翌日。昼休み、爽やかな風が吹き抜ける中庭のベンチで、俺は雀部と並んで弁当を広げていた。
「うわ、雀部の弁当美味そう。いいなー、味見させてよ」
「いいよ。どれ食べたい?」
そうそう、これだよ、これ。このほんわかした癒やし系の雀部と、穏やかな昼休みを過ごすのが最高にチルい。
昨日の体育館で怒鳴られたのが、まるで嘘みたいに平和な日常……に、戻れると思っていたのに。
「なぁ、なんで俺のメッセージ無視したわけ?」
突然、頭上から低い声が降ってきた。びくっと体ごと跳ね上がる。
恐る恐る見上げると、そこにはワイシャツの袖をまくり、ネクタイを緩めた鷹乃先輩が立っていた。
しかも、昨日ステージの上で話し込んでいた先輩たちまで引き連れている。何これ、完全に待ち伏せじゃん。
「……あ、いや、その……なんて送ったらいいか分かんなくて。既読スルーよりはマシかなって……」
「どう考えても、未読無視の方がタチ悪いだろ」
じろりと睨まれ、一瞬で小さく身を縮めた。
すると、後ろに控えていた三人がニヤニヤと楽しそうに顔を見合わせる。
「うわ、鷹乃がここまで食い下がってんの初めて見た」
「しかも相手、ただの帰宅部の一年だろ? レアすぎ案件」
「流石にストーカーで草」
この先輩たち、鷹乃先輩とはまたちょっと雰囲気が違う。ケラケラと笑う姿が「ザ・陽キャ」にしか見えなくて、なんか光量もエグい。
そのうちの一人、黒髪の先輩が横に腰を下ろして肩を組むと、雀部は恐縮したように手を震わせてガチガチに硬直した。人見知りの雀部には、陽キャの距離感は刺激が強すぎるらしい。
「コイツらは勝手に付いてきただけだから、気にすんな」
「はぁー? お前が『鴨下!鴨下!』って朝から騒いで探させたくせに」
もう一人の先輩がすかさずツッコミを入れる。鷹乃先輩はさらりと身内を切り捨て、当然みたいな顔をして俺の隣にどさりと腰を下ろした。
……いや、パーソナルスペース狭すぎじゃね?
「てか、本当に帰宅部なのかよ。昨日のラリー、マジでヤバかったぞ。お前、本当に何者?」
「マジで帰宅部です。何者でもないですし」
手を振って否定すると、鷹乃先輩はますます微妙な顔で眉間のシワを深くした。
不意に、黒髪の先輩が首を傾げて口を開く。
「俺、鷹乃と同じレギュラーの鵜野。こっちはダブルスを組んでる雁谷と燕沢。……で、俺からも一個聞きたいんだけど。鴨下ってどこ中出身? 私立とか付属だったりする?」
クールで落ち着いた雰囲気のくせに、その瞳は明らかに面白がっているのを隠しきれていない。
……えっ、まさか。俺の中学時代の戦績がバレてる?
