満月狐に想われて

 店を後にしたわたしたちは、ふたり並んでのんびりと大通りを歩いていた。

 このまま橘花(たちばな)の屋敷に戻るのも少しもったいない気がしたので、ついでにその辺を散歩していこうということになったのだ。それに、色々なものを見ていくことで、前世のことをさらに思い出せるかもしれないし。

 歩きながら、隣の晴臣(はるおみ)を見上げる。

「あのお店のメニュー、他にも色々ありましたよね?」

「気になっているのか、紅子(べにこ)」

「はい。なのでまた連れてきてくださいね、晴臣様。わたしひとりでは、何を頼んでいいのか分かりませんから」

 さっきの楽しいひとときの余韻が、まだわたしたちの間に漂っていた。晴臣とまた歩み寄れた。素敵な場所を教えてもらった。

 今日は、とっても素敵な日だ。今くらいは、前世のことなんて全部忘れていても、許されるかな。

 けれどそんなふわふわした気分は、背後から聞こえてきた声にあっさりと吹き飛ばされてしまった。

「ああら、紅子さんじゃないの。こんなところで奇遇ねえ」

「……吉野さん……」

 振り返ると、そこに吉野と千代が立っていた。そのかたわらには、見覚えのある車が停まっている。東藤(とうどう)の家が所有しているものだ。

 ここは、東藤の屋敷からはかなり離れているのに、いったい何をしにきたのだろうか。

「お久しぶりですわね、お姉様。お元気そうでよかったわ」

 そう言って微笑む千代は、目を見張らんばかりに着飾っていた。豪華絢爛な振袖、とろりとした光沢を放つ絹の帯。華やかに結い上げた髪にさしているのは、美しい花の飾り彫りがされた桃色珊瑚の大きなかんざしだ。

 普段の彼女は、女学生らしいはかま姿か、あるいは着物姿だ。しかし一度だけ、彼女がこんなふうに盛大に着飾っているのを見たことがある。

 あれは、晴臣に連れられて東藤の屋敷に乗り込んでいったときのことだ。あのとき、千代はやはり着飾って、晴臣に色目を使っていた。吉野も「紅子ではなく千代と婚約してくれ」と主張していた。

 しかし今の千代の装いは、あのときよりさらに豪華で、高価なものだった。目がちかちかする。

 さらに吉野のほうも、以前とは違う姿だった。

 前回会ったときは黒の留袖姿だった彼女は、今は凝ったデザインのドレス姿だった。しかもドレスの生地は、中々に高級なものだ。以前、鶴羽屋でたくさん布地を見たおかげで、なんとなくではあるけれど見当がつく。

 ふたりがきらきらしく着飾って、わざわざ遠出しているのはいいとして、どうしてわたしに声をかけたのか。まさかまだ、晴臣に未練があるのだろうか。

 自然と足が動く。半歩進み出て、晴臣と吉野たちの間に割って入っていた。

 千代はわたしのそんな動きを気に留めた様子もなく、あでやかに微笑んでいる。

「わたくし、今日お見合いにいっていたんですの。子爵家の、跡取りのお方との縁談ですのよ。おっとりとして穏やかな、いい方でしたわ」

 子爵家。橘花家は男爵家だから、千代の見合い相手の家のほうが格上ということになる。

 なるほど、やっと彼女たちがわたしを呼び止めた理由が分かった。「自分たちのほうが上なのだから、思い上がるな」と言いたいのだろう。

 とはいえ、まともに相手をするだけ馬鹿らしい。適当に聞き流しておけばいいだろう。幸い、彼女たちはもう晴臣には興味を持っていないようだし。

 けれど油断したとたん、吉野がすっと横に動いた。わたしの背後にいる晴臣に、やけにねっとりとした、鼻にかかった声で話しかけてくる。

「ところで晴臣様、うちの紅子が、そそうをしてはおりませんか? どうにも無口で無愛想な子で、男爵家の嫁としてやっていけるか、ずっと心配していましたの」

 吉野がわたしのことを心配するなど、天地がひっくり返ってもありえない。つまりこれは、心配しているふりをして悪口を吹き込もうと、そういう魂胆なのだろう。

「あたしは東藤の後妻ですから、実の母を亡くしてふさぎこむこの子にどう接していいのか分からなくて、そっとしておいたのですけれど……今にして思えば、それが失敗でしたわ」

 しなを作りながら、吉野はさらに続ける。千代はきょとんとした顔で、吉野を見ている。母が突然どうしてそんなことを語り始めたのか、さっぱり分かっていないという顔だ。

 母子そろってわたしに対する対抗心があるようだけれど、千代のほうがまだ可愛げがあるなと、こっそり苦笑する。

 晴臣は表情ひとつ変えずに、話を黙って聞いていた。

「紅子は、家族のことすら避けるようになってしまって……あたしたちは、何度もこの子と仲良くなろうと頑張ったんですよ」

 家族のように、か。わたしは彼女たちを家族だと思ったことは、一度もない。

「それなのにこの子は、どうにも強情でして……もし晴臣様がもてあましておられるようでしたら、いつでもあたしたちが引き取りますわ」

 彼女たちは、もう他人だ。だから、何を言われようとも響かない。かつて東藤の家の離れでそうしていたように、何も感じずに聞き流すだけ。

 ため息を押し殺していたら、晴臣の涼やかな声がした。

「いや、それには及ばない。彼女は今、僕の婚約者として日々学んでいるところだ。とても優秀だし、使用人との関係も良好だ。これ以上の女性など、そういるものではない」

 取りつく島もない晴臣の態度がじれったくなったのか、吉野が両手を合わせて上目遣いになり、とびっきり甘い声を上げる。

「まあ! ですが、こんな薄気味悪い目の娘をそばにおいていたら、あなたまで避けられてしまいますよ」

「そうか」

 晴臣の返事は、やはりそっけない。けれど彼の声は、わずかにこわばっていた。ああ、怒っているな。

 これ以上、吉野たちに付き合う意味もない。強引に話を打ち切って、さっさと立ち去ってしまうべきだろう。

 吉野たちに背を向け、晴臣に向き直る。行きましょう、と小声で呼びかけようとして、そのまま立ちすくんだ。

 晴臣の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。そして彼は流れるような動きで、青眼鏡を外した。

 そしてもう片方の手で、彼の目元を隠している長い前髪をさらりとかき上げる。昼でもまばゆく輝く金色の目が、まっすぐにわたし……ではなく、わたしの背後にいる吉野たちにすえられていた。

 昼の間、彼はずっと青眼鏡をかけたままだ。彼の目の色のことは、橘花の屋敷の人間ならみんな知ってはいるけれど、来客などがうっかり驚くことのないようにという配慮によるものだ。

 また、みだりに騒ぎ立てられたくないという彼の思いも影響している。

 彼にとってこの金色の目は、彼が山吹(やまぶき)であるというあかしだ。他の人間にとっては奇異なものかもしれないけれど、彼はこの金色の目を大切に思っているのだ。

 そんな彼が、白昼堂々と目を見せるなんて……。

「先ほど、薄気味悪い目とかなんとか、そんな言葉が聞こえた気がするが」

 背後から、ひっ、という押し殺した悲鳴のようなものが聞こえた。