視界の中心に置かれたそれは──赤黒い毒沼のような麻婆豆腐。
表面の唐油がブクブクと泡を立て、白いはずの豆腐は鬼灯色に染められ、鉄皿の中で浮いている。
匙の先を浸せば、それすら溶けそうだった。
地獄仕立て──これが。
ごくりと喉を鳴らす。
迷うな。短期決戦だ。
「いただき、ます」
豆腐を一片、持ち上げる。
カウンターのどこかで「マジかよ……」という小声がした。
最初の一口が舌に触れた瞬間──、音のない爆弾が連続で弾けた。
「ッ……ぉ……ぶほっっ──‼︎」
刺す。切る。灼く。痺れる。
激辛の四天王が、口内を集中砲火。
噛んだ瞬間、上顎に爆炎。舌の付け根に剣山。
飲み込めば喉の奥が焼け焦げる。
「ゲッホ……げ、ぉほっ……お゛‼︎」
思わず咽せる。何度も咽せる。
……な……なんだこれは。
ナンダコレハ。
から……いや、辛い⁉︎
「お゛……おごぉッ──‼︎」
正直言って、人類が踏み込んでいい領域じゃない。
いやこれ味見したのかこれ! なんでこんなもん生み出した! 馬鹿なのか!
心中で思わず吐く暴言。
額の汗腺が一斉に開門し、背骨を灼熱が駆け上がる。
水…………だめだ。まだだ。
唐油で滑る豆腐を、舌の上で転がさず、喉へ。
木札の三行が額の内側で回る。
耳鳴りがきいんと鳴り、親父の鍋の音が遠ざかる。視界の端が潤んでくる。
恐ろしい。これぞまさに地獄。地獄の味だ。
もう食わせてくれるなと匙を持つ手が全力で拒否してくる。
噛むな。飲み込め。噛めばさらなる痛みがやってくる。
ようやく三分の一ほど進めた頃。
あまりの苦行に俺の思考までもが痺れてきた。
いったい……俺は、…………何をやって…………。
視界が回り、皿を前に意識が朦朧としてくる。
つら、い……。
つらい…………。
つらい…………、つらい……、つら……い?
脳が逃げ場を探して、余計な記憶を持ってくる。
勇者になりたての頃。王都の謁見で泡を吹いて失神して恥をかいたこととか。
仲間たちとの初の顔合わせで、人見知り爆発してマジ吐いて、三日くらいまともにみんなと目を合わせられなくなったこととか。
初陣の時、責務を果たすことばかり考えていて、戦いが終わるまで社会の窓全開に気づかず、魔王軍にしばらくネタにされて死にたくなったこととか。
──あー無理無理。やめろ、思い出したくない。
こんな、痛み……こんな苦しさ……。
あの時に比べたら。
──濡れた大地。
破壊され、地に転がった大盾が脳裏にちらつき、燃えていた心臓が冷えて、指先が震える。
あの時に……比べたら。
……こんな痛み──。
目を見開き、もう一度匙を握り直して、俺は一気にかき込んだ。
額から汗が派手に伝い落ちる。
舌から喉の奥の痛みが、痺れが猛毒のように広がる。
それでも──。
「ッ……あ゛……ゴホォッ‼︎」
またも激しく咽せる。
ここで水? いや──まだ、まだだ……‼︎
水は一杯しかない。最後の切り札にしておくべきだ。
代わりに、なるべく口内を刺激しないよう呼吸を変える。
豆腐を一片、もう一片。合間にサラマンダーの挽肉。
挽肉が小さな刃の群れみたいに舌の上を転がる。どこを食べても逃げ場がない。
「おい……がんばれ……! がんばれよ‼」
誰かの声援が、遠くから届く。
「勇者様、いける、いけるぞ……!」
やめて。見ないで。褒めないで。いま褒められると、崩れる。
喉の内壁が薄皮ごと焼け剥がれる感覚。
胃に落ちたものが、小さな竜になって胸骨を叩く。
涙が視界を歪め、耳からも火を噴きそうだった。
逃げるな。
