ポタポタという雨垂れの音で目が覚める。
昨夜から降り続いている雨は、この部屋の中にも暗い影を落としていた。
だいぶ早い時間だったけれど、音を立てないように、ベッドから抜け出す。
頭が重いような気がしたけど、この雨と、寝不足と、夢見が悪かったせいだろう。
ドアを開ける時に、キーッという音が鳴ってドキリとしたが、カーテンの隙間から見える壱哉は身じろぎもせず寝ていた。
しんと静まり返った廊下に出て、向かったのは食堂。
掃除用具入れからバケツを取り出し、水を満たす。
他の寮生が起きてくる前に、食堂の床の雑巾がけを済ませるのだ。
ひんやりとした水に手をつけると、雨に降られ、びしょ濡れで帰った昨夜のことが思い出される。
俺と壱哉は門限に間に合わなかった。
雨で体が重かったのもあるが、俺の足がなかなか進まなかったのが原因だろう。
そんな俺たちに、寮長の颯先輩は問答無用でペナルティを与えた。
それが、この雑巾がけだ。
でも俺は壱哉にやらせるつもりはない。
これは巻き込んでしまった俺への罰だ。
たっぷり2時間かけて終わらせ、部屋に戻った。
制服に着替えていると、壱哉がのっそりと起き上がる。
「ナツ?おはよう。早いね………って今何時?!」
壱哉はスマホで時間を確認し、文字通り飛び上がった。
「やばいやばい!!ペナルティのこと忘れてた!」
「もう終わったよ」
鏡でネクタイを確認しながら、さらりと告げる。
「はっ?終わったってどういうこと?」
ポカンと口を開けた壱哉を一瞥して、リュックを肩にかけた。
「雑巾がけはもうやった。俺、先に行くな」
「へ?なんでナツが……」
壱哉が何か言いかけたけど、ドアを開けて、振り返らないまま部屋を出た。
学校に早く登校したからと言って、勉強なんてする気にはなれず、机に突っ伏す。
しばらくすると、ポツポツとクラスメイトが教室に入ってきた。
俺を見ると「あれ?なっつん、早いじゃん」とすっかり定着した『なっつん』呼びで声をかけてくるやつもいるが、寝たふりをしてやり過ごす。
俺の心はすっかり小学生に戻っていた。
怖くて情けなくて震えている。
またあの時のように、変な噂を流されるんじゃないか。
わざわざ家から3時間もかかる、寮のある高校を選んだのに、2度と会わないと思っていた辰己に会ってしまった。
何か言いたいことがあるみたいだったけれど、絶対楽しい話なわけがない。
まさか、あいつは俺の通う高校を調べて、追いかけてくるんじゃないだろうか。
それに、何も関係ないと思っていた壱哉が、俺の過去を知っていて……
結局俺は、どんなに遠くに逃げても、あの出来事から逃げられないのかもしれない。
ギーッと椅子を引く音と、ドサッと座る音が隣から聞こえた。
「ナツ?どうした?……ホントに1人で終わらせたんだな。すげぇ大変だっただろ?起こしてくれれば良かったのに」
壱哉の気遣う声がして、長い指がおずおずと俺の髪を撫でる。
「いや、大丈夫」
それしか言うことができず、身をよじって優しい手から逃れた。
壱哉が今どんな顔をしているのかは分からないけれど、何も見たくないし、俺を見てほしくない。
「なっつん、どうしたの?」
「落ちてるもんでも食ったかぁ?」
「ゆうじゃあるまいし」
日向と鍛治原ののんびりした会話が聞こえても、俺はあえて返事をしなかった。
もう誰も、俺に関わらないほうがいい。
どうせ失うくらいなら、自分から手放すんだ。
異常に頭が重い。
4時間目が終わるころには、目を開けているのも辛くなってきた。
瞬きをすると、目の奥がズキズキと痛む。
「ナツ、お昼……」
壱哉は休み時間のたびに、俺に話しかけてきた。
「さっきの説明分かった?」とか「居眠りしてたらガクッてなった」とか。
何でもないような日常の会話をしようとしてくれているのは分かってる。
今はその優しさが辛くて、放っておいてほしくて、俺は顔を背け続けた。
「「おーい、なっつーん」」
そんな俺に鍛治原と日向が痺れを切らしたようで、揃って机の前にしゃがみ、顔を覗き込んできた。
目を合わせられず、不自然に顔をそらす。
