帰宅部男子ですが、強豪バド部のエース兼部長の鷹乃先輩にめちゃくちゃ構われて困ってます

 結局、先輩との打ち合いは引き分けに終わった。
 賭けていたタルトを逃して不貞腐れながら、俺がラケットに残った手汗を拭いていると、先輩はぼそりと呟いた。

「……日曜の午後なら、空いてなくもねぇけど」
「それって、誘ってくれてるってことですか?」
「連れてってやるって言ってんだよ。二時に体育館裏で待っとけ」

 ……誘うのと連れて行くの、結局何が違うんだよ。
 首を洗って待ってろみたいな強引な言い方だけど、お互いに顔を見合わせたら、自然と笑みがこぼれてしまった。



 そして迎えた日曜日。体育館裏には、じりじりと焼けるような日差しが照りつけていた。
 なんとなく落ち着かなくて、水道のそばの段差にしゃがみ込んで待つ。
 すぐ横には、遠征用らしいデカいスクールバスが停まっていた。学校名は入っていないけれど、そういえば雀部が「他校との練習試合がある」とか言っていた気がする。
 手持ち無沙汰にスマホの時計を眺めていると、体育館の窓から歓声が漏れてきた。拍手と、ひと際大きく沸き立つ声。どうやら、試合が決着したらしい。

「俺、顔洗うてくるわ。後から行くさかい、監督に伝えといてくれへん?」

 聞き慣れない関西弁が聞こえて、思わず振り返る。
 水飲み場にやってきたその男の姿に、俺は一瞬で目を奪われた。胸元に『鳳高校』と刻まれた、白と紫のユニフォーム。
 勢いよく蛇口を捻って顔を洗い、顎から垂れる水滴をタオルで拭き終えたそいつは、目が合うなり距離を詰めてきた。

「叶羽ちゃん、探したで! 今日ベンチにおらんかったやん、まさかレギュラー落ち?」
「いや、違う。俺、もうバド部じゃないから。……てか離して、マジで触んないで」
「え、バド部やないって、どういうこと?」

 目の前の男――鷲見一輝(すみいつき)は、払いのけられた手を今度は腰に当てて、上から見下ろすようにして言った。

「まさか、全中で俺に負けたせいでバド辞めてもうたん? ジュニアナショナルの選考合宿にも来てへんし」
「そうじゃない。俺はあの大会で、自分で納得して――」
「ホンマなん? それ。ベスト8で負けたあと、裏でピーピー泣いてたやん」

 その一言に、言い返す言葉なんて一つも見つからなかった。思い出したくもない、中学最後の大会のことだ。
 鷲見との試合で情けないくらいボロ負けして、表彰式に出る気力すらないほど打ちのめされていたあの日。
 会場の裏で、後輩が差し出してくれたタオルやドリンクを、当時の俺は受け取ることさえできなかった。
 ずっと「天才」だと持て囃されてきたのに。あんなに惨めな思いをしたのは、生まれて初めてだった。

「なんもそんなん気にせんと、高校入っても続けたら良かったやん。俺には勝てんくても、そこそこえぇトコまでは行けたんちゃう?」
「お前には関係ない。さっさと戻れよ」
「今日は部長さんとやりあったんやけど、余裕でブチのめしたで。大したことないんやなーってガッカリしたわ」

 その一言に、頭の中が痺れるような衝撃が走った。思わず鷲見の顔を見上げる。
 ――鷹乃先輩が、コイツに負けた……?
 とてもじゃないけど、信じられない。俺が唖然としていると、鷲見はとびきり馬鹿にするように俺の頭をぽんぽん、と撫でた。

「『テッペンからの景色は、ワイが代わりに見てきたる』っちゅう、あん時の約束。ちゃんと守ったるから。春季大会、叶羽ちゃんも応援に来てや」

 あの日、泣き崩れる俺を見下ろしながらこいつが吐き捨てた言葉も、神経を逆撫でするような言い方も、全部まだ昨日のことみたいに思い出せる。
 言い返してやりたいのに喉が張り付いて、ただ睨みつけるのが精一杯だった。震える手で、なんとか鷲見の腕を振り払おうとした、その時。

