「で? 恋ちゃん、なにがあったわけ?」
僕の部屋は小学生のときからほとんど変わってない。学習机にカラーボックスに備えつけのクローゼットにベッド。イオの部屋は中学のときにおしゃれに模様替えされていたけど、僕のほうは小説用の棚とこたつ机が増えたくらいだ。
たどりつくなりイオにそう言われて驚く。
「いや、べつに……」
「べつにって顔じゃないよね」
ごまかそうとしたけどイオにはそんなもの通らない。
せめてベッドに座る彼から顔が見えないように背を向けてこたつのまえに座った。
……こんなことイオに相談するのは恥ずかしい。
でも、考えてみたらイオ以上の適役はいない気がする。
「笑わない?」
「うん、笑わないよ」
「実は……」
――『初恋』の話なんだけど。
そう口にした瞬間、後ろにいるイオが固まった気配がした。「……へ?」とつぶやく声がする。
僕はこたつの上に顔を伏せた。
「わかってる。こんなこと僕が言うのはおかしいって。でも、」
「れ、恋ちゃ……まさか――」
「でも、部活のお題だから……っ!」
イオがまた固まった。「んん……?」と首をかしげているのが見なくてもわかる。
「部活の、お題……?」
「……そう。今回のお題が『初恋』」
僕が所属している文芸部の顧問、四賀先生は幽霊部員がきらいだ。
なので一ヵ月に一度お題を発表し、期限までに作品を書いてこなかった部員は容赦なく退部にすると新入生歓迎会で宣言された。
作品はなんでもいい。詩でも、小説でも、エッセイでも。
四月は『桜』。五月は『こいのぼり』。というふうにわかりやすいテーマが毎月だされ、僕はいつも千字ほどの掌編を書いて提出していた。
それも八月で五本目になり、月一でなにかを書くのは大変だけどみんなで同じテーマのものを書いて読みあうのは楽しいな……なんて思っていた矢先。
『先生の初恋は夏休みにこんがり日焼けした女子だった……』
と四賀先生がふいに述懐した。
九月のテーマは『初恋』になった。
え、無理なんですけど、と思った。
「……なんだ、初恋とか言いだすからびっくりした。てっきり……」
「てっきり?」
「……なんでもない」イオは後ろで苦笑する。「恋ちゃん、女子恐怖症なのにそんなお題来ちゃったんだね」
僕には年の離れた姉がいる。
彼女は妹がほしかったらしく、僕に自分のお下がりを着せて肩まで伸ばさせた髪をかわいいリボンで結んだ。
つまり女装。家の中でだけだったけど、それを小学校に上がるまで頻繁にさせられていた。
これだけでも女性に苦手意識を持つようになる理由には充分なのに、僕が姉に逆らおうとすると姉はすかさずスマホの画像(母が撮影したものをもらったらしい)を見せてくる。髪にリボンをつけてひらひらのワンピースを着ている僕の写真だ。
そして『あんたの人生終わらすのなんて簡単なんだよ……?』と悪魔のような笑顔でささやいてくる。
こんな姉を持った結果。
僕は、女性そのものが苦手になってしまった。
三次元の女子も。二次元の女子も。姉を連想させるものはおしなべてNGで、他人の恋愛話も背筋がぞわっとするからダメ。
周りからは浮ついた話をきらっているように見えるらしく、中学のときは『生真面目』とか『堅物』とか『ラブコメの委員長』とか言われた。最後のがどういう意味なのかはたしかめられないのでわからない。
とにかくそんな状態なので、僕が『初恋』なんてものを知る機会はいまだになく――
「想像で書けないの? よく言うじゃん、人殺した経験なくてもミステリ小説は書けるって」
一番物騒なたとえを持ってきた……。
「殺人のシーンはドラマとかで見れるじゃん。でも僕は恋愛ものはフィクションすら見れないんだよ」
「あ、そっか。漫画でもラブコメシーンがくると変な汗かいてたっけ」
なので読めるのは恋愛要素が限りなくすくないものだけだ。ちなみに小説でも色っぽいシーンになると一旦本を閉じて深呼吸しないとつづきが読めない。
重症だ。自覚はある。
でも理由を他人に説明するには姉に女装させられていたことまで話さなくてはいけないので、イオ以外にうちあけたことはなかった。
「今回はお休みさせてもらったら?」
「そうできたらいいんだけど……」
一ヵ月に一回、テーマに沿った創作物を提出しないと退部という話が脳裏をちらつく。さすがに本気じゃないとは思うけど。
「それに……なにかを書く力をつけるには、いままで書いたことないジャンルに挑戦することも大事かなって」
