満月狐に想われて

 赤い蛍に触れたとたん、頭の中に驚くべき光景が広がった。

 とうてい現実のものだとは思えないその光景が、しかし間違いなく現実の光景を写し取ったものなのだと、わたしは確信できていた。

 柔らかな朝日に、東藤(とうどう)の屋敷が浮かび上がっているのが見える。その東には、牧場が広がっていた。

 子どものころから見慣れていたそれらが、すっかり変わり果てた姿になってしまっていた。どこからともなく姿を現したとびきり大きな沼に、半ば呑み込まれていたのだ。

 屋敷は傾き、草地は水浸しになっていた。牛たちは逃げてしまったのか、影も形もない。使用人らしき人影が、あわてふためきながら沼の周囲を駆け回っていた。

 気がつくと、わたしは鳥の高みの視線から、そのさまを見下ろしていた。どうやら下の人間たちにはわたしの姿は見えていないらしい。

 どうして、こんな沼ができたのか。ここで何が起こったのか。そんなことを考えながら、必死に辺りを見渡す。

 ふと、背筋がぞくりとした。誰かが、わたしを見ている。冷たい、刺すような視線を確かに感じる。

 意識を集中して、視線の主を探した。

 ……沼の中央に、何かいる。透き通っていてはっきりとは見えないけれど、空気の揺らぎのような、水の揺らめきのような何かが、確かにそこにいた。

 さらに目を凝らすと、大きな猫のような何かが一瞬だけ見えた。水のように透き通ったそれは真っ黒い目でわたしを見ると、そのまま沼の中に消えていった。

「今の、は……」

 思わずうめくと、いきなり視界が変わった。東藤の屋敷の幻は消え、わたしは橘花(たちばな)の離れの縁側に立っていた。

 その場にへたり込み、床板に手をつく。いつの間にか、びっしょりと冷や汗をかいてしまっていた。

「……東藤の屋敷が……」

 力なくつぶやいたそのとき、ぱたぱたと足音が近づいてきた。

「紅子(べにこ)様?」

 駆け寄ってきた晴臣(はるおみ)が、わたしの顔をのぞき込む。

「時間が空いたので、話でもしようかと思ってきてみれば……どうされたのですか? 顔色が、ずいぶんと悪く……」

 彼の言葉に、返事をする余裕はなかった。さっき見た幻について整理するので手いっぱいだったから。

 沼の中に消えたあれは、水虎だ。あれこそが、前世でわたしが倒し損ねたものだ。それがどういうわけか、東藤の屋敷のすぐそばに巣くってしまっている。

 一刻も早く、なんとかしなくては。でも、今のわたしに何ができるだろう。様々な術を使いこなしていた前世のわたし、陽炎(かげろう)ですら歯が立たなかったのに、今のわたしが立ち向かえるはずがない。

「紅子様、どうされたのですか……?」

 わたしの両肩に手をかけて、晴臣が泣きそうな顔でさらに声をかけてくる。そこでようやく、我に返った。そうだ、彼になら相談できる。

「晴臣、聞いてほしいことがあるの!」

 蛍が見せた幻を、そのまま伝える。晴臣は黙って話に耳を傾けてくれていたけれど、その目にはちらちらと悲しげな色がひらめいていた。

 わたしが話し終えると、晴臣は静かに微笑んだ。

「昨日、貴女が蛍の式神を飛ばしたことには気づいていました。おそらく、無意識のうちのことだったのでしょうが……こんなことになるのなら、止めておけばよかった」

 やっぱり、晴臣にはあの赤い蛍が見えていたらしい。

「先ほど貴女が見たのは、実際に東藤の屋敷で起こったことです。あの式神は、遠くの光景を見せてくれるものですから」

 その説明に納得していると、彼はかすかな声でとんでもないことを付け加えた。

「……あの地はもっとずっと前に、水虎の力で沼になっているはずだったんです」

「晴臣……もしかしてあそこに水虎がいることを、前から知っていたの?」

「はい。僕にはあれが、見えていましたから。東藤の家にあいさつにいったとき、あれから目をそむけるのが大変でした」

 思わぬ告白に、目を丸くする。それでは彼は、着飾って東藤の家を訪ねていた間、近くにいる水虎を無視し続けていたのか。

 それを言うなら、わたしは水虎のすぐそばで、ずっと何も知らずに暮らしていたのか。改めて想像すると、ぞっとする。

「……そして、貴女があれに気づいていなかったことに、ほっとしていたんです。ああ、僕の願いはかなった、って」

「あなたの、願い?」

「陽炎(かげろう)様が息を引き取り、師により水虎がかの地に封じられたのを見届けて……僕はこの命と引き換えに、まじないをかけたんです。僕のひとつっきりの願いをかなえるために」

