ある日のことでございます。墨染式部とは局が隣同士の女房、小宰相の君が夕方のお仕えを終えてから、墨染の元を訪れました。
この宰相の君という方は、中宮さまの御父君・関白左大臣さまの懐刀、二位参議さまを父に、冷泉帝の三世の女王(ひ孫)を母に持つやんごとなき生まれの女房でございます。
「墨染、おもしろい話があるの」
「今は筆が乗っているから後にしてくださる?」
同じ女房とはいえ、はるかに身分の高い小宰相が局を訪れても、墨染は相変わらず、筆を持って紙にばかり向いて、物語りに思いを馳せております。
それでもこうして墨染を好んで訪ねて参りますから、小宰相もなかなかの胆力の持ち主でございます。
「赫子内親王さまをご存知かしら?」
「小宰相さまにはお耳がないのかしら」
「どうせ、その筆もすぐに止まるのだから構わないでしょう?」
「随分と自信がおありなのね。言って聞かぬとおっしゃるなら、聞いて鎮める方が良さそうね」
墨染の嫌味事をものともしない類の方には二種類おりまして、学のない浅はかな者と、先回って墨染の嫌味を心得るほど優れて賢き者のいずれかにございます。
「夕餉まで時間もあるのだから、じっくりと聞いて頂戴」
「内親王さまのお話しだったからしら?亡き朱雀帝の末の姫宮さまでいらっしゃったかしら」
「そうよ。主上の又従姉でもあるわ。私の実家とは邸が隣同士で、母上さまとは醍醐の帝を通じて遠縁に当たる方よ」
「小宰相さまも同じ醍醐帝のお血筋だというのに、進んで宮仕えをしようなんて、変わった人よね」
小宰相の父君、二位参議さまといえば、世に今孔明(現代の諸葛孔明、博学多才の意味)と呼ばれ、学識高い人物にございますれば、小宰相も幼き頃より書を好み、墨染にこそ及ばざるとも才媛の呼び声高く、女官職を志して中宮様にお仕えしたという話でございます。
「私のことはあずかり知らず、内親王さまは朱雀帝とその中宮さまが、朝夕の慰みにと乳母などに任せずに、手元においてお育てになられて、荘園の数も他の内親王さまはもとより、いずれの親王さまより、果ては東宮さまよりも多くお与えになられたものだから、言い寄る殿方も数知れず、しかし、諍いにならぬ様にとお一人でお過ごしでいらっしゃったわ。でも、つい先ごろ、想いの方をお定めになられたの」
「良かったではないの。それが何か問題なの?相応しからざる身分の方か、いずれの御時にか仇なした末の方(昔反乱でも起こした血筋の方)か」
「それはそれで、心躍るような恋ではあるけれど、内親王さまの想い人は、霧のように消えていなくなってしまわれたのよ」
「去った(別れた)、ということではなく、消えた?」
ようやく墨染が筆を止めて小宰相に顔をお向けになりました。
これはしたりと小宰相は笑みを浮かべ、ここが話の肝だと言わんばかりに何度も頷きます。
「そう。誰に聞いても、かような殿方がどこに行ったのかわならないと言うの。内親王さまのところに通われる姿も、後見人で外叔父に当たる蔵人頭の右中弁さまと邸の家人が数人しか知らないというから、手掛かりがないの。一体どこに行ってしまわれたのやら」
「あなた、まさか、その霧の君を探せとでもおっしゃりたいの?」
「私、墨染のそういうところ、とても好ましく思っているわ。霧の君、というのもいいわね」
小宰相が懐から包みを差し出します。
墨染が受け取りますと、小振りな割には重さがあり、何かに思い当たるや包みを大事に広げ、顕れました黒い墨にお顔を近づけ、大きく息を吸い込みます。
「麝香の良いかほり……」
「唐物の墨よ。練り物をしてあって、良い香りでしょう?あなたの筆もきっとよく進むことでしょうね。……殿方の在処を突き止めていただければ、差し上げてもよろしくてよ?」
