満月狐に想われて

 文子さんの励ましを経て、わたしはついに決心した。悩んでいても何も変わらない。こうなったら、ひとまず動いてみよう。黙っていても、何も変わらない。

 夜まで待って、縁側に出る。そうしてそのまま、晴臣の部屋の前に立った。緊張に手がかすかに震えているのを感じながら、中に向かって呼びかける。

「晴臣(はるおみ)。聞いて……もらいたいことがあるの」

 返事はない。けれど今、彼が中にいるのは確かだ。かすかに、息を呑むような気配がしたから。

「……先日は、強引に迫るようなまねをして、悪かったわ。わたしは……焦っていたの」

 障子に手をかけたはいいものの、開ける勇気がない。こつんと障子に額を当てて、そのまま話し続けた。

「何度打ち消しても、不安が消えてくれないの。前世の記憶がよみがえるほどに、苦しくなっていくの。でも、目をそむけることができなくて」

 昼間文子さんは、わたしが晴臣をどう思うか、そのままぶつけてみればいいと言っていた。それなのに、わたしの口をついて出たのは、まるで見当違いの言葉だった。

「ええと、そうではなくて……いえ、そうなのだけれど……その、つまり、わたしは……」

 頭が真っ白になって、どうにもうまい言葉が出てこない。自分が口下手だという自覚はあったけれど、ここまでひどかったなんて。

 悔しさに口ごもっていたら、いきなり目の前の障子が開いた。障子にもたれかかっていたせいで、よろめいてしまう。すると晴臣が、わたしをすかさず抱き留めた。

「紅子(べにこ)様」

 彼はひどく複雑な表情を浮かべていた。悲しそうで、でも嬉しそうで、それでいてどことなくこわばった、そんな顔だ。

 間近で見る彼の金色の目に、思わず見入ってしまう。わたしを支えている温もりに、鼓動が速くなる。

「立ち話というのもなんですから、どうぞ、中へ」

 彼はわたしの肩を抱いて、部屋の中に連れていく。そのまま、座布団の上にそっと座らせてきた。

「どうぞ、落ち着いて話してください。いくらでも、話を聞きますから。ひと晩中でもお付き合いします。だから、焦らないで」

 わたしの向かいにもう一枚の座布団を引き寄せると、晴臣がそこに腰を下ろす。こちらを見て、晴臣がふっと微笑んだ。透き通ったその笑みを見ていたら、自然と肩から力が抜けるのを感じた。

