墨染式部日記 〜或る中宮付女房の聞き伝へ〜

 いつごろのことであったか。
 まだ年端も行かぬ童であったころ、母上も心配するほどに、野山を駆けまわり、川で魚を取るような、女子に相応しからざる振る舞いをしておりました。

 家におりますと、父上が開いております私学に、家近くの子弟など参りまして、四書五経など読み上げ、誦じ、写しなど取っておりますから、身の置き場もなく、外に出るより他にございませんでした。

 父上の門弟の中には、私と同じ年ごろの、身分低い家の童が幾人かおり、学問など習う術も普通はございませんから、その親御などは喜んで通わせておりました。
 父上は、文章博士(もんじょうはかせ)の職を賜っておりましたゆえ、みな一様に、先生、と呼び掛けます。先生の娘は、およそ女子には見えぬほどに肌を焼いて、土に汚れた乞食のようだと、年かさの者たちはみな、影で笑っているのを私は存じておりました。
 ただ、年近い童たちは、学問などより野を駆ける方が楽しく、私が取ってきた魚や木の実などに目を輝かせ、私の腕自慢を聞いてくれるのでした。
 このような有り様でございましたが、血筋というものなのでしょうか、針ものなど女子の得意は不得手なれど、書を読み、文字を書くのは好きでございまして、父母に隠れて、男子たちにその日の習いなど教わり、十になるころには四書五経はもちろんのこと、李白や杜甫の詩歌まで誦じ、本朝の書も日本書紀、風土記から古今集、凌雲集と見聞きしたものはすべて覚えておりました。

 父上の教えるを盗み見て、子らに魚の代わりに写しを見せてもらうなどして、三年が過ぎたころ、流石に父母にも私の行いが明らかになりました。しかしながら、父上は呆れた顔をされながら、いささか嬉しそうでもあり、そなたが男の子であれば、と言っては私を膝上に、秘蔵の書物など読んで聞かせてくれるようになりました。

 同じ年ごろの子らの中に、父上も目を見張る才ある男子がおりました。名を千鶴丸とか申しまして、年かさの者たちよりも賢く、私と学問の話に釣り合いが取れるのは、千鶴丸だけでしたから、私はその者を鶴丸と呼んで、学びの友としておりました。
 鶴丸は私より一つ年上にございまして、家は我が家よりも身分低く、鶴丸の父は検非違使の下官でございました。

 鶴丸は志高く、いずれは文章生として、我が父に学び、対策(官僚の登用試験)に及び、官職を得んと語っておりました。対策は、語るに易くないと聞き及んでおりましたが、鶴丸が及ばぬとなれば、他に誰ぞが受かるものかと思うほどに、鶴丸は賢くありました。

「対策ごとき、そなたなら受かろう」

 他に誰ぞ、と言いますと、決まって鶴丸は、私ならば受かると申すのです。私は女子にございますれば、対策を受けること叶わず、と決まって返します。

「されば、さればこそ、そなたの知恵で女子にも受けられるようにすれば良い。それができぬなら、女官、女房で以て、政に重きを成せば良い」

 まるで自分が摂関の位にでもあるかのような口ぶりにて、私に正道など説いてくるのでございます。
 夢見ごこちの鶴丸に対し、私はうつし世を少しばかり知っておりましたゆえ、叶わぬものは叶わぬと、ただ微笑むばかりにございました。

 夢は叶わずとも、学ぶことからは離れがたく、二人してあれやこれやと賢人の教えをこれは如何や、あれは如何にと競い合い、気づけば私が十二、鶴丸は十三となり、文章博士(もんじょうはかせ)である父上の推薦を受け七位の家の子なれど、学才とみに秀いでたるとして、鶴丸は文章生となりした。
 鶴丸には歳の離れた弟がおりまして、名を亀寿丸と申しました。私は亀丸と呼んでおりましたが、鶴丸が文章生として大学に上がるを二人して喜び合いました。

 鶴丸が大学に上がり、代わりに亀丸に文字など教えて過ごすようになったある日のこと、館で寛いでおりました父上のところに、文章寮の役人が駆け込んで参りました。酷く狼狽した様子の大人を見るのは、これが初めてでございましたゆえ、何事かあったに違いないと察し、亀丸が次の字をせがむのも気づかずに、ただただ、父上の背中を見送るばかりでございました。
 気掛かりでございましたのは、父上が、鶴丸、と口にしたように覚えたことにございました。

 嫌な兆しというのは当たるもので、次に見た鶴丸は、土気色をして青白い唇をした骸でございました。泣き縋る鶴丸の父母と、何もわからぬ亀丸と、口を真一文字に閉ざした父上の中、私だけが、何か空事のように感じておりまして、泣くでもなく、怒るでもなく、漫然と立ち尽くすばかりでございました。

 役人の言うことには、馬寮の馬が逃げ出して、大学を暴れ回ったおり、運悪く鶴丸が後ろ足に蹴り上げられたということでございます。
 ただ、見るに馬のひと蹴りというには、腫れ上がった顔や手足の多いこと、いずれも馬の蹄には見えず、衣の下だというに、背中に切り傷など見受けられましたので、馬というのも馬頭牛頭のような類にはあらずらんや。

 ただひとえに、この悪鬼のことつまびらかにいたし、陰陽師の術にて調伏し奉らんことを、今も請い願うばかりにございます。
 人の心に潮目のごとき変わり目があるといたしましたら、私にとっての満ち引きの境は、まさに鶴丸の手向けに涙の一つも流すことができなかったこの日にございます。

 力なき女人に、なんぞ仇の打ち方などありましょうや。まして、権謀術数あまた渦巻く宮中官吏の人中に、証もなき仇を探すことなどできましょうや。

 鬼の棲家に分け入りて、鶴の足跡を探したく存じます。

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