登華殿で格別の扱いを受ける墨染も、御家は中流の貴族なれば、禄も少なく、唐物の練り墨など手に入れることなど夢のまた夢のことでございます。
小さく咳払いをしますと、仔細を、と申します。
「その殿方は、わきまえて慎ましく、いつも御簾の向こうに控えたまま、声はとてもか細くいらっしゃるようで、つらつらと詠んだ歌などは紙に書いて、御簾の隙間より差し入れてきたそうにございます」
「どのような歌をお詠みになるの?」
内親王さまよりお借りしたという三首の歌を差し出しました。墨染は、じっくりとその歌を見比べながら、また、仔細を、と申します。
「内親王さまは、身分も高く、はばかりがあるからとご結婚はしないおつもりでいらっしゃったの。でも、霧の君は、内親王さまのお心がわかるような方だったそうよ。巡り合わせとでも言うのでしょうか、今日は川辺など歩いたと内親王さまがおっしゃると、男は、私も鴨川を沿うて歩いてきたとおっしゃる。聞けば、内親王さまが歩いた川辺は、鴨川の淵であったそうな。今朝、花を見たとおっしゃると、男は今日は牡丹を持ってきたのだと差し入れる。これがまた、内親王さまの庭先と同じ赤い牡丹であったとか」
「偶然も、三つ重なればさだめ(運命、必然)とは、誰ぞの言葉でありましたでしょうか」
恋に焦がれる女人の言葉にございますが、墨染の表情はうらはらに、すさまじ(興醒めな)とため息を吐いておりました。
「おんな子どもなればいざ知らず、大の男が霧や露やと消えてなくなることなどありましょうや?」
「それゆえ、いずこに行かれたのかと問うておる」
「消えぬとなれば、元より霧の君などどこにもいらっしゃらなかったのでしょう」
墨染のおっしゃりように、小宰相は眉を顰めます。男が内親王さまを捨てたと言うなら、懸想のことと聞き流せもしたでしょうが、元からいないなどと言いますと、鬼や妖のたぐいか、そうでなくては夢とうつつの区別が付かない狂人と言っているようなものでございました。
「そのような……まるで内親王さまのお気が触れたような言い草ではございませんか」
「左様には申しておりませぬ」
臆することのない墨染に、振り上げた怒りのやり場に困り、荒々しく吐息が鼻より抜けてまいります。
「さればどのようなことにございますか?」
「通いの殿方と申せば、顔も知らぬは詮なきこと。頭の弁さまや家人はいかような風体であったと?」
「頭の弁さまがおっしゃるには、体格が良くどこぞの御曹司に違いない、かくも麗しき香りのすることは宮中でも稀である、とおっしゃられておいででした。」
「頭の弁さまの評価随分と高くいらっしゃる。家人たちは?」
「家人はそれぞれ、馬飼が垣間見た姿は、背が丸く屈んでいるが、お館さま(頭の弁)と同じか少し小さいくらいの背格好であったと。女房衆が言うには、麗しき見た目とは言えぬが、心付け(お土産や差入れ)が行き届いていて、財のある御方であろうと。文を受け取った、頭の弁さまの側仕えは、さぞ学識高いやんごとない賢き御方であろうと」
「随分とちぐはぐな評ですこと。通った男はお一人どころか、二人も三人もおられたと言われた方がしっくりと来るような有り様」
「内親王さまはお気をしっかりとお待ちです。何より何度も寄越した文の字は、いずれも同じではありませんか」
小宰相はまたも荒々しく墨染に迫り、先ほど渡した文を指さします。
「代筆やも?」
文には目もくれず、小宰相を真っ直ぐに見とめながら申します。
「違う男が皆こぞって同じ筆の得意な方に代筆をお願いしたと?」