俺は、みんなの装備を整えて、誰一人死なせずに、この先に……。
豆腐、挽肉、豆腐、挽肉。舌の上をほとんど通過させず、喉へ。
視界の端で、ギャラリーが硬直している。
「……まさか」
ドワーフの親父の低い声が、確かに聞こえた。
残り、わずか。
ようやく見えてきた、毒沼の底。
最後のひとかけらを掬う。
舌はもう限界。
ここだ──。
俺は、奥に置いていた、たった一杯の水を手に取った。
口に一気に含み、舌の刺激が僅かに洗い流された瞬間。
唐油が滴る最後の一口を喉にぶち込む。
匙が落ちる音。
鉄皿の中は空だ。
俺は救いの一杯を最後まで飲み干し、テーブルに叩きつけた。
数拍の沈黙。
カウンターの端で、数人が立ち上がり拍手が上がり、信じられないというような雄叫びが一斉に響いた。
呼吸が、いつまでも整わない。
胃の中が爆炎で満たされている。
舌は死んでるのか、もはや感覚がない。
喉が焼け焦げたみたいに痛くて、息を吸うたびにヒュウ、と音が鳴る。
──あ、これ、声出ないやつだ。
親父が麻袋をどすんと眼前に置く。
「あんたのもんだ」
10万モート。
「あ゛……ッ──」
言葉にならず、口内がただただ痛みだけを連れてくる。
親父は俺の喉をちらりと見て、顎で合図した。
「いい、喋るな。……ようやった。良いもの見せてもらったよ」
短い言葉が、やけに優しかった。
店の隅で見ていた野次馬が、ヒソと囁く。
「本当に勇者様だった……」
「声、出ないの可愛いな」
やめて。ほんとに見ないで。
店を出ると、雪解けの風が、灼けて潰れた喉にまたしみた。
胃の底でまだ小さな竜が暴れて、火の玉を噴き続けている。
ボロボロだ……。この間の戦線もキツかったが、これはまた別の次元である。
俺はふらつきながら麻袋を大事に抱え直し、宿へ引き返した。
表面の唐油がブクブクと泡を立て、白いはずの豆腐は鬼灯色に染められ、鉄皿の中で浮いている。
匙の先を浸せば、それすら溶けそうだった。
地獄仕立て──これが。
ごくりと喉を鳴らす。
迷うな。短期決戦だ。
「いただき、ます」
豆腐を一片、持ち上げる。
カウンターのどこかで「マジかよ……」という小声がした。
最初の一口が舌に触れた瞬間──、音のない爆弾が連続で弾けた。
「ッ……ぉ……ぶほっっ──‼︎」
刺す。切る。灼く。痺れる。
激辛の四天王が、口内を集中砲火。
噛んだ瞬間、上顎に爆炎。舌の付け根に剣山。
飲み込めば喉の奥が焼け焦げる。
「ゲッホ……げ、ぉほっ……お゛‼︎」
思わず咽せる。何度も咽せる。
……な……なんだこれは。
ナンダコレハ。
から……いや、辛い⁉︎
「お゛……おごぉッ──‼︎」
正直言って、人類が踏み込んでいい領域じゃない。
いやこれ味見したのかこれ! なんでこんなもん生み出した! 馬鹿なのか!
心中で思わず吐く暴言。
額の汗腺が一斉に開門し、背骨を灼熱が駆け上がる。
水…………だめだ。まだだ。
唐油で滑る豆腐を、舌の上で転がさず、喉へ。
木札の三行が額の内側で回る。
耳鳴りがきいんと鳴り、親父の鍋の音が遠ざかる。視界の端が潤んでくる。
恐ろしい。これぞまさに地獄。地獄の味だ。
もう食わせてくれるなと匙を持つ手が全力で拒否してくる。
噛むな。飲み込め。噛めばさらなる痛みがやってくる。
ようやく三分の一ほど進めた頃。
あまりの苦行に俺の思考までもが痺れてきた。
いったい……俺は、…………何をやって…………。
視界が回り、皿を前に意識が朦朧としてくる。
つら、い……。
つらい…………。
つらい…………、つらい……、つら……い?
