コントロール

1999年3月2日。千葉県郊外の埋立地から、ドラム缶に入れられた少年の死体が見つかった。死因は出血多量によるショック死。すでに腐敗がすすんでおり、顔の見分けもつかなくなっていたが、ひどく痩せて皮下脂肪が半分以下に減少しており、頭髪がほとんどなかった。これは長期間いたぶられたストレスが原因で抜け落ちたものと思われる。股間はいちど剃られ、そのあとで伸びた短い毛に覆われていて、肛門にはテニスボールが挿入されていた。
 被害者となった少年は篠原充さん。都内の大学に通う学生で、20歳の誕生日を迎えたばかりだった。実家は栃木にあり、進学を機に上京、練馬区のアパートにひとりで住んでいた。
 ただちに初動捜査が開始され、ふたりの容疑者が浮かび上がった。檜垣光彦と阿部栄治であった。ふたりはともに21歳のフリーターで、檜垣はガソリンスタンド、阿部はコンビニエンスストアでアルバイト店員として働いていた。どちらの家庭にも軽視しかねる問題があり、阿部は高校を2か月で中退、檜垣はかろうじて四年制大学に進学していたが、これもすぐに出席しなくなり、休学あつかいになっていた。ふたりとも、典型的な不良少年である。
 檜垣のアパートの部屋の窓から被害者らしき人物の顔を見た気がするという近隣の住民からの通報がきっかけだった。檜垣とつねに行動をともにしていた阿部も事件への関与を疑われた。前科のないふたりは、揃って犯行を否定したが、檜垣の部屋を調べると、ふたりのものとは明らかに異なった頭髪や指紋の数々が発見され、捜査の結果、これらの科学的特長は被害者のものと一致した。
 警察は檜垣と阿部を卑猥誘拐・略取、監禁、強姦、殺人の容疑で逮捕した。もはやいい逃れしようのない決定的証拠をつきつけられ、ふたりの容疑者はさすがに観念したらしかった。まずは檜垣が犯行を認める供述をはじめ、つづいて阿部も少しずつ真相を口にするようになった。
 被害者はすくなくとも30日以上監禁されていたと見られ、全身のあらゆる場所に裂傷、火傷、打撲の痕跡があった。とりわけ肛門周辺はひどく傷つけられていて、無理な肛門性交の可能性が指摘された。
 担当刑事にこのことを尋ねられると、阿部は強姦の事実をあっさりと認めた。以下は、阿部とわたしとの4度目の接見でのやりとりである。

松本:きみたち、つまり、きみと檜垣のふたりは、はじめから篠原さんを狙っていた?
阿部:はじめからってわけじゃない。あの日、おれたちは……
松本:1999年1月8日だね。
阿部:さあ。おぼえてない。そう調べたんなら、そうなんだろ。とにかく、おれたちは暇してたんだ。バイトもうざったくて、むしゃくしゃしてた。だれか攫って、やっちまおうって話してたんだ。
松本:つまり、殺してしまおうと?
阿部:まさか。そんな気はなかった。ちょっと遊んで、飽きたら帰してやるつもりだったよ。ただあいつが……この話、もうちょっと先のほうがいいかな。あんた、どう思う?

 心理分析官としてはじめて出向いたときから、阿部はあからさまにわたしを見下した態度を取った。接見の間は終始居丈高な口調でわたしを挑発した。
 反対に、檜垣は一見して小心者とわかる線の細い儚げな印象の青年で、わたしの質問の意味をはかりかねて首を捻ったり、自分の主張すべきことをうまく表現できずに癇癪を起こしたりした。

松本:獲物を探していたとき、ちょうど被害者が自転車で通りすがった。間違いないかな?
檜垣:間違いありません。
松本:まずきみが赤信号で停止した自転車に横から体当たりして、転倒した被害者を阿部が助け起こした。
檜垣:そう……だったと思います。
松本:被害者は怪我を?
檜垣:たぶん。
松本:負傷した被害者を手当するといって、きみのアパートに連れ込んだ。
檜垣:うちがちかかったから。
松本:それは阿部の指示?
檜垣:ふたりで相談して……だいたい、いつもそこで遊んでたから。
松本:きみの部屋で、きみと阿部はいつもなにをしていた?
檜垣:だから、遊んでたんだよ。テレビ見たり、漫画読んだり……。
松本:質問を変えようか。きみたちはいわゆる恋人同士の関係だった?
檜垣:(沈黙)。