「いえ。ただ、よく見る筆使いにございますれば、どこぞの物知りかもしれぬと思っただけです」
「物知り?」
「小宰相は登華殿に上がってから、学問はいかほどに?」
煙に巻くような物言いに、にくにくしく思いながら、自らも人並みより学ありと思っておりますゆえ、小宰相は背を正して、誇らしげに申されます。
「古事記、風土記、歌集、さまざまにつづけております」
「漢学、唐物はいかに?」
「墨染、嫌味はおよしになって?漢詩、漢文をお読みになる女人など、ひかる源氏の紫さまや清原の小納言さまのような名のある方を除けばあなたくらいでしょう」
いかに才媛と申しましても、漢学に通づるは公卿にも少なく、まして女房衆で漢文の才ありと伝わるのは、源氏物語絵巻の藤式部くらいのものでございました。並び称される赤染衛門、清原少納言といえど、名詩名文のたぐいを誦じるほどでございます。
「光栄ですこと」
「嫌味と皮肉だけなら、源氏の紫さまより、あなたの方が上に思えるわ」
「この歌、どのように思われたかしら」
小宰相が文を取って歌を読み上げます。歌い終わりますと、今一度文を眺め、空を見つめて歌の有り様を思い描きました。
「幻想的で、独創的だと思うわ。夢ごこちに内親王さまを思ってお詠みになったのでしょうね」
「知らぬ漢詩に、かの烏丸権中納言さまと同じ評価を述べるのだから、やはり小宰相は才媛でありますのね」
「何のことかしら?権中納言さまが霧の君なの?」
烏丸の権中納言さまと申しますと、当代きっての物知りにて、歌詠みの名人と聞こえる方にございますので、墨染の評には小宰相も得意になりましてて、気を良くして笑みなど浮かべて問い掛けてまいります。
「いいえ。この和歌は、唐の詩人、李賀の詩を元に作ったものと推しはかります。蘭のつゆ、心むすぶ、松のほろ、日をいろどり、嵐山のたもと、どれも本歌に出て来る言葉を、大和に置き換えて詠んでおいでになる」
「そ、それはそれで、賢き詠み人なのでは?」
「されば!さればのことでございますよ?李賀の詩を手元に置けるほどの財と才をお持ちでありながら、頭の弁さまや内親王さまですら見知らぬ御曹司など、この都にいらっしゃいましょうや?」
「そは、確かに」
ぽんと鼓を打つように、小宰相が膝を叩きますと、あいや、と出囃子でもするように墨染が合わせましたので、二人して笑い合ってしまいます。
「顔を隠し、声をひそめ、人によって姿を変えて、そうまでして内親王さまに近づく理由は?」
「……まさか内親王さまの財やお血筋がお目当てで?あな酷し。心なき歌など卑きことこの上ないわ」
「されど、霧の君は消えにけり」
「そうね?一体どうして?内親王さまは、霧の君をお迎え入れようとなさっていたのだから、財を得るのも間もないはず。霧の君が消えて、二度と恋などせぬと塞ぎ込んでいらっしゃるほどなのよ?」
「財を得るのではなく、内親王さまが塞ぎ込む、それが霧の君のお望みなのでしょう。内親王さまが誰ぞのものになるよりも、いっそ髪を下ろして尼にでもなってくれと思っているこころ卑き御方が……」
「霧の君?」
「左様に」
「誰なのよ?」
焦れて詰め寄る小宰相に、すっと手を差し伸べて、お声に出して霧の君のしるしを指折り数えて示してまります。
「ひとつ、財と才あり。ひとつ、内親王さまがお一人で暮らされると得がある方。ひとつ、あまたの荘園などから、得るものでもあるのか。ひとつ、はたまた内親王さまの縁者として朝廷に重きをなす方か」
「あなた……まさか」
「小宰相は賢き方。今日はこれまでといたしましょうや」
文を拾い上げると、小宰相は慌てて駆けてまいります。内親王さまがいかようにお聞きあそばされたかはまた別義にございます。
