「叶羽、ごめん! 今日もちょっとだけ、自主練に付き合って貰っていい?」
「いいよ、どうせ暇だし」
高校入学から一ヶ月が経った五月。クラスで席が隣同士になった雀部とは、あっという間に仲良くなった。
家の方角が同じということもあって、週に何回か一緒に帰る約束をしている。帰宅部の俺は、彼の部活が終わるまでの間、外の階段で本を読んだり宿題をしたりして待つ。そういう習慣が、気づけばすっかり日常の一部になっていた。
「クリアが苦手だから、ちょっと高めに打ってくれる?」
「ん、おっけー」
運動部初心者としてバドミントン部に入部した雀部は、周りのペースについていけないことを気にして、部活後にも自主練する日がある。
高窓から夕陽が差し込む体育館は、ほとんどの部員が下校してがらんとしている。
今日珍しく残っているのは、ステージの上で話し込んでいるバド部の先輩四人だけ。
彼らの視線をなるべく意識しないようにスルーしつつ、俺たちはコートの隅っこで、軽いラリーを交わし始めた。
「あっ、やばーい! また変な所に打っちゃった」
「大丈夫、角度はバッチリじゃん。もうちょい、シャトルの下に入り込めると良いんじゃない?」
床に落ちたシャトルの下へ、滑り込ませるようにラケットの側面を這わせ、手を使わずにひょいと掬い上げる。
雀部なりに、ちゃんと一生懸命やってんだけどな。
今はまだ打ち返すのに必死で、体がずっと正面を向いたままだ。そのぎこちない動きを見ていたら手助けしたくなって、俺はシャトルを打ち返す前に一歩踏み出し、見本を示すように自分の肘の形を作ってみせた。
「ラケットはもうちょっと立ててみたら? 打つ時も、こう……肘から先を押し出す感じで」
「すごい、やっぱり叶羽の説明って分かりやすい! なんか、専属のコーチみたい」
パッと顔を輝かせながら、見よう見まねでフォームを実践する雀部。
コーチは流石に言いすぎだけど、褒められて悪い気はしない。込み上げてくる気恥ずかしさを払うように、俺はラケットのグリップをきゅっと握り直しながら話をそらした。
「そんなことないって。ほら、もう一回やってみよう」
キュッ、と体育館の床を擦るシューズの音が響く。
同時に、視線の端でステージの上にいた先輩たちがこちらへ近づいてくるのが見えた。
「よ、雀部。練習、頑張ってんな」
「あっ、お疲れ様です!」
ぞろぞろと歩いてくる四人に声を掛けられ、雀部が慌ててペコッと頭を下げる。
「一年のうちから自主練なんて、真面目で何より」
ただ、先輩たちの視線はすぐに、制服姿の俺のネクタイへと向いた。色で一年生だと分かったんだろう。
「そいつ、バド部じゃないよな。友達?」
「あ、はい。同じクラスの……おっ、とと……!」
話しかけられたことに気を取られたせいで、雀部が俺の打ったクリアを見失ってしまい、シャトルは綺麗な放物線を描いたままコートの外へ大きく逸れていく。
「悪い、雀部。一旦――」
打ち合いを止めようと声をかけた、まさにその瞬間だった。
さっきからすぐ傍らで、一言も発さずに黙って俺たちのやり取りを眺めていた先輩のひとりが、前ぶれもなく一歩を踏み出した。
その手に握られたラケットで、シャトルを跳ね上げ、破裂音が体育館に響き渡る。
逸れて落ちていくはずだったシャトルは、真下へ向けて一直線に叩きつけられ、強烈なスマッシュとなってこっちに戻ってきた。
いやいや、なんでアンタが打ち返して来るんだよ!?
困惑するのと、身体が勝手に動くのはほぼ同時だった。右足を斜め前へ踏み出しながら、体を深く沈め込み、ラケットの面を内側に傾けながら迎え撃つ。
――パシンッ!
