「おっはようございまーす!」
秋の大会まで残り三週間を切った。体育館に一番乗り……のはずが、
「おはよ」
屈伸運動しながら鳴神先輩が待ち受けていた。しかも既に全コートにネットが張ってある。
ここ最近ずっとこの調子だ。どんな早く来ても先輩の方が一歩早い。
「いつも何時に来てるんですか?」
「校門が開く七時ごろだ。新聞配達を終えてから来ると大体同じ時間になる」
「え! 朝もバイトしてるんですか?」
「いいトレーニングになるからな。……さて、今日も一緒にストレッチしよう」
床に寝そべり、足や腕の筋肉を丁寧にほぐしていく。バドミントンは一歩でいかに距離を伸ばし、いかに早く定位置に戻るかが重要な競技だ。ケガ予防の観点からも柔軟性があるに越したことはない。
開脚すると先輩は上半身がぴたりと床に着いた。
「うわっ、羨ましい。おれ全然開かないんですよね。硬いみたいで」
「押してやるよ」
背中に手を置いて、ぐー、と優しく押してくる。痛いけど気持ちいい。
「息を止めないように、ゆっくり深呼吸。太腿の内側を意識して」
「はぃい……うぐっ……」
手のひらが床に着いた。もうこれ以上はムリだ。きつい。やめたい。だけど先輩の手が離れるのがイヤで、無理して踏ん張った。
「離すか?」
「いや、もうちょっと平気です」
「そうか。じゃあ遠慮なく」
笑いながらもしっかり背中を支えてくれている。
「ふと考えたんだが、サーブを打つときのハンドサインを新たに決めないか?」
「ショートなら親指、ロングなら人差し指を立ててペアに合図送るやつですよね?」
「ああ。部では誰がペアになってもいいように共通のハンドサインだが、俺たちにはその必要性がない。自分たちだけが分かるサインがあってもいいと思うんだ」
先輩との秘密のハンドサイン。――いい! ほしい!
「いますぐ決めましょう!……あ、痛たたた……」
バッと上半身を起こした途端、背中に激痛が走った。さすがに無理しすぎた。
「悪い。力加減ができてなかった。大丈夫か? 痛いか?」
先輩が心配そうに背中をさすってくれる。
完全に自業自得なんだけど先輩とくっついていると痛みが和らぐ気がする。このままでもいいやって頭のどこかで考える。先輩に会ってからの自分はちょっとおかしい。
「運ぶぞ。動くなよ」
「へ?」
膝の下に手を差し入れられたと思ったら、ひょいっと体が浮いた。うそだろ、お姫様抱っこじゃないか。おれだって体重60キロくらいあるのに。
「ひゃ、落ちるっ!」
不安定な体勢が怖くて思わず先輩の首に抱きついた。
「絶対に落とさない。俺の大事なペアだ」
安心させるように笑いかけてくる。間近で見るイケメンの笑顔は破壊力抜群だ。
そのまま壁際まで運ばれる。先輩は「ちょっと待っていろ」と体育館から出て行き、しばらくしてキンキンに冷えた保冷剤を持って戻ってきた。
「保健室でもらってきた」
自分のタオルでくるくると巻いて壁と背中の間に差し入れる。うう、冷たい。
「これで患部を冷やして様子をみよう。念のため朝練には参加しないで見学した方が良さそうだな」
「大げさですよ。ちょっと痛かっただけで、もう平気です」
「だめだ」
そっと頬を包まれる。
先輩の目は真剣そのものだ。
「少しの違和感を放置すれば大ケガにつながる恐れがある。試合に出られないだけでなく、最悪の場合は人生を棒に振る可能性だってあるんだ。俺は相棒として口うるさく言う権利がある」
「……はい」
強い眼差しに気圧されて素直に頷くしかなかった。
「迷惑かけてすみません。ありがとうございます」
「気にするな。当たり前のことだ」
目尻が下がり、表情が優しくなる。
先輩は優しい。だれよりもおれのことを心配してくれている。――大事な『ペア』だから。
ちく、と胸が痛んだ。
もしおれがペアじゃなかったらこんなに優しくしてくれないだろう。
もし大会が終わってペアを解消したら、先輩は……。