・ー・ー・ー・ー・ー・
この宰相の君という方は、中宮さまの御父君・関白左大臣さまの懐刀、二位参議さまを父に、冷泉帝の三世の女王(ひ孫)を母に持つやんごとなき生まれの女房でございます。
「墨染、おもしろい話があるの」
「今は筆が乗っているから後にしてくださる?」
同じ女房とはいえ、はるかに身分の高い小宰相が局を訪れても、墨染は相変わらず、筆を持って紙にばかり向いて、物語りに思いを馳せております。
それでもこうして墨染を好んで訪ねて参りますから、小宰相もなかなかの胆力の持ち主でございます。
「赫子内親王さまをご存知かしら?」
「小宰相さまにはお耳がないのかしら」
「どうせ、その筆もすぐに止まるのだから構わないでしょう?」
「随分と自信がおありなのね。言って聞かぬとおっしゃるなら、聞いて鎮める方が良さそうね」
墨染の嫌味事をものともしない類の方には二種類おりまして、学のない浅はかな者と、先回って墨染の嫌味を心得るほど優れて賢き者のいずれかにございます。
「夕餉まで時間もあるのだから、じっくりと聞いて頂戴」
「内親王さまのお話しだったからしら?亡き朱雀帝の末の姫宮さまでいらっしゃったかしら」
「そうよ。主上の又従姉でもあるわ。私の実家とは邸が隣同士で、母上さまとは醍醐の帝を通じて遠縁に当たる方よ」
「小宰相さまも同じ醍醐帝のお血筋だというのに、進んで宮仕えをしようなんて、変わった人よね」
小宰相の父君、二位参議さまといえば、世に今孔明(現代の諸葛孔明、博学多才の意味)と呼ばれ、学識高い人物にございますれば、小宰相も幼き頃より書を好み、墨染にこそ及ばざるとも才媛の呼び声高く、女官職を志して中宮様にお仕えしたという話でございます。
「私のことはあずかり知らず、内親王さまは朱雀帝とその中宮さまが、朝夕の慰みにと乳母などに任せずに、手元においてお育てになられて、荘園の数も他の内親王さまはもとより、いずれの親王さまより、果ては東宮さまよりも多くお与えになられたものだから、言い寄る殿方も数知れず、しかし、諍いにならぬ様にとお一人でお過ごしでいらっしゃったわ。でも、つい先ごろ、想いの方をお定めになられたの」
「良かったではないの。それが何か問題なの?相応しからざる身分の方か、いずれの御時にか仇なした末の方(昔反乱でも起こした血筋の方)か」
「それはそれで、心躍るような恋ではあるけれど、内親王さまの想い人は、霧のように消えていなくなってしまわれたのよ」
「去った(別れた)、ということではなく、消えた?」
ようやく墨染が筆を止めて小宰相に顔をお向けになりました。
これはしたりと小宰相は笑みを浮かべ、ここが話の肝だと言わんばかりに何度も頷きます。
「そう。誰に聞いても、かような殿方がどこに行ったのかわならないと言うの。内親王さまのところに通われる姿も、後見人で外叔父に当たる蔵人頭の右中弁さまと邸の家人が数人しか知らないというから、手掛かりがないの。一体どこに行ってしまわれたのやら」
「あなた、まさか、その霧の君を探せとでもおっしゃりたいの?」
「私、墨染のそういうところ、とても好ましく思っているわ。霧の君、というのもいいわね」
小宰相が懐から包みを差し出します。
墨染が受け取りますと、小振りな割には重さがあり、何かに思い当たるや包みを大事に広げ、顕れました黒い墨にお顔を近づけ、大きく息を吸い込みます。
「麝香の良いかほり……」
「唐物の墨よ。練り物をしてあって、良い香りでしょう?あなたの筆もきっとよく進むことでしょうね。……殿方の在処を突き止めていただければ、差し上げてもよろしくてよ?」
