満月狐に想われて

 夕暮れの中、立っている人影。まぶしさに目が慣れてきて、その顔がはっきりと見えてくる。

 すらりと背が高い、見知らぬ青年だった。淡い砂色のジャケットと焦茶のズボン、それに茶色のベストをまとっている。若木のような青年だと、そんなことを思った。

 わずかに波打った暗い栗色の髪は真ん中で分けられていて、前髪は目を隠すほど長く、逆に後ろ側はこざっぱりと短く整えられている。前髪の下からは、青いレンズの丸眼鏡がのぞいていた。

 目元は涼やか、鼻筋はすっと通っていて、薄くて形のいい唇は三日月のよう。思わずどきりとせずにはいられないくらいに、美しい男性だ。

 しかし先ほどわたしが驚いたのは、わたしの心臓が大きく跳ねたのは、まるで違う理由からだった。

 わたしは、彼のことを、知っている。彼に会ったのは間違いなく初めてなのに、驚きと喜びに心が震えて仕方がない。

「……もしかして、あなたは……山吹(やまぶき)、なの……?」

 目の前の青年を見つめていたら、勝手にそんな言葉がこぼれ出た。それを聞いた彼が、柔らかく大きな笑みを浮かべる。その目元には、うっすらと涙が浮いていた。

「はい。お会いしたかったです。我が主、陽炎(かげろう)様……」

 そう言いながら、彼はそっと眼鏡を外す。その下から現れたのは、満月の金色を宿した目だった。

 あの夜見たのと同じ金色が、わたしの奥に眠っていた記憶のひとかけらを呼び覚ます。

 あれは、ずっとずっと昔、ここ帝都が一面の山野でしかなく、帝が遥か西の地におわしたころのこと。わたしが今のわたしとして生まれるよりも、ずっと前のこと。

 前世のわたしは、『陽炎』という名だった。今のわたしと同じ、赤い左目を持っていた。

 わたしは仲間とともに、人ならざるものを打ち払い、人々の平和を守っていた。様々な術を使い、式神を従え……人はわたしたちのことを、陰陽師などと呼んでいた。

 そして、山吹は……。

「えっ、あの……どうしてあなたが、人の姿になっているの……?」

 山吹は、前世のわたしが一番大切にしていた式神だ。もっとも、力はとても弱く、戦うことはできなかった。それでも彼は、ひたむきにわたしに仕えていてくれた。

 彼は、金色の目の子狐の姿をしていた。式神ということもあって話すことはできたけれど、その声は澄んで高い子どものものだった。

 目の前にいる青年と、記憶の中の子狐とは、その目以外何もかもが違っている。それなのに、分かってしまった。この麗しい青年は、間違いなくあの愛らしい山吹なのだと。

 突然よみがえった前世の記憶と山吹の姿に、混乱してしまう。すると彼は、にっこりと笑いかけてきた。若い女性なら一目でころりと恋に落ちてしまいそうな、甘い笑みだった。

 そうして、彼はゆったりと語り出す。

「式神は、役目を終えればただ消えるのみ。かつて貴女が生を終えたとき、僕もまた消える運命でした」

 彼の言葉を聞きながら、おぼろげな記憶をたどっていく。式神のかりそめの生命は、主の霊力によって保たれている。だから霊力を与える主がいなくなれば、式神は霧のように消えてしまうのだ。

