それは、紅子(べにこ)と晴臣(はるおみ)が元通りの穏やかな日常に戻ってから、しばらく経ったある日のことだった。
「こんにちは、紅子様はおられますか!」
元気な声とともに橘花(たちばな)の屋敷を訪ねてきたのは、ミヨだった。玄関のすぐ外に立ち、声を張り上げている。胸のところにしっかりと抱え込んでいるのは、おそらく新しく借りてきた本だろう。
「お見せしたいものがあるんですけど、今、大丈夫ですか?」
すると、はきはきと用件を告げるミヨのすぐ後ろから、民江が姿を現した。こちらは腕に、籐編みのかごを下げている。
「失礼いたします、鶴羽屋です。紅子様に取次ぎをお願いいたします」
ミヨは機敏な動きで振り返ると、人懐っこい笑みを浮かべた。
「あ、あなたも紅子様に御用なんですね。私、矢野ミヨって言います。父がここで働いていて、紅子様は私のお友達なんです!」
元気よく自己紹介したミヨに、民江が微笑みながら言葉を返した。
「ご丁寧に、ありがとうございます。私は阿部民江、鶴羽屋の店主の娘です」
ずっと年下のミヨに対して、民江はとても礼儀正しく接している。それが嬉しかったのか、ミヨはぱっと顔を輝かせた。そうして、民江のかごをじっと見ている。
「鶴羽屋さんの人……だったら、その中にも布か何かが入ってるんですか?」
「はい。晴臣様から注文を受けていた、紅子様のリボンの試作品です。一度紅子様に試着していただいてから、改めて細部を調整する予定なのです」
それを聞いて、ミヨの目がさらに輝く。
「リボン! ……ちょっとだけ、見ちゃ駄目ですか?」
「そうですね。紅子様の試着に同席できないか、頼んでみましょうか?」
「ぜひ、お願いします!」
ちょっと前のめりになっているミヨの愛らしさに、民江は自然と笑顔になっていた。
「分かりました。きっと紅子様は、許してくれると思いますよ」
「ですよね、紅子様、とっても優しいから!」
ふたりが玄関先で話し込んでいると、なぜか門の外から文子がそろそろと顔を出した。しかも、人差し指を口の前に立てて「静かに」と合図している。
「あのー、そこのお客さんふたり」
思いっきり声をひそめながら、彼女はミヨと民江に歩み寄っていく。そのただならぬ様子に、ふたりが会話を止めて、じっと文子を見つめた。
「あれ、文子さんだ。どうしてそんなところでこそこそしてるんですか? また、父さんの説教から逃げているとか?」
ミヨの身もふたもない言葉に、文子が苦笑する。
「いや、さすがに、今日はまだお説教されてないから。……ま、あの件がばれるとまずいけど」
ざっくばらんに答えた文子だったが、民江を見てすっと背筋を伸ばす。
「民江さん、せっかく来てもらったところ、申し訳ないんですが……あいにくと、紅子様は今ちょっとお取込み中で……」
「そうでしたか。これくらいの時間帯であればいつでも訪ねてきていいと、そううかがっていたのですが」
小首をかしげる民江のほうに、文子が身を乗り出す。
「ええ、普段ならそうなんですけどね、今日はちょっと……」
「ちょっと?」
文子の意味ありげな口調に何かを察したのか、ミヨが興味深そうな笑みを浮かべた。
「でしたら、また後日改めてうかがいます」
しかし民江は、礼儀正しく頭を下げ、きびすを返そうとした。その右腕に、とっさにミヨが手をかける。
「待ってください、民江さん。文子さんは、何か隠してますよ。聞いてみませんか」
「いえ、私には関係のないことですから」
しかし民江の左腕を、今度は文子がつかんでしまった。
「まあ、そう言わず。ちょっとだけですから」
その少しあと、三人は屋敷の裏手にある生垣の陰にかがみ込んでいた。密に茂った生垣を通して、その向こうの裏庭と、遠くにある離れがぼんやり見えていた。
離れの縁側に、ふたりの男女が並んで腰かけている。晴臣と紅子だ。晴臣は青眼鏡を外していて、紅子の前髪は左目を隠してはいなかった。金の目と赤の目で互いを見つめながら、ふたりは和やかに話している。
「やっぱり、きれいな目だなあ……隠さないほうがいいですよね、絶対」