「なんだよ!何かあったのか?まいでんてぃてぃの危機ってやつですかぁ?………あれ?なっつん、顔赤くねぇ?ちょっと、はーくん」
呼ばれた日向が
「ホントだ」
と言って、額に手を当てる。
「うわっ!やばいよ!相当熱ある」
日向が叫ぶと、隣の椅子がガタッと派手な音を立てた。
「ナツ!」
壱哉が鍛治原と日向を押しのけて机の前まで来ると、両手で俺の頬を包み、グイッと顔を上げさせた。
その目には心配の色が浮かんでいる。
弱々しく振り払おうとするが、
「立てる?保健室行こう!」
と言って、俺の腕を引っ張って立たせた。
俺は膝に力が入らず、壱哉に向かって体が傾く。
壱哉が切羽詰まったように叫んだ。
「日向!おんぶするから手伝って!」
日向と鍛治原に支えられて、拒む隙もなく、壱哉の背中に乗る。
その首元に顔を寄せると、壱哉のにおいがして、無条件に安心している自分を殴りたくなった。
保健室につくと、すぐにベッドに降ろされた。
熱を測ると『38.5』
養護教諭の松浦先生は、わぁわぁと騒ぐ3人をさっさと追い出し、保健室はすっきりとした静寂に包まれた。
「風邪かなぁ。ちょっと様子を見ましょうか」
俺は目を閉じたまま、無言で頷く。
「浅間くん、寮だよね?あんまり熱が長引くようなら、おうちの人に連絡して、自宅で静養してもらわないとだけど」
今度はゆっくり首を横に振る。
1人で家計を支える母さんに、これ以上迷惑はかけられない。
「ま、要相談だね。熱だけじゃなくて、寝不足もあるでしょう?酷い顔してるわよ。とりあえず今は寝なさい」
蛍光灯の明かりがパッと消えると、サァサァと振る雨の音が鮮明になった。
昼休みの廊下の喧騒から離れ、この雨の中に1人、閉じ込められてしまったようだ。
それが寂しくもあるが、今は安堵する。このまま誰も俺を知らない世界に行きたい。
そこまで考えて、『そんなことできるはずない』と自虐的に笑う。
彼らを突き放したはずなのに、1人では何もできない俺は、結局助けられてしまった。
起きたらお礼だけはきちんと言わないと。
だけど今はとにかく体が重くて、雨の檻に閉じ込められたまま無意識の沼へ落ちていった。
昨夜から降り続いている雨は、この部屋の中にも暗い影を落としていた。
だいぶ早い時間だったけれど、音を立てないように、ベッドから抜け出す。
頭が重いような気がしたけど、この雨と、寝不足と、夢見が悪かったせいだろう。
ドアを開ける時に、キーッという音が鳴ってドキリとしたが、カーテンの隙間から見える壱哉は身じろぎもせず寝ていた。
しんと静まり返った廊下に出て、向かったのは食堂。
掃除用具入れからバケツを取り出し、水を満たす。
他の寮生が起きてくる前に、食堂の床の雑巾がけを済ませるのだ。
ひんやりとした水に手をつけると、雨に降られ、びしょ濡れで帰った昨夜のことが思い出される。
俺と壱哉は門限に間に合わなかった。
雨で体が重かったのもあるが、俺の足がなかなか進まなかったのが原因だろう。
そんな俺たちに、寮長の颯先輩は問答無用でペナルティを与えた。
それが、この雑巾がけだ。
でも俺は壱哉にやらせるつもりはない。
これは巻き込んでしまった俺への罰だ。
たっぷり2時間かけて終わらせ、部屋に戻った。
制服に着替えていると、壱哉がのっそりと起き上がる。
「ナツ?おはよう。早いね………って今何時?!」
壱哉はスマホで時間を確認し、文字通り飛び上がった。
「やばいやばい!!ペナルティのこと忘れてた!」
「もう終わったよ」
鏡でネクタイを確認しながら、さらりと告げる。
「はっ?終わったってどういうこと?」
ポカンと口を開けた壱哉を一瞥して、リュックを肩にかけた。
「雑巾がけはもうやった。俺、先に行くな」
「へ?なんでナツが……」
壱哉が何か言いかけたけど、ドアを開けて、振り返らないまま部屋を出た。
学校に早く登校したからと言って、勉強なんてする気にはなれず、机に突っ伏す。
しばらくすると、ポツポツとクラスメイトが教室に入ってきた。
俺を見ると「あれ?なっつん、早いじゃん」とすっかり定着した『なっつん』呼びで声をかけてくるやつもいるが、寝たふりをしてやり過ごす。
俺の心はすっかり小学生に戻っていた。