 檜垣と阿部の実家は歩いても10分かからないほどの近所にあった。幼少時代からつねに行動をともにし、それぞれほかの友人と親しくなることはなかったという。檜垣が高校に通いはじめたとき、親密な関係になりかけた女生徒がいたが、そのことを知った阿部は烈火のごとく激怒した。彼はすでに高校を自主退学していたが、学校に押しかけて、その女生徒を校舎から引きずり出し、髪を切断、顔面を殴打するなどして、警察に補導されている。目撃した元同級生は、その様子を「鬼のよう」だったと証言している。しかし、一部始終を見ていた檜垣は、阿部を制止するどころか、いかにも嬉々とした表情で友人の暴力を観察していたということで、暴力そのものよりもむしろそちらのほうが不気味だったと元同級生たちは口を揃えた。「喜んでるっていうより、勝ち誇ってる感じだった。ひょっとして、最初から阿部にやきもちを妬かせる目的で彼女を利用したんじゃないかな」という証言は、非常に興味深い。
 これらの証言から、ふたりの関係が一般的な幼馴染のものとは大きく異なっていたことがわかる。近所の公園で人目を憚ることなく接吻している様子を目撃したという証言もあった。物腰もやわらかく、整った顔立ちで、いかにも女性に人気のありそうな檜垣と、大柄で足が短く、お世辞にも美男子とはいいがたい阿部との情事は想像しづらいが、前述のとおり、ふたりはそれぞれに決して幸福とはいえない家庭に育っており、孤独な少年同士の強い絆が、同性愛に発展したのだろう。しかも、その関係はお世辞にも対等なものとはいえなかったようだ。

松本:檜垣のことをどう思う?
阿部:どうって……いい奴だよ。
松本:好きかい?
阿部:まあ、嫌いじゃないよな。なんだかんだで、付きあい長いしよ。
松本:被害者の少年と、どっちが好きだった?
阿部:あんた、なにがいいたいんだよ?
松本:べつに、深い意味はないんだ。ただ、気になってね。
阿部:なにが?
松本:きみは被害者を殺す気はなかったといった。それなのに、なぜ被害者は死ななければならなくなったんだ?
阿部:それは前のデカにもいったぜ。あのガキが勝手に死んだんだ。
松本:ついやりすぎた?
阿部:まあな。
松本:どちらが?
阿部:それは、どっちもだよ。
松本:強姦も、ふたりでしたのかな?
阿部:交換ずつな。ふたりいっぺんに入れたこともあったぜ。
松本:なるほど。
阿部:だから、なにがいいたいんだよ。

松本:被害者を監禁している間、きみたちが日常的に被害者に暴力をふるったことはすでに聞いてる。ただ、被害者を死なせたのは、なにか衝動的な力が働いたせいじゃないかと思うんだ。
阿部:馬鹿馬鹿しい。おれたちはそんなことよりも二輪挿しのほうに興味があったんだ。
 阿部は基本的に冷静な態度を崩さなかったが、つねに主導権を握っていなければ気が済まないタイプらしく、わたしが故意に会話を誘導しようとすると、素早く話を逸らしてしまった。身長190センチを越える彼を相手に、はじめのうちはすくなからず緊張したが、わたしに危害をくわえる気が彼にないことはすぐにわかった。威嚇したり挑発したりといった動作はあくまでもこちらを攪乱するための見せかけにすぎず、実際の彼は周囲が想像する以上に冷徹極まりない性格なのだった。
 わたしは檜垣の側から攻めることにした。