でも、そんなはずはない。今さらネットで検索したところで辿り着けないはずだ。高校入学のタイミングで、俺は苗字が変わっているんだから。
「普通の公立中です。部活も……あんま。幽霊部員みたいな感じだったんで」
嘘は言っていない。全国ベスト8まで行ったのは学校の部活ではなく外部のクラブチームで鍛えた成果であって、中学の部活には大会の時だけ顔を出す、システム的には間違いなく幽霊部員だった。
鵜野先輩は「ふーん、そっか」と顎に手を添え、それ以上深くは追及してこなかった。
「なぁ、もう一回打ち合いさせろよ。今日の放課後、ちょっとだけでもいいから」
身を乗り出してきた鷹乃先輩の顔がグッと近づいて、まっすぐ向けられた視線の熱量にビビりそうになる。
ここで流されちゃダメだ。なら、いっそ即レスでぶちかますしかない。
「嫌です。お断りします」
「テメー、何即答してんだよ! 少しは揺らげよ!」
鷹乃先輩はマジで信じられないって顔をして、ガバッと体を前に乗り出した。ベンチに座ったまま、開いた足の間に両手を突っ張っている。
「雀部は良いのになんで俺はダメなんだよ。納得いかねーんだけど」
「雀部は俺の親友ですし」
「……おい。先輩が話してるのによそ見するって、どういう神経してんだよ」
チラッと横に居た雀部を見た瞬間、先輩が体を傾けて視界に入り込んでくる。
……またかよ、近い近い。距離が近すぎる。
けれど、その強い眼差しに吸い寄せられるみたいに、俺はつい見つめ返してしまった。
「俺も今からお前の親友になる。だから試合させろ」
「……友達になりたい癖に、その言い方こそどういう神経ですか。先輩は先輩なので、友達にはなれません」
「じゃあ鴨下の『特別』でいい。とにかく一枠空けろよ」
「満席です、お引き取りください」
「お前さ、大人しそうな顔してガード固すぎ。なぁ、マジで頼むから――」
――キーンコーンカーンコーン……。
鷹乃先輩がこちらに向かって必死に訴えかけようとした瞬間、救いの予鈴が中庭に鳴り響いた。
「俺たち次は移動教室なんで、もう失礼します。ほら雀部、行こう」
「えっ、あ、うん……!」
俺はすり抜けるようにして、まだ食べかけの弁当箱をひったくった。鵜野先輩の横で固まる雀部の腕を掴み、そのままベンチから引きずり出すようにして立ち上がる。
「おい、待て鴨下!」
後ろから飛んでくる声を背中で受け流す。このまま聞いてたら、何を言われるか分かったもんじゃない。
俺は内心でバクバクと鳴る心臓を落ち着かせながら、表面上だけ平然とした足取りで中庭を後にした。
*
今日は遅練だから一緒に帰れない、と雀部に断られた俺は、駅前のCDショップを物色してコンビニに寄り道した。
店を出て小さく息を吐き出す。昼休みに受けた鷹乃先輩たちの猛攻のせいで、地味にめちゃくちゃ気疲れしていた。
帰ったら全部忘れよう、とパックのミルクティー片手に何気なく駐車場へ視線を向けると、ぴたりと足が止まった。
「えっ……マジか」
どう見たってベンチの背もたれに体を深く預けて座っているのは、あの鷹乃先輩だ。
部活終わりなんだろう、足元には大きなスポーツバッグ。ネクタイは外され、ワイシャツの首元が大きく開いている。
ぶっちゃけ、見つかったら面倒だし、今すぐ駅に逃げ込むのが正解だと頭では分かっている。なのに、その疲れ切った横顔がなんだか放っておけなくて、踵を返せない。
どうしようとその場で立ち往生していた、まさにその時だった。ふ、と先輩が顔を上げ、夕暮れの中で視線が真っ直ぐに交わってしまう。
しまった、と目を逸らそうとしたけれど、もう遅かった。
「……あ。鴨下じゃん」
先輩が少し驚いたような顔をして、ぽつりと俺の名前を呼んだ。こうなっては逃げるわけにもいかない。
内心の気まずさを隠すように、観念してゆっくりと先輩の方へ歩み寄る。
「……うす、お疲れ様です。遅練ってこんな時間までやってるんですね」
「今日はまだ早い方だけどな。なんで?」
「俺、よくここのコンビニ来るんですけど。先輩が居るの、初めて見たから」
戸惑いながらも、視線で「座れよ」と促されるままに、少し距離を空けてベンチの端に腰を下ろした。
