満月狐に想われて

 水虎のもとに向かう前に、ひとつだけ約束してほしい。晴臣(はるおみ)はわたしをまっすぐに見つめ、そう言った。

「約束って、どんな?」

「何があろうと、生きて戻る……と。どうか、そう宣言してください」

 彼はしっかりとわたしの手を握りしめた。彼の手の冷たさに、どきりとする。

「もう、僕が貴女にかけたまじないは、ほとんど消えてしまっているようです」

 そう語る彼の声は、かすかに震えていた。その手に、力がこもっていく。

「貴女の記憶は徐々に戻り始めていますし、力も戻りつつあります。じきに、前世で使われていた術も思い出すでしょう」

 もしかすると、水虎と立ち回れるのかもしれない。とんでもないことになってしまったあの地に、平穏をもたらせるかもしれない。けれど、まだ実感はわかなかった。

「そして水虎は、貴女のことを覚えています。前世の貴女、陽炎(かげろう)様は水虎に敗れましたが、あちらもかなりの深手を負いました。だからこそ、貴女の師は水虎を封印することができたんです」

 晴臣が、ぐっと唇を噛んでいる。

「けれどその封印も、解けてしまいました。水虎によって生まれた沼は、さらに広がっていくでしょう」

 赤い蛍が見せてくれた光景を思い出し、ぞくりとする。あれがさらに広がったら、帝都はどうなってしまうのだろうか。

「水虎を止めたいという貴女の思いは、とても尊いものだと思います。けれど僕にとっては、何よりもあなたの無事が一番、重要なことなんです」

 陽炎なら、彼の言葉にうなずきはしなかっただろう。人にあだなすあやかしと戦い、打ち滅ぼす。それが陽炎の使命であり、全てだったから。

 でも今のわたしは、紅子(べにこ)だ。水虎を倒したい、帝都を守りたいという思いはある。けれどわたしの中には、もっと別の思いもあった。

「ええ、約束する。どうしようもないと判断したら、いったん下がるわ。決して、無茶はしない」

 とたん、晴臣がほっとした顔になる。そんな彼を見ていたら、別の言葉が口をついて出てきた。

「……でもね、晴臣。あなたにも、ひとつ約束してほしいの」

 心の中にあるもうひとつの思いに突き動かされるように、言葉を紡ぐ。

「わたしとともに、生きて戻る、って」

 どうやら、わたしがそんなことを言い出すとは予想もしていなかったのだろう。晴臣が目を見張り、唇をわななかせた。

「あなたと再会してから、毎日が楽しかった。この屋敷で暮らして、今まで縁のなかったものをたくさん見て、体験してきた」

 彼の手をしっかりと握り返して、ささやきかける。

「でもわたしが楽しいと感じられたのは、あなたがいてくれたから」

 さらに言葉を重ねると、晴臣はこぼれ落ちんばかりに目を見開いて、じっとわたしを見つめた。

「あなたのいない暮らしなんて、もう考えられない。あなたがいなければ、わたしはもう幸せを感じられない。だからどうか、いなくならないで」

 次の瞬間、晴臣が動いた。と思ったら、しっかりと抱きしめられていた。

「紅子様……貴女から、そんな言葉が聞けるなんて……ああ、嬉しすぎてどうにかなってしまいそうです」

 わたしの背に回された彼の腕には、痛いほどの力がこもっていた。わたしの髪に頬を寄せて、彼は震える声でつぶやいている。

「ずっとずっと、貴女の幸せだけを願ってきました。けれど僕が、貴女の幸せの一部になれるなんて……」

「一部じゃない。全部よ」

 わたしは、人間らしい感情について詳しいとは言えない。前世のわたしには戦いしかなく、今のわたしは長い間ひとりきりだったから、他人と心を通わせた経験がろくにない。

 でも、晴臣といると胸が温かくなるし、彼が嬉しそうにしているとわたしも嬉しい。たぶん、これは恋とか愛とか、そう名付けるべき感情なのだろう。

「紅子様……僕も、同じです」

 わたしを抱きしめたまま、晴臣が答える。甘く優しく、とろけるような声音だった。



 その少しあと、わたしたちは矢野さんが運転する車の中にいた。

「ここで停めてくれ、矢野。しばらくしたら戻るから、待っていてもらえるだろうか」

 東藤(とうどう)の屋敷から少し離れたところで、晴臣が車を停めさせる。

「……もし、何かおかしなことがあったら……僕たちのことは気にせずに、屋敷に戻れ」

 晴臣が続けてそう言うと、矢野さんが目を見張った。息を呑んで、わたしと晴臣を交互に見ている。

「分かりました。どうぞ、お気をつけて」

 けれどそれも一瞬のことで、彼は顔を引き締めると、深々と一礼した。

 わたしたちのただならぬ様子に気づいているだろうに、何も尋ねてこない。彼のその気遣いが、今はとてもありがたい。

 矢野さんに見送られ、晴臣と並んで東藤の屋敷を目指す。そう長く進まないうちに、行く手が騒がしくなってきた。

 恐怖に顔をゆがめた人たちが、次から次へと駆け寄ってくる。屋敷のほうに向かって歩いているのは、わたしと晴臣だけだ。

「……紅子様、貴女が見たとき、沼に沈んでいたのは東藤の屋敷だけだったのですよね?」

「ええ。それと、東の牧場も水浸しだったわ」

「それにしては、逃げている人の数が多すぎる……ただ屋敷が沼に飲まれただけなら、こうも血相を変えて逃げる必要もないでしょうし」

「沼がさらに広がった、ということ?」

「おそらくは。水虎は、この短い間にさらに力をつけている……厄介ですね」

 自然と小走りになりながら、ひたすらに先を急ぐ。やがて、遠くに東藤の屋敷……屋敷だったものが見えてきた。

「これは……」

「めちゃくちゃ、ですね……」

 さっき予想したとおり、今朝赤い蛍が見せた光景よりも、さらに状況は悪くなっていた。沼はさらに広がり、東藤の屋敷のみならず、その周囲の建物までも呑み込み始めていたのだ。

 屋敷のそばには、誰もいなかった。きっとみな我先に、逃げ出してしまったのだろう。沼に呑まれることなく、無事に逃げていればいいのだけれど。

 うっかり泥に足を踏み入れないよう注意しながら、そろそろと屋敷に近づいていく。

 母屋は大きく傾いて、縁側の辺りまで沼の中に沈んでいた。落ちた屋根瓦もまた、泥の中にゆっくりと消えつつある。扉やふすま、それに障子は家の傾きに耐えられなかったのか、外れたり折れたりしている。

 放り出されているのは、建具だけではなかった。少し離れたところでは、大きな桐箪笥が転がっていて、中にしまわれていた着物が沼にぶちまけられていた。

 金糸銀糸をふんだんに使った帯や、色とりどりの花が描かれた着物。かすかに、見覚えがある。

「吉野、千代……」

 あのふたりが、わざわざ見せびらかしにきた着物だ。大切にしていたはずなのに、持ち出せなかったのだろうか。

『吉野、か』

 そのとき、地の底から響くような、禍々しい声がした。はっと身構えるわたしたちの前で、ゆっくりと沼の表面が盛り上がっていく。

『あれのねっとりとした欲望は、嫉妬は、たいそう美味であった』

 晴臣が腕を伸ばし、わたしを背後にかばう。その間にも、沼は盛り上がり続け……獣のような何かが、姿を現していた。

『カゲロウ、久しいな』