「嘘だろう……。試合一か月前だっていうのに……」
俺の名前は瀬戸紬、高校三年生。柔道部の部長だ。
我が月守高校の柔道部は部員が少ないため、廃部寸前である。今年新入生が一人入ってくれたから、なんとか団体戦は組むことができるようになったけれど、俺たち三年生が引退したら、部員は三人になってしまう。
しかも今、まさにバッドニュースが飛び込んできた。
俺と同じ三年で副部長である萩原が、車との接触事故で骨折してしまったというのだ。幸い萩原の怪我は大したことがなかったから、そのことには胸を撫で下ろした。
しかし、萩原が試合に出られないとなると団体戦が四人になり、萩原の番は不戦敗となって、試合の前から一敗を背負ってしまうこととなる。団体戦においては二回分の負けならセーフというところを、一敗しか余裕がないのは部員にとっても大きなプレッシャーだ。
それに今度の試合が俺たち三年生にとって最後の試合となる。
月守高校の柔道部は人数こそはぎりぎりだが、個々の力は確かである。オールメンバーで団体戦に出ることができれば、きっと安定していいところまでいけるはずなのに……。
個人戦もあるけれど、部の仲間が一丸となって挑む団体戦は、やはり一味も二味も違ってくる。
そう思うと悔しくて仕方がない。
柔道部の顧問は「仕方がない。萩原抜きでやろう」と言っているが、俺は諦めることができない。なんとか県大会を突破できれば、その先の関東大会では萩原の回復が間に合う可能性だってある。
試合まであと一か月。どうにか不戦敗は逃れたい。
「先生。俺が柔道経験者を探します」
それを聞いた顧問は驚いたように目を開く。それはそうだ。今から柔道経験者を探すことは困難を極めるだろう。
体育の授業で柔道を経験した、という生徒はいるかもしれないが、試合で即戦力となると見つからないかもしれない。
でも俺は諦めたくなかった。
「必ず柔道経験者を探して見せます」
俺はグッと拳を強く握り締める。それから覚悟を決めて宣言したのだった。
「とは言ったけどなぁ……」
柔道場から校庭を眺める。校庭では、野球部にサッカー部、陸上部が部活をしている。どの部活も、みんな一生懸命に練習を頑張っているようだ。
月守高校の柔道部だって、俺が入部したての時はまずまず部員数がいた。柔道場も試合会場が二面あるような立派なものだ。きっと昔は大勢の柔道部員で切磋琢磨していたのだろう。
しかし、田舎にある月守高校は過疎化の影響で子ども自体が少ない。更に在学している学生は、部活を一生懸命にやっている生徒と、部活をしていない生徒の温度差が物凄い。だから、帰宅部が多いのも事実だ。
「どっかに柔道経験者はいないかなぁ……」
ポツリと呟いて今度は校舎に視線を移す。すると、すぐ目の前の一階にある空き教室で、活動している部が目に飛び込んでくる。俺はその部活に冷ややかな視線を送った。
その部活は『漫画・アニメ研究部』。通称マメ部。いわゆるオタクの集まりだ。いかにもオタク……という雰囲気の生徒が、ワイワイと談笑している。中には漫画を描いている生徒もいるようだ。
マメ部は他の生徒たちからは「キモイ」と嫌煙されがちだが、案外部員は多い。俺たち柔道部に比べたら、明らかに活気づいている。
部員同士の会話が弾んでいるようで、笑い声が静かな校舎内に響き渡る。
誰になんと馬鹿にされようが構わない。彼らはそう言っているようだ。
「なんやかんやで楽しそうだけど、あそこに柔道経験者はいないよなぁ」
俺はマメ部を眺めながら、大きく息を吐いたのだった。
萩原が事故にあった翌日、部活が終わり帰ろうとした時──。
萩原から俺のスマホに着信があった。萩原は泣きながら何度も「ごめん」と繰り返す。事故にあったのは彼のせいではないし、萩原だって高校最後の試合をこんな形で終わらせることになるなんて無念だろう。
明日手術を控えているというこの時に、俺と柔道部のことを気遣い連絡をしてきてくれたのだ。
『俺だって、最後の試合を萩原と一緒に出場したかったよ』
そう出かかった言葉をグッと呑み込む。きっと俺がこの言葉を言ったら、萩原は今以上に自分を責めてしまうことだろう。
泣きながら「ごめんな」と繰り返す萩原の声を聞いているうちに、「たとえ不戦敗だとしても、残りの四人で頑張ろう」という前向きな思いが出てきた。
「あとさ……」
「ん?」
「お大事にな」と電話を切ろうとした俺を萩原の声が引き留めた。
「俺たちが通っている高校の二年に、久世蓮っていう同じ中学だった奴がいるんだけど。そいつ柔道がめちゃくちゃ強いから、もしかしたら声をかけてみたらどうかな?」
「……久世、蓮?」
俺は聞いたことのない名前に思わず首を傾げる。
でも確か中学の時、「一つ下に柔道が強い奴がいて、全国大会にも出場したことがある」という噂を聞いたことがある。たしかそいつの名前が久世だったような……。
「久世はガタイもいいし、力も強い。きっと役にたってくれるはずだ。だから紬から声をかけてみたらどうかな?」
「でも、そんなに凄い選手が、今は何をしているんだ? どこかの道場で練習してるとか? 違う運動部で活躍してるとか?」
「それがさ……。あいつ今は運動部じゃないんだよね」
「え? なんで? もったいないじゃん」
「そうなんだけど。あいつは……」
「はぁ? マジで?」
俺は萩原の言葉に、持っていたスマホを思わず落としそうになってしまう。なぜなら今、久世は柔道をやっていないらしい。萩原によると……。
「久世は今、マメ部に所属してるんだよ」
「はぁ⁉ 柔道全国区レベルの選手がマメ部に……?」
「あぁ。あいつ、中学の頃からアニメと漫画オタクだったからさ。高校に行ったらマメ部に入るんだ、って宣言してたんだ」
「それは、もったいないな……」
「だろう? だから久世に声をかけてみろよ。俺からも連絡入れとくし。紬相手なら、二つ返事でOK出してくれると思うんだ」
「わかった。ありがとう」
萩原に「お大事に」と言って電話を切る。
それから一気に力が抜けてしまった俺は、その場にしゃがみ込んだ。
「まさか全国区のレベルの選手がマメ部にいるなんて思わないだろう……」
俺は頭を抱え込む。
柔道場からマメ部の部室がよく見える。いつも「オタクがいっぱいいるなぁ」くらいにしか思っていなかったけれど、まさかそこに柔道経験者がいたとは……。
そう言われてみたら、やけにガタイのいい生徒が一人混じっていた気がする。もしかしたら彼が久世だろうか? 灯台下暗し、とはこういうことを言うのだろう。
「久世かぁ……」
俺は駅に向かいながらポツリと呟く。
もし、全国区の選手が柔道部のピンチヒッターになってくれたら、どんなにも心強いことだろうか。俺の萎んでいた心が、再び元気になっていくのを感じる。
「よし、明日マメ部に行ってみよう」
俺は駅に向かい勢いよく走りだし、家路についたのだった。
***
翌日、部活が始まる前にマメ部の部室に顔を出す。
マメ部の部室は、以前美術部が使っていたようだが、美術部が廃部になってからは、マメ部が活動場所に使っているらしい。
マメ部の部室を覗き込むと、俺が想像していた以上の生徒が教室内にいる。
楽しそうに推しとやらの話をする生徒に、漫画を描いている生徒、真剣な顔でパソコンの画面を見つめている生徒もいる。そこは、俺が今まで体験したことのないような不思議な空間だった。
「あ、室井。ちょっとちょっと……」
「あら、瀬戸君。どうしたの?」
「いいからちょっと来てくれない?」
俺は同じ学年の室井に向かい手招きする。室井はオタクではあるけれど明るくて、とても話しやすい。彼女くらいしかマメ部に知り合いがいなかったから、こうして室井を呼び出したのだ。
「瀬戸君がマメ部に来るなんて珍しいね」
「うん、ちょっとね……」
俺はそう言いながら、マメ部の部室内を彼女の肩越しに眺める。やっぱり異様と感じられてしまう雰囲気に、俺は尻込みしてしまった。
(でもここに、柔道部の救世主がいるんだ)
そう思えば、床を踏みしめる足に力が籠る。
「あのさ、ここに久世って奴いない? 多分俺たちの一つ下の学年だと思うんだけど」
「あぁ、久世君? いるわよ。ほら、あそこでゲーム作ってる子がいるでしょ? あれが久世君」
「ゲームを作る?」
「そう。彼はゲームを作ることが得意なのよ」
「へぇ……」
教室内を見渡すと「あ、あれが久世だ」と一目でわかるほど、ガタイのいい青年が、夢中でパソコンの操作をしている。
「久世君に用事があるなら呼んでこようか?」
「あ、うん。お願い」
「わかった。ちょっと待っててね」
そう言うと室井が「久世君」と名前を呼びながら久世に近づいて行く。
(久世は快く、柔道部のピンチヒッターに来てくれるだろうか?)
俺の心の中に、期待と不安が大波のように襲い掛かってきた。
少しすると、久世が「なんすか?」と廊下に出てくる。廊下に出てきた彼の顔は、ひどく緊張しているようにも、怒っているようにも見える。人見知りなのだろうか? それが久世の第一印象だった。
「あ、うん。忙しいところごめんね」
久世が俺の目の前に立ちはだかると、想像以上の体格の良さに一瞬言葉を失ってしまう。
制服越しでも隠し切れない筋骨隆々とした体躯。身長も恐らく百八十センチ以上はあるだろう。
黒髪の奥で、全てを見透かすような鋭い瞳が静かに光っている。一見すると近寄りがたいほどの威圧感を纏っているけれど、ふとした瞬間にその視線が俺へと向くとき、そこにはまるで凪のような静けさが宿っていた。
愛想が悪く、社交辞令で笑顔を作るタイプではないようだ。俺を見てもニコリともしない。
(こいつはできる)
きっとこれは柔道経験者だからわかることだろう。久世には全く隙がない。
俺が今不意打ちで掴みかかったとしても、きっと返り討ちに合ってしまうことだろう。
俺は久世のように、身長が高くてガタイがいいわけではないけれど、筋肉はそこそこついている。素早い動きで相手を翻弄し、最後は得意の背負い投げで勝負を決める。何より俺も関東大会だって経験している。そんな俺が、圧倒されるオーラを久世は持っていた。
「こいつがマメ部だって? もったいねぇ」
正直なところ、こんな奴が漫画・アニメオタクだなんて想像できない。
大きく息を吐いてから、久世と真正面から向きあった。
「あのさ、久世君」
「……クゼクン」
久世は噛み締めるように呟く。無表情ではあるが、心なしか頬に赤みが差している。普通に呼んだつもりだったが、気に障っただろうか?
俺が内心ドキドキしていると、久世は落ち着き払って口を開いた。
「久世って呼び捨てでいいです。俺のほうが年下ですから」
「わ、わかった。久世、今日は君にお願いがあって来たんだ」
ひとまずは安心するが、久世は表情がない分、何を思っているか読み取れない。
初対面ではあるし、頼み事をする立場だ。できるだけ印象は良くしたい。ここは慎重にいかなければ。
「久世、今日は君に頼みごとがあってきたんだ」
「はい。昨日萩原先輩から連絡がきました。あなたが瀬戸先輩ですよね?」
「あ、うんそうだけど……。と、とりあえず、萩原が怪我をしてしまったから団体戦の欠員が出ちゃったんだ。頼む。柔道部にピンチヒッターで来てほしいんだ」
「柔道ですか……。もう一年近くやってないなぁ」
そういいながら久世が不安そうに目を伏せる。
そんな久世を見て俺はびっくりしてしまう。ふと視線を上げた先にいたのは、制服のシャツ越しでもわかるほど逞しい体つきをしていた彼だった。目を伏せて思い悩む久世は、男の俺が見ても思わしげで。制服のシャツ越しでもわかるほどの逞しい体つきも相まって、雑誌のモデルのようだ。
(待ってよ。久世ってこんなにもイケメンだったのか?)
長い黒髪が柔らかな影を落とし、切れ長の瞳が射抜くようにこちらを見つめる。まるで俺の全身を頭の先からつま先まで舐めるように這う視線に顔が熱くなる。
思わず息を呑むような迫力と、そこから目が離せなくなるような繊細さが同居して、俺は一瞬言葉を失ってしまった。
久世はしばらく顎に手を当てながら、何かを考えこんでいる。それから覚悟を決めたかのように俺の瞳を見つめた。
この胸のドキドキは、ピンチヒッターになってくれるか不安なだけで、けっして女子のようなあれでは、ない。
「わかりました。今度の試合だけピンチヒッターで柔道部に行きます」
「よかった……。じゃあ、萩原の代わりに試合に出てくれるんだな?」
「はい。ただ俺がピンチヒッターに行くには交換条件があります」
「交換条件だって?」
俺はその言葉に眉を顰める。
まさか金品でも奪おうとしているのでは……。
「一体何を考えてるんだ?」と口を開こうとした瞬間、俺は更に驚いてしまい、開いた口が閉じなくなってしまった。
「瀬戸先輩、アニメ『クリスタル・アクト』の主人公、ハルトのコスプレをしてもらえませんか?」
「はい?」
「だから、俺が柔道部に行く代わりに、ハルトのコスプレをしてもらいたいんです」
「……コスプレ……。く、久世、お前本気か?」
「はい。大真面目です」
俺は自分に真剣な眼差しを向ける久世を見て、絶句してしまう。
『クリスタル・アクト』とは、今大人気のアニメのことで、最近映画が公開されたばかりだ。
確か工業高校に在籍しているハルトが主人公で、交通事故で亡くなってしまい、ある国の第一王子として転生した。彼が転生したのは戦争が盛んな中世ヨーロッパ。そして、ハルトは最新の技術を使い敵軍を次々に倒していく話だとニュースで取り上げられていた。
(今流行りの転生ものか……)
しかし漫画やアニメに興味のない俺には、そのアニメの詳しい内容まではわからない。
(コスプレって、何を着ればいいんだ?)