「先輩、なんか……疲れてます?」
「え? なんで分かんの」
「いや、なんとなく。いつもの先輩なら、俺を見つけた瞬間また『バド部に入れ』って食い気味に言い寄ってくるはずじゃないですか」
思った事をそのまま言うと、先輩は「確かに」と力なく笑い、手の中の炭酸の缶をじっと見つめた。
「ちょっとな。一人で反省会」
「反省って……。部活で何かあったんですか?」
「もうすぐ春季大会があんだけど……なんか、練習で力みすぎてガチで上手くいかねーっていうか。焦ってて」
「先輩でも、そういうことってあるんですね」
「あるわ、普通に。普段はアイツらがいるから誤魔化せてるけど、一人になるとそれなりに色々考える」
「……まあ、あの面々なら退屈はしないでしょうね。でも、先輩はそういう周りに甘えずに、一人でプレッシャーと向き合ってるってことじゃないですか。……そういうストイックなところは、普通に尊敬します」
炭酸の缶を口元に運んだまま、先輩がふっと動きを止める。俺の方を向いてベンチが小さく軋み、制汗剤のシトラスの匂いが夕暮れの風とともに漂ってきた。
先輩は言葉を探すように、自分のスニーカーのつま先を見つめている。こんなに真剣な横顔を見るのは、これが初めてだった。
「鴨下を見つけてからの方がマジで退屈しねーわ。お前を追い回すの、ぶっちゃけ結構楽しいし」
「……は?」
「逃げられると余計に追いかけたくなる。……尚更燃えるっていうか、構いたくなるんだよな」
俺を覗き込むその瞳に冗談の色は一切ない。ちょっと照れくさそうな視線をまともに受けてしまい、言葉が喉の奥でつかえた。
鷹乃先輩って、もっと直球で詰めてくるか、あるいはブチギレかの二択だと思っていたのに。
慌てて視線をミルクティーのパックへ落とすけれど、頬が熱くなっているのは自分でも恥ずかしくなるほど分かった。気まずすぎる沈黙が流れる。
すると、頭上からフッと、低く愉しげな笑い声が降ってきた。
「……へえ。なにその反応。ただの生意気な一年かと思ってたのに」
見上げると、先輩の目が意地悪く、それでいてどこか優しく細められていた。
あぁ、はいはい。俺がテンパってるのがそんなに面白いですか? と心の中で悪態をついて、どうにか自分を保つ。
「そういうの、誰にでも気軽に言うのはどうかと思いまけど」
「なんで?」
「なんでって……」
不思議そうな顔で俺を見ている。本当に分かっていないのか、分かっていて言っているのか。どちらにしても性質が悪い。
ゆっくりと距離を詰められて、触れるか触れないかの距離だったのに、肩に先輩の腕がふわりと当たった。
普段はあんなに強気なくせに、こういう時の詰め方は全然雑じゃない。俺の反応を確かめながら近づいてくるのが分かって、それがなんか、余計にズルい人だと思った。
「鴨下にしか言ってねーよ」
大真面目な顔でそんなこと言われたら、どう返せばいいのか分からない。
この空気に耐えられなくて、俺は別の話題を必死で探した。
「……そういえば。オフの日って先輩は何してんすか」
「基本は筋トレかランニングだな。お前は?」
低いけれど、どこか機嫌の良さそうな声が返ってくる。
「俺は、雀部とカフェ巡りしたり、買い物行ったり……ですかね」
「カフェ巡り? お前、甘いもん好きなの?」
「好きですけど。何か文句ありますか」
「ねーよ、別に。いちいち突っかかってくんな。……じゃあ、学校の近くに新しくオープンしたカフェも知ってんの?」
「あ、はい。SNSで流れてきて、ちょっと気になってました」
そこまで言って、慌てて口をつぐんだ。これじゃ、俺が一緒に行こうって誘ってるみたいじゃないか。
案の定、鷹乃先輩の口元が嬉しそうに釣り上がる。
ベンチに置かれた先輩の大きな手が、俺のベストの裾を悪戯っぽくちょんちょんと引っ張った。
あの威圧感からは想像もつかない子供っぽい仕草。そのせいで、俺の心臓は身体の中で踊りだすみたいに跳ね回った。
「もう、誰かと行く予定あんの?」
「ない……ですけど」
「じゃあ決まり。今度のオフ、俺と行くぞ」
「えっ」
思わず間抜けな声が出た。部活の勧誘じゃなくて、普通の遊びの誘い? しかも鷹乃先輩と二人きりで?
