満月狐に想われて

 わたしの手を取ったまま晴臣(はるおみ)がささやいた言葉に、ぽかんとしてしまう。噂を真実にする……って、まさか。

「あの、それはもしかして……」

「はい。紅子(べにこ)様、どうか僕と婚約してはいただけませんか」

 あまりにもまっすぐな言葉に、考えるより先に否定の言葉が飛び出してくる。

「で、でも私は、士族の生まれではあるけれど、家族からは見捨てられていたし……男爵家の嫁としてふさわしいとはいえないわ。あなたの両親が、なんて言うか」

「両親は気にしませんよ。『相手の出自なんてどうでもいい、お前が心から大切に思えるお嬢さんを探しておいで』と普段から言ってくれていますから」

 そういえば、彼の両親は変わり者だった。となると、どうやって晴臣を思いとどまらせたものか……。

「それにあなたは、元々わたしの式神で、子狐で、だから」

「さっきも言ったでしょう? 僕の思いは、あのころから変わっていないのだと」

 しかし彼は、まるでわたしをなだめるかのような態度で穏やかに言った。

「まだ子狐だったころから、僕は貴女の力になることだけを願っていた。……あのころはあまりに非力でしたが」

 そう語る彼の目が、ふっとくもる。満月に黒雲がかかったかのように、その金色がくすんでしまった。

 けれどまたすぐに、彼は顔を上げ、澄んだ目でわたしを見つめてくる。

「僕は、貴女を助けたい。ようやく、貴女を守るための力を手にできた。そして、貴女に再会できた」

 とても懸命に、必死に、彼は食い下がってくる。その熱意に、たじろいでしまうくらいに。

「どうか、これからはずっと、貴女を守らせてください。……もう、後悔はしたくないんです」

 突然のことに何も言えずにいると、彼はまたうつむいて、消え入るような声で続けた。

「あ、ですが、その……もしかして、貴女には既に、思い人がいるのでしょうか……だとしたら、無理強いはしませんが……」

 彼はそっと視線だけを上げて、上目遣いにわたしを見た。その切なげなまなざしに、心臓がことんと跳ねるのを感じる。

 再会してから、彼はいろんな顔を見せていた。子狐の山吹(やまぶき)を思わせる無邪気で礼儀正しい顔、男爵家の当主としての凛とした顔。そして、今見せている乙女のような顔。

 その全てが、不思議とわたしの目を引いていた。彼のしぐさのひとつひとつが、気になってしまっていた。そんなことを、今になって自覚する。

 少し考えて、そろそろと言葉を紡いだ。

「……いないわ。そもそも男性と親しく話したことすら、ろくにないの」

 東藤(とうどう)の屋敷で言葉を交わすのは、千代と吉野と女中たちくらいのものだった。屋敷の外では、できるだけ人と目を合わせないように気をつけていた。

「で、でもね、わたしにとってあなたは、あくまでも小さな山吹だから……婚約だなんだと言っても、いまいち実感がないの」

 すると、晴臣がふっと真顔になった。

「本当に、そう思っておられるのですか?」

「ええ」

 ためらうことなく答えたとたん、彼がいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「けれど先ほど、『年頃の男女』とおっしゃっておられましたよね。あのときのあわてた様子、かわいらしかったですよ」

