墨染式部日記 〜或る中宮付女房の聞き伝へ〜

 めでたきことあり。
 中宮さま、御腹(妊娠)のこと。ご退出(出産のための里帰り)にて登華殿の朝夕のこと静かにて、私も久方ぶりに家に戻りましてございます。

 昔より少しばかり老いた父と家人たちに迎えられ、軒下に佇み、ただ静かに過ごしてばかりおります。
 この旧き家は亡き祖父が建てた鴨川近くの館にて、幼い頃より過ごし、慣れ親しんだ我が家でございます。中宮さまにお仕えするようになって三年が過ぎてもなお、時折戻るならと私の部屋いつかのままに留め置かれておりました。
 化粧箱の奥底にしまい込みました小箱を取り出しますと、赤黒くにじんで薄汚れた懐紙がただ一枚、納められております。強く触れれば破れてしまうほどにくたびれた紙を、絹や錦のようにそっと開きますと

『なつきぬと ならびてすすむ かげひとつ』

力強い文字で書かれております。

「何度読んでもひどい歌……。漢籍は読めても、人の風情もわからぬ頭でっかち……」

 懐から真新しい紙を取り出し、書きかけの上の句に合わせて筆を取ります。

『さらぬわかれを いかんとぞせむ』

「返事も寄越さぬ男に、どうしたら良いと言うのよ」

 書いた紙に斜めに大きく筆を立て、物憂げに見つめておりますと、老いた乳母の大きな声が屋敷に響いてまいります。

「那津さまー!亀寿丸さまがお見えになりましたよー!」

 深く息をして、両の頬を叩いて己を奮い立たせると、庇(リビング・ダイニングのこと)に向かいます。

 父上の向かいに、年若い男が真新しい衣を着て座っております。前の蔵人の雑色、幼き頃の亀丸にございました。

「那津さま、お久しうございます。亀丸にございます」

 幼き頃の面影がそのままに、童のような笑い顔を向けて参りますから、駆け寄って野山にでも連れ出したい気持ちにかられます。

「お久しう。お召し物を改めて、似合うていないようじゃが、如何したのか?」

 父上が私の嫌味を嗜めてまいりますが、亀丸は怒るどころか嬉しそうに頬をかき、父上と私に深々と頭を下げてから、口上いたします。

「此度、六位蔵人に任官いただきました。長く散位にございましたので、先生、那津さま、お家の皆さまにはご心配をお掛けし、並々ならぬご厚情を賜りました。これ以降は、ご恩返しができるよう、努めて参ります」

「なんと。それは良かった!良かった!亀寿丸は我が門弟の中でも、特に才があった。しかも蔵人とは、格別のお役ではないか。必ずや帝のお役に立てるに違いない」

「恩返しは鶴の得意と聞きますが、亀もなさるのですね」

 鶴と申しますと、父上や乳母たちはお顔を曇らせますが、亀丸はまたにこやかに笑いまして、「はい」と返事をいたましす。

「鶴のできなかったご恩返しも、まとめて亀がいたします。何せ、鶴は千寿にございますが、亀には万寿もございます。差し引き九千もあれば、先生たちへのご恩返しも何とかできましょう」

 朗らかに笑う亀丸に、父上たちは声を上げてお笑いになります。私が言いくるめられたことが余程面白いのでしょう。私とて、腹立たしく思いながらも、亀丸の知恵者ぶりには、賢き公卿さまがたのお振る舞いに似て見えて、頼もしくも思えました。

「し、しかし、恩返しなぞに気を取られていては、官吏のお勤めは厳しいものと聞きますゆえ、何者かに足など掬われ、また散位に逆戻りになるのではございませんか」

「わかっております。清きも濁りもあいなべて、お仕え申し上げて参ります」

「朴念仁は、人の機微に疎いもの。常に気を抜かぬように」

 私の指南に、父上はどこぞの公卿さまのようだとまたお笑いになります。
 学問一筋の父上より、宮中の様々を見て参りました私の方が、政というものを知っているようにも思いますが、いつかのことをむし返すようで、口を噤んでやり過ごすことにいたします。

「さて、此度の任官、急なことだが、どなたかの推挙があったのか?」

「亀丸にも仔細はわかりませぬが、登華殿の賢人の勧め、と関白さまがおっしゃられました。登華殿であれば、那津さまは何かご存知ではありませぬか」

 みなの目が一様に私に向かいます。
 座りが悪く咳払いなどいたしまして、秘かごとであると念押ししてから、いつぞやの話を聞かせます。

「帝と関白さまが登華殿でお話になられ、登華殿の者たちが知る誰よりも賢き者を取り立てることとなりました。二位中納言さまが、蔵人頭でありましたころに、文章得業生であった雑色の中に、格別の働きの者がいたと思い出されたのでございます」

「登華殿の賢人とは、二位中納言さまか?」

「帝と中宮さま、関白さまに二位中納言さまのお話し合いのことを、賢人となぞらえたのでございましょう。亀丸は、よくお仕えして、ご恩に報いなさい。父上への恩返しはその次でよい」

 名だたる貴人のお名前に、家人たちは言葉を飲み、父上も帝や関白のご指名と聞いては、亀丸の顔を見ては涙を堪えるほとでございます。

 子を成し家を繋ぐことが女人に課された使命ではございましたが、冷たくなった鶴丸の傍で、泣く代わりに墨染がが誓いましたことが、二つございます。

 一つは、鶴丸が歩むはずだった道を亀丸が歩み易いように昼に夜にと照らすこと。道が途切れそうになれば、繋ぎ、二又に分かれれば、良き道の標となる。権謀術数渦巻く政の中で、後ろ盾となる良き方を探し出す。

 もう一つは、鶴丸の仇を見つけ出すこと。引いては仇に相応しき報いを与えること。宮中に入ったことは、亀丸の支えとなるためなれど、かしこきところに集まる人々の口に上がる様々を聞いて、未だわからぬ仇に繋がる知らせを得ることが墨染の本意でございました。

 亀は鶴の恩返しを、夏は鶴の仇討ちを、生きる甲斐と定めたのでございます。
 恩と仇のゆく末はまだ誰も知らぬところでございました。