急展開すぎるし、とにかく断らなきゃ、と本能的に思った。これ以上この先輩のペースに巻き込まれたら、絶対ろくな目に遭わない。
適当な言い訳を探して口を開きかけた、その時だった。
「だめ?」
先輩が少しだけ首を傾げて、俺を覗き込んできた。
さっきまでの強引さはどこへ行ったんだ。こっちが戸惑うくらい、簡単に調子を狂わされる。圧のある鋭い目つきが、今は捨てられた犬みたいに自信なさげで、そんな顔をされて無下に断れるはずがなかった。
「……まぁ、先輩がそこまで言うなら、別にいいですけど」
横目でちらりと見ると、鷹乃先輩は今日一番の、子供みたいな眩しい笑みを浮かべていた。
「よし、言ったな。じゃあ今週の日曜。予定空けとけよ」
「え、今週ですか? 急すぎません?」
「オフがそこしかないし、気が変わってまた逃げられたら困る」
先輩はごくっと炭酸を飲み干すと、まだ耳が熱い俺の顔をニヤニヤと覗き込んできた。その楽しそうな目に思わず身構える。
「鴨下も楽しみ?」
「……別に、楽しみにはしてないです。オープンしたてのカフェが気になるだけなので」
わざと冷たく突き放すように言ったのに、先輩は傷つくどころか、嬉しそうに肩を揺らした。
「そ。俺はめちゃくちゃ楽しみだけどな」
「っ……」
またそういう、距離感のバグった台詞をさらっと言う。
言葉を返せば返すほど深みにはまる気がして、俺はふいっと明後日の方向を向いた。
「そろそろ行くわ。……話聞いてくれてサンキューな、鴨下」
先輩はベンチから立ち上がると、そのまま駅の方へと歩いていった。その背中が人混みに消えていくのを、なぜか目で追ってしまう。
一人ぽつんと取り残されて手の中に視線を落とすと、さっきまでキンキンに冷えていたミルクティーが、いつの間にかすっかりぬるくなっていた。
そんなに長話をするつもりはなかったのに。先輩と話している間、からかわれたり距離が近かったりで、ずっと緊張しっぱなしだった。無駄に体温も上がっていたっぽい。
「……あー、もう。やっぱ最悪」
ストローで一気飲みして立ち上がる。コンビニのゴミ箱へのシュートは、ガコッと間抜けな音を立てて外れてしまった。
悔しい。コートの上なら、狙ったラインの数ミリ内側にだってシャトルを落とせる自信があるのに。
手元が狂ったのも、鷹乃先輩のせい。自分の中で、そういうことにしておいた。
「うわ、雀部の弁当美味そう。いいなー、味見させてよ」
「いいよ。どれ食べたい?」
そうそう、これだよ、これ。このほんわかした癒やし系の雀部と、穏やかな昼休みを過ごすのが最高にチルい。
昨日の体育館で怒鳴られたのが、まるで嘘みたいに平和な日常……に、戻れると思っていたのに。
「なぁ、なんで俺のメッセージ無視したわけ?」
突然、頭上から低い声が降ってきた。びくっと体ごと跳ね上がる。
恐る恐る見上げると、そこにはワイシャツの袖をまくり、ネクタイを緩めた鷹乃先輩が立っていた。
しかも、昨日ステージの上で話し込んでいた先輩たちまで引き連れている。何これ、完全に待ち伏せじゃん。
「……あ、いや、その……なんて送ったらいいか分かんなくて。既読スルーよりはマシかなって……」
「どう考えても、未読無視の方がタチ悪いだろ」
じろりと睨まれ、一瞬で小さく身を縮めた。
すると、後ろに控えていた三人がニヤニヤと楽しそうに顔を見合わせる。
「うわ、鷹乃がここまで食い下がってんの初めて見た」
「しかも相手、ただの帰宅部の一年だろ? レアすぎ案件」
「流石にストーカーで草」
この先輩たち、鷹乃先輩とはまたちょっと雰囲気が違う。ケラケラと笑う姿が「ザ・陽キャ」にしか見えなくて、なんか光量もエグい。
そのうちの一人、黒髪の先輩が横に腰を下ろして肩を組むと、雀部は恐縮したように手を震わせてガチガチに硬直した。人見知りの雀部には、陽キャの距離感は刺激が強すぎるらしい。
「コイツらは勝手に付いてきただけだから、気にすんな」
「はぁー? お前が『鴨下!鴨下!』って朝から騒いで探させたくせに」
もう一人の先輩がすかさずツッコミを入れる。鷹乃先輩はさらりと身内を切り捨て、当然みたいな顔をして俺の隣にどさりと腰を下ろした。
……いや、パーソナルスペース狭すぎじゃね?
