いずれの御時にか、御方々に女房の集い(サロン)など数多くございましたが、中でも口々に語られるところによりますと、やんごとなき(豪華絢爛な)集いといえば、先帝の女御にして国母、東八条の女院御所、ざえある人の(博学多才な)集いといえば、先の加茂斎院、一品の宮御所、いとをかしき風のたへぬる(最も風流な)は中宮さまのおわします登華殿にございました。
とりわけ登華殿は、宮仕の女房たちの憧れにございますが、この宮の局に、『墨染式部』とあだ名された女房がおりました。
朝夕のお仕えにも顔を出さず、昼間から行燈に火を灯して物書きなどしておりますから、袖はいつも墨で汚れ、衣擦れした古い衣を好んで着ている有り様を、どなたかが、儚くなられた人を偲ぶ、喪服をして『墨染』と陰口をしたことが始まりと聞き及んでおります。
しかしながらこの墨染式部という女房、かような扱いを受けていながら、中宮さまの御信任ひときわ厚いだけでなく、帝をして「面白き女房」とお覚えめでたくありました。
同じ登華殿の女房たちからも、墨染のすること、と好ましく受け取られ、登華殿のけもじのこと(不思議なこと)と噂になっておりました。
ある朝、東八条院に仕える讃岐という女房が、人目を忍んで墨染の元を訪れました。
「女院御所の女房、讃岐と申します。墨染式部さまとおっしゃいますのは、あなた様でございましょうか?」
「確かに、墨染と呼ばれているのはわたくしにございますが、あなたのような美人に、忍んで通われるような趣味はございませんよ」
「そ、そのようなことで参ったわけではございませぬ」
「はて……さても、その手に握った懐紙は、恋文ではございませんか?」
讃岐は確かにしっかりと握りしめた懐紙と墨染を交互に見ながら、懐紙に書かれた文字が透けて見えるのかと行燈に翳してみております。
「そんなことをせずとも、昨夜は庚申。百鬼夜行に会いたい物好きでもなければ、屋敷に篭っておりましょう。鶏が鳴いて間もない時刻に持ち歩く文など、恋文でなければ訴状以外にございませんでしょう?」
振り返りもせずに、筆を取ったまま話す墨染の背中に、讃岐はそら恐ろしいような心地がいたしました。
「ですが式部さまは、ひと目もこちらをご覧になっていらっしゃいません。何ゆえ、私が文を持っているとお分かりに?」
「急ぐ割には、衣擦れの音が、袴ばかり目立ちましたゆえ、何ぞかお手にお持ちなのだと思っただけにございます」
「文と見極められた理由は?」
「喪服女の得意ごとなど、文字を書くこと、書を読むこと以外にございませぬことよ」
硯の端に筆を押し付け、墨を流して筆を置きますと、それが作法とでも申しましょうか、振り返って浅く首を垂れ、起きしなに、右の手を讃岐差し出します。
見慣れぬ所作ではございましたが、雅を極めた東八条院の女房をして、息を飲むような美しい振る舞いに、自然と手にした恋文を、差し出された右手へと収める他ございませんでした。
「本当に懐紙でございますのね」
長方形の紙を対角線に、お山が二つできるように綺麗に折られた懐紙に、力強い筆跡で歌が読まれておりました
「日が昇るのと同じく、あの人の家人と思しき男が御所に届けてくれました」
うっとりとした様の讃岐を見て、いささか呆れたようにため息を吐きました。
「御所に?讃岐さまの局にではなく?」
「はい。私たち女房の局は門中からは遠く、身分の低い家人であればこそ、憚って門人に預けたのでございましょう」
「確かに。文から、讃岐さまと同じ匂いが聞こえますね」
「左様にございます。それゆえ、私宛の文だと直ぐにわかりました。あの方が会いに来てくださるときはいつも、橘を燻してお待ちしておりますの」
「橘を?」
「はい。女院さまは近頃、香に興じておられます。唐木だけでなく、干した果実の皮を刻んで一緒に焚きますと、ほのかに甘い香りが漂い、それはもう雅でございますの。私は橘の爽やかな香りが好きで、分けていただいた橘を、真似て局で焚いております」