乾いた音が体育館の天井まで響き渡った。
先輩の重いスマッシュは俺のラケットによって鮮やかに軌道を変え、コートの奥へとライナーで押し返される。
「……は? マジかよ」
まさか続けてレシーブされるとは思っていなかったんだろう。コートの向こうで先輩の目が点になっている。
だけど、その足は一切止まらない。バックへ振られたシャトルを、体を反転させたハイバックできっちり捉え、今度はストレートで強打してくる。
ネット際へ急激に失速し落ちてくるシャトルに、クロスステップで潜り、ギリギリで拾い上げた。
……なんか、あの人笑ってない? もしかして楽しんでる? いや、でも目はガチだし。何なんだよ、マジで。
心の中で、戸惑いながら毒づくけれど、ラリーは一向に切れない。
ド派手な打ち合いが始まってしまったせいで、雀部も他の先輩たちも置いてけぼりを食っている。
ちら、と視線を戻すと、先輩がわずかに上体を捻り、また強打の構えを見せていた。
やっぱり、この人――めちゃくちゃ上手い。相手の体勢を崩しにくるスピードが速すぎる。
そう肌で感じながらも、俺の目は先輩の視線や肩の開き、手首の角度の僅かな変化を逃さなかった。
直感通り、放たれたのは逆コースを狙うリバースカット。先輩の重心が後ろへ傾いたのを見て、手首のスナップを使ってラケットを差し込む。
ガットの上を転がるように放たれたシャトルは、白帯をギリギリにかすめ、相手コートの床へとぽとりと転がった。
「っしゃオラァ!」
一点をもぎ取った瞬間、俺は思いきり拳を握り込んでいた。
直後、しんと静まり返る体育館。自分の叫び声が響いて、一気に現実に引き戻される。
……やばい、何やってんだ俺。部外者のくせに、興奮しすぎてクソ恥ずかしい雄叫びまであげるとか。
急に恥ずかしくなって慌ててラケットを下げ、真顔に戻ろうとするけど、もう遅い。
静まり返っていた先輩たちが、顔を見合わせながらざわざわと近づいてきた。
「ちょ、なに今の、ヤバいんだけど。アイツ反射神経どうなってんの? 鷹乃がヘアピンで落とされるの初めて見たわ」
「あはは、完全に固まっちゃってんじゃん。おーい、鷹乃。息してる?」
「ショックで死んだっぽい」
驚きと面白がりの混ざった声が飛んできて、ガチで気まずくてしょうがない。
ちらっと見た先輩は、口を半開きにしたまま固まっていた。さっきまであんなに威圧的だったのに、今は年相応で。先輩のその顔を見たら、すっと緊張が抜けてしまった。
隣では雀部も、化け物を見るような目で俺をガン見したままフリーズしている。
「あ、もう下校時刻じゃん。雀部、行こう」
「えっ……叶羽、待って。俺、まだ着替えてない!」
「じゃあ、先に昇降口で待ってるから」
逃げるように手を振って退散しようとしたら、二歩も進まないうちに道を塞がれた。目の前には肩を上下させ、息を切らす先輩が立っている。
汗で額に張り付いたセンターパートのグレージュの髪。切れ長の目に、すっと通った鼻筋。ぶっちゃけ、めちゃくちゃイケメンだ。顔が良いのはガチで認める。
でも、その整った顔でブチギレ一歩手前の表情をされると、威圧感が半端ない。
完全に目が据わっていて、全身から漂うオーラが冷たすぎる。獲物を見定めた猛禽類みたいな強い眼差し。第一印象は一言、「怖い」に尽きた。
「待てよ。お前、体験入部のとき居なかったよな? 名前教えろよ」
「いや、あの、ただの奇跡です。俺、普通に帰宅部の一年なんで」
苛立ちをにじませたその口調からは、さっきの勝負で負けた悔しさがこれでもかと溢れ出ていた。
「帰宅部!? おい待てコラ。ただの奇跡で、俺から一点もぎ取れるわけねぇだろ」
苦し紛れの言い訳が余計に火をつけたらしい。
こんな超絶ガン飛ばし状態で迫られたら、いくら顔が良くてもときめき要素はゼロで、ただの脅迫でしかない。高校の先輩って、レベチで怖い生き物じゃん。