「てか、本当に帰宅部なのかよ。昨日のラリー、マジでヤバかったぞ。お前、本当に何者?」
「マジで帰宅部です。何者でもないですし」
手を振って否定すると、鷹乃先輩はますます微妙な顔で眉間のシワを深くした。
不意に、黒髪の先輩が首を傾げて口を開く。
「俺、鷹乃と同じレギュラーの鵜野。こっちはダブルスを組んでる雁谷と燕沢。……で、俺からも一個聞きたいんだけど。鴨下ってどこ中出身? 私立とか付属だったりする?」
クールで落ち着いた雰囲気のくせに、その瞳は明らかに面白がっているのを隠しきれていない。
……えっ、まさか。俺の中学時代の戦績がバレてる?
でも、そんなはずはない。今さらネットで検索したところで辿り着けないはずだ。高校入学のタイミングで、俺は苗字が変わっているんだから。
「普通の公立中です。部活も……あんま。幽霊部員みたいな感じだったんで」
嘘は言っていない。全国ベスト8まで行ったのは学校の部活ではなく外部のクラブチームで鍛えた成果であって、中学の部活には大会の時だけ顔を出す、システム的には間違いなく幽霊部員だった。
鵜野先輩は「ふーん、そっか」と顎に手を添え、それ以上深くは追及してこなかった。
「なぁ、もう一回打ち合いさせろよ。今日の放課後、ちょっとだけでもいいから」
身を乗り出してきた鷹乃先輩の顔がグッと近づいて、まっすぐ向けられた視線の熱量にビビりそうになる。
ここで流されちゃダメだ。なら、いっそ即レスでぶちかますしかない。
「嫌です。お断りします」
「テメー、何即答してんだよ! 少しは揺らげよ!」
鷹乃先輩はマジで信じられないって顔をして、ガバッと体を前に乗り出した。ベンチに座ったまま、開いた足の間に両手を突っ張っている。
「雀部は良いのになんで俺はダメなんだよ。納得いかねーんだけど」
「雀部は俺の親友ですし」
「……おい。先輩が話してるのによそ見するって、どういう神経してんだよ」
チラッと横に居た雀部を見た瞬間、先輩が体を傾けて視界に入り込んでくる。
……またかよ、近い近い。距離が近すぎる。
けれど、その強い眼差しに吸い寄せられるみたいに、俺はつい見つめ返してしまった。
「俺も今からお前の親友になる。だから試合させろ」
「……友達になりたい癖に、その言い方こそどういう神経ですか。先輩は先輩なので、友達にはなれません」
「じゃあ鴨下の『特別』でいい。とにかく一枠空けろよ」
「満席です、お引き取りください」
「お前さ、大人しそうな顔してガード固すぎ。なぁ、マジで頼むから――」
――キーンコーンカーンコーン……。
鷹乃先輩がこちらに向かって必死に訴えかけようとした瞬間、救いの予鈴が中庭に鳴り響いた。
「俺たち次は移動教室なんで、もう失礼します。ほら雀部、行こう」
「えっ、あ、うん……!」
俺はすり抜けるようにして、まだ食べかけの弁当箱をひったくった。鵜野先輩の横で固まる雀部の腕を掴み、そのままベンチから引きずり出すようにして立ち上がる。
「おい、待て鴨下!」
後ろから飛んでくる声を背中で受け流す。このまま聞いてたら、何を言われるか分かったもんじゃない。
俺は内心でバクバクと鳴る心臓を落ち着かせながら、表面上だけ平然とした足取りで中庭を後にした。
*
今日は遅練だから一緒に帰れない、と雀部に断られた俺は、駅前のCDショップを物色してコンビニに寄り道した。
店を出て小さく息を吐き出す。昼休みに受けた鷹乃先輩たちの猛攻のせいで、地味にめちゃくちゃ気疲れしていた。
帰ったら全部忘れよう、とパックのミルクティー片手に何気なく駐車場へ視線を向けると、ぴたりと足が止まった。
「えっ……マジか」
どう見たってベンチの背もたれに体を深く預けて座っているのは、あの鷹乃先輩だ。