熱に浮かされた女人の恋心は、一層熱を帯びて、聞いてもいないあれやこれやを語り始めます。
袂の扇を開いてやる方なく仰いでみせ、また小さくため息を吐きました。
「風情があってよろしいこと。それで、わざわざ私にこの文を見せて何をしろと?」
墨染の冷たい言いように、讃岐は咳払いをしてから、背筋を正して向き直りますと、一呼吸おいて、女房然とした澄まし顔を見せました。
「他の女房たちが言うには、名もない文では誰か分からぬ、万が一にも女院さま宛であれば一大事と」
「取ってつけたようですが、理に適っているように思えます。橘の香りは讃岐さまと殿方の密かごと。女房がたにはわかるはずもございませんもの」
嫌味のつもりで言った密かごとを、讃岐はどう捉えたのか、得意げに何度も頷いて感じ入っております。
「その殿方も、橘がお好きなので?香にも長じた方でいらっしゃるのですか?」
「そなたの纏う香りならば好きだとおっしゃってくださいます。お勤めの帰りに一房手折ってきてくださったことがございました」
「長じていらっしゃるので?」
惚気話だけが返ってきたことにうんざりして、音を立てて扇を閉じながら、讃岐が言い終わるの待たずに、上手下手を重ねて問いました。
「あの方は香に詳しくはありません」
「されば、讃岐さまも上手にはあらずと?」
「それは無礼にございましょう?女院御所はみな、香に慣れ親しんでございます。名人とはならずとも、作法は心得てございます」
讃岐の悋気(怒りのこと)に、墨染が満面の笑みを浮かべます。面を被ったような変わりよう、ぞっとするような作られた笑みに、讃岐は乗り出した身を窄ませ小さくお成りになりました。
「ご無礼を。昨夜は 庚申。讃岐様と殿方はお会いになるわけもなく、されど懐紙からは橘の、かくも昇るような香りがいたします」
「そのようなことは私が先ほどお話ししたことにございます」
「女院さまの女房に、二夜も香るような下手をするものはおられぬのでしょう?」
「当たり前にございます」
「されば!さればのことにございますよ?その殿方は、いずこにて香をお焚きになられたのでございましょうや。二夜は香らず、庚申には会わず、いずこの橘を懐に偲ばせられたのやら」
墨染の言葉に、讃岐のお顔は見る間に青ざめてまいります。
ーーいずこの橘を
讃岐の脳裏には、懸想した男の胸元に知らぬ女の細腕が伸びてまいります。
青ざめていたお顔は、今度は真っ赤に燃え上がり、膝を強く打ち鳴らされました。
「讃岐さま、そのようなお顔をなされますな。昨夜は庚申。忌み夜に出歩く者といえば、百鬼夜行。ものの怪に化かされたとでも思うことです。あられもない獣の類であったと、お見捨てになりなさい」
さめざめと泣く讃岐の背を撫でて宥めます。讃岐を騙した男を、登華殿を訪れる美男子、御曹司をあげ連ねて比べては、碌でもない男と悪しざまにいたします。
比べる貴公子が十人を過ぎたころには、讃岐の恋心も晴れて、墨染が男を撫で切りにしていく様を楽しむようでございました。
「趣味などないとは申しましたが」
「趣味?」
「讃岐さまと密かごとなど」
「まぁ」
「選ばれぬ女の不憫はわかりますが、とはいえ、選ばれる女も、なるべきものにございません」
「其は如何に?」
「それほどの美貌と、女院さまにお仕えできるだけの才がお有りなら、選ぶ女におなりなさい」
墨で汚れた袖口から覗く指先の、白く細く美しいことに讃岐は目を奪われます。仰ぎ見るように見た墨染の顔は、両具の観世音のように凛々しく、自然と両の手を合わせて拝むように礼をいたしました。
来た道には握りしめた懐紙を、どこぞの寺で焚き上げてほしいと墨染に託し、往く道を大手を振って讃岐は帰っていきました。