 そうだ、焦らなくていい。晴臣は、わたしの話を聞いてくれる。そう確信できることが、何より心強く感じられる。

 あとはもう、ひたすらに必死に話し続けた。

 東藤の家に生まれてからのこと、サチから聞いたこと、全部。こんなに懸命に、誰かに何かを伝えたいと思ったのは、生まれて初めてかもしれない。

「サチさんから話を聞いて、わたしは両親に愛されていたのだと、そう思えたの。だからもう、この目について、負い目を感じてはいない……と思う」

 左手で、長い前髪をかき上げる。赤い目で、晴臣をまっすぐに見つめる。

「もう、東藤の家はわたしを縛ってはいない。わたしは、やっと自由になれた」

 彼はやはり悲しげな目で、こちらを見返していた。

「それなのに、苦しいの。このままじゃいけないって思いが、どうしても消えない」

 気づけば、彼ににじりよっていた。その腕にすがり、必死に訴える。

「前世のわたしは間違いなく、何かやり残している。それを解決するまで、この穏やかな日々に浸ってはいられない。前世のわたしの記憶のかけらが、そう叫んでいるの」

 一気に話して、深呼吸する。まるで全力で走った後のように、息が上がってしまっていた。

「やけに切羽詰まっておられるとは思いましたが、そういうことだったのですか……」

 晴臣が苦しげに顔をゆがませて、考え込む。彼を見上げて、次の言葉を待った。

「……ですがやはり、僕から話せることはありません。僕は貴女を守るのだと、そう決めました。だから、これだけは譲れません」

 前に話したときの、彼のかたくなな態度を思い出す。再会したときからずっと、わたしのことを守りたいと、彼がそう言っていたことも。

 やはり、わたしが進もうとしている道の先には、危険が待ち受けているのだろう。でもそれなら、なおさら逃げるわけにはいかない。

 かといって、晴臣にこれ以上無理を強いたくもない。あきらめて、ひとりでなんとかするしかないのだろう。そう思ったとき、彼がさらに言葉を続けた。

「ですが、貴女が前世の記憶を追いかけることを、止めはしません。今まで以上に貴女のそばにいて、貴女を支えることにします。……もしものときに、備えて」

 目を伏せて、淡々と彼は告げる。そのまつげが、苦しげに震えていた。

「……ありがとう。それだけでも、心強いわ」

 彼にも、譲れないものがある。けれど彼は、わたしのことを思って譲歩してくれた。そのことが、嬉しい。

 ほっとしたのと同時に、別の思いが込み上げてきた。

「それと、謝らないと……焦っていたとはいえ、こないだは問い詰めたりしてごめんなさい」

 軽く頭を下げると、晴臣もまた安堵の笑みを浮かべた。

「いえ、いいんです。貴女がここまで苦しんでいるのだと気づかなかった、僕も悪いのですから」

「わたし、あなたに甘えていたの」

 恥じらいながら告げると、彼が目を真ん丸にした。

「あなたならわたしのことを理解してくれる、あなたは頼りになるって、そう思ってた。だからなのか、あなたにならわがままを言ってもいいって、心のどこかで思っていたみたい」

 文子さんは、わたしが晴臣のことをどう思っているのか素直に告げてみたらいいと、そう言っていた。頭が真っ白になっていたせいで回り道したけれど、ようやく言えた。

 わたしの思いを知った晴臣は、ランプの明かりの下でもはっきりと分かるくらいに動揺していた。そのことに、さらに恥ずかしくなってしまう。

「……だから、その……ただ謝るだけというのもどうかと思うし、わたしにできることがあるなら……ほら、埋め合わせとか……」

 しどろもどろになりながらそう提案すると、また晴臣がきょとんとした。

「そうですね、紅子様の気が済まない、というのでしたら、ひとつ案があるのですが」

 それから彼は、にっこりと笑う。

「僕と一緒に、外出してください」



 次の日の午後、わたしは晴臣に連れられて屋敷を出た。

 見送ってくれた文子さんたちはみんな、ほっとした顔をしていた。申し訳なさと同時に、ほのかな喜びを感じてしまう。

 わたしと晴臣が仲良くしていると、彼女たちも安心できる。こんな形で気にかけてもらったのは初めてだけれど、これはこれで悪くないと思えてしまう。

「ところで晴臣、どこに行くの? 徒歩ということは、近くみたいだけど……」

「素敵な場所ですよ」

 晴臣は朝から、ずっと上機嫌だった。正確には昨夜、外出の約束を取りつけてからずっとだ。しかも行き先を何度尋ねても、こうやってはぐらかし続けている。

 首をかしげるわたしを連れて、彼は大通りをどんどん進む。しばらく進んだところで、いきなり脇道に入った。そうして、大通りから一本裏に入ったところにある店に入っていく。

 珈琲の香りがする店の中には、たくさんのテーブルが置かれている。客らしき人たちが、テーブルを囲んで談笑しているのが聞こえた。それぞれのテーブルの間は籐編みの衝立で仕切られているせいで、客たちの姿ははっきりとは見えない。

「……あの、ここはどこなのですか?」

「僕の秘密の休憩所だ」

 店の中ということもあって、とっさに口調を改める。すると晴臣は、心なしか得意げな表情で答えてきた。

 しかし、秘密の休憩所、か。文子さんといい晴臣といい、どうしてわたしを秘密の場所に連れていこうとするのだろう。

 文子さんの秘密の場所は素敵なところだったし、ここもそう……なのだと思いたいけれど。

 たぶんここは、喫茶店とかカフェーとかいう場所だ。ただ、そういった店の中には、少々いかがわしいところもあると聞いている。

 まさか晴臣は、そういう店が好みだったり……今の彼は子狐ではなく成人男性なのだから、そういう趣味があってもおかしくはないけれど……。

「その、紅子。ここは珈琲と軽食を楽しむ、そんな店だ。別段いかがわしいところではない」

 わたしの疑問を打ち消すように、晴臣がちょっとあわてた様子で言った。たぶん、今の考えが顔に出てしまっていたのだろう。

「それより、席に着こう。ほら」

 晴臣が空いたテーブルに歩み寄り、椅子の背を引いてくれた。素直に腰を下ろし、改めて店の中を観察してみる。

 床も壁も木の板が張られていて、テーブルもつややかな木でできていた。木の椅子の座面には布が張られていて、座り心地は悪くない。ほっと落ち着く感じの店だ。

「どれにする、紅子?」

 給仕が持ってきたメニューを、晴臣はまずわたしに差し出してきた。手に取って開き、ぱらぱらとめくって……。

「……何も分からないので、お任せします」

 思い切り声をひそめ、メニューを突き返す。

 晴臣から借りた本の中に、こういった料理について記されたものもあるにはあったけれど、説明を読んでいてもうまく想像できなかった。なので、選べと言われても困る。

 しかもここに記されている料理は、橘花(たちばな)の屋敷で出てくる料理ともまた違っているようだし。

「ならば、これはどうだろうか」

 晴臣は楽しそうな顔で、メニューの一文を指さしてきた。

「きっと、気に入る」