怖くて情けなくて震えている。
またあの時のように、変な噂を流されるんじゃないか。
わざわざ家から3時間もかかる、寮のある高校を選んだのに、2度と会わないと思っていた辰己に会ってしまった。
何か言いたいことがあるみたいだったけれど、絶対楽しい話なわけがない。
まさか、あいつは俺の通う高校を調べて、追いかけてくるんじゃないだろうか。
それに、何も関係ないと思っていた壱哉が、俺の過去を知っていて……
結局俺は、どんなに遠くに逃げても、あの出来事から逃げられないのかもしれない。
ギーッと椅子を引く音と、ドサッと座る音が隣から聞こえた。
「ナツ?どうした?……ホントに1人で終わらせたんだな。すげぇ大変だっただろ?起こしてくれれば良かったのに」
壱哉の気遣う声がして、長い指がおずおずと俺の髪を撫でる。
「いや、大丈夫」
それしか言うことができず、身をよじって優しい手から逃れた。
壱哉が今どんな顔をしているのかは分からないけれど、何も見たくないし、俺を見てほしくない。
「なっつん、どうしたの?」
「落ちてるもんでも食ったかぁ?」
「ゆうじゃあるまいし」
日向と鍛治原ののんびりした会話が聞こえても、俺はあえて返事をしなかった。
もう誰も、俺に関わらないほうがいい。
どうせ失うくらいなら、自分から手放すんだ。
異常に頭が重い。
4時間目が終わるころには、目を開けているのも辛くなってきた。
瞬きをすると、目の奥がズキズキと痛む。
「ナツ、お昼……」
壱哉は休み時間のたびに、俺に話しかけてきた。
「さっきの説明分かった?」とか「居眠りしてたらガクッてなった」とか。
何でもないような日常の会話をしようとしてくれているのは分かってる。
今はその優しさが辛くて、放っておいてほしくて、俺は顔を背け続けた。
「「おーい、なっつーん」」
そんな俺に鍛治原と日向が痺れを切らしたようで、揃って机の前にしゃがみ、顔を覗き込んできた。
目を合わせられず、不自然に顔をそらす。
「なんだよ!何かあったのか?まいでんてぃてぃの危機ってやつですかぁ?………あれ?なっつん、顔赤くねぇ?ちょっと、はーくん」
呼ばれた日向が
「ホントだ」
と言って、額に手を当てる。
「うわっ!やばいよ!相当熱ある」
日向が叫ぶと、隣の椅子がガタッと派手な音を立てた。
「ナツ!」
壱哉が鍛治原と日向を押しのけて机の前まで来ると、両手で俺の頬を包み、グイッと顔を上げさせた。
その目には心配の色が浮かんでいる。
弱々しく振り払おうとするが、
「立てる?保健室行こう!」
と言って、俺の腕を引っ張って立たせた。
俺は膝に力が入らず、壱哉に向かって体が傾く。
壱哉が切羽詰まったように叫んだ。
「日向!おんぶするから手伝って!」
日向と鍛治原に支えられて、拒む隙もなく、壱哉の背中に乗る。
その首元に顔を寄せると、壱哉のにおいがして、無条件に安心している自分を殴りたくなった。
保健室につくと、すぐにベッドに降ろされた。
熱を測ると『38.5』
養護教諭の松浦先生は、わぁわぁと騒ぐ3人をさっさと追い出し、保健室はすっきりとした静寂に包まれた。
「風邪かなぁ。ちょっと様子を見ましょうか」
俺は目を閉じたまま、無言で頷く。
「浅間くん、寮だよね?あんまり熱が長引くようなら、おうちの人に連絡して、自宅で静養してもらわないとだけど」
今度はゆっくり首を横に振る。
1人で家計を支える母さんに、これ以上迷惑はかけられない。
「ま、要相談だね。熱だけじゃなくて、寝不足もあるでしょう?酷い顔してるわよ。とりあえず今は寝なさい」
蛍光灯の明かりがパッと消えると、サァサァと振る雨の音が鮮明になった。
昼休みの廊下の喧騒から離れ、この雨の中に1人、閉じ込められてしまったようだ。
それが寂しくもあるが、今は安堵する。このまま誰も俺を知らない世界に行きたい。
そこまで考えて、『そんなことできるはずない』と自虐的に笑う。
彼らを突き放したはずなのに、1人では何もできない俺は、結局助けられてしまった。
起きたらお礼だけはきちんと言わないと。
だけど今はとにかく体が重くて、雨の檻に閉じ込められたまま無意識の沼へ落ちていった。