ふと不安になってしまった。
「もし県大会の団体戦で優勝できなければ、ハルトの制服姿のコスプレ。もし、団体戦で優勝できた場合は……」
「……場合は?」
俺はゴクリと息を呑む。鼓動が早まり、なんだか息苦しくなってくる。
久世は一体俺にどんなコスプレをさせたいというのだろうか?
「もし優勝したら、王子のコスプレをしてください」
「王子のコスプレだって?」
「はい」
俺はなんと言葉を発したらいいかわからなくなってしまう。大体、中世ヨーロッパの王子ってどんな格好をしているんだ……。それに、俺にそんな恰好をさせてどうするっていうんだ? 笑いものにでもする気か? そんなに「久世君」って呼んだのが悪かったのか……? 考えれば考えるほど、不安はどんどん膨らんでいってしまう。
そんな俺を見た久世が、俺の前に自分のスマホを差し出す。
差し出されたスマホの画面には、中世の王族の衣装を纏ったハルトが映っていた。色素の薄い髪が優雅に揺れ、円らな瞳でハルトが俺を見つめている。
それはイラストだったけれど、その凛々しい姿に、心臓が大きく跳ねた。ここは、マメ部の入り口なのに、俺の感覚だけが遠い異国へと迷い込んだみたいだった。
それに、確かに感じた違和感……。その正体に、俺は早くも気付いてしまう。
「なぁ。ハルトって、俺に似てないか?」
「はい、そうなんです。瀬戸先輩はハルトにそっくりなんです」
久世のスマホの中にいる少年は茶色の髪に、幼い顔立ち。そして真ん丸な瞳。
そう思って見ると、ハルトはまるで自分の生き写しのようだ。
「瀬戸先輩は俺のことを知らなかったでしょうけど、俺は瀬戸先輩のことを以前から知ってましたよ?」
「え?」
「ハルトにそっくりだな……って、ずっと見てましたから」
「そ、そうなの⁉」
「だから瀬戸先輩のお役に立てて、俺は嬉しいです」
「そりゃあ、どうも……」
俺は心の中で葛藤してしまう。今になって萩原の「紬なら二つ返事で受けてくれると思うよ」という言葉の意味がわかった気がする。
ハルトが着ていた制服を着るくらいならいいが、王子の衣装は……。自分があの衣装を着たら、七五三のようになるのではないか? と不安になってくる。
「でもたかがアニメだろう? なにもそこまでしなくても……」
「たかがアニメ、ですって?」
「……え?」
俺は明らかに久世の地雷を踏んでしまったことを肌で感じる。彼の表情が見る見るうちに強張っていくのがわかった。
「瀬戸先輩、あなたは全くわかっていない! クリスタル・アートはただのアニメじゃないんです! いいですか? あのアニメの主人公ハルトは、俺たちと同じ高校生なんです! それなのに不慮の事故で亡くなって……。そんなハルトの気持ちがわかりますか⁉ それに転生したハルトは……」
先ほどまで無表情だった久世が、堰を切ったようにクリスタル・アートについて熱弁を始める。俺はその変わりように、茫然と彼を見つめた。
「だから、俺は心の底から瀬戸先輩にハルトのコスプレをしてほしいんです!」
「そ、そっか……」
ひとしきり話し終えた久世が、確認するかのように俺を真正面から見つめてくる。
その眼差しに、いかに彼が真剣であるかが伝わってきた。
もう、悩んでいる時間なんてない。
高校生活最後の大会はすぐそこまで迫ってきている。しかも、今目の前にいるのは、全国レベルの力を持った柔道家だ。迷う必要なんてないだろう。
(もう、俺は開き直ったぞ)
俺の中で、何かがプツンと音を立てて切れたのを感じる。
試合に勝てるのであれば。制服でも王子の衣装でも何でも着ようではないか?
「わかった。コスプレするって約束する!」
「写真を撮ってもいいですか?」
「うッ。写真かぁ……」
「写真が駄目ならこの話は……」
「わかった! わかったから写真でも何でも撮れよ!」
「じゃあ、交渉成立ですね。通販で洋服を買っておきます」
「あ、あぁ。よろしく頼む」
俺は嬉しそうに頬を赤らめる久世と、熱い握手を交わした。
(やっちゃったかな……)
という後悔と、羞恥心を感じながら……。
(それにしても、こいつ無表情だし突発なことを言い出すし、何を考えているかもわからない。不気味な奴だ)
俺と久世の出会いは、お世辞にもいいと言えるものではなかった。
***
「失礼します」
「あ、久世! よく来てくれたね」
「はい」
翌日の放課後、久世は約束通り柔道場へとやって来る。
俺はすでに柔道着に着替え、ストレッチをしている途中だった。無表情でやって来た久世を俺は笑顔で出迎えようと彼に近寄った瞬間、その場の空気が一変したような気がする。空気がピンと張り詰め、背筋が伸びる思いがしたのだ。
一、二年の後輩は「あの久世さんだ」と目をキラキラと輝かせている。彼らにとって久世は憧れの存在なのだろう。
久世は俺を見ると「お世話になります」と深々と頭を下げた。その礼儀正しさに、俺は感心してしまう。
「こちらこそ。無理を言って悪いな」
「いえ。きちんと約束を守っていただければ、こちらは問題ありません」
「あははは……。そうだよな。約束だもんな」
「はい」
久世の言葉に思わず顔が引き攣ってしまう。
願わくは冗談であってほしいと思っていたのだが……。どうやら彼は真剣らしい。俺は肩を落とし大きく息を吐く。
「じゃあこの柔道着に着替えてくれるかな? 卒業した先輩が置いていってくれた物なんだけど」
「それには心配及びません。兄の柔道着があったので持ってきました。兄はこの高校の柔道部のOBなんです」
「へぇ。知らなかった」
そう言うと久世はスポーツバッグの中から柔道着を取り出す。背中には『月守高校 久世』というゼッケンがついていた。
そしてそのスポーツバックをよく見てみると、クリスタル・アートのキャラクターだろうか? キーホルダーがいくつかついているし、持っているタオルにはハルトのイラストが描かれている。
(やっぱりこいつオタクなんだなぁ)
柔道全国区の選手と、アニメオタク。
なんとなく違うカテゴリーのものに感じられるけれど、久世は本気でクリスタル・アートを推しているらしい。
「うちは部員数も少なくてマネージャーもいないんだ。だからマネージャーの仕事も自分たちでやっている」
「はい」
「じゃあ、あそこが部室だから着替えたらまたここに来てもらえるかな?」
「わかりました」
「じゃあ、よろしく」
「うっす」
久世はそう言い残すと部室へと向かって行く。彼は無口で、愛想笑いをしたり、お世辞を言ったりもしない。だから、久世と話す時は少しだけ緊張をする。
「よし、頑張るぞ」
俺は大きく伸びをしながら久世を見送った。
急なピンチヒッターとして道場に現れた久世は、さすがに全国区という貫禄だった。
真っ白な柔道着を纏っただけで周囲の空気が張り詰め、立ち姿から指の先まで、彼が背負ってきた膨大な練習量が立ち昇るようだ。彼がそこにいるだけで、道場全体が引き締まった静寂に包まれた気がする。
恐らく柔道をやめてからも筋トレは続けていたのだろう。鍛え上げられた筋肉に、思わず視線を奪われる。
柔道着を纏った久世は、思わず見惚れてしまうほどの凛々しさだった。
(こいつ、やっぱりイケメンだなぁ)
俺は惚れ惚れと久世を見つめる。
「よろしくお願いします」
黒帯をギュッと結びながら、久世はもう一度深々と頭を下げる。
頭を下げるのはこっちなのに……と、困惑してしまうほどの礼儀正しさだ。
「こちらこそよろしくお願いします」
俺も久世に習い、深々と頭を垂れたのだった。
それから一、二年生も集合したところで、久世を紹介した。
俺たちが狙うのは団体戦で県大会優勝。
団体戦優勝は一年からの俺の夢だった。勿論個人戦も大事だけれど、せっかく仲間がいるのであれば団体戦でもいい成績を残したい。そう思っているのだ。
「今日から久世が応援にきてくれた。でも久世が入ってくれたところで、他が負けたら意味がない。だから俺たちも頑張ろう!」
「はい!」
柔道場に響き渡る声。マメ部とはまた違うけれど、俺はこんな風に凛とした活気のある柔道部が大好きだ。
例えハルトのコスプレをすることになっても構わない。喜んで着てやろうではないか! と俺のテンションも上がっていく。
準備体操にストレッチ。回転運動に受け身の練習。久世は息を切らすこともなく、涼しい顔をして黙々と練習をこなしていく。
「じゃあ、打ち込みやるぞ。整列しろ!」
俺が号令をかけると部員たちが一斉に移動する。そして俺の目の前には久世が──。
(お手並み拝見といくか)
俺は目の前にいる久世に一礼をする。
「久世という凄く強い奴がいる」という噂は聞いたことがあるが、彼とは今まであまり接点がなかった。だからどれほど強いのかが俺には未知数だ。
とは言っても、俺だって自分がいる階級では県大会で優勝できるほどの実力を持っている。だから歯もたたない、ということはないだろうと考えていた。
「打ち込みはじめ!」
俺の掛け声と共に、部員たちが各々の得意な技で打ち込みを始める。とりあえず俺は久世に向かい「先に打ち込んでいいぞ」と右手を掲げ、腰を落として態勢を整える。
「お願いします」
そう言いながら久世が俺の柔道着に手を掛けた瞬間、「こいつ、できる」。俺は咄嗟にそう感じた。
久世と打ち込みを始めた瞬間、想像を遥かに超える力強さに言葉を失った。
引き寄せられる度に足元が揺らぐような密度と、空気を震わせる鋭い気迫。目の前の彼が放つ強さは、俺が抱えていた日々の重さを一瞬で忘れさせるほど、鮮烈で圧倒的だった。
まるで津波のように押し寄せてくるのに、その動きは獅子のように素早い。俺は想像以上の久世の腕前に度肝を抜かれた。
たったそれだけで、久世がどんなに柔道が強いのかがわかってしまった。
しかし、久世は過去の栄光や、いかに自分が柔道を頑張ってきたかをひけらかすこともなく、淡々と練習に取り組んでいる。
普通だったら「自分は全国区レベルの選手だ」と自慢の一つもしたくなるだろうに。そう考えると久世は謙虚な性格の持ち主とも言っていいだろう。
俺はそんな久世に段々興味を持ち始めていた。
(あいつが本気を出したらどんなに強いのだろう)
久世と同学年、年下の部員たちは完全に歯が立たなそうだ。
でも俺ならば……。
好奇心がむくむくと芽を出した俺は、久世の肩を叩いた。
「なぁ、俺と乱取りしようぜ? それとも、まだウォーミングアップが必要か?」
「あ、いえ」
久世が気まずそうに目を伏せたから、俺は慌てて言葉を付け足す。
「別に無理じゃないんだ。久世まで怪我をしたら大変だし!」
「そうじゃなくて……。ハルトと対戦ができるなんて光栄だなって……」
「へ?」
頬をうっすらと赤らめ俯く姿は、まるで恋する少女だ。
彼はアニメのキャラクター、しかも男相手に本気で恋をしているのだろうか……。
「と、とりあえず乱取りしてもらえるかな?」
「……わかりました」
照れ臭そうに鼻の頭を掻く久世を見ていると、俺まで恥ずかしくなってしまった。
「じゃあ、お願いします」
「うっす」
俺は久世の様子を窺いながら一気に間合いをつめる。久世の柔道着の襟をつかんだ瞬間体と体がぶつかり合い、それだけで俺の体が吹き飛ばされそうになる。
身長は恐らく十センチ、体重も十キロ以上は差があるだろう。そんな久世にしてみたら、俺は子どもくらい非力な相手かもしれない。それでも、俺だって県大会の個人戦で優勝した実力者だ。ほんの少しでもいい。抗いたいという強い衝動が、俺の闘争心に火をつけた。
力では勝ち目がないから、スピードと体力で勝負だ。
俺は何度も圧し潰されそうになるのを必死に堪える。その時、今まで完璧だった彼のほんの一瞬だけれど隙を見つけることができた。
(ここで得意の背負い投げだ……!)
俺は全身の神経を研ぎ澄ませ、力を込める。
得意の背負い投げを試みたはずが、その瞬間、彼の中に呑み込まれるような感覚に陥った。
次の瞬間世界が反転し、背中に硬い畳の感触が走る。久世に完全に制圧されたのだと理解するまでのわずかな空白の時間、視界に映る天井の照明がやけに遠くて。
自分の全ての力が久世という圧倒的な強さに塗り替えられてしまったことを、ただ茫然と噛み締める以外に方法が見当たらない。
(全く勝負にならなかった)
俺はその無力感に打ちのめされた。
「大丈夫ですか⁉ ハルト!」
(誰がハルトだって……?)