松本:被害者に暴力をふるっているとき、なにを感じた?
檜垣:べつに……あれはものといっしょだったから。
松本:そういった発言は控えたほうがいい。裁判で不利になるよ。
檜垣:だって、風呂にもトイレにも行けてなかったから臭かったし。それに、栄治がそういったんだ。
松本:ものといっしょだって?
檜垣:そう。あいつは人間じゃないって。人形だって。だから、べつに気にしなくていいんだって。
松本:彼はいつもそんな感じなのかな。ほかの人間に対しても?
檜垣:だいたいは。
松本:きみに対してはどうかな。
檜垣:ぼくにはやさしいよ。
松本:殴ったりはしない?
檜垣:そういうこともあるけど、あいつがきてからは、ほとんどなくなった。お互いに、むかついたときは、あいつにあたるようにしてたから。
松本:殴ったり、レイプしたり?
檜垣:まあ、そうかな。
松本:阿部が彼をレイプしているとき、きみはいっしょにいたんだろう。
檜垣:そう。
松本:それを見ていて、どう思った?
檜垣:どうって……?
松本:嫉妬はしないのかな?
檜垣:ああ、そういうことはなかった。ぼくたちは、そういうのはないんだ。
松本:つまり、ほかのカップルとはちがうと?
檜垣:そう。あらゆる意味でね。
松本:しかし、彼は最終的に被害者を殺したのはきみだといったよ。
檜垣:それは嘘だ。
松本:そこまで即答できるのは、事実とちがうからかな。殺害にいたる暴力は彼がおこなったものだと?
檜垣:悪いけど、今日はもうこれで終わりにしてください。

 自白後も裏づけ捜査はつづけられた。おもに主犯を絞り込むための聞き込みである。ふたりの幼少時代をよく知る保育士の中年女性の証言を以下に書き記す。
「あのふたりがねえ……今でも信じられませんよ。栄治くんは体が小さくて、しょっちゅう風邪を引いたり、貧血を起こしたりする病弱な子だったから、光彦くんを頼ってね、ミツくん、ミツくんって、いつも光彦くんのあとを追いかけて歩いていたもんですよ」
 身体的なハンディキャップを抱えた子供が、成長して鬱屈したストレスを破壊衝動に変化させるのはよくあることだ。被害者もしくは共犯の檜垣の言動が阿部の逆鱗に触れたことを殺害動機と考える説がメディアの間でまことしやかに流れたが、わたしの意見はちがっていた。

松本:ちょっと下世話なことを聞いてもいいかな。
阿部:あんたの口からか。おもしろいね。
松本:きみの好きなタイプを教えてほしいんだ。
阿部:おれの?
松本:そう。外見的なことでも、内面的なことでもいい。
阿部:そうだな……なんでもいうことを聞く奴かな。
松本:男女問わず?
阿部:見た目ももちろん重要だ。ブスの人形じゃ、売れないだろ?
松本:きみは人形がほしかったのか。自分の思い通りになる人形が。
阿部:厳密にいうと、ちがう。意志がないんじゃつまらないからな。
松本:それじゃ、檜垣はベスト・パートナーだな。
阿部:そうでもない。あいつはなんでもおれのいいなりだからな。今じゃ、おれのいうことはなんでも聞くだろう。死ねといえば死ぬはずだ。
松本:だから、いじめがいのある人間を探した?
阿部:結果的にはそういうことになるかもしれない。

 阿部の口から決定的な証言を得ることはできなかったが、ふたりの関係を分析するためには重要な接見だった。わたしは同じ質問を檜垣にもぶつけてみることにした。

檜垣:ぼくの好みは栄治だけだよ。彼はぼくのすべてなんだ。
松本:彼を愛しているんだね。
檜垣:そう。愛しています。栄治のためなら、ぼくは死んだっていい。栄治に命令されたら、いつだってその覚悟はできてる。

 わたしはすでに自分の推理に確信を持っていた。おそらくは、被害者にとどめをさしたのは檜垣光彦だろう。阿部の興味が自分から逸れることが耐えられず、発作的に被害者を殺した。ほぼ1か月もの間いたぶられていた被害者にとっては、その一撃がむしろ救いになったかもしれない。どちらにしても、本当の主犯は阿部のほうであるといえよう。
 しかし、翌日の刑事からの電話で、わたしは再び自分の考えに疑問を抱くことになる。檜垣が犯行はすべて自分がやったものだという自供をはじめたというのだ。

松本:本当にきみがやったのか?
檜垣:はい。被害者を攫ったのも、おれがいい出したことでした。
松本:なぜ殺した?
檜垣:それは、栄治が彼にばかりかまうのを見ていられなかったからです。おれとのセックスにはもう興奮しないといわれて、かっとなりました。全部おれがやったんです。