恋愛は苦手。でも多くの話がそれをテーマにしている。たとえ趣味でも小説を書く以上、いつかはぶちあたっていた壁だ。
だったらこれをピンチじゃなくて苦手を克服するチャンスとしてとらえたい。
それに――高校生になってから、イオにどんどん置いていかれているような気がする。金髪にしたり、演劇コンクールにでたり……そういうわかりやすい変化だけじゃなくて。
恋、がなにか知ればすこしは彼に追いつけるような気がした。
「だから逃げたくない。……んだけど。どうしよう、イオ」
「そうだねー……」
いろんな子とつきあったことがあるイオからしたらこんな悩みは小さすぎるだろう。陸上選手が赤ちゃんにハイハイを教えるようなもの。
でもイオは真剣に考えてくれているみたいだった。
やがて、
「なら、おれとつきあってみる?」
突拍子もないことを言いだした。
「……へ?」
意味がわからなくて僕はイオを振りかえる。
イオはベッドに手をつくと僕のほうに身を乗りだした。
「かたちから入るってやつだよ。おれもさ、今回の役つかむために貴族のしゃべりかたとか所作とか研究したんだ。そしたら中世ヨーロッパのひとの気持ちがなんとなくだけどわかった。恋ちゃんもやってみようよ」
「いや、恋愛をかたちから入るって……」
「好きになってからつきあうんじゃなくて、つきあってから好きになってみる。どう?」
どう、って言われても。
「え……ど、どうなの……?」
イオの言うことは一理ある……んだろうか。
わからない。でも、僕よりイオのほうが経験豊富なのはたしかだし。
「それともおれじゃいや?」
「そ、そんなことない!……ない、けど」
女の子よりもイオのほうが一緒にいて落ちつく。それもほんとだけど。
「ならいいじゃん」とイオは切れ長の目を細める。
「おれとつきあおうよ。あ、もちろんフリでね?」
「フリ……」
「つきあってるフリ。お芝居だよ、お芝居。舞台の上で起きることはみんなうそだけど、でも観てるときに感じる感情は本物だよね? おれたち役者もそう。だから、うそでもつきあってるフリしたら『初恋』がなんなのかわかるかも」
すごい。イオに言われるとなんだかほんとうにそんな気がしてきた……!
つきあうって聞いたときは驚いたけど、フリならいいかもしれない。イオにも迷惑はかけないだろうし。
「それなら……」と僕は返事をする。
「じゃあ決まり。
――今日からおれが、恋ちゃんの彼氏ね?」
そう言うなりイオはベッドを降りて僕の隣に座る。
どうしたのかな、と思ったら右手をにぎられた。わざわざ遠いほうの右手で。
「……イオ?」
「女の子とふたりきりになったらこうやって爪褒めるんだよ」
「爪……?」
そ、とイオは僕の手を自分の顔に近づける。
「ネイルしてたらかわいいねとか。色きれいだねとか。そうすると喜んでもらえるし、女の子が自分の爪をお手入れしてるときの楽しい気持ちをわけてもらえる気がするんだ」
「……でも、みんながみんなネイルしてるわけじゃなくない?」
「そういう子には爪のかたちや指を褒める。バ先が飲食店でネイルできないし爪も伸ばせないしなんなら指先が荒れてる子にはがんばってるんだねって言ってあげる。こういう手がおれは一番好きだよ、って」
「へ、へえ……」
そんなことしてるんだ、イオ。
知らなかった幼なじみの一面を垣間見て胸がざわりとする。
なんだろう――この気持ち。
ふつうなら恋人になんてならない僕が知ってしまったことへの後ろめたさなのか。小さいときは僕にくっついて歩いてた泣き虫が女の子とこんなことをしてることへの焦りなのか。
わからないけど、心をひっかかれたような感じがした。
「で、そしたら……」
……そしたら?
つづきがあるのかと驚いたのもつかの間、イオの指が僕の指の間にするりと入ってきた。「手、小さいね~。女の子みたい」そうして優しくにぎられてイオの手のひらが僕の手の甲に密着する。
僕より大きくて、意外と硬くて、熱い手のひらが。
「え、……」
「ほら。すっぽり入っちゃう」
「ま、まって……イオ……」
ダメ、とイオは目の端で僕を見た。「『初恋』がなにかわかるまで、恋ちゃんのこと離さないから」
「ま……、」
生まれたときから一緒にいる幼なじみに手をにぎられてどきどきする。そんなのおかしい。なのに心臓の鼓動が速くなっていく。
どうして? なんで?
