さっきまでの戦いが嘘のように、辺りには静寂が戻っていた。
けれどその光景は、あまりにも常軌を逸しているものだった。壊滅した屋敷、その跡地に広がる清浄な泉、泉の真ん中にそびえ立つ大きな柳の木。
もう、水虎が暴れることはない。けれど、この惨状から立て直すのは大変そうだ。
晴臣(はるおみ)と手を取り合ったまま、改めて周囲を確認する。
少し離れたところに、吉野が倒れていた。その体に、柳の枝はもうからみついていない。息はしているし、しばらくすれば目を覚ますだろう。
もっと離れたところでは、佐々塚様と父が、両側から千代を支えるようにしてうずくまっていた。こちらは、特に怪我も何もなさそうだ。
とはいえ、今しがた目にしたものが信じられないらしく、みなろくに口もきけなくなっているようだけれど。
「東藤(とうどう)殿、それにそちらの御仁」
晴臣がわたしの手を引いて、父たちのほうに歩いていく。
「今見たことは、口外しないでいただけると助かります。もっとも、誰かに話したところで信じてもらえるとは思いませんが」
金色の目を静かにきらめかせ、晴臣は淡々と語る。父たちはまだぽかんとしていたけれど、やがてそのままの表情で小さくうなずいた。
「助かります。それでは帰ろうか、紅子(べにこ)」
去り際に、一度だけ父のほうを振り返った。
「お父様。東藤(とうどう)の家に巣食っていたものは、もう悪さをしないでしょう。あの柳の木を、大切にしてください」
少しためらってから、そろそろと思いを口にする。一度だって、父には話したことのない思いを。きっとこれが、最後の機会だから。
「……わたしも、普通の娘として生まれたかった。でもそれは、かなわなかった」
晴臣が、わずかに身をこわばらせている気配がする。けれどもう一度息を吸って、ゆっくりと言葉を続けた。
「さようなら、お父様。もう、わたしがここに戻ることはありませんが、どうか、お元気で」
それだけを言い残して、その場をあとにした。もう二度と、振り返らなかった。
矢野さんと車を待たせているところまで歩きながら、小声でぼやく。
「しかし、すっかり汚れてしまったわ」
「矢野に怒られてしまいそうです」
わたしも晴臣も、ずぶ濡れの泥まみれだった。顔に飛んだ泥は晴臣がハンカチで拭いてくれたけれど、服のほうはどうしようもない。
戦っている間は、とにかく水虎をどうにかすることしか考えていなかった。帰りのことまで、考えていなかったのだ。
ふたりで顔を見合わせて、ちょっぴり心配しながら車に向かう。矢野さんはわたしたちの姿を見ても、何もとがめなかった。
「おかえりなさいませ、晴臣様、紅子様」
「ああ、今戻った。矢野、毛布を出してくれ。さすがにこの服でそのまま座席に座るのはためらわれるからな」
晴臣が命じると、矢野さんはにっこりと笑ってうなずいた。
「はい、ただいまお持ちします」
そうして彼は、小声で付け加えた。
「……私は、何も見ておりませんから。おふたりとも、ご無事で何よりです」
あ、たぶんこれは、見られてしまった。わたしと晴臣は同時に目を丸くして、同時に苦笑したのだった。
橘花(たちばな)の屋敷に戻ったわたしたちは、大急ぎで湯を使い、きれいな服に着替えた。そうしてふたり、縁側で並んで座っていた。
明るい昼の庭には、雀たちのにぎやかな声がしていた。いつもふたりで見ている夜の庭とはまるで違う、生き生きとした輝きにあふれていた。
「……これで、終わったのね」
まだ、実感がわいていなかった。確かめるようにつぶやくと、すぐ隣から言葉が返ってきた。
「ええ。全部、終わりました。ふたりとも無事に戻れて、本当によかったです……」
晴臣が安心しきったように息を吐くと、腕を伸ばしてわたしの腰に回す。そのままわたしを抱き寄せ、髪に頬を寄せてきた。
「まだ、夢を見ているようです」
彼の吐息が、わたしの前髪をくすぐる。
「生まれ変わった僕は、まず貴女を探した。貴女のいない人生なんて、意味がなかったから。その願いがかなっただけでなく」
彼の腕に、さらに力がこもる。
「思いもかけず、陽炎(かげろう)様のかたきを討つことができた。これほど喜ばしいことがあるでしょうか」
彼の手にそっと自分の手を重ね、目を閉じてつぶやく。
「そうね。これで、陽炎だったわたしの心残りも片付いた。紅子であるわたしが抱えていた申し訳なさも、もう消えた」