圧倒的な目力に押し切られ、俺は渋々スマホを取り出してQRコードを表示させた。
雀部が「レギュラーの先輩もすっごく優しいよ」って言ってたけど、あいつ、絶対に騙されてるとしか思えない。
先輩は自分の黒いスマホをかざして読み取り、画面に名前が表示されると、ほんの一瞬だけ眉間のシワを緩めた。
「ふーん、鴨下……? これ、下の名前なんて読むんだよ」
「叶羽、です。鴨下叶羽」
「……俺は鷹乃利久。バド部の部長やってる。んで、お前。明日から体育館に来い。入部届は俺が用意してやるから――」
いや、無理無理、絶対無理。俺はもうバド部には入らないって決めてるんだ。
あのコートに立つのはもう御免だ。思い出すだけで鳥肌が立つ。せっかくの穏やかな帰宅部ライフが始まったばかりなのに、巻き込まれてたまるかよ。
俺は先輩の横を大きく回り込み、逃げるように背を向けた。
「あっ……おい、逃げるな! 待てよ、鴨下!」
背後から聞こえる怒声と冷やかしを無視する。
俺は自分でもよく分からない謝罪を叫びながら、スマホを握りしめて昇降口まで全力疾走した。
*
家に帰り着くなり、制服を床に脱ぎ散らかしたままベッドへ飛び込む。
あの後、雀部に「いつもと別人みたいで、めちゃくちゃ格好よかった!」と興奮気味に言われたけれど、「まぐれだから」と適当にごまかすしかなかった。
まさかあんな大ごとになるとは思っていなかったし、そもそもの発端は、部活を辞めようか悩む雀部を励まそうとして「昔、ちょっとだけやってた」と口を滑らせたことだ。
少し天然な雀部は今のところ深く疑っていなさそうだし、俺もそれ以上喋るつもりはない。
高校に入って初めてできた、バドと関係のない友達。それが雀部で、俺はこの関係をすごく大事にしたいと思っている。
ポコン、という通知音が聞こえて、スマホの画面に視線を移した。
『今日も練習に付き合ってくれてありがとう!』
律儀に可愛いクマのスタンプ付きでメッセを寄越した雀部に返信しようとしたら、続けてポップアップが表示された。
『顧問には、明日俺から話しておく。十六時に体育館に来い』
画面の左上に表示されたのは「鷹乃利久」の四文字。
……マジか、見なかったことにしたい。普通に怖すぎるんだけど。てか、なんで俺が入部することが大前提で話が進んでるんだよ。
その通知を一旦上に押し戻し、未読のままごろんと仰向けに寝返りを打った。まずは雀部への返信を終わらせてから、もう一度トークを長押しする。
『待ってるからな』
ダメ押しの一撃が来た。なんだこの人、怖いのか優しいのか、どっちなんだ?
だけど、このまま「無理です」って断ったら、速攻で電話がかかってきて電話口でブチギレられそうだし。
俺の中ではすでに「鷹乃先輩=キレるとめちゃくちゃ怖い」という図式が完成している。
「うーん、とりあえず既読だけでもつけるべき、か……?」
正解なんて分からない。唸りながらゴロンと横を向くと、視界の隅にクローゼットの扉が映り込んだ。
……うわ、最悪。見なきゃよかった。
あの扉の奥には、水色のラケットケースや小学生の頃の大量のトロフィー、それに『全国中学校体育大会・男子シングルス 栄誉をたたえて』なんて書かれた賞状が、ぶち込まれたままになっている。
当時は人生のすべてをバドに捧げていた。けれど最後は、本物の天才にボコボコにされて、コートから逃げ出した。……マジで格好悪い俺の黒歴史だ。
だから俺は、この高校での三年間を「普通」の学生生活で埋め尽くすと決めている。
放課後にゲーセンやカラオケで騒いだり、マックで駄弁って笑ったり、週末は駅前で買い物したり。そんな当たり前の日常を、楽しい思い出だけでいっぱいにしたい。だから、どれだけ先輩に誘われても、俺は絶対に靡いたりしない。