イオとは手をつなぐどころかふたりでひとつの布団で寝たこともあるのに。なんで今更――
「恋ちゃんの手、すべすべで気持ちいい」
「……っ、」
すり、と指の股をなでられる。
むかしはあんなに頼りなかったのに。いつからイオの手はこんなにたくましくなったんだろう。
「ちょっ……やめて、それ……」
「なに? これ?」
「それ……!」
指の先端で手のひらをくすぐられる。
くすぐったくて、でもそれだけじゃないなにかで鳥肌が立った。
手のひらなのにわき腹をくすぐられてるみたいな。
他人には隠しておかなくちゃいけない場所をさわられているみたいな。
「知ってる? だれかにさわられてくすぐったいって感じるのは、そのひとのこと意識してるからなんだって」
「……うそ」
「ほんとだよ。これが知らないおっさんとかだったらくすぐったいなんて思わないでしょ?」
思わない。気持ち悪いが先にくる。
でも、イオのことを今更意識するなんて。
「ね、ちゃんとどきどきしてる?」
「……わ、わからない」
「してるよ。だって、そういうつもりでさわってるもん」
――そういうつもり?
「恋ちゃん、顔真っ赤。かわいい」
僕を見下ろしてイオが余裕の笑みを浮かべる。
うそみたいだ。幼稚園のときは古い建物が怖くてひとりじゃトイレにもいけなかったくせに。
いつから――
いつから、彼はこんな大人びた顔をするようになったんだろう。
「おれに顔見せて?」
「むり……」
イオの顔を見ていられなくて――熱くなった自分の顔を見られたくなくて僕はうつむく。
でもすぐに「……見せて?」と僕の手を離したイオにあごをつかまれて上を向かされる。その仕草も手馴れていて、なぜだかそのことに傷つく自分がいた。
イオの瞳はきれいなミルクティー色をしている。
その目にじっと見つめられて。みんなこの目におかしくなったんだ、と思う。
優しそうで。でも、絶対に逃がしてくれなさそうな――
「恋ちゃん。キスしたいから、目閉じて」
「……え、」
返事を待たずにイオの顔が近づいてくる。
……まさか。まさかほんとにキスするはずない。舞台上と同じ寸止めだ。
でもイオは止めない。まつげの一本一本まで数えられるくらい距離が近づいてくる。
そこまできてイオは目を閉じると、息がかかりそうなほどさらに顔を寄せてきて――
「……っ、」
僕は思わずまぶたを閉じた。
いまにもイオの唇がふれる、と思ったけど一秒経って三秒経って五秒経っても唇にはなにもあたらない。
「……?」
おそるおそるまぶたを開ける。と、イオがにっこり微笑んだ。
「大丈夫だよ。ファーストキスはほんとうに好きな子ができたときのためにとっておかなくちゃ。ね?」
そう言って彼は僕から手を放す。
――やっぱり"フリ"だった。脱力して息を吐きだすと、体にこもっていた熱まででていくみたいだった。
緊張を解いた僕を見てイオが微笑む。
「びっくりさせた? ごめんね、恋ちゃん」
「ううん。……でも、どうせなら初めてはイオがいいな」
「――え?」
「あ……、変な意味じゃなくて。イオなら僕のことよくわかってるし。失敗しても笑って許してくれるだろうし……」
「…………」
「そう思っただけで、べつに深い意味は――」
「……じゃ、ほんとにしちゃう?」
「え?」
今度はこっちがきょとんとする番だった。
イオは体の向きを僕のほうに変える。なんとなく、狩りにいく動物を連想する。
「してみようよ。キス。おれとキスすれば、恋がなにかわかるかもよ?」
「え……で、でも」
「でもそのまえに、ちゃんと憶えておいてね」
――恋人に『初めてはあなたがいい』なんて言われて、止まれる男はいないってこと。
イオのその言葉になにか反論しようと思ったはずだった。でもそれはぜんぶどこかに消えてしまった。
さっきよりも強くあごを持ちあげられてキスをされたときに。
手のひらは熱かったのにイオの唇はつめたかった。そのつめたさを感じたのは一瞬で、すぐに僕の熱とくっついて混ざってわからなくなる。
すこし硬めの唇。ほかのだれかと比べることなんてできないのに、それが男のものだとはっきりわかる。
同性とのキスなのに違和感がないのはきっと相手がイオだからだ。
指先がちりちりするのも。心臓がさっきより速くなっていくのも。このまま時間が止まればいいのにと願ってしまうのも――
「――――」
ふいにイオの唇が離れる。
いつ自分が目を閉じたのかもわからなかったけど、視界に映るイオの顔は赤く染まっていた。
てっきり余裕の笑みを浮かべていると思っていたのに。
イオは、この世界の恋と名がつくものすべてで色を塗ったみたいに赤くなっていた。