俺は呆然と照明を見ながら奥歯を噛み締める。
こんな風に完敗したのは本当に久しぶりだ。
久世に思い切り投げられたせいで、背中がヒリヒリする。でもそれ以上に、心が痛くて堪らなかった。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。全然大丈夫」
「よかった。ハルトに怪我がなくて……」
「いや、俺、ハルトじゃないから」
久世が俺の手を引いて立たせてくれる。
心配そうに俺を見つめる久世に「大丈夫だよ」と笑顔を見せる。でも心の中は、悔しくて悔しくて……。今にも叫び出したい気分だった。
俺は久世の得意技である体落としでいとも簡単に敗退してしまう。大体、久世の体落と得意技が体落としだなんて知らなかった。実力もさながら、相手の得意技すら知らずに挑んでしまうなんて……。完全に俺の負けだ。
「ちくしょう……」
俺は頭から水道の水を被る。悔しいやら、情けないやらで、泣きたい気分だ。
まさか、こんなにも実力の差があるとは思わなかった。久世のことを、甘く見ていた愚かな自分が恥ずかしい。
その時、ふとタオルが目の前に差し出される。そのタオルからは優しい柔軟剤の香りがした。
(誰だ……?)
俺がびしょびしょに濡れた髪の毛のまま顔を上げると、そこにはハルトのイラストが描かれたタオルを持った久世が立っていた。
「これ、使ってください」
「え? でも、このタオル、ハルトのイラストが描かれてるから、久世の宝物なんじゃ?」
「はい。このタオルはブルーレイ購入特典のレアものです」
「そんなタオル借りられないよ!」
「大丈夫です。もう一枚ありますから」
「はぁ⁉ ブルーレイ二つも買ったのか?」
「はい。タオルは使う用と保管用です」
「でも、二つも買うなんてもったいないじゃん⁉」
「推しの為に使うお金に、もったいないなんてありません! むしろ『使わせてくれてありがとうございます』という気持ちです! 推しこそが我々の生きる活力なんですから!」
久世はそう言いながら無表情で俺の髪を拭いてくれる。大きな久世の手で髪を拭かれると、まるで頭を撫でてもらっているようで……。なんだか気持ちがいい。うっかり、涙で目の前が滲んで見えた。
「先輩なのに、あんなにあっさり一本負けなんてかっこ悪いよな」
「そんなことありません。俺と瀬戸先輩では、体格差があり過ぎます」
「でも……」
「いいから顔を上げてください。髪の毛が拭きにくいです」
「わ、痛い、痛いよ……」
「すみません。大丈夫ですか?」
久世の俺の髪を拭う手が、ふと止まった。湿った髪から漂う微かな熱と、彼の指先の感触に意識が集中する。そっと顔を上げると、至近距離で久世と視線が絡み合った。
改めて見つめると、彼は驚くほど整った顔立ちをしていて、その鋭い瞳だけが俺を映していることに気付く。心臓の音が、下校を知らせるチャイムに掻き消されていく。いてもたってもいられず、俺は顔を逸らしてしまった。
「それに、俺、実は瀬戸先輩のことを知っていたんです」
「え?」
「初めて見た時は、すごくハルトに似ているな……、程度でした。でも、ひたむきに柔道に取り組む姿勢に、段々興味が湧いてきて。気付いた時には自分は出場しないのに、試合会場に足を運んで、瀬戸先輩のことを応援するようになりました」
「な、なんだよそれ、全然気付かなかった」
「当り前です。気付かれないようにこっそり見ていたんですから」
恥ずかしいことをさらりと言う久世に、俺は開いた口が塞がらない。
「だから、瀬戸先輩の癖とか、得意技を知っていたんです」
「だからって……」
「瀬戸先輩。去年の冬の大会の団体戦のことを覚えてますか?」
「去年の冬の大会……。あぁ、俺が大将を務めた大会だ」
「そうです」
「でも、なんでそんな試合の話を……」
突然去年の試合の話を持ち出された俺は困惑してしまう。
一体久世は何が言いたいんだ? 俺はまるで探るかのように久世の瞳を見つめた。
「実はあの試合、俺も見に行ってたんです」
「え? そうなのか?」
「はい。あの試合は忘れられません」
確かに、あの時の大会での試合は、今でも忘れることができない。
先輩が引退し、中堅が不戦敗というハンデを負った中、副将の萩原が根性で勝利をおさめ迎えた俺の番。試合は一分け二敗で大将戦へともつれ込んだ。
「県大会で優勝したい」というその一心で、俺は無我夢中だったのを今でも鮮明に覚えている。
あの試合では、制限時間ギリギリに俺の背負い投げが決まり、県大会優勝を勝ち取ることができた。
「あの時の瀬戸先輩の背負い投げ、本当に凄かったです」
「お前、本当に試合を見に来てたんだな?」
「はい。どうしても瀬戸先輩が気になってしまって……」
「お前が気になったのは俺じゃなくて、ハルトだろう?」
「あははは! そうかもしれません。ごめんなさい」
(あ、久世が笑った……。こいつ、こんな風に笑えるんだ……)
いつも感情の読めない無表情を貫く久世が、ふっと肩を震わせ声を出して笑った。それはまるで、硬い氷が溶けだすような優しい音だった。
初めて見る久世の無邪気な表情に心臓が大きく波打ち、胸の奥が温かく染まっていくのを感じる。
胸の鼓動がやけにはっきりと鼓膜に響き、呼吸も苦しくて、俺は無意識に自分の柔道着の襟を掴む。
初めて見た久世の笑顔は、俺の心の中に深く刻み込まれた。
***
それから毎日、久世はクリスタル・アートのキーホルダーがついたスポーツバッグを持って練習へとやって来る。
早くも柔道の勘を取り戻したらしく、もう久世に太刀打ちできる柔道部員は、俺以外にはいない。それでも、俺は全国区の選手の力に圧倒されてしまっていた。
けれど、自分より強い相手と練習できることは嬉しくもあり、刺激にもなる。いつの間にか、俺は久世と柔道をすることが楽しみになっていた。
畳の上で躍動する久世の動きは、誰にも追いつけないほど鋭く、眩しい。
その姿に心を奪われると同時に、自分との決定的な差を見せつけられているようで、奥歯を噛み締める。久世を頼もしいと感じる度に、自分の無力さが突き付けられえるようで、喉の奥がひりつくような葛藤を覚えた。
「ようやく昔の勘を取り戻してきました」
そんな俺の葛藤など知らない久世は、いつものように無表情で俺に話しかけてくる。
久世ははじめの頃は不愛想で取っつきにくい印象があったけれど、慣れてしまえば大きな犬のように懐いてきてくれる。
いつも少しだけ緊張したような顔で俺の傍へとやってくる。決して口数が多いわけではないけれど、それでもそんなちょっとした変化が嬉しい。
「慣れたどころじゃなくて、また全国制覇を狙えるんじゃないか?」
「いや、まだまだです。これからも日々精進します」
「あ、うん」
俺に向かって深々と頭を下げる久世。この礼儀正しいのは以前から変わっていない。
堅物で不愛想だけれど、どこか憎めない。久世はそんなキャラクターだった。
「でも、どうせならば県大会で優勝したいので、ハルトの衣装を注文しておこうと思います」
「はい?」
「王子の洋服はレア物なんですが、昨日ようやく通販で見つけたんです。今日帰ったら早速注文しておきますね」
「そ、そうか……」
「制服の方はもう注文してあるので安心してください」
「あ、うん。安心したよ」
「瀬戸先輩がハルトの衣装を着てくれるのが楽しみだなぁ」
そう言いながらふわりと微笑む久世。
(あ、また笑った……)
俺は久世が笑う度にドキドキしてしまう。普段笑顔を見せないイケメンが、時折見せる笑顔の破壊力は半端じゃない。しかも久世は俺の前でしか笑わないような気がする。
そういった俺の傲慢さが「自分は彼の特別なんだ」と勘違いを起こしてしまう原因となっている。
でも何度自分に「久世はあれが普通なんだ」と言い聞かせても、俺の勘違いはなかなか修正をすることができない。
「本当にいい加減にしろよな、俺」
「え? どうかしましたか?」
「いや、なんでもない!」
不思議そうに顔を覗き込んでくる久世に向かい、俺は笑って見せた。
それから毎日久世と部活で顔を合わせる度に、少しずつ仲良くなっていることが俺は嬉しかった。それに、こんなにも一生懸命努力しているんだ。絶対に勝たせてやりたい……。いや、俺が勝たせてやるんだ。いつしか俺の心の中に、そんな願いが芽生えていた。
「乱取りはじめ」
「お願いします!」
俺の乱取りの一番最初の相手は久世だ。俺と久世が乱取りをやると、七割がた俺が負けてしまう。しかし、たまに久世に勝てた時の快感は堪らない。
だから、俺は久世と勝負をすることが好きだった。
組み合った瞬間、互いの筋肉が硬くせめぎ合う感触がダイレクトに伝わってくる。
久世の荒い呼吸が首筋に触れ、額から滴る汗が俺の肌に流れる度、視界が白く染まっていくような感覚。
技をかけ、かけられ、畳の匂いと泥臭い熱気に包まれていくうちに、日常の悩み事がちっぽけに思えてくるから不思議だ。
「今だ!」
「くッ⁉」
久世のほんの一瞬の隙をついて俺は得意の背負い投げの体勢に入る。久世が抵抗したけれどももう遅い。その大きな体はふわりと空に浮き、次の瞬間畳に叩きつけられた。
「よっしゃー!」
乱取りの末、ようやく手にしたはずの勝利。
けれど、悔しさに顔を紅潮させギラついた瞳で「もう一本、お願いします!」と食らいついてくる久世の姿を見た時、俺の心臓が跳ね上がった。
俺が知っている久世は、マメ部でいつもパソコンの前でブツブツと何かを言いながら作業をしていたオタクだった。
そのオタクが実はイケメンで、柔道も全国区の実力の持ち主。
そして、今自分に負けた悔しさを惜しみなく爆発させ、再び向かってこようとしている。
(なんだよ、このギャップは……)
自分を追い詰める久世の熱に、負けたくないはずの自分がときめいてしまっているなんて……。
マメ部の久世と、今一緒に柔道をしている久世。それはまるで別人のようで、俺の心を激しく揺さぶる。
「俺ってギャップ萌えするタイプだったんだ」
悔しそうに顔を歪め、柔道着の襟を正す久世を見て俺は言葉を失ってしまう。
「もう一本お願いします」
「あ、うん。来いよ」
完全に集中力が切れてしまった俺は、熊のように自分に突進してくる久世に、あっけなく投げられてしまった。
俺が柔道場の扉の前に立ち涼んでいると、久世がのっそりと俺の傍にやってくる。
どうやら俺は、この男に懐かれてしまったらしい。
でも、恐らく俺だけに向けられるだろう悔しさを滲ませた苦悶の表情や、柔らかな笑顔を見ることができることに、やっぱり俺は喜びを感じてしまう。
久世が俺だけに見せる顔がある──。そんな現実に、俺は優越感を覚えた。
「今日は瀬戸先輩に一本取られてしまいました」
「いいじゃん。たまには先輩に花を持たせろよ」
「でも、昨日ハルトの王子バージョンの衣装を注文してしまいました。だから、俺は負けるわけにはいかないんです」
「そっか……」
その久世の言葉に俺の胸にズキンという痛みが走る。
久世は『俺』じゃなくて『ハルト』の為に戦っていたんだ。
そう思った瞬間、風船のようにパンパンに膨らんでいた心が一気にしぼみ、心の中に隙間風が吹き込んだ気がする。
「……俺、何を勘違いしていたんだろう」
ポツリと呟く。
(久世はやっぱり漫画・研究部の部員なんだ)
それに気付いてしまった俺は、なんだか寂しくなってしまい、唇を噛んで俯いた。
でも、どうしても久世にときめいてしまう。
俺の心は大きく揺れた。
その翌日。それは昼休みがもう少しで終わるという頃だった。
俺が学食から教室へ戻ろうと廊下を歩いていると、渡り廊下を歩く久世を見つけ足を止める。移動教室だろうか? 数人の友達と一緒に歩いているところだった。
次の瞬間、俺の心臓が大きく飛び跳ねる。鼓動がどんどんと速くなり、手にじっとりと汗が滲んだ。
久世と一緒にいるのはマメ部の部員たちだろう。その輪の中で久世は笑っていた。
それは俺に向けられる武骨な笑顔とは違う、軽やかで無防備な表情。
その笑顔を見た瞬間、羞恥心や裏切られたという思い、それから喪失感。色々な感情が大波のように押し寄せてきた。
あぁ、俺は勝手な線引きをしていただけなんだと、自分の勘違いが急に恥ずかしくて堪らなくなる。
「何が俺だけの前で笑うだよ……」
胸の奥が締め付けられるようにギュッと痛む。
誰の目にも触れるあの渡り廊下の光が、まるで独占欲を暴くスポットライトのように眩しくて……。俺はただ、俯くことしかできなかった。
***
久世が柔道部に来るようになって、一週間が経過した。
彼は一日も練習を休むことなく、週末の練習にも顔を出してくれている。その真面目さに、俺と柔道部の顧問の先生は感心しっぱなしだ。
今日も、クリスタル・アートの主人公、ハルトのタオルを首に掛けた久世が「お世話になります」と俺に向かって深々と頭を下げた。
大会までもう少し。
嬉しいことに萩原の手術も成功し、順調に回復しているらしい。これで県大会優勝が決まれば、こんなにうれしいことはないだろう。
ハルトのコスプレを除いては……。
試合が近い分、念入りに準備体操をしてストレッチもした。
「よし、じゃあ次乱取り行くぞ」
「はい」
後輩たちが移動していく中、久世はやはり俺の前に並ぶ。
(そんなに俺と乱取りしたいのかな?)
