満月狐に想われて

 ひどく苦しげな晴臣(はるおみ)のつぶやきに、思わず足が止まる。

「ねえ、晴臣。今、なんて言ったの?」

 今度こそ、わたしを守る。彼は今、そう言っていた。まるで、かつてわたしを守れなかったのだと、そう言わんばかりの口ぶりだ。

「どうかしましたか、紅子(べにこ)様?」

 しかし彼は、きょとんとした顔で首をかしげている。まさか、さっきのはわたしの聞き間違いだったのだろうか。

「ほら、二階にいきましょう。足元に気をつけてくださいね」

 晴臣はにっこり笑い、やけに明るい口調で呼びかけてくる。気のせいか、その態度が少々しらじらしく感じられる。もしかすると、彼はわたしに何か隠しているのかもしれない。

 ……先ほど、わたしは彼に、前世の自分のことを尋ねた。彼は迷うことなく、わたしは立派に任をまっとうしたのだと断言していた。

 今にして思えば、あのときの態度もおかしかった気がする。ほんの少しだけれど、その顔に焦りの色があったような……。

 やっぱり前世のわたしには、何かがあったんだ。けれど晴臣は、そのことを話すつもりはない。

 こうなったら、どうにかして自力で思い出すしかなさそうだ。あるいは、根気強く晴臣を説き伏せて、教えてもらうか。

 どちらにせよ、すぐに片がつくものでもないだろう。けれど、少なくともやるべきことは見つかった。それだけでも、ほっとする。

 そこまで考えて、改めて屋敷の中を見回す。焦っても仕方がない。ここは、いったん気持ちを切り替えよう。せっかくだから、今はこの夢のような場所を、じっくりと見て回りたいし。