 事件は解決したかのように思われたが、わたしには納得がいかなかった。警察に問い詰めたが、のらりくらりと交わされるだけだった。わたしは阿部に尋ねることにした。

松本:きみは警察にいったのか?
阿部:なんのことだよ?
松本:自分が計画したといったのか?
阿部:そんなこといいやしない。やったのはおれじゃないからな。

 おそらく、警察はかまをかけるつもりで檜垣にこういったのだ。阿部が自白したぞ。すべておれがやったといっている。確かか?
 阿部の身に危険が迫っていることを知った檜垣は、彼を庇った。
 わたしは警察機関と関わりをもたない一般の会社に依頼して、もう一度捜査にあたらせた。新しい証人はあっけなく見つかった。そばかす顔の女性は、無職ではあるが、じゅうぶんに信頼できる証人といえた。犯人を逮捕し、主導権がどちらにあるかにはすでに興味をうしなった警察の怠慢だった。

松本:真実を話してくれる気はないのかな?
檜垣:もう話しました。
松本:本当は、彼がやったんじゃないのか?
檜垣:ちがいます。
松本:彼の暴力がゆきすぎ、被害者を殺害してしまった。
檜垣:ちがいます。

松本:被害者が殺害された夜、きみを見たというひとが見つかったよ。あの日、きみは公園でひとりビールを飲んでいたそうだね。
檜垣:(沈黙)。
松本:きみは以前、被害者を人形だといったが、それはきみのことじゃないのか?
檜垣:(沈黙)。
松本:隈がひどい。顔を洗ってきなさい。

 わたしの目の前で、檜垣は泣き出した。被害者の死に顔が瞼に焼きついて、眠れないのだそうだ。根気強く説得したすえ、檜垣は真実を法のもとで証言することに合意した。

 新しい証人の存在は、裁判でおおいに効果を発揮した。事件の主犯が阿部であることが明らかになると、傍聴席から不穏な声が上がった。傍聴にきていた阿部の母親であった。「栄治が光彦に命令したですって?」。喚きながら柵を越えようとする彼女は、酒に酔っているように見えた。「冗談じゃない。逆だよ。光彦のほうが栄治を操っていたんだ。そうに決まってる!」。
 2列目で傍聴していた被害者の遺族は怒りに震えた。被害者の父親が彼女につかみかかり、厳正なる法の場は大騒ぎになった。被告席の阿部はそれらの様子を冷ややかな目つきで眺めていた。檜垣は終始俯いて、顔を上げようとしなかった。彼の両親はけっきょくいちども裁判所に姿を見せなかった。

 東京地裁の判決は、阿部に懲役17年、檜垣に懲役5~10年。被害者側は控訴し、高裁は阿部に懲役20年。檜垣に懲役5~10念を宣告した。2002年6月。事件発生から3年あまりが経過していた。

 それから1年後の2003年。獄中で阿部が自殺したというニュースを新聞で知った。房内で首を吊ったのだという。わたしを嘲り、挑発した彼の様子を思い返せば、到底信じられるものではなかったが、確認するには、その頃のわたしはあまりに多忙だった。