「なぁ、保志」
おれの名前を呼ぶ声が少しだけ上ずった。
頬に添えられた手が耳の上あたりの髪をすくう。先輩はどこか切なそうに目を細めていた。
「ずっと言いたいことがあったんだが」
「おれに? 少し前に会ったばかりですよね?」
いや、ちがう。
「初対面ですよね?」という問いかけに「さぁな」とはぐらかした。もっと前から知っていたのかもしれない。
「保志。俺は――」
紡がれる言葉を息を詰めて待っていると、
「おっはよー! あ、今日も早いなぁ」
タイミング悪く伊吹部長が現れた。
「新婚ペアが朝からイチャイチャしてるなぁ。熱い熱い」
ピュウッと口笛を吹いて揶揄ってきた。
「し、新婚ペア!?」
予想外の言葉に体が熱くなった。同時に背中の痛みも強くなる。
いや冗談だろ。おれと先輩は期間限定のペアで、ただの先輩後輩だ。
「くそ、間が悪い」
苛立ったように立ち上がると大股で部長に近づいて行った。
「保志は背中を痛めたらしい。朝練は見学させる」
「マジで? 大丈夫か?」
身を乗り出しておれの様子を見ようとするのを片手で制する。
「俺が様子を見るから平気だ。おまえは近づくな」
「ぶーぶー独り占めかよ。ずるいぞ」
「ペアとして当然のことだ」
雲行きが怪しい。また以前みたいに険悪ムードになったら……と心配で見守っていると先輩はシャトルを手にコートを示した。
「ところで涼太、大会でシングルスにも出場するんだろう。久しぶりに俺と打たないか?」
「え。ユッキーと……!?」
ぎくっとしたように顔を引きつらせた。
「いやぁ、ちょっとオレ腹の具合が悪くて……」
遠目に見ても焦っているのが分かる。たしか部長ってダブルスだけじゃなくシングルスもかなり強いはずだけど。
先輩は凄みのある笑顔でぐいぐい迫る。
「問題ない。一ゲームだけだ。十分以内に終わらせる。すぐだ」
「ちょちょちょ、なんか顔が怖いんだけど。ユッキーもしかしてキレてる?」
「キレてない。ただの憂さ晴らしだ」
「八つ当たりじゃねぇか!!」
かくして、部内イチの実力者である部長と幽霊部員の先輩のシングルスが行われることになった。
秋の大会まで残り三週間を切った。体育館に一番乗り……のはずが、
「おはよ」
屈伸運動しながら鳴神先輩が待ち受けていた。しかも既に全コートにネットが張ってある。
ここ最近ずっとこの調子だ。どんな早く来ても先輩の方が一歩早い。
「いつも何時に来てるんですか?」
「校門が開く七時ごろだ。新聞配達を終えてから来ると大体同じ時間になる」
「え! 朝もバイトしてるんですか?」
「いいトレーニングになるからな。……さて、今日も一緒にストレッチしよう」
床に寝そべり、足や腕の筋肉を丁寧にほぐしていく。バドミントンは一歩でいかに距離を伸ばし、いかに早く定位置に戻るかが重要な競技だ。ケガ予防の観点からも柔軟性があるに越したことはない。
開脚すると先輩は上半身がぴたりと床に着いた。
「うわっ、羨ましい。おれ全然開かないんですよね。硬いみたいで」
「押してやるよ」
背中に手を置いて、ぐー、と優しく押してくる。痛いけど気持ちいい。
「息を止めないように、ゆっくり深呼吸。太腿の内側を意識して」
「はぃい……うぐっ……」
手のひらが床に着いた。もうこれ以上はムリだ。きつい。やめたい。だけど先輩の手が離れるのがイヤで、無理して踏ん張った。
「離すか?」
「いや、もうちょっと平気です」
「そうか。じゃあ遠慮なく」
笑いながらもしっかり背中を支えてくれている。
「ふと考えたんだが、サーブを打つときのハンドサインを新たに決めないか?」
「ショートなら親指、ロングなら人差し指を立ててペアに合図送るやつですよね?」
「ああ。部では誰がペアになってもいいように共通のハンドサインだが、俺たちにはその必要性がない。自分たちだけが分かるサインがあってもいいと思うんだ」
先輩との秘密のハンドサイン。――いい! ほしい!