登華殿で格別の扱いを受ける墨染も、御家は中流の貴族なれば、禄も少なく、唐物の練り墨など手に入れることなど夢のまた夢のことでございます。
小さく咳払いをしますと、仔細を、と申します。
「その殿方は、わきまえて慎ましく、いつも御簾の向こうに控えたまま、声はとてもか細くいらっしゃるようで、つらつらと詠んだ歌などは紙に書いて、御簾の隙間より差し入れてきたそうにございます」
「どのような歌をお詠みになるの?」
内親王さまよりお借りしたという三首の歌を差し出しました。墨染は、じっくりとその歌を見比べながら、また、仔細を、と申します。
「内親王さまは、身分も高く、はばかりがあるからとご結婚はしないおつもりでいらっしゃったの。でも、霧の君は、内親王さまのお心がわかるような方だったそうよ。巡り合わせとでも言うのでしょうか、今日は川辺など歩いたと内親王さまがおっしゃると、男は、私も鴨川を沿うて歩いてきたとおっしゃる。聞けば、内親王さまが歩いた川辺は、鴨川の淵であったそうな。今朝、花を見たとおっしゃると、男は今日は牡丹を持ってきたのだと差し入れる。これがまた、内親王さまの庭先と同じ赤い牡丹であったとか」
「偶然も、三つ重なればさだめ(運命、必然)とは、誰ぞの言葉でありましたでしょうか」
恋に焦がれる女人の言葉にございますが、墨染の表情はうらはらに、すさまじ(興醒めな)とため息を吐いておりました。
「おんな子どもなればいざ知らず、大の男が霧や露やと消えてなくなることなどありましょうや?」
「それゆえ、いずこに行かれたのかと問うておる」
「消えぬとなれば、元より霧の君などどこにもいらっしゃらなかったのでしょう」
墨染のおっしゃりように、小宰相は眉を顰めます。男が内親王さまを捨てたと言うなら、懸想のことと聞き流せもしたでしょうが、元からいないなどと言いますと、鬼や妖のたぐいか、そうでなくては夢とうつつの区別が付かない狂人と言っているようなものでございました。
「そのような……まるで内親王さまのお気が触れたような言い草ではございませんか」
「左様には申しておりませぬ」
臆することのない墨染に、振り上げた怒りのやり場に困り、荒々しく吐息が鼻より抜けてまいります。
「さればどのようなことにございますか?」
「通いの殿方と申せば、顔も知らぬは詮なきこと。頭の弁さまや家人はいかような風体であったと?」
「頭の弁さまがおっしゃるには、体格が良くどこぞの御曹司に違いない、かくも麗しき香りのすることは宮中でも稀である、とおっしゃられておいででした。」
「頭の弁さまの評価随分と高くいらっしゃる。家人たちは?」
「家人はそれぞれ、馬飼が垣間見た姿は、背が丸く屈んでいるが、お館さま(頭の弁)と同じか少し小さいくらいの背格好であったと。女房衆が言うには、麗しき見た目とは言えぬが、心付け(お土産や差入れ)が行き届いていて、財のある御方であろうと。文を受け取った、頭の弁さまの側仕えは、さぞ学識高いやんごとない賢き御方であろうと」
「随分とちぐはぐな評ですこと。通った男はお一人どころか、二人も三人もおられたと言われた方がしっくりと来るような有り様」
「内親王さまはお気をしっかりとお待ちです。何より何度も寄越した文の字は、いずれも同じではありませんか」
小宰相はまたも荒々しく墨染に迫り、先ほど渡した文を指さします。
「代筆やも?」
文には目もくれず、小宰相を真っ直ぐに見とめながら申します。
「違う男が皆こぞって同じ筆の得意な方に代筆をお願いしたと?」
「いえ。ただ、よく見る筆使いにございますれば、どこぞの物知りかもしれぬと思っただけです」