「けれど僕は、なぜか人間として転生しました。ですので、僕は貴女を探すことにしたのです」

 彼はまた眼鏡で目を隠すと、苦しげに視線をそらした。

「僕がこうして生まれ変わったのなら、きっとどこかで、貴女も生まれ変わっておられるのではないかと……そう思って」

 彼の声が、涙に震えていた。そのこぶしが、ぎゅっときつく握りしめられている。

「けれど貴女を見つけられないまま、僕は寿命を迎えました。そうしてまた生まれては死に、また生まれて……それでもあきらめずに、ひたすらに貴女を探し続けました」

 わたしはかつての自分の名も、山吹のことも、今の今まですっかり忘れていた。

 けれど彼は、覚えていた。気が遠くなるくらいの時間、わたしを探していた。そう思ったら、急に胸が苦しくなった。申し訳なくて、たまらない。

 本当に、わたしは駄目だ。両親も、山吹も、わたしのせいで苦しんだ。

 ずうんと気分が重くなり、下を向く。すると、ゆっくりと彼が近づいてくる気配がした。彼はわたしのあごに手をかけると、そっと顔を上げさせる。その拍子に、隠れていた赤い左目があらわになった。

 それを見た彼が、また泣きそうに笑う。

「そのお姿、あのころと変わらない……いえ、より美しくなられたようにも思います。その赤い左目をもう一度見たいと、何度そう願ったことか……」

 間近で、彼と目が合う。また、心臓が跳ねた。かっと頬が熱くなる。これはあの子狐だと、分かっているのに。

「あの、探してもらえたのは嬉しいわ。ただ、そう手放しで褒められると恥ずかくて……それに、立派になったというなら、あなたのほうが……」

 照れてしまったのを隠すように、そっと目をそらした。それからあえて堂々と胸を張って、ずっと上にある顔を見返す。

「今の私は東藤(とうどう)紅子(べにこ)、士族の娘よ。年は十六」

 すると彼は金色の目を見張り、それからうやうやしく言葉を返してきた。

「今の僕は、橘花(たちばな)晴臣(はるおみ)と申します。二十二歳で、男爵家の当主を務めています」

 その言葉に、思わず背筋を伸ばす。

「……男爵家の、当主……今は、あなたのほうがずっと立場が上なのね。だったら、口調を改めたほうがいいのかしら」

 さっきは動揺していて気づく余裕すらなかったけれど、よくよく見てみれば彼の身なりは中々にいいものだった。でもまさか、華族だったなんて。

「いえ、どうかそのままで。ようやく貴女に巡り合えたのです。今さら他人行儀な態度をとられては、悲しいです」

 彼はそう言って、ふるふると首を横に振った。その頬がほんのりと赤みを帯びているのは、うっすらと橙色を帯びた日ざしのせいだけではないだろう。

 傾きつつある太陽に目をやった拍子に、思い出した。いけない、こんなところでのんびりしている暇はないのだった。

「せっかくだから再会を喜び合いたいところだけれど、そろそろ帰らないと」

 焦りを隠しつつそう切り出すと、山吹はきょとんとした顔になる。

「何か、急ぎの用事でもあるのですか?」

「あ、いえ、夕食が」

「……夕食、ですか? 多少遅れても、問題ないとは思うのですが」

 どうにかしてごまかすべきだと分かっていたのに、わたしの口は勝手に言葉を紡ぎ出してしまう。

「その……事情があって、夕食時に遅れると食事抜きにされてしまうのよ」

 母を亡くしてから、わたしは誰にも弱音を吐けなくなっていた。わたしの味方はもういない、どれだけ苦しくても口を閉ざしているしかないと、そう自分に言い聞かせていた。

 でも、こうして山吹に巡り合ったことで、ほんの少し気持ちが緩んでしまったらしい。

 かつて山吹とは、たくさん話をした。彼はいつも真剣に話を聞いてくれたから、他の人には言えない悩みなんかも、素直に話せた。わたしの口が軽くなっているのは、きっとそんな記憶のせいだ。

「だから、もう帰らないと」

 言ってしまってから、決まりの悪さを感じてしまう。再会してすぐに、こんなことを打ち明けるべきではなかったかもしれない。

 そそくさとこの場を離れようとしたわたしの腕を、山吹はしっかりとつかんでしまう。

「食事抜き? それはどうにも、ひどい話ですね。見過ごせません」

 整ったその顔には、妙な気迫が漂っていた。