と、不思議になるけれど、久世はいつも真っ先に俺と乱取りをやりたがるのだ。
これは心してかからないと……。俺も自然と気合が入っていく。
「はじめ」の号令と共に「お願いします!」と久世が俺に近づいてくる。その殺気だった雰囲気は怖いくらいだ。
久世と向かい合い、互いの柔道着を掴む。その瞬間、道場の空気が凍り付いたように静まったような気がした。
俺が隙を探して一歩踏み込むと、久世はそれを待っていたかのように俺の腰を引き寄せ、密着させる。背中に回された大きな手が俺の背骨をなぞるような圧力を感じ、耳元で「もっと来い」と囁かれた気がした。
抗いたいのに、久世の胸板に押し付けられた俺の心臓は、彼のペースで激しく鼓動を刻み始めている。
(あ、ヤバイ……)
その瞬間グイッと強く腕を引かれ、体がフワリと宙に浮く。そのまま畳に叩きつけられた。
久世の内股が決まり、畳に叩きつけられた衝撃と同時に、右足首に走った鋭い痛み。
「いってぇ……」
俺は右足を抱えて蹲った。
「先輩、大丈夫ですか⁉」
後輩たちが驚いたような顔で俺の方に向かって走ってくる。みんなが青ざめた顔をしながら俺を取り囲んだ。
それはそうだ。大会三週間前に部長が怪我だなんて洒落にならない。
最悪のシナリオが俺の頭を駆け巡った。
「瀬戸先輩大丈夫ですか⁉ すみません、俺のせいで……」
「久世のせいじゃないよ。俺が上手く受け身が取れなかったんだ」
「でも……」
「大丈夫。少し休めば動けると思うんだ」
心配そうに俺の顔を覗き込む久世に向かい笑って見せた。
本当のところ、少しずつ痛みは引いてきている。きっと少し休めば大丈夫だろう、と体を起こそうとした瞬間──。
久世は迷いもせず俺のことを抱き上げた。
「え? ちょ、ちょっと久世!」
「捻挫でもしていたら大変です。保健室に行きましょう」
「保健室⁉ だから少し休めば大丈夫だって!」
「駄目ですよ。大会前の大切な体なんです」
「待て、久世、待ってよ!」
「待ちません!」
柔道で誰かを背負うのとは真逆の、されるがままの無防備な体勢。
久世は勢いよく走り出す。彼の腕の中で視界が大きく揺れ、保健室へと走る久世の荒い息遣いを耳元で聞く。
柔道着を着た男が、柔道着を着た男をお姫様抱っこして走る姿を見た生徒たちが、呆気にとられたような顔で自分たちを見ているのがわかる。
(超恥ずかしい……!)
俺たちを見る生徒たちの視線が痛くて、穴があったら入りたい気分だ。
しかし久世の顔を見ると真剣そのものだ。きっと俺に怪我をさせてしまった、なんとかしなければ……と、必死なのだろう。もう、それほど痛みもないのに。
久世は足で保健室の扉を開けると「先生! 瀬戸先輩が大怪我をしました!」と声を張り上げる。
「え? 大丈夫?」
心配そうな顔で俺に駆け寄ってくる養護教諭。柔道の練習中に、さぞや大怪我をしたと思ったのだろう。
「瀬戸君大丈夫? どこが痛いの?」
必死に俺の体を診察してくれる養護教諭に、俺は「もう大丈夫です」と小さな声で返答する。羞恥心のあまり、養護教諭の顔を見ることさえできない。
久世の好意はありがたかったけれど、俺はそれ以上に恥ずかしくて……。顔から火が出そうだ。
保健室で右足首を冷やしてもらい、湿布を貼って貰った俺は、自分の足で歩いて柔道場へと戻ったのだった。
その日の部活終わり、心配した久世が、俺がいつも使っている駅まで送って行ってくれることとなった。
あの後、部活は休んだけれど、今歩いても全く痛みはない。だから久世に何度も「もう大丈夫だから」と言ったのに、彼は「いや、送って行きます!」と一歩も引かなかった。
この不愛想な男はどうやら強情な性格らしい。俺は仕方なく駅まで送ってもらうことにした。
「瀬戸先輩、足が痛いなら言ってくださいね? 俺が背負いますから」
「背負うって、おんぶってこと?」
「そうです」
「嫌だよ! 恥ずかしい! もう痛くないから大丈夫だよ!」
学校内でお姫様抱っこされただけでも十分恥ずかしいのに、こんなにも人が行き交う道でおんぶだなんて……。久世は一体何を考えているんだろうか? 一瞬で俺の頬は熱を持ってしまう。
「だって嫌なんです。俺のせいで、瀬戸先輩まで試合に出られなくなることが……」
「柔道に怪我は付き物だから、仮に俺が怪我をしたとしても久世のせいじゃないよ」
「……それでも、嫌なんです」
いつもブスッとした表情をしている久世の顔が急に暗くなり、俯いてしまう。
もし久世が大型犬で、耳と尻尾があったならば、きっと力なく垂れ下がってしまっていることだろう。
「俺、去年の冬の団体戦の試合を見に行ったって話したじゃないですか?」
「……あ、うん」
「あの時の瀬戸先輩のことを今でも鮮明に覚えてるんです」
久世は俺の方を見ながらそっと笑みを浮かべる。その瞬間俺の心臓がトクンと跳ね上がる。彼は笑っているのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「一分け二敗で迎えた大将戦。先輩は緊張からか顔を強張らせていた。それでも敵を真っすぐに見据え、ぶれることなんてなかった。あの時の瀬戸先輩、本当にかっこよかったです」
「そっか……。ありがとう」
「悪に立ち向かうハルトみたいで、俺、感動しました」
「あ、やっぱりハルトなんだ……」
普段お世辞を言わない久世から飛び出した言葉に喜んだのも束の間。結局俺は、久世にとってハルトの代わりでしかないのか……。
そう思った瞬間。ズキンと胸が張り裂けそうに痛んだ。
「その時俺思ったんです。瀬戸先輩は俺が守りたいって」
「……え?」
「瀬戸先輩は俺が守るんだって。そう思いました」
その時俺の右手がふわりと宙に浮き、久世に手を握られる。こんなに人がたくさんいるところで何やってんだよ! と言いかけた言葉を俺は呑み込んだ。普段は使わない裏路地には人の姿はなく、俺たち以外には誰もいなかったから……。
「本当は、今更だけど柔道部に転部しようか悩んだんですが、そんな勇気もなく……。だから、今回先輩が声をかけてきてくれて、俺、嬉しかったんです」
「久世……」
「だから心配くらいさせてください。この裏路地は滅多に人も通りません。だから、手を繋いでも大丈夫です。それに、足が痛かったら背負いますからね」
「もう痛くないから……大丈夫……」
「ならよかった。でも無理はしないでください」
ふわりと向けられた笑顔に、心臓の奥が不意に撃ち抜かれる。
駅までの距離、繋いだ手から伝ってくる久世の体温は、俺の心拍数とシンクロするように熱を帯びていく。
『やっぱり恥ずかしいから手を離して』
普段なら冷静に返せる言葉も、今は胸の奥で詰まってしまう。
俺を保健室まで運んだ久世の力強さと、自分に向けられる柔らかな眼差しに、俺は『柔道部部長』を完全に忘れ、ただ弱い一人の男として久世の中に溶けてしまいたいという、抗えない情動に溺れていた。
そして、久世が俺とハルトを比較する度に胸がチクリと痛む。
久世が俺を慕ってくれるのは、敵に立ち向かうハルトに似ているから。そして、自分に向けらえる優しさは、自分の押しに対する愛情──。
久世は俺の中にハルトを見ていて、本当の俺を見てくれていないような気がして、寂しさに襲われる。
「なんだよ、このモヤモヤは……」
俺は奥歯を強く噛み締める。
悔しくて、寂しくて、目頭が熱くなるのに、久世の手を振り払うことはできない。
俺たちは大通りに出るまで、手を繋ぎ続けたのだった。
それ以来、俺と久世の距離感が変わったような気がする。
今まで先輩と後輩だったのが、まるで王子とボディーガードだ。これではますますクリスタル・アートのハルトに近づいてしまう。
最近、クリスタル・アートのアニメを全話見てみた。久世がそんなにもハマるアニメとは一体どんなものかが気になったのだ。すると、自分とハルトがよく似ていることに驚かされる。
リビングでクリスタル・アートを見ている時、家事をしていた母親が手を止め、「あら、この主人公、紬にそっくりじゃない!」と驚いていた。
本当に俺とハルトは見た目がそっくりなのだ。
だから、久世に優しくされても、心配してもらっても素直に喜ぶことができない。
久世には、俺を見て欲しいのに……。
(あのアニメオタクの馬鹿野郎……)
俺はクッションを抱えてソファーに寝転んだ。
俺の怪我騒動をして以来、俺は久世と手を繋いだことを思い出しては、頬が熱くなるのを感じる。
(久世の手、俺の手より大きくて、ゴツゴツしてたなぁ)
俺は自分の右手を見つめる。
きっと久世も、あの大きな手で柔道を頑張ってきたのだろう。
俺は今まで柔道一筋で来たから、誰かとお付き合いをしたこともない。だから手を繋いだのなんて、もしかしたら幼稚園の遠足が最後かもしれない。
ただでさえ、柔道は相手との距離が近いスポーツだ。組み合った瞬間、久世との距離はゼロになる。
普段保っているはずの心地よい距離感なんて、この柔道には存在しない。
柔道着越しに伝わる体温と、鼓動の速さまでがわかってしまうくらいの距離が、どうしても恥ずかしい。
(こんなことを考えていたら、また怪我をするぞ)
そう自分に気合を入れてみるのだけれど、逃げ出したい思いと、このまま久世に囲まれていたいという矛盾した心が、ただただ顔を熱くさせる。
「おい紬、いい加減にしろ!」
俺は自分の頬を叩き、気合を入れ直したのだった。
準備体操、ストレッチ等を怪我のないようにしっかりと行い、打ち込みの次は寝技の練習だ。一番体が密着する時でもある。そんな中、俺の心臓が再び早く鼓動を刻み始めた。
(しっかりしろ、俺。こんなんじゃまた怪我の騒動を引き起こすぞ)
俺は何度も自分の頬を叩き、気合を入れる。
そして目の前には久世──。
俺たちは正座したまま向き合い、「よろしくお願いします」と畳に手を付きお辞儀をした。
「寝技、はじめ!」
「お願いします!」
その号令と共に久世が一気に距離を詰めてくる。
正直なところ、俺は立ち技が得意で寝技が苦手だ。寝技では久世にほぼ勝ち目がない。
俺は体重が軽いから、久世のような体格のいい選手に一度抑え込まれてしまうと、逃げることはできない。技術でなんとかカバーしようと試みるものの、久世は寝技も得意らしく今まで負けてばかりだ。
なんとか久世の攻めに耐えていたが、仰向けにされた俺の上に、彼の重みが乗る。逃げ場を塞ぐように四肢を固められ、視界の全てを久世の肩幅に占領される。
乱れた呼吸が互いの頬を掠め、汗ばんだ肌が密着する度、心臓の鼓動がどこまでが自分で、どこからか久世のリズムなのかわからなくなる。
畳の硬さも忘れて、ただ久世の支配下で身動きが取れなくなるこの時間が、どうしようもなく甘くて、そして恐ろしい。
久世に抑え込まれ少し経ってた頃「久世、もう完敗だ」と彼の肩を叩く。すると久世は「よっしゃー!」と嬉しそうにガッツポーズを作った。その行動は幼くて、可愛らしく見える。
「もう一本行くか?」と声をかけようとした時、久世が俺の右足にそっと触れた。
「瀬戸先輩、足はもう大丈夫ですか?」
「え?」
「今日普通に練習してますけど、もう痛くないのか、ずっと心配してました」
そう言いながら久世が心配そうに俺の足を擦ってくる。その瞬間、くすぐったさに堪え切れず。思わず吹き出してしまった。
「あははは! 久世、そんなに優しく触ったら擽ったい!」
俺が身を捩って笑うのを見て、久世は面白がるように、悪戯っぽい瞳で足の裏を追いかけてきた。
「もしかして、瀬戸先輩、くすぐったがり屋さんですか?」
「うん! 久世が優しく触るからくすぐったくて……。あはははは!」
「じゃあ、ここもくすぐったいとか?」
「そこも駄目! あははは! お腹痛い!」
「あはは! 瀬戸先輩の弱点見つけちゃいました」
さっきまでの真剣な雰囲気はどこへやら。先輩として毅然としていなければ……という強がりはどこかへ消え去り、畳の上で二人、声を上げて笑い転げる。
(久世って、こんな風に馬鹿笑いするんだ)
久世の笑顔は子どものように無邪気で、とても可愛らしい。
彼の意外な一面を見たような気がして、それも嬉しくて仕方がない。
それと同時に、この笑顔を向ける相手が自分だけだったらいいな、と感じてしまう。
久世の手のひらが触れる場所から、今まで感じたことのないほど純粋な親密さが、じわりと胸の奥まで広がっていくのを感じた。
腹を抱えて笑う俺たちを、ほかの部員たちが呆然と眺めていたなんて、俺たちは気付きもしなかった。
俺は久世との縮まっていく距離が嬉しくも思いつつ、強い戸惑いを感じていた。
***
それはある日の部活が終わった後のことだった。
俺が帰りの支度をしていると、久世が俺の傍に寄ってくる。いつも通りスポーツバックにはハルトのキーホルダーが揺れていた。
「瀬戸先輩、この後何か用事がありますか?」
「あ、いや、特には……」
「ならば、少し付き合ってもらえませんか?」
「……え?」
俺は今まで部活が終わった後、今はもう卒業してしまった先輩や、今いる後輩たちとファミレスによってご飯を食べて帰ったこともある。でもまさか、久世に放課後誘われるなんて……。俺は少しびっくりしてしまった。
まぁ、コンビニに誘われた理由なんて何となくわかるけどね。
「もしかして、今コンビニでやってるクリスタル・アートのクジが引きたいとか?」
「え? 先輩よくクジのこと知ってますね?」
「久世があまりにも『ハルト、ハルト』って騒ぐから、最近はクリスタル・アートのことが気になって仕方がないんだ」
「本当ですか? それは嬉しいです」
久世はそう言って、キラキラと瞳を輝かせる。
そんな久世に『実はクリスタル・アートのアニメを全部見た』と言うこともできず、大きく息を吐く。なんだか、久世の世界に引き込まれてしまったようで、面白くなかったから。
「そのクジはクリスタル・アートのキャラクター、全七種類のアクスタがランダムですけど必ず貰えるクジなんです。でもクリスタル・アートは人気だから、一人四枚しかクジが引けなくて……。もう何十回と引いたんですが、どうしてもシークレットのハルトだけが出ないんです」
「アクスタ? なにそれ」
「アクリルスタンドの略で、キャラクターのイラストがアクリル板に印刷してあって、飾れるようになってるんです」
「へぇ……」
「でも、シークレットのハルトだけなかなか出なくて……。でも、俺、どうしても欲しいんです」
そう言いながら悲しそうに俯く久世を見ると可哀そうになってしまう。
久世も俺たちに協力してくれているのだから、俺も力を貸してやりたい、そう思ってしまった。
「ちなみに、いくらくらいそのクジに使ったの?」
「そうですねぇ。一回が八百円くらいするから一万くらいかな?」
「一万⁉ お前何やってんだよ! もったいない!」
「でもやっぱりシークレットはレアだけあって、なかなかはるとのシークレットは当たらないんです」
「でも……やっぱりもったいなくないか?」
「推しの為ならもったいないなんてことはありませんよ!」
「そ、そういうものなのか?」
「そういうものです! 俺、命に代えてもハルトのアクスタをゲットしたいんです!」
先ほどまであんなにも凛々しい姿で柔道をしていた久世と、今目の前でクリスタル・アートについて熱く語る久世はまるで別人のようだ。
「瀬戸先輩がクジを引いたら、レアのハルトが出ると思うんですよね」
「そうかなぁ。でも久世がそれだけ引いて無理だったんだから、きっと出ないよ」
「そんなことありません。瀬戸先輩をハルトが呼んでいる気がするんです」
「……わかった。付き合うよ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
久世は切れ長の瞳をキラキラとさせながら、帰り支度を始めたのだった。
その足で駅から一番近いコンビニへと向かう。
そんなにも、レアのハルトのアクリルスタンド(略してアクスタと言うらしい)が欲しいのならば当たりのクジを引いてあげたい……。そう思うと、なんだか緊張してきてしまう。
コンビニに入り、一枚だけでは心許なかった俺は、二枚のクジを引いた。隣にいる久世はソワソワしながら四枚も引いていた。
それだけで三千二百円……。高校生には痛い出費だろうが、久世に迷いは見られない。
しかし四枚全部開けた久世は「駄目でした」と肩を落とす。そんな久世を見ていると、どうしてもレアのハルトを出してやりたいと思ってしまった。
「ようし……」
俺は一枚目を引いてみたけれど、久世がたくさん持っているアクスタだった。
「これが最後の一枚……」
どうにか久世にレアのハルトを当ててやりたい俺は、緊張してきてしまう。クジを開ける手が少しだけ震えていて、可笑しくなってしまった。たかがクジなのに……。
(どうか当たってますように……!)
