満月狐に想われて

 鶴羽屋をあとにして屋敷に戻ると、そのまま離れに駆け込んだ。大急ぎでかんざしを取り出して、じっくりと眺める。

 飴玉くらいの大きさの白い陶器の玉には、澄んだ青色で柳の木が描かれている。花のような形に結ばれた赤い紐の先には、真っ赤な珊瑚玉が下がっていた。

 間違いない、サチさんが言っていたのは、このかんざしだ。

「母は、それに父も、わたしの幸せを願ってくれていた……」

 その事実が嬉しくもあり、苦しくもあった。今のわたしは、幸せだ。以前とはまるで違う場所で、優しい人たちに囲まれて暮らしている。

 でもだからといって、その幸せに浸ることもできなかった。やっぱりわたしには、両親に対して負い目があったから。

 けれど、もうその思いを手放すべき時が来たのかもしれない。サチさんが教えてくれたように、晴臣(はるおみ)が願っていたように、過去にとらわれるのではなく、これからの幸せに目を向けるべきなのかもしれない。

 鏡台に向かい、耳の上の髪をひと房すくいあげ、かんざしで留める。垂れ下がった珊瑚玉が、耳元で揺れている。

 鏡の中のわたしは、ふわりと柔らかく微笑んでいた。



 そうしてそのまま、離れでぼんやりする。ずっと頭を悩ませていた問題が、心にのしかかっていた重たい石が、なくなった。その感覚が、どうにも落ち着かなかった。

 これでいい、という思いと、本当にこれでいいのだろうかという思いとの間で、いまだに心がふらふらと揺れ動いている。

 じっとしていると、余計に落ち着かない。今度こそ、散歩にでも出てみようか。

 ため息をついていると、文机の上に置かれた本が目に入った。こないだ、ミヨちゃんから借りた本だ。もう読み終わったから、今度彼女が来たときにでも返そうと思っていたのだけれど、散歩のついでに返しにいくのもいいかもしれない。

