思っていたよりも温かかった。
 昨夜、ガイウスの差し出さなかった手の感触が、私の指先には残っていなかった。
 私は、自分の左手を、そっと、アレクサンドロス様の手の上に重ねた。
 五年間、誰にも握り返さなかった私の指先が、ようやく、誰かの手を握っていた。

  ◇ ◇ ◇
 数日後の朝。
 王都の朝刊は、社交欄の片隅にこう短く伝えていた。

「カルディナ伯爵令嬢、レフトニア王太子殿下の婚約者として迎えられる。婚約解消より僅か一日」

 その活字を、モンフォール侯爵家の朝食の卓で、誰が、どんな手で握り潰したかは、わたくしの知るところではない。

 まだ朝日が街並みの東の輪郭をなぞり始めたばかりの時刻に、私は、生まれ育ったカルディナ伯爵邸の正面玄関に立っていた。
 旅装は隣国の流儀に合わせ、淡い青のドレスに黒の外套を重ねている。アレクサンドロス様が選んでくださった、レフトニアの王族婚約者として相応しい一式だった。

 父と母は、玄関前の石段の上で、私を見送っていた。
 父は何度も言葉を始めて、何度も止めた。
 母は、私の頬に一度だけ手を当て、それから外した。
 五年間、私の頬にこうして触れたことのなかった母の手は、思っていたよりも、薄かった。

「お父様、お母様」

 私は淑女の礼をとった。
 これも、私の意志でとった礼だ。

「いってまいります」

 父は、ようやく、一言だけを返した。

「達者でな、ヴィオレッタ」

 ありふれた、けれど、五年間ガイウスの隣で名乗ってきたあの「ヴィオレッタ・カルディナ」へ向けられた言葉ではなかった。
 父はそのとき、たしかに、私という一人の娘へ、その言葉を投げてくれていた。
 私は、それだけで、もう涙が出そうになった。
 けれど淑女として、私は微笑みだけを返した。
 執事のクロードが、深く頭を下げる。

「お嬢様。お元気で」

「ありがとう、クロード。お父様とお母様を、お願いね」

 馬車には、すでにアレクサンドロス様が待っていらした。
 黒地に金の装飾。海洋国家レフトニア王家の馬車。
 内装は青――海の色をした布地で覆われていた。
 アレクサンドロス様は、私が乗り込むのに合わせ、ご自身の手で扉を支えてくださった。

「冷えますか」

 アレクサンドロス様は、馬車が動き出してから、最初にそう仰った。
 王太子殿下の最初のお言葉が、寒さの心配であることに、私は少し笑ってしまった。

「いいえ。春の朝の冷たさは、好きな方ですわ」

「それは何より」

 アレクサンドロス様は、軽くうなずき、それから、青い瞳を窓の外へ向けた。
 馬車は伯爵家の門を抜け、私が五年間ガイウスの屋敷へ通った道とは、反対側の街道を進み始めた。
 五年間、私は東の街道ばかりを見てきた。今朝の馬車は、西の街道を、まっすぐに進んでいた。

 街並みが切れ、農地が広がり、その向こうに、薄く朝日に染まった山並みが見えた。
 山の向こうは海だ。
 海の向こうがレフトニアだ。
 ――遠い、と思った。
 五年間、ほとんど王都とモンフォール侯爵領の間しか知らなかった私にとって、海の向こうの国は、まだ言葉でしかない。

「レフトニアでは、王太子妃となる方が外国出身であることは、初めてではありません」

 アレクサンドロス様は、私の心の遠さを察してくださったのだろう、ゆっくりと話し出された。

「私の祖母も、隣の山国の出身でした。最初の数年はお苦しいことも多かったと、母から聞いております。けれど祖母は、海洋国家の侍女頭にこう言ったそうです。『海の音だけは、どこの国の朝でも、同じだ』と」

 私は、王太子殿下の横顔を見た。
 朝日が、その整った輪郭を、昨夜ガイウスの輪郭を朱色に染めた暖炉の火とは、まるで違う光で照らしていた。

「海の音、ですか」

「ええ。レフトニアの王宮の窓は、すべて海に向かって開いています。朝になれば、必ず海の音が聞こえる。あなたが寝起きの心細さに気づかれぬよう、最初の数日は、私もできるだけ近くにおります」

 ――この方は。
 私は心の中で、ようやく、一つの言葉に辿り着いた。
 ――この方は、十年間、私を覚えていてくださった上に、私がまだ知らない国での朝の心細さまで、すでに気にかけてくださっている。

 五年間、私は、ガイウスの朝の機嫌ばかりを気にしていた。
 誰かに気にかけられる、ということが、こんなに静かで、こんなに温かいものだったとは、私は本当に知らなかった。

「ヴィオレッタ」

 アレクサンドロス様は、不意に、敬称を外して、私の名を呼んだ。
 馬車の中に、その一音が、薄い陽だまりのように落ちた。

「もし、レフトニアの暮らしのなかで、何か『物足りない』と感じることがあれば」

 私の心の中で、何かが、止まった。

「どうか、私に言ってください。五年間の婚約のあいだに我慢されてきたことを、私のところで、もう一度繰り返されることのないように」

 私は、王太子殿下――いえ、アレクサンドロス様の方を見た。
 王太子殿下の青い瞳は、私を、ただまっすぐに見てくださっていた。

「……はい」

 私はうなずいた。
 それから、勇気を出して、もう一言だけ添えた。

「あなたのお名前を、わたくしも、いつかは、敬称なしでお呼びしてもよろしいでしょうか」

 アレクサンドロス様は、一瞬、目を丸くされた。
 それから、ゆっくりと、十四歳で意識を失った少年の素顔の方の微笑みで、答えてくださった。

「もちろんです。私の方は、もうあなたを、ヴィオレッタとお呼びしてしまいました」

 馬車は、街道を西へ進む。
 朝日が完全に昇り切り、丘の向こうから、最初の鳥が鳴いた。

 私は、自分の右手を、もう一度、アレクサンドロス様の手の上にそっと置いた。
 アレクサンドロス様は、その手を、昨日と同じように、両手で包んでくださった。
 ――あの夜の、「君では物足りない」という一言が。
 ――私を、この馬車の中まで、連れてきたのだ。

 そう、私は、心の中で結んだ。
 馬車の小窓から流れ込んでくる風には、たしかに、薄く、春の終わりの薔薇の香りが混じっていた。

 私はその香りを、忘れないだろう。