満月狐に想われて

 無事に、東藤(とうどう)の人たちとのあいさつも済んだ。

 これでもう、吉野や千代にわずらわされることもないだろう。あのふたりはわたしを目の敵にしていたけれど、さすがに男爵家相手に喧嘩を売るほど無謀ではないはずだから。

 しかし意外にも、わたしは空しさのようなものを感じてしまっていた。虐げられる日々から、これでようやく解放されたというのに。

 ほうけている場合ではない。これからわたしは幸せになって、そして前世の記憶を探らなければならない。まだまだ、なすべきことはあるのだ。

 自分にそう言い聞かせてみても、動く気になれなかった。晴臣(はるおみ)はそんなわたしを心配して、あれこれと気を使ってくれていた。

 ならばと前世のことについて尋ねてみたものの、「前世ですか? 取り立てて、話すべきことはありませんよ。そんなことは忘れて、今を楽しみましょう」という言葉が返ってくるだけだった。

 やっぱり、彼は何か隠している。そう確信できていたものの、それ以上彼を問い詰める気にもなれなかった。

 ぼんやりと三日ほど過ごしていた昼下がり、明るい声とともにひとりの少女がわたしのもとを訪ねてきた。

「こんにちは、紅子(べにこ)様!」

 離れの部屋で、座布団にちょこんと正座している彼女は、細身で小柄で……十歳くらいだろうか。いや、もう少し上かもしれない。

 メイドが出してくれたお茶を一口飲んで、彼女はにっこりと笑った。

「はじめまして、紅子様。私は矢野ミヨと申します! 十二歳になったところです」

 その名前と、この年頃。前に聞いた話が、自然と思い出される。

「矢野……もしかして、矢野さんにわたしのことを話したのは、あなた?」

 すると彼女は、嬉しそうににっこりと笑った。

「はい。前に、貸本屋で貴女のことを見かけて、気になっていたんです。こうして間近でじっくり見てみると、さらに美しい方ですね」

 いきなりそんな言葉を投げかけられて、飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。

「ミヨちゃん、わたしは別に、普通だから……」

「そんなことないですよ! 雪のように白い肌、つややかな黒い髪、赤い椿の色の目……昔物語で読んだ雪姫様みたい……うっかり触れたら、解けて消えてしまいそう……美しくて、清楚で……」

 読書家だというだけあって、この子は年の割に語彙(ごい)が豊かだ。そしてその豊かな言葉を駆使して、これでもかというくらいに褒めてくる。

「その……そんなに熱心に褒められると、どうしていいのか……」

 とっさに顔をそらしたものの、彼女はきちんと座ったままこちらに向かって身を乗り出してくる。

「特に、その目が素敵ですよね。隠すなんて、もったいないなあ……」

「あの、恥ずかしいわ」

「恥じらう姿も、また素敵ですね。晴臣様が惚れ込むのも、分かります」

 うっとりと目を細めていたミヨちゃんが、突然はっとした顔になった。

「いけない、今日は紅子様に謝りにきたんでした」

「謝りに?」

 謝罪も何も、彼女とは初対面だ。首をかしげていると、彼女はきゅっと唇を引き結んで、視線を落とした。

「紅子様のこと、父さんに勝手に話して、騒いでしまいました。勝手に陰で噂されているなんて、気分がよくないですよね。すみません」

「ああ、そういうことね……ふふ、気にしていないわ」

 そう答えると、彼女はぱっと顔を上げた。せわしないその動きに、やんちゃな子猫を思い出す。

「あなたのおかげで、晴臣様はわたしを見つけることができたのよ。あなたがいなければ、晴臣様は今も、あてもなく帝都をさまよっていたでしょう」

「そう言ってもらえると、たいへん助かります。あの、ところで……」

 無邪気な顔と大人びた口調がちぐはぐで、愛らしい。

「……晴臣様はどうして、紅子様を探されていたのですか?」

 好奇心に目をきらきらさせて、ミヨちゃんは身を乗り出してくる。さて、どう答えたものか。まさかずっとずっと前、わたしたちは主従だったのだと、そんなことを言うわけにもいかないし。

