満月狐に想われて

 沼の中から現れたのは、透き通る水でできた、四つ足の化け物だった。虎ほどもある体は、ほっそりとしてしなやかだ。

 肩やひじのところに生えた長い毛が、まるで水の中にいるかのように揺らめいている。美しい水のきらめきが、逆に禍々しく感じられる。その姿は、あの赤い蛍が見せてくれた幻の中で見かけたものと寸分違わない。

 間違いない、これが水虎だ。

 水虎は、こちらを馬鹿にしたような態度で、にんまりと笑っている。そしてこいつは、確かにさっき吉野の名を呼んでいた。

「吉野に、何をしたの。まさか、沼に引き込んではいないでしょうね」

 彼女については、なんの愛着もない。むしろ、不快な思い出しかない。それでも彼女の身に何かがあったら、寝覚めが悪くなるような気がした。

 わたしの問いかけに、水虎の笑みが大きくなった。

『せっかくの珍味を、そのようなことで終わりにするはずもなかろう』

 吉野が、珍味。どういうことだろうかと思いながら、水虎をきっとにらみつける。

『あれの情念は、底なしだ。食っても食っても、まだあふれてくる。おかげで、我もずいぶんと力をつけることができた』

 しかし水虎は少しも動じることなく、沼の真ん中にどっかりと座り込み、悠々と語っている。

『もう少しで、この忌々しい封印を全て壊すことができる。あと少し、あと少しなのだ』

 その言葉に、晴臣(はるおみ)が声を上げる。

「……ああ、本当だ」

 彼はまっすぐ前を見たまま、小声で呼びかけてくる。

「陽炎(かげろう)様の師がおかけになった封印は、まだかすかですが残っています。ほら、見えますか」

 目を凝らすと、水虎がひそむ沼を覆うように、かすかに光る天蓋のようなものがかぶさっているのが見えた。繊細な蜘蛛の巣を編み上げたようなそれは、あちこちが破れ、穴が開いている。