部活終わりなんだろう、足元には大きなスポーツバッグ。ネクタイは外され、ワイシャツの首元が大きく開いている。
ぶっちゃけ、見つかったら面倒だし、今すぐ駅に逃げ込むのが正解だと頭では分かっている。なのに、その疲れ切った横顔がなんだか放っておけなくて、踵を返せない。
どうしようとその場で立ち往生していた、まさにその時だった。ふ、と先輩が顔を上げ、夕暮れの中で視線が真っ直ぐに交わってしまう。
しまった、と目を逸らそうとしたけれど、もう遅かった。
「……あ。鴨下じゃん」
先輩が少し驚いたような顔をして、ぽつりと俺の名前を呼んだ。こうなっては逃げるわけにもいかない。
内心の気まずさを隠すように、観念してゆっくりと先輩の方へ歩み寄る。
「……うす、お疲れ様です。遅練ってこんな時間までやってるんですね」
「今日はまだ早い方だけどな。なんで?」
「俺、よくここのコンビニ来るんですけど。先輩が居るの、初めて見たから」
戸惑いながらも、視線で「座れよ」と促されるままに、少し距離を空けてベンチの端に腰を下ろした。
「先輩、なんか……疲れてます?」
「え? なんで分かんの」
「いや、なんとなく。いつもの先輩なら、俺を見つけた瞬間また『バド部に入れ』って食い気味に言い寄ってくるはずじゃないですか」
思った事をそのまま言うと、先輩は「確かに」と力なく笑い、手の中の炭酸の缶をじっと見つめた。
「ちょっとな。一人で反省会」
「反省って……。部活で何かあったんですか?」
「もうすぐ春季大会があんだけど……なんか、練習で力みすぎてガチで上手くいかねーっていうか。焦ってて」
「先輩でも、そういうことってあるんですね」
「あるわ、普通に。普段はアイツらがいるから誤魔化せてるけど、一人になるとそれなりに色々考える」
「……まあ、あの面々なら退屈はしないでしょうね。でも、先輩はそういう周りに甘えずに、一人でプレッシャーと向き合ってるってことじゃないですか。……そういうストイックなところは、普通に尊敬します」
炭酸の缶を口元に運んだまま、先輩がふっと動きを止める。俺の方を向いてベンチが小さく軋み、制汗剤のシトラスの匂いが夕暮れの風とともに漂ってきた。
先輩は言葉を探すように、自分のスニーカーのつま先を見つめている。こんなに真剣な横顔を見るのは、これが初めてだった。
「鴨下を見つけてからの方がマジで退屈しねーわ。お前を追い回すの、ぶっちゃけ結構楽しいし」
「……は?」
「逃げられると余計に追いかけたくなる。……尚更燃えるっていうか、構いたくなるんだよな」
俺を覗き込むその瞳に冗談の色は一切ない。ちょっと照れくさそうな視線をまともに受けてしまい、言葉が喉の奥でつかえた。
鷹乃先輩って、もっと直球で詰めてくるか、あるいはブチギレかの二択だと思っていたのに。
慌てて視線をミルクティーのパックへ落とすけれど、頬が熱くなっているのは自分でも恥ずかしくなるほど分かった。気まずすぎる沈黙が流れる。
すると、頭上からフッと、低く愉しげな笑い声が降ってきた。
「……へえ。なにその反応。ただの生意気な一年かと思ってたのに」
見上げると、先輩の目が意地悪く、それでいてどこか優しく細められていた。
あぁ、はいはい。俺がテンパってるのがそんなに面白いですか? と心の中で悪態をついて、どうにか自分を保つ。
「そういうの、誰にでも気軽に言うのはどうかと思いまけど」
「なんで?」
「なんでって……」
不思議そうな顔で俺を見ている。本当に分かっていないのか、分かっていて言っているのか。どちらにしても性質が悪い。
ゆっくりと距離を詰められて、触れるか触れないかの距離だったのに、肩に先輩の腕がふわりと当たった。
普段はあんなに強気なくせに、こういう時の詰め方は全然雑じゃない。俺の反応を確かめながら近づいてくるのが分かって、それがなんか、余計にズルい人だと思った。