「物知り?」
「小宰相は登華殿に上がってから、学問はいかほどに?」
煙に巻くような物言いに、にくにくしく思いながら、自らも人並みより学ありと思っておりますゆえ、小宰相は背を正して、誇らしげに申されます。
「古事記、風土記、歌集、さまざまにつづけております」
「漢学、唐物はいかに?」
「墨染、嫌味はおよしになって?漢詩、漢文をお読みになる女人など、ひかる源氏の紫さまや清原の小納言さまのような名のある方を除けばあなたくらいでしょう」
いかに才媛と申しましても、漢学に通づるは公卿にも少なく、まして女房衆で漢文の才ありと伝わるのは、源氏物語絵巻の藤式部くらいのものでございました。並び称される赤染衛門、清原少納言といえど、名詩名文のたぐいを誦じるほどでございます。
「光栄ですこと」
「嫌味と皮肉だけなら、源氏の紫さまより、あなたの方が上に思えるわ」
「この歌、どのように思われたかしら」
小宰相が文を取って歌を読み上げます。歌い終わりますと、今一度文を眺め、空を見つめて歌の有り様を思い描きました。
「幻想的で、独創的だと思うわ。夢ごこちに内親王さまを思ってお詠みになったのでしょうね」
「知らぬ漢詩に、かの烏丸権中納言さまと同じ評価を述べるのだから、やはり小宰相は才媛でありますのね」
「何のことかしら?権中納言さまが霧の君なの?」
烏丸の権中納言さまと申しますと、当代きっての物知りにて、歌詠みの名人と聞こえる方にございますので、墨染の評には小宰相も得意になりましてて、気を良くして笑みなど浮かべて問い掛けてまいります。
「いいえ。この和歌は、唐の詩人、李賀の詩を元に作ったものと推しはかります。蘭のつゆ、心むすぶ、松のほろ、日をいろどり、嵐山のたもと、どれも本歌に出て来る言葉を、大和に置き換えて詠んでおいでになる」
「そ、それはそれで、賢き詠み人なのでは?」
「されば!さればのことでございますよ?李賀の詩を手元に置けるほどの財と才をお持ちでありながら、頭の弁さまや内親王さまですら見知らぬ御曹司など、この都にいらっしゃいましょうや?」
「そは、確かに」
ぽんと鼓を打つように、小宰相が膝を叩きますと、あいや、と出囃子でもするように墨染が合わせましたので、二人して笑い合ってしまいます。
「顔を隠し、声をひそめ、人によって姿を変えて、そうまでして内親王さまに近づく理由は?」
「……まさか内親王さまの財やお血筋がお目当てで?あな酷し。心なき歌など卑きことこの上ないわ」
「されど、霧の君は消えにけり」
「そうね?一体どうして?内親王さまは、霧の君をお迎え入れようとなさっていたのだから、財を得るのも間もないはず。霧の君が消えて、二度と恋などせぬと塞ぎ込んでいらっしゃるほどなのよ?」
「財を得るのではなく、内親王さまが塞ぎ込む、それが霧の君のお望みなのでしょう。内親王さまが誰ぞのものになるよりも、いっそ髪を下ろして尼にでもなってくれと思っているこころ卑き御方が……」
「霧の君?」
「左様に」
「誰なのよ?」
焦れて詰め寄る小宰相に、すっと手を差し伸べて、お声に出して霧の君のしるしを指折り数えて示してまります。
「ひとつ、財と才あり。ひとつ、内親王さまがお一人で暮らされると得がある方。ひとつ、あまたの荘園などから、得るものでもあるのか。ひとつ、はたまた内親王さまの縁者として朝廷に重きをなす方か」
「あなた……まさか」
「小宰相は賢き方。今日はこれまでといたしましょうや」
文を拾い上げると、小宰相は慌てて駆けてまいります。内親王さまがいかようにお聞きあそばされたかはまた別義にございます。
・ー・ー・ー・ー・ー・