いろんなものが消えていったからか、胸の中がすうすうする。けれど、この感覚にもじきに慣れていけるだろう。だって、晴臣がいてくれるのだから。
「ここから、わたしの人生が始まるような、そんな気分よ」
思いのままを言葉に乗せると、晴臣が急に動いた。わたしの両肩をしっかりとつかみ、正面から向き直ってくる。
「でしたら」
その頬が、ほんのりと赤みを帯びていた。
「いっそのこと、夫婦になってしまいませんか。新たな人生を、一緒に歩んではくれませんか」
突然の提案にはっとしているわたしに、彼はさらに熱心に語りかけてきた。
「貴女を守る口実として、僕は貴女と婚約しました。でも、それでは足りないんです」
彼の声は、緊張からかかすかに震えていた。満月色の目が、食い入るようにわたしを見つめている。
「僕は、これからもずっと、貴女を守り続けたい。貴女の、一番近くで」
しかしそこまで言ったところで、彼はふっと恥じらうように目を伏せ、横を向いてしまう。
「お互い、悩みごとも片付きましたし、今ならちょうどいいかと思うのですが……」
そのさまは、不思議なくらいにかつての彼、山吹(やまぶき)を思い起こさせた。自然と、笑みがこぼれてしまう。
「いいわ。でもひとつ、わたしからもお願いがあるの」
そう言葉を返すと、彼ははっとした顔でまたわたしを見た。何を言われるのか、身構えているようだ。
「お母様に、一度報告に行きたいの。助けてくれたことのお礼も言いたいし、あなたの顔も見せたいし」
「ああ、そういうことでしたか……もちろん、拒む理由なんてありません。僕も、貴女のお母様にはお会いしたいですから」
「なら、決まりね。……これからもよろしくね、山吹。あなたがわたしの旦那様になるなんて、思いもしなかったけれど」
微笑みかけると、晴臣が真っ赤になった。
「僕もです。僕にとって陽炎様は、天に輝く太陽のようにまぶしい人で、大切な人で、憧れの人でした」
頬を赤らめたまま、彼は幸せそうにきゅっと目を細める。
「けれど、こうして人の姿で貴女と巡り合ったとき、その思いは恋へと変わりました」
「わたしも……似たようなものかもしれない。夕暮れの通りであなたと再会したとき、あなたから目が離せなかった。この立派な男性はあの山吹だって確信できていたのに、不思議と胸が高鳴っていた」
あれから、まだ数か月しか経っていない。けれどもう、何年も前のことのように思えていた。本当に、いろんなことがあったから。
微笑みを浮かべたまま、黙って見つめ合う。手を取り合って、指をからめて。
すると離れの入り口のほうから、ばたばたと元気な足音が近づいてきた。
「晴臣様、紅子様。お昼をお持ちしました」
文子さんの明るい声に続いて、ふすまが開けられる。やはり立ったままの彼女は、大きなお盆を手にしていた。
「昼を持ってきてくれたのか?」
「せっかくだから、こちらでゆっくりされるのもいいのではないかって、矢野のおっちゃんが言ってました」
はきはきと説明しながら、彼女はそのまま縁側までやってきて、皿をことりとそばに置いてくれた。つやつやとしたおにぎりに、よく漬かった香の物、それに湯気を上げている湯飲み。
それを見ていたら、くうとお腹が鳴った。ずっと緊張していたせいで、空腹を感じていなかったことに、今気づく。
「ありがとう、いただくわ」
こうして、ご飯をおいしそうだと思えるのも、無事に生き延びたからだ。改めて感慨深さを噛みしめていたら、文子さんが声をひそめた。
「……ところで、今朝はおふたりでどこに行ってたんですか? 矢野のおっちゃんに聞いても教えてもらえないし、気になってて」
「……矢野さんに拒まれたからって、どうしてわたしたちから聞こうとするの?」
つられて小声になりながら尋ね返すと、彼女はふふんと得意げに笑った。
「紅子様は優しいし、晴臣様も紅子様の前なら甘くなりますから。心からお願いすれば、聞いてくれるかもって」
「僕が、紅子に甘い、か……否定はできないな。それに、紅子が優しいということも」
晴臣は晴臣で、真剣そのものの顔でつぶやいている。こんな間の抜けたことを真面目に考えていられるのも、また平和になったあかしなのだろう。
わたしはわたしでのほほんとしていたら、離れの入り口から低い声がした。
「文子さん」
「うげ、おっちゃん!」