「おい、鷲見。うちの生徒にちょっかい出してんじゃねーよ」
「……あ、ワイが負かしたブチョーさん。さっきはどーも。前半は楽しかったんやけど、後半は死ぬほど退屈やったで」

 先輩は後ろから俺の肩を引いて、鷲見の手を振り払うと自分の後ろに立たせた。
 庇われてる、と気づいて、その広い背中から目が離せなくなる。

「それは申し訳ねぇことしたな。安心しろ、春季大会の決勝はお前をぶっ殺してやるから」
「勝つんは俺やで。せいぜいヘボいの打たへんように、ちゃぁんと仕上げて来てな?」

 鷲見はたっぷりの皮肉を込めてニヤリと口角を上げると、「ほなお先に」とだけ言い残し、タオルを首にひっかけたまま気怠げに歩いていく。
 ザァッと風が吹いて、そばにあった木の葉が揺れると、先輩は俺の方を向き直って言った。

「鷲見とお前、いつ対戦したんだよ」
「……中学の時に」
「そこがわかんねぇから聞いてんだよ。全中のトーナメント表に『鴨下』の苗字がねぇのくらい、過去の戦績調べて知ってるわ」

 早く言え、と促すような無言の圧に耐えかねて、片手でぎゅっと拳を握りしめながら答えた。

「俺……全中でベスト8で負けた後、親が離婚してるんです。だから、当時のトーナメント表の名前は『石井』で載ってます」

 はっと息を呑む気配がした。先輩は目を微かに見開いていて、眼差しにただの追究ではない、もっと別の何かが混ざり合う。
 そして少し間をおいてから、いつもより少しだけ低い、静かな声で言った。

「……苗字のことは分かった。じゃあ次は、バド辞めた理由だ。そこまで強いくせに何で帰宅部なんかで(くすぶ)ってんのか、全部俺に話せよ」

 言わなきゃ。鷲見に格の違いを見せつけられて、完全に心が折れたんだと。
 ただそう言えばいいだけなのに、喉の奥が張り付いたみたいに動かない。こんな情けない過去を話して、「なんだ、プライドが高いだけの逃げ腰か」なんて呆れられたら――?
 先輩の前で生意気ばかり言っていたからこそ、本当はこんなに脆い自分を見られるのが、死ぬほど恥ずかしかった。
 なにより怖いのは、先輩が可愛がって俺を構ってくれる、この絶妙な距離感が壊れることだ。
 無愛想に振る舞うことで必死に蓋をしてきた気持ちを、今さらになって突きつけられる。俺は表情を悟られないよう、ぐっと視線を落として俯いた。

「あの……今日、やっぱり帰ってもいいですか」

 震えそうになる声を必死に抑えて、先輩を突き放すように言い切った。

「……悪かった、俺がちょっと焦りすぎた。場所を変えて、ちゃんと話そう」
「そ、そうじゃなくて。……話したくないんです。無理なんですってば!」

 先輩の胸に手を突いて、強引に距離を作る。このまま傍にいたら、簡単にほだされて、全部泣きながら白状してしまいそうだった。
 認めたくないけれど、本当は優しい人だ。もし俺が吐き出せば、内心で呆れながらも、慰めようとするに決まってる。

「……鷹乃先輩、ごめんなさい」

 一瞬、先輩が弱り切ったような視線を向けてくるのを感じた。
 正面から見たら絶対に動けなくなる。そう分かっていたから、俺は最後まで顔を上げられなかった。

「鴨下、待てって!」

 呼びかけを背中に受け、裏門へと走り出す。後ろから響いたその声は、いつもみたいに乱暴じゃなかった。
 聞こえなかったフリをして、俺はさらに足を速める。
 校門を抜けてすぐの橋の下。コンクリートの柱の影に逃げ込み、膝を抱える。
 浮かれて下ろしたばかりのデニムとコンバースが、ポタポタと落ちる涙でぼんやり揺らいで滲んでいく。
 ぐいっと目元を拭っても、涙は止まらない。俺は地面にできる濡れた点々を、ただ茫然と見つめていた。