墨染式部日記 〜或る中宮付女房の聞き伝へ〜

 明くる日のことにございます。
 中宮さまのお召しにより、墨染も昼の真中からお仕えしておりました。
 春の花をそのまま人の形に仕立てたようなお顔立ちに、薄色の十二単を着たお姿は、源氏物語の絵巻物の姫君そのものでございます。

「最近の女院さまは、ご機嫌うるわしく、女房たちを連れて鴨川などご覧になっているそうじゃ」

「それはそれは」

「橘よりやはり桜と申されておった」

「鴨川の、桜、にございますか?」

「いや。深草の、と申されておった」

 深草の桜と申しますと、上野岑雄が堀河の太政大臣さまを偲ばれ詠んだ歌がございます。

『深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け』

 墨染め色に花を咲かせた深草の桜は、人の悲しみがわかると伝わります。
 童のいたずらでも見つけたような中宮さまの物言いたげなお顔に、さしもの墨染も座りが悪い様子で扇で顔を隠すなどしております。

「何ぞ楽しげなことでもあったか?」

 女房たちが一斉に姿勢を正して平伏いたします。
「よい」と澄んだ清水のごとき声音に、中宮さまから順にお顔を上げてまいります。
 中宮さまのお隣に膝を折られて寄り添うお姿は、女子の夢見たる光る源氏の君とみまごうばかりでございます。

「女院さまが、橘より桜と申されておりました」

「母上が桜を?見頃はとうに過ぎてしもうたと思うが」

「深草の桜は見頃のようにございますよ」

 中宮さまの童のような表情に、帝も何か心得て、柔らかくお笑いになられます。

「そうか、深草か。しかし、墨染めの桜であれば、宮中にも咲いておろう。近くお招きして、皆で花見とまいろうか」

 中宮さまも女房方も、みな合わせてお笑いになる中、墨染だけが顔を隠して、話が終わるのをこそこそと待っておりました。
 終わらぬ桜の話に耐えかねて、墨染が扇を鳴らして声を上げます。

「桜もよろしゅうございますが、橘の話もして差し上げねば、泣いて黒い実がなるやもしれませんよ」

「ならば、墨染、橘の何かおもしろきことなど話してみせよ」

 墨染が首を垂れて、帝と中宮さまに向き直りますと、女房方が墨染を囲むように集まってまいります。

「いずれの御時にか、それはそれは美しい女房がいたそうにございます。しかし、百鬼夜行の恐ろしい鬼一匹が、その女房を手に入れようと、官人を装って局に通って参ります。女房は、その官人の雄々しい立ち居姿にたちまち恋をしてしまいました。これはしめたことと、鬼は女房を自分のものにしようと局に入りますが、なんと身動きが取れません。おかしいと思ったところ、その局には、右近衛の橘を手折って作った護符が飾られていたのでございます。橘に宿ったつわものたちの御霊が一斉に鬼に襲い掛かり、女房は無事、救われたとのことにございます」

 女房どもが手を鳴らします。中宮さまも大きく頷き、感じ入っておりました。

「墨染、面白かったぞ。主上(おかみ)をお守りする衛府の者たちが、御霊になっても都人を守ろうとするとは、まことすばらしきこと」

「左様であるな。我が御世の近衛も同じようであれば良いものを」

主上(おかみ)?」

 中宮さまと同じように感じ入っておられた帝のお顔にはいささかの曇りがございました。中宮さまのお手を握り返し、天に向かって帝はお話になられました。

「右近の橘が手折られておった。しかし、我が御代では悪鬼の話など聞かぬとあれば、不心得者がいたずらに手折ったのであろう」

主上(おかみ)……。墨染よ、何ぞか聞き及んではおらぬのか?」

「私にはとんと預かり知らぬことではございますが、先ほどの女房は、当時の女院さまの女房であったと聞いております。東八条の女院さまは、近頃、香に橘の煎じた皮を混ぜて楽しまれているとか。右近の橘を手折った者が、不心得者であれば、浅知恵に献上などされたかもしれません。橘より桜、と女院さまがおっしゃられたのも、何かご存知あったのやも?」

 この後、三日と経たぬ間に、左馬寮の官人たちが酒に酔って橘を手折り、 庚申にも関わらず女人の家など押し掛け昼日中から淫蕩に耽ったとして、お咎めにあったとの由にございます。中でも、東八条院ではよく見知った顔の者が一人、お咎めの後に、衛府の幽霊を見たと騒ぎ立て、気が触れたように駆け出していずこかに消え去ったなどという噂話もございますが、これはまた別議にございます。

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