振り返った文子さんが、カエルのような悲鳴を上げている。
「貴女という人は、本当に懲りませんね。主の私事について聞き出そうとするなんて」
矢野さんの顔が怖い。いつも通りの穏やかな笑顔なのに、目が笑っていない。直接見つめられていないわたしですら、ちょっとたじろいでしまった。
「でも、おっちゃん、今朝のことは本当に不思議だらけで、みんな気にしてるから!」
文子さんは上ずった声で、それでもなお食い下がっている。
「使用人をたくさん抱えるほどの方々ともなれば、不思議なことのひとつやふたつ、隠し持っておられるものですよ」
矢野さんは、優雅そのものの笑顔でさらりと受け流した。反論したところで矢野さんが納得してくれるはずもないと、文子さんも分かっているだろうに、どうして抵抗するのだろうか。たぶん、理屈ではないのだろうな。
そんなことを考えている間も、矢野さんは文子さんを丁寧な口調で、しかしきっちりと諭している。
「晴臣様、紅子様。大変、お騒がせいたしました。私は文子さんに説教がありますので、これにて失礼いたします。どうぞ、ごゆっくり」
そうして彼は、有無を言わさずに文子さんを連れていってしまったのだった。そのときの文子さんときたら、水やりを忘れてひからびた朝顔のようにしおれて、げっそりしていた。
あとに残されたわたしと晴臣は、ただただぽかんとすることしかできなかった。
「……文子は、本当にたくましいですね」
やがて晴臣が、ぽつりとつぶやく。
「そうね。屋敷のメイドとしては、ふさわしくないのかもしれないけれど、わたしは彼女のああいったところも、好きよ」
「僕もです。矢野としては、そうもいかないようですが」
さっきの矢野さんの剣幕を思い出して、どちらからともなく笑いがこぼれる。晴臣がくすくすと笑いながら、かたわらに置かれた皿を引き寄せた。
「さあ、冷める前にいただきましょう」
手を伸ばしておにぎりをつかみ、そっとかじりつく。ほんのりとした塩加減が、お米の甘さを引き立たせている。
「おいしいですね」
「ええ」
短く晴臣が言い、わたしが相槌を打つ。たったそれだけのやり取りが、とっても胸を温めてくれるのを感じていた。
けれどその光景は、あまりにも常軌を逸しているものだった。壊滅した屋敷、その跡地に広がる清浄な泉、泉の真ん中にそびえ立つ大きな柳の木。
もう、水虎が暴れることはない。けれど、この惨状から立て直すのは大変そうだ。
晴臣(はるおみ)と手を取り合ったまま、改めて周囲を確認する。
少し離れたところに、吉野が倒れていた。その体に、柳の枝はもうからみついていない。息はしているし、しばらくすれば目を覚ますだろう。
もっと離れたところでは、佐々塚様と父が、両側から千代を支えるようにしてうずくまっていた。こちらは、特に怪我も何もなさそうだ。
とはいえ、今しがた目にしたものが信じられないらしく、みなろくに口もきけなくなっているようだけれど。
「東藤(とうどう)殿、それにそちらの御仁」
晴臣がわたしの手を引いて、父たちのほうに歩いていく。
「今見たことは、口外しないでいただけると助かります。もっとも、誰かに話したところで信じてもらえるとは思いませんが」
金色の目を静かにきらめかせ、晴臣は淡々と語る。父たちはまだぽかんとしていたけれど、やがてそのままの表情で小さくうなずいた。
「助かります。それでは帰ろうか、紅子(べにこ)」
去り際に、一度だけ父のほうを振り返った。
「お父様。東藤(とうどう)の家に巣食っていたものは、もう悪さをしないでしょう。あの柳の木を、大切にしてください」
少しためらってから、そろそろと思いを口にする。一度だって、父には話したことのない思いを。きっとこれが、最後の機会だから。
「……わたしも、普通の娘として生まれたかった。でもそれは、かなわなかった」
晴臣が、わずかに身をこわばらせている気配がする。けれどもう一度息を吸って、ゆっくりと言葉を続けた。
「さようなら、お父様。もう、わたしがここに戻ることはありませんが、どうか、お元気で」
それだけを言い残して、その場をあとにした。もう二度と、振り返らなかった。
矢野さんと車を待たせているところまで歩きながら、小声でぼやく。
「しかし、すっかり汚れてしまったわ」
「矢野に怒られてしまいそうです」