「鴨下にしか言ってねーよ」
大真面目な顔でそんなこと言われたら、どう返せばいいのか分からない。
この空気に耐えられなくて、俺は別の話題を必死で探した。
「……そういえば。オフの日って先輩は何してんすか」
「基本は筋トレかランニングだな。お前は?」
低いけれど、どこか機嫌の良さそうな声が返ってくる。
「俺は、雀部とカフェ巡りしたり、買い物行ったり……ですかね」
「カフェ巡り? お前、甘いもん好きなの?」
「好きですけど。何か文句ありますか」
「ねーよ、別に。いちいち突っかかってくんな。……じゃあ、学校の近くに新しくオープンしたカフェも知ってんの?」
「あ、はい。SNSで流れてきて、ちょっと気になってました」
そこまで言って、慌てて口をつぐんだ。これじゃ、俺が一緒に行こうって誘ってるみたいじゃないか。
案の定、鷹乃先輩の口元が嬉しそうに釣り上がる。
ベンチに置かれた先輩の大きな手が、俺のベストの裾を悪戯っぽくちょんちょんと引っ張った。
あの威圧感からは想像もつかない子供っぽい仕草。そのせいで、俺の心臓は身体の中で踊りだすみたいに跳ね回った。
「もう、誰かと行く予定あんの?」
「ない……ですけど」
「じゃあ決まり。今度のオフ、俺と行くぞ」
「えっ」
思わず間抜けな声が出た。部活の勧誘じゃなくて、普通の遊びの誘い? しかも鷹乃先輩と二人きりで?
急展開すぎるし、とにかく断らなきゃ、と本能的に思った。これ以上この先輩のペースに巻き込まれたら、絶対ろくな目に遭わない。
適当な言い訳を探して口を開きかけた、その時だった。
「だめ?」
先輩が少しだけ首を傾げて、俺を覗き込んできた。
さっきまでの強引さはどこへ行ったんだ。こっちが戸惑うくらい、簡単に調子を狂わされる。圧のある鋭い目つきが、今は捨てられた犬みたいに自信なさげで、そんな顔をされて無下に断れるはずがなかった。
「……まぁ、先輩がそこまで言うなら、別にいいですけど」
横目でちらりと見ると、鷹乃先輩は今日一番の、子供みたいな眩しい笑みを浮かべていた。
「よし、言ったな。じゃあ今週の日曜。予定空けとけよ」
「え、今週ですか? 急すぎません?」
「オフがそこしかないし、気が変わってまた逃げられたら困る」
先輩はごくっと炭酸を飲み干すと、まだ耳が熱い俺の顔をニヤニヤと覗き込んできた。その楽しそうな目に思わず身構える。
「鴨下も楽しみ?」
「……別に、楽しみにはしてないです。オープンしたてのカフェが気になるだけなので」
わざと冷たく突き放すように言ったのに、先輩は傷つくどころか、嬉しそうに肩を揺らした。
「そ。俺はめちゃくちゃ楽しみだけどな」
「っ……」
またそういう、距離感のバグった台詞をさらっと言う。
言葉を返せば返すほど深みにはまる気がして、俺はふいっと明後日の方向を向いた。
「そろそろ行くわ。……話聞いてくれてサンキューな、鴨下」
先輩はベンチから立ち上がると、そのまま駅の方へと歩いていった。その背中が人混みに消えていくのを、なぜか目で追ってしまう。
一人ぽつんと取り残されて手の中に視線を落とすと、さっきまでキンキンに冷えていたミルクティーが、いつの間にかすっかりぬるくなっていた。
そんなに長話をするつもりはなかったのに。先輩と話している間、からかわれたり距離が近かったりで、ずっと緊張しっぱなしだった。無駄に体温も上がっていたっぽい。
「……あー、もう。やっぱ最悪」
ストローで一気飲みして立ち上がる。コンビニのゴミ箱へのシュートは、ガコッと間抜けな音を立てて外れてしまった。
悔しい。コートの上なら、狙ったラインの数ミリ内側にだってシャトルを落とせる自信があるのに。
手元が狂ったのも、鷹乃先輩のせい。自分の中で、そういうことにしておいた。