最後の一枚を開いた瞬間、隣にいた久世が「えッ⁉」と、目を見開く。そんな久世にびっくりしていると、久世が俺に飛びついてきた。
「瀬戸先輩、これレアのハルトです! 大当たりですよ!」
「え? 本当に⁉」
「瀬戸先輩、マジでありがとうございます!」
「じゃあ早くアクスタと交換しておいでよ」
「はい! 行ってきます! 瀬戸先輩、本当にありがとうございます!」
久世は嬉しそうに俺が当てたクジを持ってレジへと向かっている。心なしかスキップしているようにさえ見えて、可笑しくなってしまう。
そんな姿を見ていると俺まで心が躍ったけれど、同時に、そんな純粋な笑顔を自分以外に向けていることに、少しだけ胸がチクリと疼いた。
久世は滅多に笑わない。そんな久世の喜びに満ちた表情を、俺だけに向けて欲しい──。マメ部の部員でもなく、ハルトでもない。俺だけに向けて欲しいんだ。
そんな子どもみたいなヤキモチを妬いている自分に気付いて、少しだけ恥ずかしくなってしまう。
(アニメのキャラクターにヤキモチを妬くなんて……)
満面の笑みでレジにクジを持っていく久世を見て、俺は唇を噛み締めた。
コンビニから駅までの帰り道、久世は「一人で帰れるから!」と言っているにも関わらず駅まで送ってくれた。
久世はレアのハルトのアクスタを手に入れられたことが余程嬉しかったのか、鼻歌なんて口ずさんでいる。それなのに、俺の心はどんよりと曇り空だ。
『久世は俺とハルト、どっちが大事?』
『柔道部とマメ部どっちが大事なの?』
ずっと心の奥に棘のように刺さっていた疑問。もう何度口にしたいと思ったことだろうか? でも結局は変なプライドが邪魔をして、その度にこの言葉を呑み込んできた。
……でも、俺はやっぱり知りたい。
俺が急に立ち止まると、久世が「なんだ?」と言わんばかりに振り返った。
「瀬戸先輩、どうしたんですか?」
久世が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
そんな顔を見れば、迷惑を掛けたくないとやっぱりまた何も言えなくなってしまう。だって、こんなことは子どもの我儘と同じだ。久世だって困ってしまうだろう。
だけど、俺はやっぱりもう駄目だ、黙っていることはできない。拳をグッと握り締めた後、久世に向かって問いかけた。
「久世はなんで柔道部に来たんだ? 俺の為? それともハルトの為か?」
「瀬戸先輩……なんで急にそんなこと……」
俺の言葉に久世が戸惑いの表情を隠しきれない。それはそうだ。急にこんなことを言われたら、久世だって困ってしまうだろう。
「ごめん、久世」。俺は心の中で、そう謝罪した。
「久世は俺にハルトになってほしいから柔道部の応援に来てくれているんだろう?」
「……べ、別にそんなわけじゃ……」
「俺は久世にとってハルトの代わりなの? 久世は俺のことを瀬戸紬として見てくれないのか?」
「瀬戸先輩、それって……」
「俺は、ハルトの代わりなんて嫌だ」
一気に心のわだかまりを吐き出した後、涙で目の前が滲む。心が張り裂けそうに痛くて、唇を強く噛む。
(あぁ、なんて情けないんだろう)
俺は自分の不甲斐なさを心底呪った。
「瀬戸先輩、それってヤキモチですか?」
「……え?」
「瀬戸先輩は、もしかしてハルトにヤキモチを妬いているんじゃないんですか?」
「…………」
「図星、ですね」
目の前で久世が意地悪そうに笑う。その初めて見た久世の表情に、鼓動が一気に速くなる。今の久世は年下のくせに、色っぽくて、男らしい。心臓がドキドキしてしまった俺は、制服の胸のあたりをギュッと掴んだ。
「ヤ、ヤキモチなんかじゃ……」
「嘘だ。先輩はハルトにヤキモチを妬いてる」
「だったら、なんだって言うんだよ?」
「いや、嬉しいなって思って」
「……嬉しい?」
「はい。嬉しいし、可愛いなって思いました」
「別に可愛くないし……」
「いいえ。可愛いです」
ヤキモチを焼いた俺の心を見透かしたように、久世がいきなり正面から抱き締めてきた。
「瀬戸先輩。そういうところも可愛いですね」
なんて、今まで見たことのないような余裕のある表情で言われて心臓が跳ね上がる。
今目の前にいる久世は、マメ部の久世でも、柔道部の久世でもない。
逃げ出したいような、このままずっと閉じ込められていたいような矛盾した感情で、足に力が上手く入らない。久世という男に、自分の全てが掌握されていく。抗うことさえ忘れて、ただただその腕の中に溶けていくしかなかった。
「俺は、先輩もハルトも大好きです」
「そっか……」
「……でも、俺が先に好きになったのは先輩なんですよ」
「え? 何? 電車の音で聞こえない!」
「別になんでもありません」
その瞬間、スピードを上げて線路脇を通過する電車に久世の声が遮られてしまい、大事な部分を聞くことができなかった。
「聞こえなかったからもう一度言ってよ」
「嫌です」
「言えって」
「だから嫌です」
俺は久世の腕の中で、その瞳から彼の感情を探ろうとした。
でも意地悪な久世はこの話をあしらうかのように笑った後、俺を更に強く抱き締める。
柔道全国区の男に抱き締められた俺は、呼吸さえ上手くできない。なんて馬鹿力なんだろうか?
苦しくて、でも温かくて……。
触れ合う胸から感じる久世の鼓動が、鼓膜の奥に響き渡った。
***
瀬戸が柔道部に来て一か月が経った。
今日は、高校生活最後の柔道の大会だ。団体戦と個人戦で勝利を収めれば関東大会に出場できるし、負ければそのまま引退となる。
俺はもちろん個人戦でも勝ちたいと思っているけれど、ずっと一緒に練習をしてきた仲間たちと力を合わせて戦う団体戦が好きだ。
結局萩原の怪我は完治せず試合には出場することができなかったけれど、会場に応援に来てくれるらしい。その代わり、予定通りに久世が出場することとなった。
「やっぱり緊張する」
会場に広がる慣れ親しんだ匂いも、柔道着が擦れる音も、これで最後かもしれないと思うと胸の奥が冷たくなる。
何百回と結びなおした帯を締めながら、試合会場を眺めると、ただ途方もない寂しさが込み上げてくる。
どんなに辛い練習でも、ここには確かに俺の居場所があった。その扉を閉じて、また次の場所へと歩き出さなければならないかもしれないという現実に、今、静かに立ち尽くしている。
本当なら、萩原と一緒にここに立ちたかった。でも、今俺の横には久世がいる。この逞しい存在が、俺の心を奮い立たせる。
「瀬戸先輩、頑張って県大会で優勝しましょうね」
「久世、よろしく頼むぞ」
「はい。任せてください」
その短い返答に、彼が一生懸命努力した一か月が詰まっているような気がして、胸が熱くなる。
今俺の隣に立っているのは、マメ部の部員ではなく、紛れもなく柔道部員だ。俺はその凛々しい姿に見惚れてしまう。
「県大会で優勝して、ハルトの王子のコスプレをしてくださいね」
「あ、まだその話覚えてたんだな?」
「当り前でしょう? 俺はそれを楽しみに、今日まで練習を頑張ってきたんですから」
「あははは……。そっか……」
前言撤回。こいつはやっぱりマメ部のオタクだ。それを痛感した今、百年の恋も冷める思いがした。
今日団体に出るメンバーは一年が先鋒。二年の二人が次鋒と中堅、そして俺が副将で久世が大将だ。
今日までみんな少ない部員数の中で、本当によく頑張って来てくれたと思う。感謝の思いで胸が熱くなる。
そして隣には久世。こんなにも頼もしいピンチヒッターに恵まれた俺は、本当に幸せ者だ。
きっとこの広い会場のどこかにいる萩原に「見守っていてくれ」と心の中で語りかける。
俺は戦う。自分とみんなの為に。悔いは残さない。そう心に誓った。
月守高校は順調に団体戦を勝ち進み、決勝戦まで進んだ。ここに来て俺たちと対戦することとなった学校は、去年の優勝校。部員も月守高校の何倍もいる。
(この高校に勝てるのか……)
俺の心に不安が大波のように押し寄せる。
ただ、俺の隣には久世がいる。
(久世がいれば大丈夫だ)
いつからか俺は久世を心の支えにしていた。
試合は中堅まで進み一勝二敗。これで俺が負ければ優勝の望みはゼロとなる。
「瀬戸先輩、久世君、すみません」と涙を流す後輩たちを見て、俺の胸が締め付けられた。
泣いて謝ることなんてないんだ。部員がたった五人しかいない柔道部が、県大会の決勝まで上がってこられただけでも奇跡なのだから。
「大丈夫だ。後は任せろ」
歯を食いしばり泣く後輩の肩をそっと叩き、俺は試合場へと向かう。
会場のざわめきが嘘のように遠のき、畳の上に対峙する相手の吐息だけが鮮明に聞こえる。
二勝一敗、この一戦が全てを決めるという重圧に、指先までが小刻みに震える。
しかも決勝戦、というだけあり観客の数がかなり多い。心臓が口から飛び出してきそうなほどの緊張感に包まれた。
けれど、その震えは怯えからくるものではなかった。ここで負けられないという強烈な責任感と、限界に挑みたいという昂ぶりが混ざり合い、俺の心はどこまでも澄み渡っている。怖い、それ以上に震えるほどワクワクしている自分がいた。
「瀬戸先輩、頑張ってください!」
「おう!」
久世が俺の両肩を叩いてくれる。それに背中を押させるように「副将、前へ」という号令と共に俺は試合会場の中心へと歩を進めた。
「はじめ!」
という合図と共に相手へと向かって行く。相手は俺とそれほど体格の変わらない選手だ。でも、油断なんてできない。
柔道着を掴む指先に、相手の僅かな重心の揺らぎが伝わる。柔道場の空気が鋭く張り詰め、互いの荒い呼吸音だけが耳元で重なった。
相手が仕掛けてくる一瞬の隙、その刹那に全神経を集中させる。
今、この瞬間の攻防だけが俺の全てだ。世界から余計なノイズが消え、ただ相手と自分だけが剥き出しの意思をぶつけ合っている。その時──。
「瀬戸先輩、今だ!」
久世の声が鼓膜の奥に響く。
その言葉に誘導されるかのように、捨て身で放った背負い投げが完璧に決まった。
審判の「一本!」の声と同時に、全身の力が抜けて畳に倒れ込む。
よかった……。と安堵して顔を上げた先には、誰よりも嬉しそうに目尻を下げて笑う久世の姿があった。その笑顔を見た瞬間、胸の奥でずっと重石になっていた責任感や緊張が、音を立てて崩れていく。
(あぁ、俺はこいつの笑顔が見たかったんだ)
強くなるためじゃなくて、ただ久世と分かち合いたくてここまで走って来たんだと、肺の奥が熱くなるほど鮮明に気付いてしまった。
「勝ててよかった……」
大きく息を吐きながらみんなの元へと戻ると、「よくやった!」と俺を温かく迎えてくれる。
(これだから俺は団体戦が大好きなんだ)
嬉しくて、目の前が滲んで見えた。
これで二勝二敗。後は久世に委ねよう。俺はそう感じていた。
大丈夫。彼ならやってくれるはずだ。
「あとは俺に任せてください」
「おう、任せた」
そう言って、二人でグータッチを交わす。
仲間の元を去っていく久世の後ろ姿は、いつの間にか俺を追い越すほど頼もしくなっていた。
彼を勝たせたいと必死だったあの感情の正体が、今になって心臓を叩く。
久世自身の為に勝たせてあげたいと思っていたのは、ただの言い訳だった。本当は誰よりも傍にいたくて、誰よりも俺のことを知ってほしかった。
柔道を通して、久世を独り占めしたかったんだ。
「あ、そうか……」
俺は久世のことが、ずっとずっと好きだったんだ──。
だから実在しないハルトに嫉妬したり、マメ部の部員の存在が面白くなかったり。
俺は今まで部長として一人で「何とかしなくちゃ」「頑張らなくちゃ」と思っていた。しかし久世の「任せてください」という言葉が温かい涙となって溶けだしていく。
ただの勝利じゃない。久世が俺のために戦ってくれるという事実に、喉の奥が熱くなる。
(こうして誰かと苦痛を分かち合えることができるんだ)
そう思った時、やっと自分の本当の想いに触れた気がする。
「久世、好きだ。頑張って」
俺は小さな声でエールを送った。
久世が畳の中央に引かれた線の前に立つ。彼の相手は恐らく百キロ超級の選手だろう。あの久世が小さく見えた。
「はじめ!」という合図と共に久世が相手に向かい突進していく。
二勝二敗の今、この試合で勝った方が県大会優勝だ。
「久世、頼む……」
俺は神にも祈る気分だ。試合時間の四分間が異常に長く感じられる。
互いに譲らぬ攻防戦の中で、久世の息が上がる度に俺の心拍数も跳ね上がる。
(早く、早く決まってくれ……!)