わたしも晴臣も、ずぶ濡れの泥まみれだった。顔に飛んだ泥は晴臣がハンカチで拭いてくれたけれど、服のほうはどうしようもない。
戦っている間は、とにかく水虎をどうにかすることしか考えていなかった。帰りのことまで、考えていなかったのだ。
ふたりで顔を見合わせて、ちょっぴり心配しながら車に向かう。矢野さんはわたしたちの姿を見ても、何もとがめなかった。
「おかえりなさいませ、晴臣様、紅子様」
「ああ、今戻った。矢野、毛布を出してくれ。さすがにこの服でそのまま座席に座るのはためらわれるからな」
晴臣が命じると、矢野さんはにっこりと笑ってうなずいた。
「はい、ただいまお持ちします」
そうして彼は、小声で付け加えた。
「……私は、何も見ておりませんから。おふたりとも、ご無事で何よりです」
あ、たぶんこれは、見られてしまった。わたしと晴臣は同時に目を丸くして、同時に苦笑したのだった。
橘花(たちばな)の屋敷に戻ったわたしたちは、大急ぎで湯を使い、きれいな服に着替えた。そうしてふたり、縁側で並んで座っていた。
明るい昼の庭には、雀たちのにぎやかな声がしていた。いつもふたりで見ている夜の庭とはまるで違う、生き生きとした輝きにあふれていた。
「……これで、終わったのね」
まだ、実感がわいていなかった。確かめるようにつぶやくと、すぐ隣から言葉が返ってきた。
「ええ。全部、終わりました。ふたりとも無事に戻れて、本当によかったです……」
晴臣が安心しきったように息を吐くと、腕を伸ばしてわたしの腰に回す。そのままわたしを抱き寄せ、髪に頬を寄せてきた。
「まだ、夢を見ているようです」
彼の吐息が、わたしの前髪をくすぐる。
「生まれ変わった僕は、まず貴女を探した。貴女のいない人生なんて、意味がなかったから。その願いがかなっただけでなく」
彼の腕に、さらに力がこもる。
「思いもかけず、陽炎(かげろう)様のかたきを討つことができた。これほど喜ばしいことがあるでしょうか」
彼の手にそっと自分の手を重ね、目を閉じてつぶやく。
「そうね。これで、陽炎だったわたしの心残りも片付いた。紅子であるわたしが抱えていた申し訳なさも、もう消えた」
いろんなものが消えていったからか、胸の中がすうすうする。けれど、この感覚にもじきに慣れていけるだろう。だって、晴臣がいてくれるのだから。
「ここから、わたしの人生が始まるような、そんな気分よ」
思いのままを言葉に乗せると、晴臣が急に動いた。わたしの両肩をしっかりとつかみ、正面から向き直ってくる。
「でしたら」
その頬が、ほんのりと赤みを帯びていた。
「いっそのこと、夫婦になってしまいませんか。新たな人生を、一緒に歩んではくれませんか」
突然の提案にはっとしているわたしに、彼はさらに熱心に語りかけてきた。
「貴女を守る口実として、僕は貴女と婚約しました。でも、それでは足りないんです」
彼の声は、緊張からかかすかに震えていた。満月色の目が、食い入るようにわたしを見つめている。
「僕は、これからもずっと、貴女を守り続けたい。貴女の、一番近くで」
しかしそこまで言ったところで、彼はふっと恥じらうように目を伏せ、横を向いてしまう。
「お互い、悩みごとも片付きましたし、今ならちょうどいいかと思うのですが……」
そのさまは、不思議なくらいにかつての彼、山吹(やまぶき)を思い起こさせた。自然と、笑みがこぼれてしまう。
「いいわ。でもひとつ、わたしからもお願いがあるの」
そう言葉を返すと、彼ははっとした顔でまたわたしを見た。何を言われるのか、身構えているようだ。
「お母様に、一度報告に行きたいの。助けてくれたことのお礼も言いたいし、あなたの顔も見せたいし」
「ああ、そういうことでしたか……もちろん、拒む理由なんてありません。僕も、貴女のお母様にはお会いしたいですから」
「なら、決まりね。……これからもよろしくね、山吹。あなたがわたしの旦那様になるなんて、思いもしなかったけれど」
微笑みかけると、晴臣が真っ赤になった。
「僕もです。僕にとって陽炎様は、天に輝く太陽のようにまぶしい人で、大切な人で、憧れの人でした」
頬を赤らめたまま、彼は幸せそうにきゅっと目を細める。
「けれど、こうして人の姿で貴女と巡り合ったとき、その思いは恋へと変わりました」