 顔を上げて微笑むと、晴臣の口元にもほっとしたような笑みがかすかに浮かんだ、ように見えた。



 階段を上り、二階の廊下を並んで歩く。足元に敷かれた絨毯はふかりと柔らかく、淡い青緑色の壁紙には愛らしい花が描かれている。

 玄関ホールと同様に、廊下にもたくさんの窓があり、傾いた橙色の太陽がその向こうに見えていた。

「……それにしても、洋館って面白いわ。何もかもが、とても新鮮で」

 見慣れない風景に、自然と声が弾んでしまう。すると晴臣が、振り返るなりわたしをじっと見つめてくる。期待の色が、その目にはあった。

「もしかして紅子様は、洋館は初めてですか?」

「ええ。東藤(とうどう)の屋敷は和風の平屋なの。それに東藤の屋敷があるのは帝都の東のはずれで、あの辺りにあるのは古い和風の建物ばかりだから」

「ふふ、貴女の初めて……いい響きですね」

 わたしの返答に、彼はとろけるような笑みを浮かべた。さっきまでのどことなくぎこちない態度は、もうすっかりどこかへ行ってしまっている。

「やっぱり浮かれているのね、晴臣」

「それはそうでしょう。やっと貴女と再会できて、こうして屋敷に招くこともできたのですから。天にも昇る心地ですよ」

 軽口を叩きつつ、彼はひときわ豪華な扉の前で足を止めた。繊細な彫刻の施された、重厚な木の扉だ。うかつに足を踏み入れていいのか、ためらわれる雰囲気だ。

「さあ、次はこちらへどうぞ」

 しかし晴臣は、いたって気軽に扉を開け、わたしを中へといざなった。

「まあ……」

 部屋に入るなり、感嘆のため息がもれる。そこは、どうやら書斎か何かのようだった。

 正面には大きな机が置かれ、両側の壁には背の高い本棚がずらりと並んでいる。貸本屋に並んでいるものとはまるで違う、どっしりとした装丁の本ばかりだ。

 あれはいったい、何の本なのだろう。気になる。

 そわそわしているわたしに、晴臣がくすりと笑いかけた。

「ここは、僕の仕事部屋です。昼間はだいたいここにいますから、遠慮なく訪ねてきてください。むしろ、来ていただけると嬉しいです。いくらでも付き合いますから」

 それを聞いて、少し考える。男爵家の当主というものは、そんなに自由な時間があるものなのだろうか。

 わたしには推測することしかできないけれど、使用人たちを管理したり、他の華族たちと交流したりするだけでも、結構時間を取られるような気がする。

「でも晴臣には、当主としてのお仕事があるのでしょう? 客人でしかないわたしにかかりきりになるのは、どうかと思うわ。わたしとしても、邪魔をしたくないの」

 ためらいがちにそう言葉を返すと、彼は難しい顔になってきっぱりと首を横に振った。

「貴女が邪魔になることなどありえません。むしろ、仕事のほうが邪魔なくらいです」

 その言葉に天を仰ぎそうになって、すんでのところでこらえる。

 この屋敷のありよう、そして使用人の態度からすると、晴臣はよい主なのだと思う。きちんと執務をこなし、家を切り盛りしていける、優秀な当主なのだろう。

 そんな彼が、仕事が邪魔だと言い切るというのは、かなりの異常事態なのではないか。

「……わたしのせいであなたが堕落したら、橘花(たちばな)の方々に顔向けができないわね」

「堕落なんてしませんよ。約束します」

 わたしの心配をよそに、晴臣はのほほんとしている。

「そもそも、僕の仕事は元々そう多くはないんです。使用人たちについては矢野がしっかりとまとめてくれていますから、家の中のことは放っておいても問題ありませんし」

 先ほど会った矢野さんの、穏やかながらも頼もしげな様子を思い出した。確かに彼なら、かなり頼りになりそうだ。

「他人任せにできない仕事が、たまに外から舞い込みますが……裏を返せば、それ以外の仕事はどうとでもなるんです」

 すらすらと語っていた晴臣が、ふっと寂しげに目を伏せた。

「……それに、僕はずっと、貴女を探してあちこちをさまよっていました。ろくに屋敷にいつかない、そんな当主だったんです。そのせいで矢野たちには、かなり迷惑をかけてしまいました」

「そう、だったの……」

「ええ。でもこれからは、もう外をうろうろしなくても済みます。貴女がこうして来てくれたおかげですよ」

 心底幸せそうな彼の表情に、とまどってしまう。

 わたしは独り立ちして幸せになるため、東藤の屋敷を出ることにした。両親への負い目を少しでも軽くするため、前世の記憶の謎を追いかけようと決めた。自分を責めて引きこもるのではなく、自分にできることを探そうと思ったのだ。

 でも彼の笑顔を見ていたら、そんな決意が揺らぎそうになる。わざわざ苦しい道を選ばなくてもいい、ずっと彼のそばにいるだけでいい。そうすればわたしは彼を幸せにできるし、きっとわたしも幸せになれる。

 でも、それでいいのだろうか……。

 甘い誘惑から視線をそらすように、ゆるゆると首を横に振った。このことについては、あとでゆっくりと考えよう。

 それより、気になって仕方がないことがあった。少しだけためらって、晴臣に声をかける。

「あの、ところで……ちょっとだけ、本を見せてはもらえないかしら」

「ええ、いいですよ」

 わたしが露骨に話を変えたことに気づいているだろうに、晴臣は指摘すらしない。やはり嬉しそうに微笑んでいるだけだ。

 問題を先送りしていることに後ろめたさを感じながら、好奇心に駆られるまま本棚に近づく。

「本、お好きですか?」

 ずらりと並ぶ背表紙をまじまじと眺めていると、晴臣が隣に立った。

「好き……だとは思うわ。もっとも、ゆっくり読む機会がなくて」

 そもそも、一冊の本をきちんと読み切った経験すらない。言葉を濁しているわたしに、彼は嬉しそうに微笑みかけてきた。

「読みたければ、ご自由にどうぞ。分からないところがあったら、遠慮なく聞いてください」

「ふふっ、ありがとう」

 それからぐるっと、本棚を見て回る。しかし部屋の奥まった一角に近づいたそのとき、晴臣が手をそっと引っ張ってきた。

「ああ、そちらの棚は……」

「どうかしたの?」

「その、仕事に関係する書物を収めていますので」

「だったら、そちらには触れないでおくわ」

「そうしてもらえると助かります」

 素直にその一角から離れつつ、こっそりと首をかしげる。ちらりと見えた題名からすると、そこに並んでいるのは民話や伝承といった本のようだった。どうして彼は、ここからわたしを遠ざけようとしたのだろう。

 また、晴臣に聞きたいことが増えてしまった。でもこれくらいなら、今それとなく聞いてみてもいいかもしれない。

 そう思って口を開きかけたそのとき、入り口の扉がこんこんと叩かれた。