クローゼットから目を逸らし、スマホを枕元に放り投げて手首で視界を塞ぐ。
目を閉じても、体育館で立ちはだかった鷹乃先輩の顔がなかなか消えてくれないのは、なんでだろう。
俺は布団を頭まで被って、自分の「巣」のなかに現実逃避を決め込んだ。
「いいよ、どうせ暇だし」
高校入学から一ヶ月が経った五月。クラスで席が隣同士になった雀部とは、あっという間に仲良くなった。
家の方角が同じということもあって、週に何回か一緒に帰る約束をしている。帰宅部の俺は、彼の部活が終わるまでの間、外の階段で本を読んだり宿題をしたりして待つ。そういう習慣が、気づけばすっかり日常の一部になっていた。
「クリアが苦手だから、ちょっと高めに打ってくれる?」
「ん、おっけー」
運動部初心者としてバドミントン部に入部した雀部は、周りのペースについていけないことを気にして、部活後にも自主練する日がある。
高窓から夕陽が差し込む体育館は、ほとんどの部員が下校してがらんとしている。
今日珍しく残っているのは、ステージの上で話し込んでいるバド部の先輩四人だけ。
彼らの視線をなるべく意識しないようにスルーしつつ、俺たちはコートの隅っこで、軽いラリーを交わし始めた。
「あっ、やばーい! また変な所に打っちゃった」
「大丈夫、角度はバッチリじゃん。もうちょい、シャトルの下に入り込めると良いんじゃない?」
床に落ちたシャトルの下へ、滑り込ませるようにラケットの側面を這わせ、手を使わずにひょいと掬い上げる。
雀部なりに、ちゃんと一生懸命やってんだけどな。
今はまだ打ち返すのに必死で、体がずっと正面を向いたままだ。そのぎこちない動きを見ていたら手助けしたくなって、俺はシャトルを打ち返す前に一歩踏み出し、見本を示すように自分の肘の形を作ってみせた。
「ラケットはもうちょっと立ててみたら? 打つ時も、こう……肘から先を押し出す感じで」
「すごい、やっぱり叶羽の説明って分かりやすい! なんか、専属のコーチみたい」
パッと顔を輝かせながら、見よう見まねでフォームを実践する雀部。
コーチは流石に言いすぎだけど、褒められて悪い気はしない。込み上げてくる気恥ずかしさを払うように、俺はラケットのグリップをきゅっと握り直しながら話をそらした。
「そんなことないって。ほら、もう一回やってみよう」
キュッ、と体育館の床を擦るシューズの音が響く。
同時に、視線の端でステージの上にいた先輩たちがこちらへ近づいてくるのが見えた。
「よ、雀部。練習、頑張ってんな」
「あっ、お疲れ様です!」
ぞろぞろと歩いてくる四人に声を掛けられ、雀部が慌ててペコッと頭を下げる。
「一年のうちから自主練なんて、真面目で何より」
ただ、先輩たちの視線はすぐに、制服姿の俺のネクタイへと向いた。色で一年生だと分かったんだろう。
「そいつ、バド部じゃないよな。友達?」
「あ、はい。同じクラスの……おっ、とと……!」
話しかけられたことに気を取られたせいで、雀部が俺の打ったクリアを見失ってしまい、シャトルは綺麗な放物線を描いたままコートの外へ大きく逸れていく。
「悪い、雀部。一旦――」
打ち合いを止めようと声をかけた、まさにその瞬間だった。
さっきからすぐ傍らで、一言も発さずに黙って俺たちのやり取りを眺めていた先輩のひとりが、前ぶれもなく一歩を踏み出した。
その手に握られたラケットで、シャトルを跳ね上げ、破裂音が体育館に響き渡る。
逸れて落ちていくはずだったシャトルは、真下へ向けて一直線に叩きつけられ、強烈なスマッシュとなってこっちに戻ってきた。
いやいや、なんでアンタが打ち返して来るんだよ!?
困惑するのと、身体が勝手に動くのはほぼ同時だった。右足を斜め前へ踏み出しながら、体を深く沈め込み、ラケットの面を内側に傾けながら迎え撃つ。
――パシンッ!