「……内緒よ。晴臣様なら、教えてくれるかもしれないわ」

 面倒なので、晴臣に全部放り投げることにした。こういった言い訳を考えるのは、たぶん彼のほうが得意だろうし。

「僕を呼んだか?」

 とたん、入り口のふすまががらりと開いて、晴臣が顔をのぞかせた。

「あ、晴臣様!」

「ミヨが屋敷に来ていると聞いたのに、一向に僕のところにやってこない。どうしたのかと思って探してみれば、こんなところにいたとは……」

「紅子様に謝罪しにきていたんです。貸本屋で見かけたことを、勝手に喋ってしまってすみません、って」

「そうか。だが、許してもらえたのだろう?」

「はい! 紅子様はとてもお優しい方ですね。私、紅子様が晴臣様の婚約者になられてよかったって、そう思います」

 はきはきとそんなことを言うミヨちゃんに、晴臣はきゅっと目を細めてこたえる。

「ありがとう。君に祝福してもらえて嬉しい。紅子のことを気に入ってもらえたことも」

「あの、ミヨちゃん、晴臣様」

 放っておいたらこの二人はいつまでもわたしのことを話していそうだという予感がしたので、少々強引に割り込む。

「せっかく来たのだから、晴臣様から本を借りていってはどうかしら?」

 そうやって話をそらそうとしたのだけれど、それを聞いた晴臣が、ふと何かを思いついたような顔になった。

「……そうだ。ミヨ、ひとつ頼まれてくれ」



「あれ、晴臣様と紅子様、仲良くお出かけですか? 矢野のおっちゃんを呼びましょうか?」

 母屋の廊下を連れ立って歩くわたしたちに、仕事中の文子さんが声をかけてきた。すると、背後から明るい声が返ってくる。

「ううん、今日は貸本屋に行くだけですから! 私がおふたりを案内するんです!」

 そう言って、晴臣の背後からミヨちゃんがひょっこりと顔を出した。それを見た文子さんが、妙にかしこまった表情になる。

「あ、ミヨちゃん。……おふたりの邪魔はしちゃだめだからね?」

「もちろんですよ、文子さん。ところで文子さん、あっちでメイド長さんが呼んでるみたいですよ?」

「いけない、この荷物、運んでる途中だったんだ! それでは失礼しますね!」

 そう言ってぱたぱたと走り去っていく文子さんを、ミヨちゃんは笑顔で見送っている。どうやらミヨちゃんは、晴臣だけでなく文子さんとも仲がいいらしい。

 ミヨちゃんは物おじしない子猫のような少女だから、みんなに好かれているのだろう。その気持ちはよく分かる。

 わたしも彼女と知り合って間もないけれど、彼女のことは愛らしいと思っているから。

 ……しかし十八歳の文子さんより、十二歳のミヨちゃんのほうが落ち着きがあるというのも、妙な話だ。このあたりは、さすが矢野さんの娘……ということなのだろうか。

 そのまま三人一緒に屋敷を出たところで、ミヨちゃんが先頭に躍り出る。くるりとこちらに振り返って、張り切った声で言った。

「それではここからは、私がご案内しますね! こちらです!」

 晴臣はミヨちゃんに、こう頼んだのだ。「君と紅子が出会ったという貸本屋に、僕も足を運んでみたい」と。

 わたしとしても、異論はなかった。帝都のどこかに、前世の記憶を取り戻すきっかけになるものがないとも限らないから、できるだけあちこちを見て回りたい。

 いつか、前世のことについて晴臣が話してくれるかもしれない。それまでは、少しずつ地道に動いていこう。そう決めた。

 張りきった足取りで大通りを進むミヨちゃんの背中を見ながら、隣の晴臣に小声でささやきかける。ミヨちゃんに聞こえないように、注意して。

「……ところで、貸本屋だなんて……どうしてわざわざ、そんなところに行きたがるの?」

「ただの感傷ですよ。貴女が僕のもとに来てくれた、そのきっかけをくれた場所を見てみたい、ただそれだけです」

「晴臣様、紅子様、ここの角、曲がりますよ!」

 ミヨちゃんは元気よく、わたしと晴臣を案内していく。大通りを延々と東に歩いていくと、やがて見覚えのある辺りに出た。東藤(とうどう)の屋敷からはかなり離れているけれど、一度だけ頑張って、ここまで歩いてきたことがあるのだ。

「ここは来たことがあるわ。確か、そこの路地に入って……三つ先の角ね」

「はい紅子様、そのとおりです!」

 細い路地の入り口に向かいながら、晴臣が小声でつぶやく。

「……僕も、この辺りには何度か来ていたんです。どうしてそのとき、貴女に巡り合えなかったのか……悔しいな」

「気を落とさないで。わたしがここに来たのは、一度きりだから……むしろ、ここからよくわたしのところにたどり着けたわねって、驚いているのよ」

「古本屋の周囲の住民たちに片っ端から話を聞いて、それらしい人物が出歩いている区画を探したんですよ。矢野が、とても役に立ってくれました」

 かつて矢野さんが打ち明け話をしてくれたときの、彼のまなざしを思い出す。晴臣がずっと探しものをしていることを、彼はとても心配していた。その手掛かりがようやく得られたかもしれないと知って、彼も張り切ったのだろう。

「……矢野さんには、あとでお礼を言っておいたほうがよさそうね」

 こそこそとお喋りしていたら、ずっと前のほうから声がした。

「おふたりとも、早く!」

 いつの間にかミヨちゃんは、目的の店の前までたどり着いてしまっていた。ぴょんぴょん元気に跳ねながら、こちらに手を振っている。

「ああ、今行く」

 ミヨちゃんのところに歩み寄り、彼女が指し示している建物を見上げた。

 周囲のものよりも明らかに古い木造の建物が、静かにたたずんでいた。壁も柱も黒ずんでいるのが、どことなく夜の闇を思わせる。

「『貸本屋 星辰庵(せいしんあん)』……しゃれた名前だな」

 軒に掲げられた看板を見て、晴臣が微笑んでいる。それから三人一緒に、店に入っていった。