そう祈る一方で、久世が重量級を相手に怪我をしないでほしい、という臆病な願いも胸を過る。ハラハラと波打つ感情は、もはや他人事ではない。
俺の願いの全てが、あの広い畳の上にある久世の一挙手一投足に繋がれてしまう。
「お前、かっこよすぎるだろう」
目頭が熱くなったから、慌てて手の甲で涙を拭った。
残り三十秒。お互いに技がなかなか決まらないまま、疲労が蓄積しているのがわかる。
しかし久世の瞳からは「諦める」という感情が見えない。積極的に技をかけ、相手を翻弄する。その次の瞬間──。
「あ……」
久世が放った大外刈りは、あまりに綺麗で、まるで世界がスローモーションで流れているようだった。
審判の「一本!」という宣告さえ、どこか遠い異国の出来事のように響く。
ただ、畳の上で輝く久世の姿から目が離せない。強くて、ひたむきで、眩しい。
この胸の奥に灯った熱い想いは、もう誤魔化すことなんてできなかった。ただ純粋に、久世を見つめている自分に気付いた。
久世が勝利を収めた瞬間「わー!」という歓声が上がり、柔道場が震えるほどだ。
皆が月守高校の勝利を祝福してくれている。俺の今までの苦労が報われた瞬間だった。
「久世、ありがとう‼」
我慢なんてできなかった。
試合を終えて戻ってきた彼の胸に、気付けば駆け寄ってしがみついていた。自分でも驚くほどの無防備さで。
すると久世は少し戸惑ったあと、俺の背中に優しく手を回してくれた。
「先輩の為に頑張りました」
遠慮がちに、けれど確かな体温を持って返された抱擁に、張り詰めていた鎧が全て剥がれ落ちていく。
ずっと追いかけていた夢が、叶った瞬間だった。
「久世、本当にありがとう」
何度繰り返し伝えても、きっと言い尽くすことなんてできない。
抱き締めた彼の背中から伝わる熱が、張り詰めていた俺の心を溶かしていく。
「ありがとう」
「瀬戸先輩だって頑張ったじゃないですか?」
「久世には適わないよ」
「そんなことはありません。俺たちは平等です。どっちが上とか、どっちが下とかないですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ……」
戦い終えたばかりの荒い呼吸、滲んだ汗の匂い。その全てが堪らなく愛おしい。
久世は俺の為に、こんなにも必死になってくれた。そう思うと『俺はハルトの代わりなんだ』という劣等感なんてどうでもよくなった。
ただ久世の髪を撫で、その温もりを心まで味わいたい。
俺が守りたかったのは柔道の勝利だけではない。こうしてお互いを感じあえる、この愛おしい存在そのものでもあったんだ。
こうして久世たちのおかげで、月守高校は県大会優勝という華々しい成績を収めたのだった。
でもその時の俺はすっかり忘れていた。
久世は本当は柔道部ではなく、マメ部の部員だということに──。
***
県大会が終わった後、俺は久世の家に呼び出された。
約束通り、ハルトの王子のコスプレをするために……だ。
ハルトの衣装がどんなものか一応アニメで予習はしてきたものの、あんな奇抜な洋服を着るなんて……。想像するだけで顔から火が出そうだ。
(約束なんかしなければよかった)
と今更ながら後悔するけれど、約束は約束だ。男に二言なんてない。
俺は意を決して久世の家に乗り込んだ。
久世の家に着くと、家には彼しかおらず「どうぞ」と招き入れてくれる。そして、久世の部屋に一歩足を踏み入れた俺は、言葉を失ってしまった。
六畳くらいある部屋にはフィギュア棚がたくさんあり、その中には高価そうなフィギュアとアクスタ、ぬいぐるみが大量に飾られている。
壁にはポスターがきちんと額に入れられて飾られており、オタクの部屋そのものだ。
俺は溜息をつきながらグルッと部屋を見渡した。
「これは凄いな」
「はい。集めるのには大分苦労しましたが、全部俺の宝物です」
「そっか。久世はゲームを作るのが得意なんだよな? 後でやらせてくれよ」
「本当ですか? 瀬戸先輩が俺の作ったゲームをしてくれるなんて嬉しいです!」
そう言いながら満面の笑みを浮かべる久世。俺も久世が好きな世界を知りたい……。最近はそう思うようになっていた。
「……ん?」
ふとカーテンレールに視線を移すと、ハルトの王子用の衣装が綺麗にハンガーに掛けられて飾られてある。
(あ、あれを俺が着るのか……?)
思わず息を呑む。
きっとかなり高価な物だろう。ディスカウントショップに売っているハロウィンのコスプレ衣装と違い、とても精巧に作られている。
「ようやく瀬戸先輩に着てもらえる日が来ました」
「あ、うん。そうだな……」
俺は衣装を撫でながら大きく息を吐く。その衣装は柔らかく、とてもいい肌触りだった。
これを着るだけでなく写真を撮られるのかと思うと、緊張のあまり体が凍り付いたように動かなくなってしまう。
「前に瀬戸先輩が『自分はハルトの代わりか』って聞いたじゃないですか? あの時電車が通ってちゃんと聞こえてなかったかと思うんですが……。俺の話を聞いてもらってもいいですか?」
「あ、うん」
久世が真剣な面持ちで俺を見つめてきたから、俺は真正面から彼と向き合った。
こんなオタク部屋の主のくせに、なんでこんなにイケメンなんだろう……。そう不思議になってしまう。
「瀬戸先輩はハルトの代わりなんかじゃありません。だって、好きになった順番が瀬戸先輩の方が先だったんですから」
「え? そうなの?」
「はい。俺は元々漫画やアニメ、ゲームが好きだったので高校ではマメ部に入りました。でもやっぱり柔道も捨てきれず、時々試合を見に行っていたって話したでしょう? そこで、瀬戸先輩を見つけて……。一目惚れでした」
「は?」
「だから、柔道の試合を見に行って、俺は瀬戸先輩に一目惚れしたんです」
「…………」
「ずっと前から、先輩が好きでした」
耳元でそう囁かれて、心臓が耳の奥で鳴っているんじゃないかと思うくらい激しく暴れて、思考なんて全部吹き飛んだ。
久世が俺の腰に手を回し、距離をゼロに詰めてくる。逃げ場なんてどこにもない。
「それからクリスタル・アートのハルトを見つけて……。一瞬であのアニメの虜になりました」
「久世……」
汗ばんだ掌の体温が服越しに伝わって、呼吸が浅くなる。
こんな、どうしようもなく乱される感覚、初めて──。
久世の瞳に映る自分を見ているだけで、体が熱くて震えが止まらない。
俺はただ、久世の腕の中で翻弄されるまま、この甘い痺れに呑み込まれていった。
次の瞬間、ふわりと俺の唇に久世の唇が重なる。それは柔道のように荒々しいものではなく、ショートケーキのように甘く、柔らかいものだった。
(あ、俺、今久世とキスしてる……)
そう自覚するまでに少しだけ時間がかかってしまう。
一度離れた唇は、もう一度確かめ合うように、先ほどより深く重なった。
(こいつマメ部のくせに、なんでこんなに手慣れてるんだ?)