脳が逃げ場を探して、余計な記憶を持ってくる。
勇者になりたての頃。王都の謁見で泡を吹いて失神して恥をかいたこととか。
仲間たちとの初の顔合わせで、人見知り爆発してマジ吐いて、三日くらいまともにみんなと目を合わせられなくなったこととか。
初陣の時、責務を果たすことばかり考えていて、戦いが終わるまで社会の窓全開に気づかず、魔王軍にしばらくネタにされて死にたくなったこととか。
──あー無理無理。やめろ、思い出したくない。
こんな、痛み……こんな苦しさ……。
あの時に比べたら。
──濡れた大地。
破壊され、地に転がった大盾が脳裏にちらつき、燃えていた心臓が冷えて、指先が震える。
あの時に……比べたら。
……こんな痛み──。
目を見開き、もう一度匙を握り直して、俺は一気にかき込んだ。
額から汗が派手に伝い落ちる。
舌から喉の奥の痛みが、痺れが猛毒のように広がる。
それでも──。
「ッ……あ゛……ゴホォッ‼︎」
またも激しく咽せる。
ここで水? いや──まだ、まだだ……‼︎
水は一杯しかない。最後の切り札にしておくべきだ。
代わりに、なるべく口内を刺激しないよう呼吸を変える。
豆腐を一片、もう一片。合間にサラマンダーの挽肉。
挽肉が小さな刃の群れみたいに舌の上を転がる。どこを食べても逃げ場がない。
「おい……がんばれ……! がんばれよ‼」
誰かの声援が、遠くから届く。
「勇者様、いける、いけるぞ……!」
やめて。見ないで。褒めないで。いま褒められると、崩れる。
喉の内壁が薄皮ごと焼け剥がれる感覚。
胃に落ちたものが、小さな竜になって胸骨を叩く。
涙が視界を歪め、耳からも火を噴きそうだった。
逃げるな。
俺は、みんなの装備を整えて、誰一人死なせずに、この先に……。
豆腐、挽肉、豆腐、挽肉。舌の上をほとんど通過させず、喉へ。
視界の端で、ギャラリーが硬直している。
「……まさか」
ドワーフの親父の低い声が、確かに聞こえた。
残り、わずか。
ようやく見えてきた、毒沼の底。
最後のひとかけらを掬う。
舌はもう限界。
ここだ──。
俺は、奥に置いていた、たった一杯の水を手に取った。
口に一気に含み、舌の刺激が僅かに洗い流された瞬間。
唐油が滴る最後の一口を喉にぶち込む。
匙が落ちる音。
鉄皿の中は空だ。
俺は救いの一杯を最後まで飲み干し、テーブルに叩きつけた。
数拍の沈黙。
カウンターの端で、数人が立ち上がり拍手が上がり、信じられないというような雄叫びが一斉に響いた。
呼吸が、いつまでも整わない。
胃の中が爆炎で満たされている。
舌は死んでるのか、もはや感覚がない。
喉が焼け焦げたみたいに痛くて、息を吸うたびにヒュウ、と音が鳴る。
──あ、これ、声出ないやつだ。
親父が麻袋をどすんと眼前に置く。
「あんたのもんだ」
10万モート。
「あ゛……ッ──」
言葉にならず、口内がただただ痛みだけを連れてくる。
親父は俺の喉をちらりと見て、顎で合図した。
「いい、喋るな。……ようやった。良いもの見せてもらったよ」
短い言葉が、やけに優しかった。
店の隅で見ていた野次馬が、ヒソと囁く。
「本当に勇者様だった……」
「声、出ないの可愛いな」
やめて。ほんとに見ないで。
店を出ると、雪解けの風が、灼けて潰れた喉にまたしみた。
胃の底でまだ小さな竜が暴れて、火の玉を噴き続けている。
ボロボロだ……。この間の戦線もキツかったが、これはまた別の次元である。
俺はふらつきながら麻袋を大事に抱え直し、宿へ引き返した。

