満月狐に想われて

 晴臣(はるおみ)はいつもかけていた青眼鏡を取り、金色の目で吉野と千代を見すえた。

「え……?」

「ひっ……!」

 ぽかんとする千代と、おびえた声を上げる吉野。吉野の顔からは、さっきまでの勢いも色気も、きれいに消え去っていた。

「あらいけませんわ! あたしたち、このあと用事があるんでしたの! それでは、ごめんあそばせ!」

 そう言い放つと、二人は大急ぎでこちらに背を向ける。そのまま、待たせていた車に乗り込んでいった。というより、転がり込んだ。

 中々にこっけいな動きではあるけれど、それが晴臣の目におそれをなしてのことだというのが、どうにも腹立たしい。確かに珍しい色ではあるけれど、そのまま逃げていくなんて。

 いらだちながら彼女たちをにらみつけていたら、ふとおかしなものが見えた。

「……ん?」

 あわてふためいているふたりの姿が、一瞬揺らいだのだ。まるで、水面に広がる波紋のような、そんな揺らぎ方だ。なぜか、背筋がすうっと寒くなる。

 走り去ろうとしている車を見ていたら、勝手に手が、指が動いた。どうしてそんなことをしたのかは分からないけれど、その動きを確かに体が覚えていた。

 指先が、ぽっと熱くなった。そこから、小さな光がふわりと飛び立っていく。

「あれ、は……」

 赤い蛍に似たその光は、ふたりが乗った車のあとを追いかけていって、そのまま見えなくなった。突然のことに、呆然と立ち尽くす。

「紅子(べにこ)」

 差し伸べたままのわたしの手を、晴臣の大きな手が包み込むのが見えた。いつの間にか彼はわたしのすぐ後ろに立っていて、わたしを守るように、抱きしめるように腕を伸ばしていたのだ。

「こんな通りで、妙な動きをするものではない」

 妙な動き……わたしの、今の手の動きのことだろうか。どちらかというと、今の晴臣のふるまいのほうが、妙な気もするのだけれど……すれ違う人たちが、じろじろとわたしたちを見てくるし。

「は、はい……」

 けれど素直にうなずいて、そっと晴臣のほうに向き直る。彼はまた元のように青眼鏡をかけていて、目元は前髪に半ば隠れていた。

「さあ、帰ろう」

 わたしの手を取ったまま、彼は歩き出した。わたしたちの、橘花(たちばな)の屋敷に向かって。

 並んで帰路につきながら、先ほどのことを思い出す。

 わたしの手から飛び立っていった赤い蛍は、いったい何だったのだろう。どうやら、他の人には見えていなかったようだし……。

 晴臣には見えていたのか、聞いてみたい。でも和解したとはいえ、わたしたちの間にはまだわずかに溝が残ってしまっている。今うかつに引っかき回して、関係にひびを入れたくない。

 ……晴臣とろくに話さなかったあの数日は、どうにも落ち着かなかった……いや、寂しかったから。

 だから、今は何も話さないでおこう。後日改めて、何かきっかけが得られたときにでも尋ねてみればいい。それにもしかすると、あの赤い蛍自体、わたしの見間違いだったのかもしれないし。

 静かに微笑みながら、ふたり一緒に屋敷へと歩いていった。



「こう……だった?」

 屋敷に戻ってから、わたしは離れでひとり、首をかしげながら手をあれこれと動かしていた。

「違うような……それとも、こう?」

 あの、赤い蛍。いったんは、見間違いだということにして自分を納得させようとした。けれどこうして離れに戻ってきたとたん、別の考えが浮かんできてしまったのだ。

 もしかするとあの赤い蛍は、術によるものかもしれない。前世のわたしはあやかしと戦うため、様々な術を会得していた。今は何ひとつとして覚えていないけれど、無意識に術を使ったのかもしれない。

 もちろん、晴臣に尋ねるのが一番早いとは思う。けれどそうしたら、また彼を問い詰めてしまいそうで怖い。

 だからその前に、赤い蛍について思い出せないか、あるいは赤い蛍を呼び出せないか、自分で努力してみようと思ったのだ。

「むやみに手を動かしても、らちが明かなさそう……」

 ため息をついて、目を閉じる。こうなったらなんでもいい、前世のことを思い出してみよう。

 眉間にしわを寄せながらうんうんうなっていたら、ふと懐かしい声が脳裏に響いた。

『陽炎(かげろう)様。野苺の実が、なっていましたよ』

 その声に続いて、幸せそうに笑う子狐の姿が浮かんでくる。

 山吹(やまぶき)は、甘いものが好きだった。他の式神たちが食べられる野草やキノコ、それに野ウサギなどを集めてくる間、彼はせっせと甘い実を探していた。たまに、ミツバチの巣をひとかけらくわえて戻ることもあった。