そんなことを思っていると、耳元で久世の低い声が聞こえてきた。
「ハルトのコスプレを着てもらうのも楽しみですけど、脱がすのはもっと楽しみですね」
「……え?」
「瀬戸先輩、覚悟しておいてくださいね? 俺、寝技も得意なんです」
「……知ってる……」
「ならよかった」
久世が目の前でにっこりと笑う。そんなにも可愛らしい笑顔を向けられたら、何も言い返せなくなってしまうじゃないか……。
俺は心の中で、白旗を振ったのだった。
【完】
俺の名前は瀬戸紬、高校三年生。柔道部の部長だ。
我が月守高校の柔道部は部員が少ないため、廃部寸前である。今年新入生が一人入ってくれたから、なんとか団体戦は組むことができるようになったけれど、俺たち三年生が引退したら、部員は三人になってしまう。
しかも今、まさにバッドニュースが飛び込んできた。
俺と同じ三年で副部長である萩原が、車との接触事故で骨折してしまったというのだ。幸い萩原の怪我は大したことがなかったから、そのことには胸を撫で下ろした。
しかし、萩原が試合に出られないとなると団体戦が四人になり、萩原の番は不戦敗となって、試合の前から一敗を背負ってしまうこととなる。団体戦においては二回分の負けならセーフというところを、一敗しか余裕がないのは部員にとっても大きなプレッシャーだ。
それに今度の試合が俺たち三年生にとって最後の試合となる。
月守高校の柔道部は人数こそはぎりぎりだが、個々の力は確かである。オールメンバーで団体戦に出ることができれば、きっと安定していいところまでいけるはずなのに……。
個人戦もあるけれど、部の仲間が一丸となって挑む団体戦は、やはり一味も二味も違ってくる。
そう思うと悔しくて仕方がない。
柔道部の顧問は「仕方がない。萩原抜きでやろう」と言っているが、俺は諦めることができない。なんとか県大会を突破できれば、その先の関東大会では萩原の回復が間に合う可能性だってある。
試合まであと一か月。どうにか不戦敗は逃れたい。
「先生。俺が柔道経験者を探します」
それを聞いた顧問は驚いたように目を開く。それはそうだ。今から柔道経験者を探すことは困難を極めるだろう。
体育の授業で柔道を経験した、という生徒はいるかもしれないが、試合で即戦力となると見つからないかもしれない。
でも俺は諦めたくなかった。
「必ず柔道経験者を探して見せます」
俺はグッと拳を強く握り締める。それから覚悟を決めて宣言したのだった。
「とは言ったけどなぁ……」
柔道場から校庭を眺める。校庭では、野球部にサッカー部、陸上部が部活をしている。どの部活も、みんな一生懸命に練習を頑張っているようだ。
月守高校の柔道部だって、俺が入部したての時はまずまず部員数がいた。柔道場も試合会場が二面あるような立派なものだ。きっと昔は大勢の柔道部員で切磋琢磨していたのだろう。
しかし、田舎にある月守高校は過疎化の影響で子ども自体が少ない。更に在学している学生は、部活を一生懸命にやっている生徒と、部活をしていない生徒の温度差が物凄い。だから、帰宅部が多いのも事実だ。
「どっかに柔道経験者はいないかなぁ……」
ポツリと呟いて今度は校舎に視線を移す。すると、すぐ目の前の一階にある空き教室で、活動している部が目に飛び込んでくる。俺はその部活に冷ややかな視線を送った。
その部活は『漫画・アニメ研究部』。通称マメ部。いわゆるオタクの集まりだ。いかにもオタク……という雰囲気の生徒が、ワイワイと談笑している。中には漫画を描いている生徒もいるようだ。
マメ部は他の生徒たちからは「キモイ」と嫌煙されがちだが、案外部員は多い。俺たち柔道部に比べたら、明らかに活気づいている。
部員同士の会話が弾んでいるようで、笑い声が静かな校舎内に響き渡る。
誰になんと馬鹿にされようが構わない。彼らはそう言っているようだ。
「なんやかんやで楽しそうだけど、あそこに柔道経験者はいないよなぁ」
俺はマメ部を眺めながら、大きく息を吐いたのだった。
萩原が事故にあった翌日、部活が終わり帰ろうとした時──。
萩原から俺のスマホに着信があった。萩原は泣きながら何度も「ごめん」と繰り返す。事故にあったのは彼のせいではないし、萩原だって高校最後の試合をこんな形で終わらせることになるなんて無念だろう。
明日手術を控えているというこの時に、俺と柔道部のことを気遣い連絡をしてきてくれたのだ。
『俺だって、最後の試合を萩原と一緒に出場したかったよ』
そう出かかった言葉をグッと呑み込む。きっと俺がこの言葉を言ったら、萩原は今以上に自分を責めてしまうことだろう。
泣きながら「ごめんな」と繰り返す萩原の声を聞いているうちに、「たとえ不戦敗だとしても、残りの四人で頑張ろう」という前向きな思いが出てきた。
「あとさ……」
「ん?」
「お大事にな」と電話を切ろうとした俺を萩原の声が引き留めた。
「俺たちが通っている高校の二年に、久世蓮っていう同じ中学だった奴がいるんだけど。そいつ柔道がめちゃくちゃ強いから、もしかしたら声をかけてみたらどうかな?」
「……久世、蓮?」
俺は聞いたことのない名前に思わず首を傾げる。
でも確か中学の時、「一つ下に柔道が強い奴がいて、全国大会にも出場したことがある」という噂を聞いたことがある。たしかそいつの名前が久世だったような……。
「久世はガタイもいいし、力も強い。きっと役にたってくれるはずだ。だから紬から声をかけてみたらどうかな?」
「でも、そんなに凄い選手が、今は何をしているんだ? どこかの道場で練習してるとか? 違う運動部で活躍してるとか?」
「それがさ……。あいつ今は運動部じゃないんだよね」
「え? なんで? もったいないじゃん」
「そうなんだけど。あいつは……」
「はぁ? マジで?」
俺は萩原の言葉に、持っていたスマホを思わず落としそうになってしまう。なぜなら今、久世は柔道をやっていないらしい。萩原によると……。
「久世は今、マメ部に所属してるんだよ」
「はぁ⁉ 柔道全国区レベルの選手がマメ部に……?」
「あぁ。あいつ、中学の頃からアニメと漫画オタクだったからさ。高校に行ったらマメ部に入るんだ、って宣言してたんだ」
「それは、もったいないな……」
「だろう? だから久世に声をかけてみろよ。俺からも連絡入れとくし。紬相手なら、二つ返事でOK出してくれると思うんだ」
「わかった。ありがとう」
萩原に「お大事に」と言って電話を切る。
それから一気に力が抜けてしまった俺は、その場にしゃがみ込んだ。
「まさか全国区のレベルの選手がマメ部にいるなんて思わないだろう……」
俺は頭を抱え込む。
柔道場からマメ部の部室がよく見える。いつも「オタクがいっぱいいるなぁ」くらいにしか思っていなかったけれど、まさかそこに柔道経験者がいたとは……。
そう言われてみたら、やけにガタイのいい生徒が一人混じっていた気がする。もしかしたら彼が久世だろうか? 灯台下暗し、とはこういうことを言うのだろう。
「久世かぁ……」
俺は駅に向かいながらポツリと呟く。
もし、全国区の選手が柔道部のピンチヒッターになってくれたら、どんなにも心強いことだろうか。俺の萎んでいた心が、再び元気になっていくのを感じる。
「よし、明日マメ部に行ってみよう」
俺は駅に向かい勢いよく走りだし、家路についたのだった。
***
翌日、部活が始まる前にマメ部の部室に顔を出す。
マメ部の部室は、以前美術部が使っていたようだが、美術部が廃部になってからは、マメ部が活動場所に使っているらしい。
マメ部の部室を覗き込むと、俺が想像していた以上の生徒が教室内にいる。
楽しそうに推しとやらの話をする生徒に、漫画を描いている生徒、真剣な顔でパソコンの画面を見つめている生徒もいる。そこは、俺が今まで体験したことのないような不思議な空間だった。
「あ、室井。ちょっとちょっと……」
「あら、瀬戸君。どうしたの?」
「いいからちょっと来てくれない?」
俺は同じ学年の室井に向かい手招きする。室井はオタクではあるけれど明るくて、とても話しやすい。彼女くらいしかマメ部に知り合いがいなかったから、こうして室井を呼び出したのだ。
「瀬戸君がマメ部に来るなんて珍しいね」
「うん、ちょっとね……」
俺はそう言いながら、マメ部の部室内を彼女の肩越しに眺める。やっぱり異様と感じられてしまう雰囲気に、俺は尻込みしてしまった。
(でもここに、柔道部の救世主がいるんだ)
そう思えば、床を踏みしめる足に力が籠る。
「あのさ、ここに久世って奴いない? 多分俺たちの一つ下の学年だと思うんだけど」
「あぁ、久世君? いるわよ。ほら、あそこでゲーム作ってる子がいるでしょ? あれが久世君」
「ゲームを作る?」
「そう。彼はゲームを作ることが得意なのよ」
「へぇ……」
教室内を見渡すと「あ、あれが久世だ」と一目でわかるほど、ガタイのいい青年が、夢中でパソコンの操作をしている。
「久世君に用事があるなら呼んでこようか?」
「あ、うん。お願い」
「わかった。ちょっと待っててね」
そう言うと室井が「久世君」と名前を呼びながら久世に近づいて行く。
(久世は快く、柔道部のピンチヒッターに来てくれるだろうか?)
俺の心の中に、期待と不安が大波のように襲い掛かってきた。
少しすると、久世が「なんすか?」と廊下に出てくる。廊下に出てきた彼の顔は、ひどく緊張しているようにも、怒っているようにも見える。人見知りなのだろうか? それが久世の第一印象だった。
「あ、うん。忙しいところごめんね」
久世が俺の目の前に立ちはだかると、想像以上の体格の良さに一瞬言葉を失ってしまう。
制服越しでも隠し切れない筋骨隆々とした体躯。身長も恐らく百八十センチ以上はあるだろう。
黒髪の奥で、全てを見透かすような鋭い瞳が静かに光っている。一見すると近寄りがたいほどの威圧感を纏っているけれど、ふとした瞬間にその視線が俺へと向くとき、そこにはまるで凪のような静けさが宿っていた。
愛想が悪く、社交辞令で笑顔を作るタイプではないようだ。俺を見てもニコリともしない。
(こいつはできる)
きっとこれは柔道経験者だからわかることだろう。久世には全く隙がない。
俺が今不意打ちで掴みかかったとしても、きっと返り討ちに合ってしまうことだろう。
俺は久世のように、身長が高くてガタイがいいわけではないけれど、筋肉はそこそこついている。素早い動きで相手を翻弄し、最後は得意の背負い投げで勝負を決める。何より俺も関東大会だって経験している。そんな俺が、圧倒されるオーラを久世は持っていた。
「こいつがマメ部だって? もったいねぇ」
正直なところ、こんな奴が漫画・アニメオタクだなんて想像できない。
大きく息を吐いてから、久世と真正面から向きあった。
「あのさ、久世君」
「……クゼクン」
久世は噛み締めるように呟く。無表情ではあるが、心なしか頬に赤みが差している。普通に呼んだつもりだったが、気に障っただろうか?
俺が内心ドキドキしていると、久世は落ち着き払って口を開いた。
「久世って呼び捨てでいいです。俺のほうが年下ですから」
「わ、わかった。久世、今日は君にお願いがあって来たんだ」
ひとまずは安心するが、久世は表情がない分、何を思っているか読み取れない。
初対面ではあるし、頼み事をする立場だ。できるだけ印象は良くしたい。ここは慎重にいかなければ。
「久世、今日は君に頼みごとがあってきたんだ」
「はい。昨日萩原先輩から連絡がきました。あなたが瀬戸先輩ですよね?」
「あ、うんそうだけど……。と、とりあえず、萩原が怪我をしてしまったから団体戦の欠員が出ちゃったんだ。頼む。柔道部にピンチヒッターで来てほしいんだ」
「柔道ですか……。もう一年近くやってないなぁ」
そういいながら久世が不安そうに目を伏せる。
そんな久世を見て俺はびっくりしてしまう。ふと視線を上げた先にいたのは、制服のシャツ越しでもわかるほど逞しい体つきをしていた彼だった。目を伏せて思い悩む久世は、男の俺が見ても思わしげで。制服のシャツ越しでもわかるほどの逞しい体つきも相まって、雑誌のモデルのようだ。
(待ってよ。久世ってこんなにもイケメンだったのか?)
長い黒髪が柔らかな影を落とし、切れ長の瞳が射抜くようにこちらを見つめる。まるで俺の全身を頭の先からつま先まで舐めるように這う視線に顔が熱くなる。
思わず息を呑むような迫力と、そこから目が離せなくなるような繊細さが同居して、俺は一瞬言葉を失ってしまった。
久世はしばらく顎に手を当てながら、何かを考えこんでいる。それから覚悟を決めたかのように俺の瞳を見つめた。
この胸のドキドキは、ピンチヒッターになってくれるか不安なだけで、けっして女子のようなあれでは、ない。
「わかりました。今度の試合だけピンチヒッターで柔道部に行きます」
「よかった……。じゃあ、萩原の代わりに試合に出てくれるんだな?」
「はい。ただ俺がピンチヒッターに行くには交換条件があります」
「交換条件だって?」
俺はその言葉に眉を顰める。
まさか金品でも奪おうとしているのでは……。
「一体何を考えてるんだ?」と口を開こうとした瞬間、俺は更に驚いてしまい、開いた口が閉じなくなってしまった。
「瀬戸先輩、アニメ『クリスタル・アクト』の主人公、ハルトのコスプレをしてもらえませんか?」
「はい?」
「だから、俺が柔道部に行く代わりに、ハルトのコスプレをしてもらいたいんです」
「……コスプレ……。く、久世、お前本気か?」
「はい。大真面目です」
俺は自分に真剣な眼差しを向ける久世を見て、絶句してしまう。
『クリスタル・アクト』とは、今大人気のアニメのことで、最近映画が公開されたばかりだ。
確か工業高校に在籍しているハルトが主人公で、交通事故で亡くなってしまい、ある国の第一王子として転生した。彼が転生したのは戦争が盛んな中世ヨーロッパ。そして、ハルトは最新の技術を使い敵軍を次々に倒していく話だとニュースで取り上げられていた。
(今流行りの転生ものか……)
しかし漫画やアニメに興味のない俺には、そのアニメの詳しい内容まではわからない。
(コスプレって、何を着ればいいんだ?)
ふと不安になってしまった。
「もし県大会の団体戦で優勝できなければ、ハルトの制服姿のコスプレ。もし、団体戦で優勝できた場合は……」
「……場合は?」
俺はゴクリと息を呑む。鼓動が早まり、なんだか息苦しくなってくる。
久世は一体俺にどんなコスプレをさせたいというのだろうか?
「もし優勝したら、王子のコスプレをしてください」
「王子のコスプレだって?」
「はい」
俺はなんと言葉を発したらいいかわからなくなってしまう。大体、中世ヨーロッパの王子ってどんな格好をしているんだ……。それに、俺にそんな恰好をさせてどうするっていうんだ? 笑いものにでもする気か? そんなに「久世君」って呼んだのが悪かったのか……? 考えれば考えるほど、不安はどんどん膨らんでいってしまう。
そんな俺を見た久世が、俺の前に自分のスマホを差し出す。
差し出されたスマホの画面には、中世の王族の衣装を纏ったハルトが映っていた。色素の薄い髪が優雅に揺れ、円らな瞳でハルトが俺を見つめている。
それはイラストだったけれど、その凛々しい姿に、心臓が大きく跳ねた。ここは、マメ部の入り口なのに、俺の感覚だけが遠い異国へと迷い込んだみたいだった。
それに、確かに感じた違和感……。その正体に、俺は早くも気付いてしまう。
「なぁ。ハルトって、俺に似てないか?」
「はい、そうなんです。瀬戸先輩はハルトにそっくりなんです」
久世のスマホの中にいる少年は茶色の髪に、幼い顔立ち。そして真ん丸な瞳。
そう思って見ると、ハルトはまるで自分の生き写しのようだ。
「瀬戸先輩は俺のことを知らなかったでしょうけど、俺は瀬戸先輩のことを以前から知ってましたよ?」
「え?」
「ハルトにそっくりだな……って、ずっと見てましたから」
「そ、そうなの⁉」
「だから瀬戸先輩のお役に立てて、俺は嬉しいです」
「そりゃあ、どうも……」
俺は心の中で葛藤してしまう。今になって萩原の「紬なら二つ返事で受けてくれると思うよ」という言葉の意味がわかった気がする。
ハルトが着ていた制服を着るくらいならいいが、王子の衣装は……。自分があの衣装を着たら、七五三のようになるのではないか? と不安になってくる。
「でもたかがアニメだろう? なにもそこまでしなくても……」
「たかがアニメ、ですって?」
「……え?」
俺は明らかに久世の地雷を踏んでしまったことを肌で感じる。彼の表情が見る見るうちに強張っていくのがわかった。
「瀬戸先輩、あなたは全くわかっていない! クリスタル・アートはただのアニメじゃないんです! いいですか? あのアニメの主人公ハルトは、俺たちと同じ高校生なんです! それなのに不慮の事故で亡くなって……。そんなハルトの気持ちがわかりますか⁉ それに転生したハルトは……」
先ほどまで無表情だった久世が、堰を切ったようにクリスタル・アートについて熱弁を始める。俺はその変わりように、茫然と彼を見つめた。
「だから、俺は心の底から瀬戸先輩にハルトのコスプレをしてほしいんです!」
「そ、そっか……」
ひとしきり話し終えた久世が、確認するかのように俺を真正面から見つめてくる。
その眼差しに、いかに彼が真剣であるかが伝わってきた。
もう、悩んでいる時間なんてない。
高校生活最後の大会はすぐそこまで迫ってきている。しかも、今目の前にいるのは、全国レベルの力を持った柔道家だ。迷う必要なんてないだろう。
(もう、俺は開き直ったぞ)
俺の中で、何かがプツンと音を立てて切れたのを感じる。
試合に勝てるのであれば。制服でも王子の衣装でも何でも着ようではないか?