 前世の晴臣、山吹(やまぶき)は、術を覚えようと懸命に頑張っていた。その中には、自らの命を対価にして願いをかなえるというものもあった。でもまさか、本当にそれを使ってしまうなんて。

「貴女がいつか生まれ変わったとき、『陽炎』としての記憶も力も、全てなくしてしまいますように、って」

 泣きそうな笑顔で彼が口にした願い事に、心臓がどくりと大きく跳ねた。

「晴臣……それでは、わたしはあなたのことすら忘れてしまうことになるわ……」

「構いません。僕は貴女を、戦いから遠ざけたかった。そしてできることなら、平和の中で生きる貴女をそっと見守っていたかった。それだけで、十分だったんです」

 それではあまりに、彼が報われないのではないか。そんな言葉を、ぐっと呑み込む。わたしがどう思おうとも、これは彼が選んだ道なのだ。

「ですが貴女と再会して、焦りました。貴女は、以前とはまるで違う姿の僕に『山吹』と呼びかけてきたのですから」

 優しい口調で語っていた晴臣の声音に、ふと非難するような響きが混ざる。けれどまた、おっとりと穏やかなものに変わっていった。

「けれど、それから貴女とともに過ごして……やはり僕のまじないは残っていると、確信しました。記憶はある程度戻っておられるようでしたが、力は失われている。僕はそう判断しました。……嬉しかったな。これならもう、貴女が戦うことはないから」

 長いまつげを伏せて、晴臣はぎゅっと唇を噛んだ。

「でも、貴女の力は失われたのではなかった。ただその身の内に眠っているだけだった。そしてその力が、ずっと水虎を抑え込んでいたのでしょう」

「え……どういうことなの?」

「東藤の家で、僕は見ました。貴女の師がかけた封印は、もうかなりほころんでいます。もっと早く、水虎は封印を破れることができたはずなんです」

「……つまり、わたしが東藤の家を離れたから、水虎が動き出してあの地を沼へと変えた。そういうこと?」

「はい。貴女がその姿で、あの家に生まれたのは、偶然ではなかった。そんな気もしています」

 わたしがあそこに生まれたことには、意味があった。わたしは水虎を抑え込むために、この姿で東藤の家に生まれた。きっと、そうなんだ。

「……話してくれて、ありがとう」

 彼の手を振りほどき、すっと立ち上がる。晴臣が、すがるような目を向けてきた。

「紅子様、どこへ?」

「東藤の屋敷に、行ってみる。今のわたしにできることなんて、何もないのかもしれないけれど……それでも、このまま見過ごせないの」

 素直な思いを口にしたら、晴臣は泣きそうな顔で笑った。

「やはり、そうおっしゃるのですね。……できることなら、貴女を柔らかくて甘い世界にずっと閉じ込めて、ただ幸せだけを差し上げたかった」

 彼の声はひどく切なげで、胸がぎゅっと苦しくなる。

「けれど貴女が望むのは、そんな幸せではないのですね」

「……ごめんなさい、晴臣」

 彼の気持ちは痛いほど分かるのに、それでもここに留まるとは言えなかった。申し訳なくて、彼をまっすぐに見られない。

「貴女は昔から、そういう方でした。まっすぐで、強くて、でも不器用で……本当に、変わりませんね。僕の大好きな、貴女のままだ」

 晴臣は立ち上がると、わたしの手を取った。その顔には、穏やかな、優しい笑みが浮かんでいる。

「もう、止めません。僕もおともいたしますから、急ぎましょう。……ただ」

「ただ?」

「ひとつだけ、約束してくれませんか」