「いますぐ決めましょう!……あ、痛たたた……」
バッと上半身を起こした途端、背中に激痛が走った。さすがに無理しすぎた。
「悪い。力加減ができてなかった。大丈夫か? 痛いか?」
先輩が心配そうに背中をさすってくれる。
完全に自業自得なんだけど先輩とくっついていると痛みが和らぐ気がする。このままでもいいやって頭のどこかで考える。先輩に会ってからの自分はちょっとおかしい。
「運ぶぞ。動くなよ」
「へ?」
膝の下に手を差し入れられたと思ったら、ひょいっと体が浮いた。うそだろ、お姫様抱っこじゃないか。おれだって体重60キロくらいあるのに。
「ひゃ、落ちるっ!」
不安定な体勢が怖くて思わず先輩の首に抱きついた。
「絶対に落とさない。俺の大事なペアだ」
安心させるように笑いかけてくる。間近で見るイケメンの笑顔は破壊力抜群だ。
そのまま壁際まで運ばれる。先輩は「ちょっと待っていろ」と体育館から出て行き、しばらくしてキンキンに冷えた保冷剤を持って戻ってきた。
「保健室でもらってきた」
自分のタオルでくるくると巻いて壁と背中の間に差し入れる。うう、冷たい。
「これで患部を冷やして様子をみよう。念のため朝練には参加しないで見学した方が良さそうだな」
「大げさですよ。ちょっと痛かっただけで、もう平気です」
「だめだ」
そっと頬を包まれる。
先輩の目は真剣そのものだ。
「少しの違和感を放置すれば大ケガにつながる恐れがある。試合に出られないだけでなく、最悪の場合は人生を棒に振る可能性だってあるんだ。俺は相棒として口うるさく言う権利がある」
「……はい」
強い眼差しに気圧されて素直に頷くしかなかった。
「迷惑かけてすみません。ありがとうございます」
「気にするな。当たり前のことだ」
目尻が下がり、表情が優しくなる。
先輩は優しい。だれよりもおれのことを心配してくれている。――大事な『ペア』だから。
ちく、と胸が痛んだ。
もしおれがペアじゃなかったらこんなに優しくしてくれないだろう。
もし大会が終わってペアを解消したら、先輩は……。
「なぁ、保志」
おれの名前を呼ぶ声が少しだけ上ずった。
頬に添えられた手が耳の上あたりの髪をすくう。先輩はどこか切なそうに目を細めていた。
「ずっと言いたいことがあったんだが」
「おれに? 少し前に会ったばかりですよね?」
いや、ちがう。
「初対面ですよね?」という問いかけに「さぁな」とはぐらかした。もっと前から知っていたのかもしれない。
「保志。俺は――」
紡がれる言葉を息を詰めて待っていると、
「おっはよー! あ、今日も早いなぁ」
タイミング悪く伊吹部長が現れた。
「新婚ペアが朝からイチャイチャしてるなぁ。熱い熱い」
ピュウッと口笛を吹いて揶揄ってきた。
「し、新婚ペア!?」
予想外の言葉に体が熱くなった。同時に背中の痛みも強くなる。
いや冗談だろ。おれと先輩は期間限定のペアで、ただの先輩後輩だ。
「くそ、間が悪い」
苛立ったように立ち上がると大股で部長に近づいて行った。
「保志は背中を痛めたらしい。朝練は見学させる」
「マジで? 大丈夫か?」
身を乗り出しておれの様子を見ようとするのを片手で制する。
「俺が様子を見るから平気だ。おまえは近づくな」
「ぶーぶー独り占めかよ。ずるいぞ」
「ペアとして当然のことだ」
雲行きが怪しい。また以前みたいに険悪ムードになったら……と心配で見守っていると先輩はシャトルを手にコートを示した。
「ところで涼太、大会でシングルスにも出場するんだろう。久しぶりに俺と打たないか?」
「え。ユッキーと……!?」
ぎくっとしたように顔を引きつらせた。
「いやぁ、ちょっとオレ腹の具合が悪くて……」
遠目に見ても焦っているのが分かる。たしか部長ってダブルスだけじゃなくシングルスもかなり強いはずだけど。
先輩は凄みのある笑顔でぐいぐい迫る。
「問題ない。一ゲームだけだ。十分以内に終わらせる。すぐだ」
「ちょちょちょ、なんか顔が怖いんだけど。ユッキーもしかしてキレてる?」
「キレてない。ただの憂さ晴らしだ」
「八つ当たりじゃねぇか!!」
かくして、部内イチの実力者である部長と幽霊部員の先輩のシングルスが行われることになった。