 2008年4月。檜垣が出所することになった。所内ではいたって模範的な囚人だったらしい。定年を迎え、暇を持て余していたわたしは、彼に会いに獄へと足を運んだ。
 わたしの姿に気づくと、檜垣は深々と頭を下げた。面会に訪れたのは随分前だったが、そのときよりもはるかに顔色がよく、若者らしい生気を取り戻したかのように見えた。阿部の死を知ったときにはひどい錯乱状態に陥ったようだが、今では精神的にもすっかり回復しているようだった。
 阿部の死は、こういっては不謹慎であるが、檜垣の将来にとっては幸福なことだったかもしれない。自分がなぜあそこまで彼に執着していたのかが考えられないと、彼はわたしに語った。
「今だから聞くが」
 どうしても聞きたかったことを、わたしは彼に尋ねた。
「彼のどこに惚れていた?」
 ちいさな荷物を肩にかけ、わたしと並んで歩きながら、檜垣はいった。
「わかりません。でも、おれにだけはやさしかったんです、本当に」
「とても信じられないがね」
「本当なんです。ひとは見かけによらないんですよ」
 檜垣は穏やかな微笑を浮かべた。わたしまでつられて笑ってしまうような、清々しい笑みだった。
「きみに教えられるとは」
 檜垣はこんどは声を出して笑った。なにものにも拘束されない、自由な笑いである。
「送ろうか」
「いえ。迎えがきてますから」
 彼の視線の先に目をやると、軽自動車のドアを開けて立っている女性の姿が見えた。こちらに向かって会釈する。
「きみも隅に置けない」
「ただの友達ですよ」
 檜垣は照れ笑いを浮かべたが、まんざらでもなさそうだった。こうして徐々にまともな人生を送っていけるようになれればいいと、わたしは心から願った。共犯者でありながら、ある意味では彼もまた、阿部の被害者のひとりにすぎないのだ。
「もう会うこともないかもしれないが」
「先生には感謝しています」
「よしてくれ。わたしはなにもしていないよ」
 何度も礼をいいながら、檜垣は去っていった。彼を乗せた軽自動車を見送ってしまうと、わたしはたちまち手持ち無沙汰になった。仕事に命を捧げた団塊世代の常として、一日の予定などあるはずもない。かといって帰宅する気にもなれず周辺を散歩していると、阿部のことを思い出した。彼の死について考えをめぐらせる暇もなかった。わたしは彼を収容していた獄へ寄ることにした。

 公的な許可を得ていないことに気づいたのは電車に乗ったあとだったが、幸いなことに、収容所の責任者は、わたしの読者であった。著書にサインをして、なかに入った。責任者はほかに約束があるとのことで、しきりに恐縮しながら、案内役として若い職員をつけてくれた。彼について事務所内に入り、阿部の資料を見せてもらった。
 ぶ厚いファイルのてっぺんで無愛想な顔をつくっている阿部は、まさしくわたしの知る殺人鬼そのひとであった。なんともいえない感慨を胸に抱きながら、ページを捲る。
「備品室から盗んだタオルを繋げていたんですよ」
 にきび痕の目立つ職員は、やりきれないといった表情だった。最初に阿部を発見したのは、どうやら彼だったらしい。
「まだこの仕事に就いて間もない頃で、しばらくは眠れませんでした。あの死に顔が頭から離れなくて」
 わたしは大きく頷いた。はじめて死体を目にしたときは、だれでも混乱するものだ。
「阿部もそうだったようです。夜中によくうなされていました」
 職員の言葉は、しかし、わたしを驚かせた。自殺したこともにわかには信じられなかったほどである。罪の意識に苛まれるとは、すくなくとも、阿部のなかに人格があったということか。
「何度もいってました。みっつ、みっつがって。あれはどういう意味なんでしょうか。なにかがみっつあったということなんですかね」
 指を3本立てて、職員が首を傾げる。わたしの腹部を、なにか異様な影が通り過ぎた。
 ……ミツくん、ミツくんって、いつも光彦くんのあとを追いかけて歩いていたもんですよ。
 阿部の自殺。奇妙なうわ言。わたしの記憶のなかの彼の人物像とは一致しない。いや、むしろ、矛盾点が逆の方向にあるとしたらどうだろうか。
 ……そんな気はなかった。ちょっと遊んで、飽きたら帰してやるつもりだったよ。ただあいつが……
 そこまでいったあと、阿部は冗談めかした口調で話をすり替えた。ふたりの発言が、作為的にまったく反対につくりかえられていたとしたら。
 ……あいつはなんでもおれのいいなりだからな。今じゃ、おれのいうことはなんでも聞くだろう。死ねといえば死ぬはずだ。
 ……栄治のためなら、ぼくは死んだっていい。栄治に命令されたら、いつだってその覚悟はできてる。
 わたしはゆっくりと顔を上げた。目を丸くしてこちらを見ている職員の頬に浮かぶにきびの痕。檜垣を迎えにきていた軽自動車の女の顔には、そばかすが散っていた。
 ……ひとは見かけによらないんですよ。
 わたしの手からファイルが滑り落ちた。




おわり。