 さっそく立ち上がり、本を風呂敷に包んだ。それを手に、矢野さんの家に向かう。

「失礼します、ミヨちゃんは在宅ですか」

「あっ、紅子(べにこ)様だ!」

 玄関先で声をかけると、家の中からミヨちゃんの明るい声がした。ぱたぱたという足音に続いて、がらりと玄関の戸が開く。

「いらっしゃいませ、紅子様。今日はどういったご用でしょうか? ひとまず、中にどうぞ」

 いつもよりちょっぴりかしこまった態度で、ミヨちゃんが顔を出した。そうしてそのまま、中に案内される。

 通されたのは、居間らしき畳敷きの部屋だった。隅のほうに置かれた机の横で、三十代くらいの女性がせっせと何かを縫っている。

「あら、お客様ですか? ごめんなさいね、今ちょっと急ぎの仕事が入っていて」

「母さん、こちらが紅子様よ! 紅子様、こちらがうちの母です!」

 目をきらきらと輝かせながら、ミヨちゃんがそう説明した。

「まあ、それではこちらが、晴臣様が探されていたお方なのね。はじめまして、紅子様。わたしは矢野(やの)勝代(かつよ)と申します」

「母も裁縫が得意なんですよ! でも鶴羽屋さんみたいに偉い人の服を仕立てるんじゃなくて、町のみんなの服を作ってるんです」

 勝代さんのあいさつにかぶせるようにして、ミヨちゃんが元気よく言った。

「あと、橘花(たちばな)のお屋敷の人たちの服のつくろいもやってます。紅子様も何か直したいものがあったら、母さんに任せてください!」

「ミヨ、はしゃがないの」

「だって紅子様が来てくれて、嬉しいんだもん!」

 ミヨちゃんはわたしたちの前では年の割に大人びた態度をとっているけれど、母親の前ではむしろちょっと幼い雰囲気だ。

 たぶん彼女は、母親に甘えているのだろう。そんなところが愛らしく、また少しばかりうらやましい。

「すみません、騒がしい子で……」

 恐縮しながら謝ってくる勝代さんに、ふるふると首を横に振る。

「いえ、ミヨちゃんはいつもしっかりしたいい子です。それに、いつもと違う一面が見られて楽しいですから」

「わあい、やっぱり紅子様って、優しい! ね、母さん、紅子様は素敵な方でしょう? 優しくて、美人で、それにこのきれいな目」

 それを聞いた勝代さんが、ふとわたしの左目を見つめた。その顔に浮かんだのは、驚きと、感嘆の色。

「あら、本当にきれいな目……って、ごめんなさい、初対面の方にぶしつけなことを言ってしまいました」

「……大丈夫です。むしろ、褒めてもらえて、嬉しかったので」

 前に、この目をミヨちゃんに褒められたときは、かなり動揺してしまった。でも今では、称賛の言葉を素直に受け入れられそうな気がしている。きっと、母の思いを知ることができたからだろう。

「それでね、ミヨちゃん。この本を返しにきたの」

「あっ、わざわざありがとうございます! でしたらまた何か、借りていかれますか? といっても、そんなにたくさんはないんですけど」

 本好きのミヨちゃんはこつこつとおこづかいを貯めて、貸本屋が処分する古い本を買い取っているのだ。そうして、時折おすすめの本を持ってきてくれる。

「そうね……」

 無邪気な彼女と話していると、気がまぎれる。ここで本を借りて帰ってもいいのだけれど、どうせならもっと長く、彼女と一緒にいたかった。かといって、仕事中の勝代さんの邪魔になっては申し訳ない。

「ねえ、一緒に星辰庵に行かない?」

 思いつきを口にすると、ミヨちゃんがぱっと顔を輝かせた。けれどすぐに、ぎゅっと眉をひそめてしまう。

「あ、でも今月のおこづかい、もう使っちゃったんでした……」

「だったら、一冊借りる分だけわたしが出してあげるわ。あなたには本を貸してもらっているし、前に星辰庵まで案内してもらったお礼もしたいから」

「やったあ!」

 わたしの提案に、ミヨちゃんは歓声を上げた。しかし勝代さんが、困ったような顔でわたしを見てくる。

「ですが、よろしいのでしょうか……」

「若者は大いに学ぶべきだと、晴臣様もおっしゃっていますから」

 さらに付け加えると、勝代さんが深々と頭を下げてきた。

「ありがとうございます。晴臣様はよい方にめぐりあえたと、夫はいつもそう言っているんです。ミヨも、このところよくあなたの話をしていて……」

 ミヨちゃんも、矢野さんも、わたしの知らないところでわたしの話をしていた。それも、悪意のこもっていない、温かなものを。

 こんなふうに温かな噂話をされることに慣れなくて恥じらっていたら、ミヨちゃんがひときわ楽しげに笑い声を上げた。



 浮かれた足取りのミヨちゃんに連れられて、星辰庵を訪れる。彼女は店に入るなり、一直線に本棚めがけて駆け寄っていった。

 さて、せっかくだからわたしも、何か借りる本を探してみようか。本棚を眺めながらゆっくりと歩いていたら、見覚えのある本が目に飛び込んできた。

 ……『古今怪異集』。以前、晴臣がわたしの手から取り上げた本だ。

 ふと気になってしまって、本を手に取る。あのときと同じように、ぱらぱらとめくっていった。

 けれどその手が、あるページで止まる。

「……水虎」

 まただ。前も、この名前を見たとき、引っかかるものを感じた。そこに描かれているあやかしの姿を、食い入るように見つめる。

 絵の中にいたのは、水の中に棲む大きな虎……に見えなくもない四つ足の化け物だった。その化け物は口元にかすかに笑みを浮かべ、こちらを見据えている。

 さらに見つめ続けていたら、化け物と目が合ったような気がした。とたん、背筋がぞわりとする。

 わたしは、これを知っている。これを実際に見たことがある。これと、戦ったことがある。

「あ……」

 手が、震えていた。すうっと、血の気が引いていくのを感じる。両足を踏ん張って、倒れそうになるのをこらえる。

 思い出さなくては。確かめなくては。こんなに心臓が暴れている、その理由を。

「……晴臣に、聞くしかなさそうね」

 ミヨちゃんや店主に気づかれないように、口の中だけでつぶやいた。