そこからしばらく、東八条の女院御所では、墨染のなさること、と、どこぞの御曹司のごとく語られたのでございます。
・ー・ー・ー・ー・ー・
とりわけ登華殿は、宮仕の女房たちの憧れにございますが、この宮の局に、『墨染式部』とあだ名された女房がおりました。
朝夕のお仕えにも顔を出さず、昼間から行燈に火を灯して物書きなどしておりますから、袖はいつも墨で汚れ、衣擦れした古い衣を好んで着ている有り様を、どなたかが、儚くなられた人を偲ぶ、喪服をして『墨染』と陰口をしたことが始まりと聞き及んでおります。
しかしながらこの墨染式部という女房、かような扱いを受けていながら、中宮さまの御信任ひときわ厚いだけでなく、帝をして「面白き女房」とお覚えめでたくありました。
同じ登華殿の女房たちからも、墨染のすること、と好ましく受け取られ、登華殿のけもじのこと(不思議なこと)と噂になっておりました。
ある朝、東八条院に仕える讃岐という女房が、人目を忍んで墨染の元を訪れました。
「女院御所の女房、讃岐と申します。墨染式部さまとおっしゃいますのは、あなた様でございましょうか?」
「確かに、墨染と呼ばれているのはわたくしにございますが、あなたのような美人に、忍んで通われるような趣味はございませんよ」
「そ、そのようなことで参ったわけではございませぬ」
「はて……さても、その手に握った懐紙は、恋文ではございませんか?」
讃岐は確かにしっかりと握りしめた懐紙と墨染を交互に見ながら、懐紙に書かれた文字が透けて見えるのかと行燈に翳してみております。
「そんなことをせずとも、昨夜は庚申。百鬼夜行に会いたい物好きでもなければ、屋敷に篭っておりましょう。鶏が鳴いて間もない時刻に持ち歩く文など、恋文でなければ訴状以外にございませんでしょう?」
振り返りもせずに、筆を取ったまま話す墨染の背中に、讃岐はそら恐ろしいような心地がいたしました。
「ですが式部さまは、ひと目もこちらをご覧になっていらっしゃいません。何ゆえ、私が文を持っているとお分かりに?」
「急ぐ割には、衣擦れの音が、袴ばかり目立ちましたゆえ、何ぞかお手にお持ちなのだと思っただけにございます」
「文と見極められた理由は?」
「喪服女の得意ごとなど、文字を書くこと、書を読むこと以外にございませぬことよ」
硯の端に筆を押し付け、墨を流して筆を置きますと、それが作法とでも申しましょうか、振り返って浅く首を垂れ、起きしなに、右の手を讃岐差し出します。
見慣れぬ所作ではございましたが、雅を極めた東八条院の女房をして、息を飲むような美しい振る舞いに、自然と手にした恋文を、差し出された右手へと収める他ございませんでした。
「本当に懐紙でございますのね」
長方形の紙を対角線に、お山が二つできるように綺麗に折られた懐紙に、力強い筆跡で歌が読まれておりました
「日が昇るのと同じく、あの人の家人と思しき男が御所に届けてくれました」
うっとりとした様の讃岐を見て、いささか呆れたようにため息を吐きました。
「御所に?讃岐さまの局にではなく?」
「はい。私たち女房の局は門中からは遠く、身分の低い家人であればこそ、憚って門人に預けたのでございましょう」
「確かに。文から、讃岐さまと同じ匂いが聞こえますね」
「左様にございます。それゆえ、私宛の文だと直ぐにわかりました。あの方が会いに来てくださるときはいつも、橘を燻してお待ちしておりますの」
「橘を?」
「はい。女院さまは近頃、香に興じておられます。唐木だけでなく、干した果実の皮を刻んで一緒に焚きますと、ほのかに甘い香りが漂い、それはもう雅でございますの。私は橘の爽やかな香りが好きで、分けていただいた橘を、真似て局で焚いております」
熱に浮かされた女人の恋心は、一層熱を帯びて、聞いてもいないあれやこれやを語り始めます。