 ふと、昼間のことを思い出す。わたしのアップルサンデーを口にして、幸せそうに目を細めていた彼の笑顔には、見覚えがあった。

「……子狐と、人間、姿は変わっても、表情は変わっていないのね」

 そうつぶやいた拍子に、また別の風景がよみがえる。

 とても簡素な、ありあわせのものをただ煮て塩を振り入れただけの鍋を、山吹は顔を輝かせて食べていた。おいしいですね、陽炎様。口癖のように、そう言いながら。

「あのころのわたしは、きっと幸せだったのね……戦いのことしか考えていなくて、自覚できていなかったけれど……」

 おぼろにかすんだ風景に、自然と大きな笑みが浮かんでいた。

「……赤い蛍のことは、いったん忘れましょう」

 そのうち明らかになるかもしれないし、ならないかもしれない。けれど、焦ったところで事態がよくなるわけでもない。

 だったら今は、どっしりと構えていよう。ひとつ、大切な記憶を取り戻せたことを喜ぼう。

 そっと胸を押さえて、愛らしい子狐の姿を思い浮かべた。



 その日の夜、いつものようにふたり並んで、庭を見ながらゆったりと話す。戻ってきた日常に、ほっとしていたのもつかの間、もやもやするものがこみ上げてくるのを感じた。

「……晴臣、顔を見せて」

 晴臣に向き直ると、彼の頬に手をかけてこちらを向かせた。わたしのそんな行動が不思議だったのか、彼はきょとんとした顔で見つめてくる。

「紅子様?」

「こんなに、きれいな目なのに」

 空に輝く満月に負けないくらいに美しくきらめく金色の目を、真正面からのぞき込む。

「……わたしの目をどうこう言われるのは、慣れていたの。吉野の言葉は、うっとうしい藪蚊の羽音のようなものとしか思えなかったし、心動かされることもなかった」

 話しているうちに、昼間のことがどんどん思い出されてくる。

「けれど、あのふたりは……あなたの金色の目を見ておびえていた。普通の人間であればありえない色合いだけれど、こんなにもよく似合っていて、美しいのに」

 わたしの赤い目を見慣れているくせに、金の目におびえるなんて、あのいくじなしたち。

「そのことが、悔しくて」

 口をとがらせていたら、晴臣がわたしの手に自分の手を重ねて、とろけるような笑みを浮かべた。

「貴女が褒めてくださるだけで、僕は十分すぎるほどに幸せですよ、紅子様」

 幸せ。その言葉と彼の表情に、告げておきたいことがあったのを思い出した。

「……晴臣。前世の記憶、少しだけ戻ったの」

 そうつぶやくと、彼の表情がわずかにこわばる。なだめるように微笑み、言葉を続けた。

「……森の中であなたと食べた質素な鍋、おいしかった。前世の自分が、何を考えて生きていたのか、きちんとは思い出せないけれど……あのときは、幸せだった。それは、間違いないわ」

 それを聞いた晴臣の顔が、泣きそうにゆがむ。

「紅子様……僕は、貴女の力になれていましたか?」

「もちろんよ。前世も、そして今も、あなたが一番頼りだし、その……」

 すっと、そんな言葉が出てきた。けれどこれだけでは足りないと、そうも思えた。

「一番、大切よ……誰よりも、何よりも」

「ええ、僕もですよ」

 そのままわたしたちは、微笑みながら見つめ合っていた。



 次の朝、とても温かな気持ちで目を覚ます。朝食をとってから一度離れに戻り、今日はどうしようかと考える。いつもどおりの、のどかな一日になるはずだった。

「……あら?」

 ふと、誰かに呼ばれたような気がした。それも、庭のほうから。何気なく縁側に出て、驚きに立ち尽くす。

 赤い蛍が、庭の奥に浮かんでいた。わたしに向かって、まっすぐに飛んでくる。

 考えるより先に、手を差し伸べていた。蛍がわたしの指に止まった瞬間、信じられない光景が頭の中に広がる。