乾いた音が体育館の天井まで響き渡った。
先輩の重いスマッシュは俺のラケットによって鮮やかに軌道を変え、コートの奥へとライナーで押し返される。
「……は? マジかよ」
まさか続けてレシーブされるとは思っていなかったんだろう。コートの向こうで先輩の目が点になっている。
だけど、その足は一切止まらない。バックへ振られたシャトルを、体を反転させたハイバックできっちり捉え、今度はストレートで強打してくる。
ネット際へ急激に失速し落ちてくるシャトルに、クロスステップで潜り、ギリギリで拾い上げた。
……なんか、あの人笑ってない? もしかして楽しんでる? いや、でも目はガチだし。何なんだよ、マジで。
心の中で、戸惑いながら毒づくけれど、ラリーは一向に切れない。
ド派手な打ち合いが始まってしまったせいで、雀部も他の先輩たちも置いてけぼりを食っている。
ちら、と視線を戻すと、先輩がわずかに上体を捻り、また強打の構えを見せていた。
やっぱり、この人――めちゃくちゃ上手い。相手の体勢を崩しにくるスピードが速すぎる。
そう肌で感じながらも、俺の目は先輩の視線や肩の開き、手首の角度の僅かな変化を逃さなかった。
直感通り、放たれたのは逆コースを狙うリバースカット。先輩の重心が後ろへ傾いたのを見て、手首のスナップを使ってラケットを差し込む。
ガットの上を転がるように放たれたシャトルは、白帯をギリギリにかすめ、相手コートの床へとぽとりと転がった。
「っしゃオラァ!」
一点をもぎ取った瞬間、俺は思いきり拳を握り込んでいた。
直後、しんと静まり返る体育館。自分の叫び声が響いて、一気に現実に引き戻される。
……やばい、何やってんだ俺。部外者のくせに、興奮しすぎてクソ恥ずかしい雄叫びまであげるとか。
急に恥ずかしくなって慌ててラケットを下げ、真顔に戻ろうとするけど、もう遅い。
静まり返っていた先輩たちが、顔を見合わせながらざわざわと近づいてきた。
「ちょ、なに今の、ヤバいんだけど。アイツ反射神経どうなってんの? 鷹乃がヘアピンで落とされるの初めて見たわ」
「あはは、完全に固まっちゃってんじゃん。おーい、鷹乃。息してる?」
「ショックで死んだっぽい」
驚きと面白がりの混ざった声が飛んできて、ガチで気まずくてしょうがない。
ちらっと見た先輩は、口を半開きにしたまま固まっていた。さっきまであんなに威圧的だったのに、今は年相応で。先輩のその顔を見たら、すっと緊張が抜けてしまった。
隣では雀部も、化け物を見るような目で俺をガン見したままフリーズしている。
「あ、もう下校時刻じゃん。雀部、行こう」
「えっ……叶羽、待って。俺、まだ着替えてない!」
「じゃあ、先に昇降口で待ってるから」
逃げるように手を振って退散しようとしたら、二歩も進まないうちに道を塞がれた。目の前には肩を上下させ、息を切らす先輩が立っている。
汗で額に張り付いたセンターパートのグレージュの髪。切れ長の目に、すっと通った鼻筋。ぶっちゃけ、めちゃくちゃイケメンだ。顔が良いのはガチで認める。
でも、その整った顔でブチギレ一歩手前の表情をされると、威圧感が半端ない。
完全に目が据わっていて、全身から漂うオーラが冷たすぎる。獲物を見定めた猛禽類みたいな強い眼差し。第一印象は一言、「怖い」に尽きた。
「待てよ。お前、体験入部のとき居なかったよな? 名前教えろよ」
「いや、あの、ただの奇跡です。俺、普通に帰宅部の一年なんで」
苛立ちをにじませたその口調からは、さっきの勝負で負けた悔しさがこれでもかと溢れ出ていた。
「帰宅部!? おい待てコラ。ただの奇跡で、俺から一点もぎ取れるわけねぇだろ」
苦し紛れの言い訳が余計に火をつけたらしい。
こんな超絶ガン飛ばし状態で迫られたら、いくら顔が良くてもときめき要素はゼロで、ただの脅迫でしかない。高校の先輩って、レベチで怖い生き物じゃん。
圧倒的な目力に押し切られ、俺は渋々スマホを取り出してQRコードを表示させた。