ミヨが声をひそめながら、うっとりとため息をついている。その視線は、遠くにいるふたりに注がれていた。
「そうですね。しかし私たちは、どうしてこのようなところでこのようなことをしているのでしょうか」
民江は落ち着かなげに抗議していたが、それでもふたりのことが気になっているらしく、横目でそちらをちらちらと見ている。
文子が得意げに笑って、民江の耳にささやきかけた。
「せっかくなので、あのお姿を見てもらいたいなって思ったんですよ。晴臣様と紅子様、ふたりきりだとすっごく幸せそうなんです」
その言葉に、民江もそろそろとうなずく。まだ神妙な顔をしていたが、その目にはまぎれもない興味の色があった。
「確かに、おふたりのあのような表情は、初めて見ましたが……」
普段彼女たちが見ている晴臣は、落ち着き払っていて威厳に満ちた、若いながらも名家の当主として何ひとつ不足のない、立派な人物だった。
しかし今紅子に寄り添っている彼は、まるで子どものように無垢な笑みを浮かべていて、優しく柔らかなまなざしを、ただひたすらに彼女に向けている。彼女のことが愛おしくてたまらないのだと、その顔には書いてあった。
そして紅子も、普段とは違う顔を見せていた。いつもの彼女は、物静かで控えめな、しかしどことなくつかみどころのない女性だった。
けれど今の彼女は、この上なく幸せそうに微笑んでいた。年相応の、ちょっとはにかむような表情は、見る者全ての胸を温かくさせるようなものだった。
そうやって寄り添うふたりの姿のあまりの仲睦まじさに、ミヨは素直に感動していたし、民江も反論を呑み込まずにはいられなかった。
「うわあ、ほんとにお幸せそう……いいなあ、素敵だなあ」
ミヨは両手を頬に当てて、くすぐったそうに身をよじっている。
「……リボン、もう少し華やかにしてもよさそうですね」
笑顔の紅子を見つめながら、民江が真剣な顔でつぶやいている。どうやら紅子の姿を見ているうちに、リボンのデザインを修正したくなってしまったらしい。
「ああして、昼間から離れでおふたりがくつろいでいる姿を見られるのは珍しいんですよ。せっかくだから、こっそり見てもらうのもいいかなって」
そして文子はやっぱり得意げに、小声で説明していた。
「あ、文子さん、民江さん」
しかしそんな文子の言葉を、ミヨの真剣な声がさえぎる。ミヨは生垣に顔を突っ込まんばかりにして、離れをまじまじと見つめていた。
つられるようにして、文子と民江もまた離れを凝視する。
三人の視線の先では、晴臣と紅子がなおも親しく語り合っていた。先ほどよりもさらにふたりの距離は近づいていて、いつの間にかそっと手を取り合っているし、互いの前髪が触れ合わんばかりになっている。
「もしかして、これって……」
期待に満ちた声で、ミヨがつぶやいた。
晴臣がやけにこわばった顔で、紅子の肩に手をかける。紅子は穏やかな笑みを浮かべたまま、少し上にある晴臣の顔を見返していた。
固唾を呑む三人の視線の先で、晴臣は紅子に顔を近づけていき……彼女の頬に、そっと唇を触れさせた。
三人が同時に、息を吐く。
「わあ、すごいもの見ちゃいました!」
「見てしまって、よかったのでしょうか……よくありませんね。ならば謝罪すべきか、しらを切るべきか……」
「ああ、惜しかった! そこは唇にいってほしかった!」
すると離れのほうから、低い声がした。
「こら、聞こえているぞ」
晴臣が紅子を抱き寄せたまま、三人のほうを見すえていた。どうやら、今の声で三人の存在に気づいたらしい。
「……まったく、そろいもそろって何をしているんだ」
「ふふ、晴臣様。顔が赤いですよ」
紅子は晴臣にもたれたまま、くすくすと笑っている。三人に気づかれたにもかかわらず、彼女の穏やかな態度は変わっていなかった。
「まあ、いちいち人目を忍ぶのも面倒ではあるし、少しは見られることに慣れるしかないか」
ため息まじりに、晴臣はつぶやく。しかしその顔に、また柔らかい笑みが浮かんだ。三人に聞こえないくらいのかすかな声で、紅子に呼びかけた。
「紅子様、そういうわけですから……どうぞ、よろしくお願いしますね」