「わたしも……似たようなものかもしれない。夕暮れの通りであなたと再会したとき、あなたから目が離せなかった。この立派な男性はあの山吹だって確信できていたのに、不思議と胸が高鳴っていた」
あれから、まだ数か月しか経っていない。けれどもう、何年も前のことのように思えていた。本当に、いろんなことがあったから。
微笑みを浮かべたまま、黙って見つめ合う。手を取り合って、指をからめて。
すると離れの入り口のほうから、ばたばたと元気な足音が近づいてきた。
「晴臣様、紅子様。お昼をお持ちしました」
文子さんの明るい声に続いて、ふすまが開けられる。やはり立ったままの彼女は、大きなお盆を手にしていた。
「昼を持ってきてくれたのか?」
「せっかくだから、こちらでゆっくりされるのもいいのではないかって、矢野のおっちゃんが言ってました」
はきはきと説明しながら、彼女はそのまま縁側までやってきて、皿をことりとそばに置いてくれた。つやつやとしたおにぎりに、よく漬かった香の物、それに湯気を上げている湯飲み。
それを見ていたら、くうとお腹が鳴った。ずっと緊張していたせいで、空腹を感じていなかったことに、今気づく。
「ありがとう、いただくわ」
こうして、ご飯をおいしそうだと思えるのも、無事に生き延びたからだ。改めて感慨深さを噛みしめていたら、文子さんが声をひそめた。
「……ところで、今朝はおふたりでどこに行ってたんですか? 矢野のおっちゃんに聞いても教えてもらえないし、気になってて」
「……矢野さんに拒まれたからって、どうしてわたしたちから聞こうとするの?」
つられて小声になりながら尋ね返すと、彼女はふふんと得意げに笑った。
「紅子様は優しいし、晴臣様も紅子様の前なら甘くなりますから。心からお願いすれば、聞いてくれるかもって」
「僕が、紅子に甘い、か……否定はできないな。それに、紅子が優しいということも」
晴臣は晴臣で、真剣そのものの顔でつぶやいている。こんな間の抜けたことを真面目に考えていられるのも、また平和になったあかしなのだろう。
わたしはわたしでのほほんとしていたら、離れの入り口から低い声がした。
「文子さん」
「うげ、おっちゃん!」
振り返った文子さんが、カエルのような悲鳴を上げている。
「貴女という人は、本当に懲りませんね。主の私事について聞き出そうとするなんて」
矢野さんの顔が怖い。いつも通りの穏やかな笑顔なのに、目が笑っていない。直接見つめられていないわたしですら、ちょっとたじろいでしまった。
「でも、おっちゃん、今朝のことは本当に不思議だらけで、みんな気にしてるから!」
文子さんは上ずった声で、それでもなお食い下がっている。
「使用人をたくさん抱えるほどの方々ともなれば、不思議なことのひとつやふたつ、隠し持っておられるものですよ」
矢野さんは、優雅そのものの笑顔でさらりと受け流した。反論したところで矢野さんが納得してくれるはずもないと、文子さんも分かっているだろうに、どうして抵抗するのだろうか。たぶん、理屈ではないのだろうな。
そんなことを考えている間も、矢野さんは文子さんを丁寧な口調で、しかしきっちりと諭している。
「晴臣様、紅子様。大変、お騒がせいたしました。私は文子さんに説教がありますので、これにて失礼いたします。どうぞ、ごゆっくり」
そうして彼は、有無を言わさずに文子さんを連れていってしまったのだった。そのときの文子さんときたら、水やりを忘れてひからびた朝顔のようにしおれて、げっそりしていた。
あとに残されたわたしと晴臣は、ただただぽかんとすることしかできなかった。
「……文子は、本当にたくましいですね」
やがて晴臣が、ぽつりとつぶやく。
「そうね。屋敷のメイドとしては、ふさわしくないのかもしれないけれど、わたしは彼女のああいったところも、好きよ」
「僕もです。矢野としては、そうもいかないようですが」
さっきの矢野さんの剣幕を思い出して、どちらからともなく笑いがこぼれる。晴臣がくすくすと笑いながら、かたわらに置かれた皿を引き寄せた。
「さあ、冷める前にいただきましょう」
手を伸ばしておにぎりをつかみ、そっとかじりつく。ほんのりとした塩加減が、お米の甘さを引き立たせている。
「おいしいですね」
「ええ」
短く晴臣が言い、わたしが相槌を打つ。たったそれだけのやり取りが、とっても胸を温めてくれるのを感じていた。