「あれは、麗しいとかなんとか、あなたが妙なことを言い出したからよ!」

「でもあなたは、僕のことをひとりの男性として多少は意識してくださった。そういうことでしょう?」

 彼の声には、確信めいたものがあった。そしてわたしは、その言葉を否定することができなかった。要するに、図星だった。

 どうしようもなくて黙りこくっていたら、彼はにぎりしめたままのわたしの手をそっと持ち上げて、手の甲にそっと唇を落とした。

「なっ!! 何、今の!?」

 柔らかな感触に、背筋がぞわりとする。嫌悪感ではないけれど……とにかく、言いようもなくそわそわする。

 わたしのそんな反応がおかしかったのか、晴臣はにこりと微笑んだ。

「西洋式の、ちょっとしたあいさつですよ。どうぞこれからよろしくお願いします、との思いをこめてみました」

「……よろしく、って……わたし、話を受けるともなんとも、答えていないのだけれど……」

「駄目なのですか?」

「…………それは……」

 口ごもりつつ、考える。

 晴臣は、わたしのことを大切にしてくれる。ここでならきっと、わたしは幸せになれる。

 それに、かすかに思い出した前世の記憶、あの謎を解くためには、彼の近くにいたほうがいい。そういう意味では、彼の申し出は、願ってもないものなのかもしれない。

 けれどそのために、彼の未来を縛ってしまっていいものか。彼はわたしのことを守るのだとやけに意気込んでいるけれど、守るだけなら婚約などする必要はないのだし。

「紅子様、聞いてもらいたいことがあるのです」

 迷っているわたしの耳に、晴臣の弱々しい声が忍び寄る。はっと顔を上げると、彼は泣きそうな目で見つめてきた。

「僕は人として何度も生まれ変わりながら、ひたすらに貴女を探し続けていました。貴女の面影だけを胸に抱いて」

 わたしの手を握る彼の手に、力がこもる。

「……そうして、ようやく貴女を見つけられたのはいいのですが……それからずっと、胸の高鳴りが収まらないんです」

 やけに切なげな目で、晴臣はわたしを見つめてくる。少しあごを引いた上目遣いが、どうしようもなくなまめかしい。

「貴女のそばにいたい。貴女に触れていたい。貴女だけを見つめていたい。そんな言葉ばかりが、頭の中でぐるぐると回っているんです」

 まるで口説き文句のような言葉の数々に、かあっと頬が熱くなる。

「これって、恋……で合っていますよね?」

「わ、わたしに聞かれても、分からないから!」

「ふふ、照れている貴女もたいそうかわいらしい」

「照れているのではなくて、とまどっているだけよ!」

 あまりのことに、声が上ずってしまう。晴臣がまた、くすりと笑った。

「そういったわけですので、貴女に断られてしまったら、僕は失恋してしまうんです。どうか、僕を助けると思って……その、まずは形だけでも、いいので……」

「だったら……その……ひとまず、よろしく……」

 ぼそぼそとつぶやいたとたん、彼がぱあっと顔を輝かせた。感嘆のため息をついて、今度は両手でわたしの手をしっかりと握った。

「それでは、さっそく準備に取りかかりましょう」

「準備? 何の?」

「もちろん、貴女のご実家にごあいさつに行くんですよ」

 すると晴臣は、にっこりと笑ってそう言った。……目が笑っていない。

「ええと、その、手紙のひとつも出しておけば、それで済むから……」

 わたしが東藤(とうどう)の家でどんな立場にあるかについては、まだ晴臣には話していない。彼に再会してからいろんなことがあり過ぎて、話す機会を見つけられずにいたのだ。

 けれどわたしの言葉の端々から、彼はおおよその事情をかぎとっていたのだろう。彼の笑みは、さっきまでのふわふわした笑みとは違う、ずっと剣呑なものだった。

「ねえ、何かたくらんでるの?」

「いいえ、そのままの意味ですよ?」

 明らかに何かたくらんでいる顔で、彼は悠々とそう言ってのけた。

「準備って、何をするつもりなの?」

「内緒です」

 いくら聞いても、晴臣は教えてくれなかった。ただ満足そうな顔で笑うばかりで。



 そして、次の日の朝。

「みなに報告しておきたいことがある。僕は彼女と、正式に婚約することにした」

 晴臣は使用人たち全員を集めて、晴れやかにそう宣言したのだった。矢野さんはにこにこしていて、文子さんは飛び跳ねんばかりに喜んでいた。

 他の使用人たちも、ほっとしたように微笑んでいた。その様子からすると、どうやらみんな、晴臣の嫁取りについてずっと心配していたようだった。

 ……ただ、わたしの素性について、晴臣はみんなに明かさなかった。それなのに、みんなはわたしをあっさりと受け入れている。

 この屋敷、当主とその両親だけでなく、使用人たちもちょっと変わっている……というか、度胸があるのかもしれない。

 そんなことをこっそりと思いながら、晴臣の隣にじっとたたずむ。自然と、口元に笑みが浮かぶのを感じていた。