「……ただ、封印が残っていてなお、この状況ということは……封印が完全に壊れてしまえば、帝都は丸ごと水虎の支配下に……」

『ふむ、そちらの男、確かこないだもやってきた……相変わらず、妙な男だな。人のように見えるのに、人ではない』

 そうやってひそひそと話す晴臣を見て、水虎が首をかしげている。

『いや、その精気……覚えがあるな。そうだ、思い出した』

 ふと、にたりと水虎が笑った。不気味な、嫌な感じの笑いだ。

『お主、カゲロウが連れていた子犬だろう。まさか、人の姿を取るとはな。いやあ、愉快だ』

「僕を挑発するつもりなら、残念でしたねと言わせてもらいましょう。僕はいつも、この方とともにある。姿形など、関係なく」

 晴臣が冷静に言い返している間にも、屋敷を呑み込んだぬかるみはじわじわと広がり続けていた。もうじき、わたしたちの足元まで届いてしまうだろう。

『まあよい。お主たちも、我の養分にしてやろう』

 晴臣の反応が面白くなかったのか、水虎がむくりと起き上がり、伸びをした。

『カゲロウ。遥かな昔、お主には煮え湯を飲まされたからな。憂さ晴らしには、ちょうどよかろう』

 水虎がわたしを見つめ、ぶわりと毛を逆立てる。そのさまに、背筋がぞくりとした。

「紅子(べにこ)様、来ます!」

 晴臣が声を張り上げ、わたしの手を引いて下がらせる。水虎が放った水の槍が、さっきまでわたしたちがいた地面に突き刺さった。

『ほう、子犬のくせにやるではないか』

「子犬子犬と、馬鹿にして……」

 自然と、そんなつぶやきがもれてしまう。晴臣は気にしていないようだけれど、わたしは気になる。

 悔しさに奥歯をぎりぎりと噛みしめた拍子に、ふと記憶が戻ってきた。両手をふわりと軽く合わせ、言い放つ。

「では、今度はこちらの番よ」

 両の手のひらの間に、小さな炎がともった。腕を広げると、炎が帯のように伸びていく。炎はどんどん勢いを増し、水虎に襲い掛かった。

 しかし水虎は落ち着き払った態度で、ぶんと尻尾を振る。沼から水柱が上がり、炎をかき消した。

「紅子様、今の術は……」

 もうもうと立ち込めた水蒸気を腕で防ぎながら、晴臣がこちらを振り向いた。

「今、思い出したの」

 けれどそれ以上何かを言うより先に、白いもやの向こうから水虎の笑い声が聞こえてきた。

『カゲロウよ、お主、前より弱くなっておるのう。無意識であっても我を抑え込むほどに膨大な霊力だけは相変わらずだが、まるで力を使いこなせておらぬ』

 小さく舌打ちして、もう一度炎を放つ。けれどやはり、水虎の尻尾のひと振りで消えてしまった。

『そのような弱々しい炎が、我に通じると思ったのか。やれ、片腹痛いことだ』

 前世のわたしは、炎を操る術を得意としていた。しかしこの術は、水に関わる妖をねじ伏せるには少々向いていない。小さな炎では、水であっさりかき消されてしまうからだ。

「けれど、立て続けに打ち込めば、さすがのあなたも弱るでしょう。それから改めて、封印をかけ直せばいいわ」

 前世でも、そうなった。わたしが命と引き換えに水虎を弱らせ、師匠が水虎を封じてくれた。

 師匠は、もういない。でも、さっき橘花(たちばな)の屋敷を出る前に、晴臣が封印の術のやり方について教えてくれた。彼はかつて師匠が水虎を封印したときそばにいたということもあって、その術を記憶していたのだ。

 とはいえ、封印の術は数ある術の中でも高度なものだ。やり方を知ってはいても、練習したことのない晴臣には使えない。

 前世のわたしは、封印の術についてきちんと練習していた。だからきっと、今のわたしにも使えるはず。いや、わたしがやるしかない。自信はないけれど、泣き言を言っている余裕はない。

 ともかく、その前に水虎を少しでも弱らせなくては。ひとまず、どんどん炎をぶつけていくしかない。身構えたそのとき、隣から静かな声がした。

「紅子様、ここは僕に任せてください」

 晴臣が真剣な顔で、わたしを見つめていた。

「僕は、大地の精気から生まれた式神です。力の相性でいうなら、あいつの相手は僕のほうが向いている」

 青い眼鏡越しでも、彼の金色の目が満月のように輝いているのが分かる。決意に満ちた目に、思わず息を呑んだ。

「力の使い方は、かつて貴女から習いました。今こそ、この力と技を活かすとき」

 そう言って、彼はばっと手を横に振った。ぬかるんだ地面から岩の槍が何本も生えてきて、そのまま水虎へ向かって飛んでいく。

 水虎が首を振ると、その前に水の壁が現れた。しかし岩の槍は水の壁を突き抜けて、その向こうにいる水虎をかすめる。

『ほう、面白い』

 晴臣の力が予想外だったのだろう、水虎がにんまりと笑っている。余裕しゃくしゃくの笑みは、どうにも気に障るものだった。

「僕があいつを引きつけます。その間に、封印をかけ直してください」

「……任せて、いいのね」

「ええ、もちろん」

 そう答える間にも、晴臣はまた土の壁を出して、水虎が飛ばしてきた水を防いでいる。落ち着いたその動きに、わたしも覚悟を決めた。

 数歩下がって両手を広げ、封印の術の手順を思い出す。まずは、両手に霊力を集めるところからだ。

「全身にまとっている霊力を、ゆったりと手の先に流していくように……」

 前世のわたしがまだ小さかったころ、毎日のように霊力を操る訓練をした。やり方こそすんなりと思い出せたものの、霊力を操る感覚はまだあいまいなままで、どうにもこつがつかめない。

 しかも懸命に手探りしている間も、晴臣が戦っている音がひっきりなしに聞こえている。今のところ晴臣のほうがやや優勢といった感じではあるけれど、もしものことがありはしないかと、ついつい焦ってしまう。

 こんなことではいけない、早く霊力を集め、それをもって天蓋を描き直さなくてはならないというのに。

 気合を入れ直したそのとき、聞き覚えのある金切り声が後ろのほうから響いてきた。

「紅子、どうしてあんたがこんなところにいるの!」

 思わず振り向くと、ドレスの裾をはためかせた吉野が、血走った目でこちらに駆けてくるのが見えた。相変わらず豪華なその身なりは、この場ではどうにも浮いていた。