そうして彼は、もう一度紅子に口づけたのだった。今度は、彼女の唇に。
「こんにちは、紅子様はおられますか!」
元気な声とともに橘花(たちばな)の屋敷を訪ねてきたのは、ミヨだった。玄関のすぐ外に立ち、声を張り上げている。胸のところにしっかりと抱え込んでいるのは、おそらく新しく借りてきた本だろう。
「お見せしたいものがあるんですけど、今、大丈夫ですか?」
すると、はきはきと用件を告げるミヨのすぐ後ろから、民江が姿を現した。こちらは腕に、籐編みのかごを下げている。
「失礼いたします、鶴羽屋です。紅子様に取次ぎをお願いいたします」
ミヨは機敏な動きで振り返ると、人懐っこい笑みを浮かべた。
「あ、あなたも紅子様に御用なんですね。私、矢野ミヨって言います。父がここで働いていて、紅子様は私のお友達なんです!」
元気よく自己紹介したミヨに、民江が微笑みながら言葉を返した。
「ご丁寧に、ありがとうございます。私は阿部民江、鶴羽屋の店主の娘です」
ずっと年下のミヨに対して、民江はとても礼儀正しく接している。それが嬉しかったのか、ミヨはぱっと顔を輝かせた。そうして、民江のかごをじっと見ている。
「鶴羽屋さんの人……だったら、その中にも布か何かが入ってるんですか?」
「はい。晴臣様から注文を受けていた、紅子様のリボンの試作品です。一度紅子様に試着していただいてから、改めて細部を調整する予定なのです」
それを聞いて、ミヨの目がさらに輝く。
「リボン! ……ちょっとだけ、見ちゃ駄目ですか?」
「そうですね。紅子様の試着に同席できないか、頼んでみましょうか?」
「ぜひ、お願いします!」
ちょっと前のめりになっているミヨの愛らしさに、民江は自然と笑顔になっていた。
「分かりました。きっと紅子様は、許してくれると思いますよ」
「ですよね、紅子様、とっても優しいから!」
ふたりが玄関先で話し込んでいると、なぜか門の外から文子がそろそろと顔を出した。しかも、人差し指を口の前に立てて「静かに」と合図している。
「あのー、そこのお客さんふたり」
思いっきり声をひそめながら、彼女はミヨと民江に歩み寄っていく。そのただならぬ様子に、ふたりが会話を止めて、じっと文子を見つめた。
「あれ、文子さんだ。どうしてそんなところでこそこそしてるんですか? また、父さんの説教から逃げているとか?」
ミヨの身もふたもない言葉に、文子が苦笑する。
「いや、さすがに、今日はまだお説教されてないから。……ま、あの件がばれるとまずいけど」
ざっくばらんに答えた文子だったが、民江を見てすっと背筋を伸ばす。
「民江さん、せっかく来てもらったところ、申し訳ないんですが……あいにくと、紅子様は今ちょっとお取込み中で……」
「そうでしたか。これくらいの時間帯であればいつでも訪ねてきていいと、そううかがっていたのですが」
小首をかしげる民江のほうに、文子が身を乗り出す。
「ええ、普段ならそうなんですけどね、今日はちょっと……」
「ちょっと?」
文子の意味ありげな口調に何かを察したのか、ミヨが興味深そうな笑みを浮かべた。
「でしたら、また後日改めてうかがいます」
しかし民江は、礼儀正しく頭を下げ、きびすを返そうとした。その右腕に、とっさにミヨが手をかける。
「待ってください、民江さん。文子さんは、何か隠してますよ。聞いてみませんか」
「いえ、私には関係のないことですから」
しかし民江の左腕を、今度は文子がつかんでしまった。
「まあ、そう言わず。ちょっとだけですから」
その少しあと、三人は屋敷の裏手にある生垣の陰にかがみ込んでいた。密に茂った生垣を通して、その向こうの裏庭と、遠くにある離れがぼんやり見えていた。
離れの縁側に、ふたりの男女が並んで腰かけている。晴臣と紅子だ。晴臣は青眼鏡を外していて、紅子の前髪は左目を隠してはいなかった。金の目と赤の目で互いを見つめながら、ふたりは和やかに話している。
「やっぱり、きれいな目だなあ……隠さないほうがいいですよね、絶対」
ミヨが声をひそめながら、うっとりとため息をついている。その視線は、遠くにいるふたりに注がれていた。