雀部が「レギュラーの先輩もすっごく優しいよ」って言ってたけど、あいつ、絶対に騙されてるとしか思えない。
先輩は自分の黒いスマホをかざして読み取り、画面に名前が表示されると、ほんの一瞬だけ眉間のシワを緩めた。
「ふーん、鴨下……? これ、下の名前なんて読むんだよ」
「叶羽、です。鴨下叶羽」
「……俺は鷹乃利久。バド部の部長やってる。んで、お前。明日から体育館に来い。入部届は俺が用意してやるから――」
いや、無理無理、絶対無理。俺はもうバド部には入らないって決めてるんだ。
あのコートに立つのはもう御免だ。思い出すだけで鳥肌が立つ。せっかくの穏やかな帰宅部ライフが始まったばかりなのに、巻き込まれてたまるかよ。
俺は先輩の横を大きく回り込み、逃げるように背を向けた。
「あっ……おい、逃げるな! 待てよ、鴨下!」
背後から聞こえる怒声と冷やかしを無視する。
俺は自分でもよく分からない謝罪を叫びながら、スマホを握りしめて昇降口まで全力疾走した。
*
家に帰り着くなり、制服を床に脱ぎ散らかしたままベッドへ飛び込む。
あの後、雀部に「いつもと別人みたいで、めちゃくちゃ格好よかった!」と興奮気味に言われたけれど、「まぐれだから」と適当にごまかすしかなかった。
まさかあんな大ごとになるとは思っていなかったし、そもそもの発端は、部活を辞めようか悩む雀部を励まそうとして「昔、ちょっとだけやってた」と口を滑らせたことだ。
少し天然な雀部は今のところ深く疑っていなさそうだし、俺もそれ以上喋るつもりはない。
高校に入って初めてできた、バドと関係のない友達。それが雀部で、俺はこの関係をすごく大事にしたいと思っている。
ポコン、という通知音が聞こえて、スマホの画面に視線を移した。
『今日も練習に付き合ってくれてありがとう!』
律儀に可愛いクマのスタンプ付きでメッセを寄越した雀部に返信しようとしたら、続けてポップアップが表示された。
『顧問には、明日俺から話しておく。十六時に体育館に来い』
画面の左上に表示されたのは「鷹乃利久」の四文字。
……マジか、見なかったことにしたい。普通に怖すぎるんだけど。てか、なんで俺が入部することが大前提で話が進んでるんだよ。
その通知を一旦上に押し戻し、未読のままごろんと仰向けに寝返りを打った。まずは雀部への返信を終わらせてから、もう一度トークを長押しする。
『待ってるからな』
ダメ押しの一撃が来た。なんだこの人、怖いのか優しいのか、どっちなんだ?
だけど、このまま「無理です」って断ったら、速攻で電話がかかってきて電話口でブチギレられそうだし。
俺の中ではすでに「鷹乃先輩=キレるとめちゃくちゃ怖い」という図式が完成している。
「うーん、とりあえず既読だけでもつけるべき、か……?」
正解なんて分からない。唸りながらゴロンと横を向くと、視界の隅にクローゼットの扉が映り込んだ。
……うわ、最悪。見なきゃよかった。
あの扉の奥には、水色のラケットケースや小学生の頃の大量のトロフィー、それに『全国中学校体育大会・男子シングルス 栄誉をたたえて』なんて書かれた賞状が、ぶち込まれたままになっている。
当時は人生のすべてをバドに捧げていた。けれど最後は、本物の天才にボコボコにされて、コートから逃げ出した。……マジで格好悪い俺の黒歴史だ。
だから俺は、この高校での三年間を「普通」の学生生活で埋め尽くすと決めている。
放課後にゲーセンやカラオケで騒いだり、マックで駄弁って笑ったり、週末は駅前で買い物したり。そんな当たり前の日常を、楽しい思い出だけでいっぱいにしたい。だから、どれだけ先輩に誘われても、俺は絶対に靡いたりしない。
クローゼットから目を逸らし、スマホを枕元に放り投げて手首で視界を塞ぐ。
目を閉じても、体育館で立ちはだかった鷹乃先輩の顔がなかなか消えてくれないのは、なんでだろう。
俺は布団を頭まで被って、自分の「巣」のなかに現実逃避を決め込んだ。