袂の扇を開いてやる方なく仰いでみせ、また小さくため息を吐きました。
「風情があってよろしいこと。それで、わざわざ私にこの文を見せて何をしろと?」
墨染の冷たい言いように、讃岐は咳払いをしてから、背筋を正して向き直りますと、一呼吸おいて、女房然とした澄まし顔を見せました。
「他の女房たちが言うには、名もない文では誰か分からぬ、万が一にも女院さま宛であれば一大事と」
「取ってつけたようですが、理に適っているように思えます。橘の香りは讃岐さまと殿方の密かごと。女房がたにはわかるはずもございませんもの」
嫌味のつもりで言った密かごとを、讃岐はどう捉えたのか、得意げに何度も頷いて感じ入っております。
「その殿方も、橘がお好きなので?香にも長じた方でいらっしゃるのですか?」
「そなたの纏う香りならば好きだとおっしゃってくださいます。お勤めの帰りに一房手折ってきてくださったことがございました」
「長じていらっしゃるので?」
惚気話だけが返ってきたことにうんざりして、音を立てて扇を閉じながら、讃岐が言い終わるの待たずに、上手下手を重ねて問いました。
「あの方は香に詳しくはありません」
「されば、讃岐さまも上手にはあらずと?」
「それは無礼にございましょう?女院御所はみな、香に慣れ親しんでございます。名人とはならずとも、作法は心得てございます」
讃岐の悋気(怒りのこと)に、墨染が満面の笑みを浮かべます。面を被ったような変わりよう、ぞっとするような作られた笑みに、讃岐は乗り出した身を窄ませ小さくお成りになりました。
「ご無礼を。昨夜は 庚申。讃岐様と殿方はお会いになるわけもなく、されど懐紙からは橘の、かくも昇るような香りがいたします」
「そのようなことは私が先ほどお話ししたことにございます」
「女院さまの女房に、二夜も香るような下手をするものはおられぬのでしょう?」
「当たり前にございます」
「されば!さればのことにございますよ?その殿方は、いずこにて香をお焚きになられたのでございましょうや。二夜は香らず、庚申には会わず、いずこの橘を懐に偲ばせられたのやら」
墨染の言葉に、讃岐のお顔は見る間に青ざめてまいります。
ーーいずこの橘を
讃岐の脳裏には、懸想した男の胸元に知らぬ女の細腕が伸びてまいります。
青ざめていたお顔は、今度は真っ赤に燃え上がり、膝を強く打ち鳴らされました。
「讃岐さま、そのようなお顔をなされますな。昨夜は庚申。忌み夜に出歩く者といえば、百鬼夜行。ものの怪に化かされたとでも思うことです。あられもない獣の類であったと、お見捨てになりなさい」
さめざめと泣く讃岐の背を撫でて宥めます。讃岐を騙した男を、登華殿を訪れる美男子、御曹司をあげ連ねて比べては、碌でもない男と悪しざまにいたします。
比べる貴公子が十人を過ぎたころには、讃岐の恋心も晴れて、墨染が男を撫で切りにしていく様を楽しむようでございました。
「趣味などないとは申しましたが」
「趣味?」
「讃岐さまと密かごとなど」
「まぁ」
「選ばれぬ女の不憫はわかりますが、とはいえ、選ばれる女も、なるべきものにございません」
「其は如何に?」
「それほどの美貌と、女院さまにお仕えできるだけの才がお有りなら、選ぶ女におなりなさい」
墨で汚れた袖口から覗く指先の、白く細く美しいことに讃岐は目を奪われます。仰ぎ見るように見た墨染の顔は、両具の観世音のように凛々しく、自然と両の手を合わせて拝むように礼をいたしました。
来た道には握りしめた懐紙を、どこぞの寺で焚き上げてほしいと墨染に託し、往く道を大手を振って讃岐は帰っていきました。
そこからしばらく、東八条の女院御所では、墨染のなさること、と、どこぞの御曹司のごとく語られたのでございます。
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