「そうですね。しかし私たちは、どうしてこのようなところでこのようなことをしているのでしょうか」
民江は落ち着かなげに抗議していたが、それでもふたりのことが気になっているらしく、横目でそちらをちらちらと見ている。
文子が得意げに笑って、民江の耳にささやきかけた。
「せっかくなので、あのお姿を見てもらいたいなって思ったんですよ。晴臣様と紅子様、ふたりきりだとすっごく幸せそうなんです」
その言葉に、民江もそろそろとうなずく。まだ神妙な顔をしていたが、その目にはまぎれもない興味の色があった。
「確かに、おふたりのあのような表情は、初めて見ましたが……」
普段彼女たちが見ている晴臣は、落ち着き払っていて威厳に満ちた、若いながらも名家の当主として何ひとつ不足のない、立派な人物だった。
しかし今紅子に寄り添っている彼は、まるで子どものように無垢な笑みを浮かべていて、優しく柔らかなまなざしを、ただひたすらに彼女に向けている。彼女のことが愛おしくてたまらないのだと、その顔には書いてあった。
そして紅子も、普段とは違う顔を見せていた。いつもの彼女は、物静かで控えめな、しかしどことなくつかみどころのない女性だった。
けれど今の彼女は、この上なく幸せそうに微笑んでいた。年相応の、ちょっとはにかむような表情は、見る者全ての胸を温かくさせるようなものだった。
そうやって寄り添うふたりの姿のあまりの仲睦まじさに、ミヨは素直に感動していたし、民江も反論を呑み込まずにはいられなかった。
「うわあ、ほんとにお幸せそう……いいなあ、素敵だなあ」
ミヨは両手を頬に当てて、くすぐったそうに身をよじっている。
「……リボン、もう少し華やかにしてもよさそうですね」
笑顔の紅子を見つめながら、民江が真剣な顔でつぶやいている。どうやら紅子の姿を見ているうちに、リボンのデザインを修正したくなってしまったらしい。
「ああして、昼間から離れでおふたりがくつろいでいる姿を見られるのは珍しいんですよ。せっかくだから、こっそり見てもらうのもいいかなって」
そして文子はやっぱり得意げに、小声で説明していた。
「あ、文子さん、民江さん」
しかしそんな文子の言葉を、ミヨの真剣な声がさえぎる。ミヨは生垣に顔を突っ込まんばかりにして、離れをまじまじと見つめていた。
つられるようにして、文子と民江もまた離れを凝視する。
三人の視線の先では、晴臣と紅子がなおも親しく語り合っていた。先ほどよりもさらにふたりの距離は近づいていて、いつの間にかそっと手を取り合っているし、互いの前髪が触れ合わんばかりになっている。
「もしかして、これって……」
期待に満ちた声で、ミヨがつぶやいた。
晴臣がやけにこわばった顔で、紅子の肩に手をかける。紅子は穏やかな笑みを浮かべたまま、少し上にある晴臣の顔を見返していた。
固唾を呑む三人の視線の先で、晴臣は紅子に顔を近づけていき……彼女の頬に、そっと唇を触れさせた。
三人が同時に、息を吐く。
「わあ、すごいもの見ちゃいました!」
「見てしまって、よかったのでしょうか……よくありませんね。ならば謝罪すべきか、しらを切るべきか……」
「ああ、惜しかった! そこは唇にいってほしかった!」
すると離れのほうから、低い声がした。
「こら、聞こえているぞ」
晴臣が紅子を抱き寄せたまま、三人のほうを見すえていた。どうやら、今の声で三人の存在に気づいたらしい。
「……まったく、そろいもそろって何をしているんだ」
「ふふ、晴臣様。顔が赤いですよ」
紅子は晴臣にもたれたまま、くすくすと笑っている。三人に気づかれたにもかかわらず、彼女の穏やかな態度は変わっていなかった。
「まあ、いちいち人目を忍ぶのも面倒ではあるし、少しは見られることに慣れるしかないか」
ため息まじりに、晴臣はつぶやく。しかしその顔に、また柔らかい笑みが浮かんだ。三人に聞こえないくらいのかすかな声で、紅子に呼びかけた。
「紅子様、そういうわけですから……どうぞ、よろしくお願いしますね」
そうして彼は、もう一度紅子に口づけたのだった。今度は、彼女の唇に。