「わかった。コスプレするって約束する!」
「写真を撮ってもいいですか?」
「うッ。写真かぁ……」
「写真が駄目ならこの話は……」
「わかった! わかったから写真でも何でも撮れよ!」
「じゃあ、交渉成立ですね。通販で洋服を買っておきます」
「あ、あぁ。よろしく頼む」
俺は嬉しそうに頬を赤らめる久世と、熱い握手を交わした。
(やっちゃったかな……)
という後悔と、羞恥心を感じながら……。
(それにしても、こいつ無表情だし突発なことを言い出すし、何を考えているかもわからない。不気味な奴だ)
俺と久世の出会いは、お世辞にもいいと言えるものではなかった。
***
「失礼します」
「あ、久世! よく来てくれたね」
「はい」
翌日の放課後、久世は約束通り柔道場へとやって来る。
俺はすでに柔道着に着替え、ストレッチをしている途中だった。無表情でやって来た久世を俺は笑顔で出迎えようと彼に近寄った瞬間、その場の空気が一変したような気がする。空気がピンと張り詰め、背筋が伸びる思いがしたのだ。
一、二年の後輩は「あの久世さんだ」と目をキラキラと輝かせている。彼らにとって久世は憧れの存在なのだろう。
久世は俺を見ると「お世話になります」と深々と頭を下げた。その礼儀正しさに、俺は感心してしまう。
「こちらこそ。無理を言って悪いな」
「いえ。きちんと約束を守っていただければ、こちらは問題ありません」
「あははは……。そうだよな。約束だもんな」
「はい」
久世の言葉に思わず顔が引き攣ってしまう。
願わくは冗談であってほしいと思っていたのだが……。どうやら彼は真剣らしい。俺は肩を落とし大きく息を吐く。
「じゃあこの柔道着に着替えてくれるかな? 卒業した先輩が置いていってくれた物なんだけど」
「それには心配及びません。兄の柔道着があったので持ってきました。兄はこの高校の柔道部のOBなんです」
「へぇ。知らなかった」
そう言うと久世はスポーツバッグの中から柔道着を取り出す。背中には『月守高校 久世』というゼッケンがついていた。
そしてそのスポーツバックをよく見てみると、クリスタル・アートのキャラクターだろうか? キーホルダーがいくつかついているし、持っているタオルにはハルトのイラストが描かれている。
(やっぱりこいつオタクなんだなぁ)
柔道全国区の選手と、アニメオタク。
なんとなく違うカテゴリーのものに感じられるけれど、久世は本気でクリスタル・アートを推しているらしい。
「うちは部員数も少なくてマネージャーもいないんだ。だからマネージャーの仕事も自分たちでやっている」
「はい」
「じゃあ、あそこが部室だから着替えたらまたここに来てもらえるかな?」
「わかりました」
「じゃあ、よろしく」
「うっす」
久世はそう言い残すと部室へと向かって行く。彼は無口で、愛想笑いをしたり、お世辞を言ったりもしない。だから、久世と話す時は少しだけ緊張をする。
「よし、頑張るぞ」
俺は大きく伸びをしながら久世を見送った。
急なピンチヒッターとして道場に現れた久世は、さすがに全国区という貫禄だった。
真っ白な柔道着を纏っただけで周囲の空気が張り詰め、立ち姿から指の先まで、彼が背負ってきた膨大な練習量が立ち昇るようだ。彼がそこにいるだけで、道場全体が引き締まった静寂に包まれた気がする。
恐らく柔道をやめてからも筋トレは続けていたのだろう。鍛え上げられた筋肉に、思わず視線を奪われる。
柔道着を纏った久世は、思わず見惚れてしまうほどの凛々しさだった。
(こいつ、やっぱりイケメンだなぁ)
俺は惚れ惚れと久世を見つめる。
「よろしくお願いします」
黒帯をギュッと結びながら、久世はもう一度深々と頭を下げる。
頭を下げるのはこっちなのに……と、困惑してしまうほどの礼儀正しさだ。
「こちらこそよろしくお願いします」
俺も久世に習い、深々と頭を垂れたのだった。
それから一、二年生も集合したところで、久世を紹介した。
俺たちが狙うのは団体戦で県大会優勝。
団体戦優勝は一年からの俺の夢だった。勿論個人戦も大事だけれど、せっかく仲間がいるのであれば団体戦でもいい成績を残したい。そう思っているのだ。
「今日から久世が応援にきてくれた。でも久世が入ってくれたところで、他が負けたら意味がない。だから俺たちも頑張ろう!」
「はい!」
柔道場に響き渡る声。マメ部とはまた違うけれど、俺はこんな風に凛とした活気のある柔道部が大好きだ。
例えハルトのコスプレをすることになっても構わない。喜んで着てやろうではないか! と俺のテンションも上がっていく。
準備体操にストレッチ。回転運動に受け身の練習。久世は息を切らすこともなく、涼しい顔をして黙々と練習をこなしていく。
「じゃあ、打ち込みやるぞ。整列しろ!」
俺が号令をかけると部員たちが一斉に移動する。そして俺の目の前には久世が──。
(お手並み拝見といくか)
俺は目の前にいる久世に一礼をする。
「久世という凄く強い奴がいる」という噂は聞いたことがあるが、彼とは今まであまり接点がなかった。だからどれほど強いのかが俺には未知数だ。
とは言っても、俺だって自分がいる階級では県大会で優勝できるほどの実力を持っている。だから歯もたたない、ということはないだろうと考えていた。
「打ち込みはじめ!」
俺の掛け声と共に、部員たちが各々の得意な技で打ち込みを始める。とりあえず俺は久世に向かい「先に打ち込んでいいぞ」と右手を掲げ、腰を落として態勢を整える。
「お願いします」
そう言いながら久世が俺の柔道着に手を掛けた瞬間、「こいつ、できる」。俺は咄嗟にそう感じた。
久世と打ち込みを始めた瞬間、想像を遥かに超える力強さに言葉を失った。
引き寄せられる度に足元が揺らぐような密度と、空気を震わせる鋭い気迫。目の前の彼が放つ強さは、俺が抱えていた日々の重さを一瞬で忘れさせるほど、鮮烈で圧倒的だった。
まるで津波のように押し寄せてくるのに、その動きは獅子のように素早い。俺は想像以上の久世の腕前に度肝を抜かれた。
たったそれだけで、久世がどんなに柔道が強いのかがわかってしまった。
しかし、久世は過去の栄光や、いかに自分が柔道を頑張ってきたかをひけらかすこともなく、淡々と練習に取り組んでいる。
普通だったら「自分は全国区レベルの選手だ」と自慢の一つもしたくなるだろうに。そう考えると久世は謙虚な性格の持ち主とも言っていいだろう。
俺はそんな久世に段々興味を持ち始めていた。
(あいつが本気を出したらどんなに強いのだろう)
久世と同学年、年下の部員たちは完全に歯が立たなそうだ。
でも俺ならば……。
好奇心がむくむくと芽を出した俺は、久世の肩を叩いた。
「なぁ、俺と乱取りしようぜ? それとも、まだウォーミングアップが必要か?」
「あ、いえ」
久世が気まずそうに目を伏せたから、俺は慌てて言葉を付け足す。
「別に無理じゃないんだ。久世まで怪我をしたら大変だし!」
「そうじゃなくて……。ハルトと対戦ができるなんて光栄だなって……」
「へ?」
頬をうっすらと赤らめ俯く姿は、まるで恋する少女だ。
彼はアニメのキャラクター、しかも男相手に本気で恋をしているのだろうか……。
「と、とりあえず乱取りしてもらえるかな?」
「……わかりました」
照れ臭そうに鼻の頭を掻く久世を見ていると、俺まで恥ずかしくなってしまった。
「じゃあ、お願いします」
「うっす」
俺は久世の様子を窺いながら一気に間合いをつめる。久世の柔道着の襟をつかんだ瞬間体と体がぶつかり合い、それだけで俺の体が吹き飛ばされそうになる。
身長は恐らく十センチ、体重も十キロ以上は差があるだろう。そんな久世にしてみたら、俺は子どもくらい非力な相手かもしれない。それでも、俺だって県大会の個人戦で優勝した実力者だ。ほんの少しでもいい。抗いたいという強い衝動が、俺の闘争心に火をつけた。
力では勝ち目がないから、スピードと体力で勝負だ。
俺は何度も圧し潰されそうになるのを必死に堪える。その時、今まで完璧だった彼のほんの一瞬だけれど隙を見つけることができた。
(ここで得意の背負い投げだ……!)
俺は全身の神経を研ぎ澄ませ、力を込める。
得意の背負い投げを試みたはずが、その瞬間、彼の中に呑み込まれるような感覚に陥った。
次の瞬間世界が反転し、背中に硬い畳の感触が走る。久世に完全に制圧されたのだと理解するまでのわずかな空白の時間、視界に映る天井の照明がやけに遠くて。
自分の全ての力が久世という圧倒的な強さに塗り替えられてしまったことを、ただ茫然と噛み締める以外に方法が見当たらない。
(全く勝負にならなかった)
俺はその無力感に打ちのめされた。
「大丈夫ですか⁉ ハルト!」
(誰がハルトだって……?)
俺は呆然と照明を見ながら奥歯を噛み締める。
こんな風に完敗したのは本当に久しぶりだ。
久世に思い切り投げられたせいで、背中がヒリヒリする。でもそれ以上に、心が痛くて堪らなかった。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。全然大丈夫」
「よかった。ハルトに怪我がなくて……」
「いや、俺、ハルトじゃないから」
久世が俺の手を引いて立たせてくれる。
心配そうに俺を見つめる久世に「大丈夫だよ」と笑顔を見せる。でも心の中は、悔しくて悔しくて……。今にも叫び出したい気分だった。
俺は久世の得意技である体落としでいとも簡単に敗退してしまう。大体、久世の体落と得意技が体落としだなんて知らなかった。実力もさながら、相手の得意技すら知らずに挑んでしまうなんて……。完全に俺の負けだ。
「ちくしょう……」
俺は頭から水道の水を被る。悔しいやら、情けないやらで、泣きたい気分だ。
まさか、こんなにも実力の差があるとは思わなかった。久世のことを、甘く見ていた愚かな自分が恥ずかしい。
その時、ふとタオルが目の前に差し出される。そのタオルからは優しい柔軟剤の香りがした。
(誰だ……?)
俺がびしょびしょに濡れた髪の毛のまま顔を上げると、そこにはハルトのイラストが描かれたタオルを持った久世が立っていた。
「これ、使ってください」
「え? でも、このタオル、ハルトのイラストが描かれてるから、久世の宝物なんじゃ?」
「はい。このタオルはブルーレイ購入特典のレアものです」
「そんなタオル借りられないよ!」
「大丈夫です。もう一枚ありますから」
「はぁ⁉ ブルーレイ二つも買ったのか?」
「はい。タオルは使う用と保管用です」
「でも、二つも買うなんてもったいないじゃん⁉」
「推しの為に使うお金に、もったいないなんてありません! むしろ『使わせてくれてありがとうございます』という気持ちです! 推しこそが我々の生きる活力なんですから!」
久世はそう言いながら無表情で俺の髪を拭いてくれる。大きな久世の手で髪を拭かれると、まるで頭を撫でてもらっているようで……。なんだか気持ちがいい。うっかり、涙で目の前が滲んで見えた。
「先輩なのに、あんなにあっさり一本負けなんてかっこ悪いよな」
「そんなことありません。俺と瀬戸先輩では、体格差があり過ぎます」
「でも……」
「いいから顔を上げてください。髪の毛が拭きにくいです」
「わ、痛い、痛いよ……」
「すみません。大丈夫ですか?」
久世の俺の髪を拭う手が、ふと止まった。湿った髪から漂う微かな熱と、彼の指先の感触に意識が集中する。そっと顔を上げると、至近距離で久世と視線が絡み合った。
改めて見つめると、彼は驚くほど整った顔立ちをしていて、その鋭い瞳だけが俺を映していることに気付く。心臓の音が、下校を知らせるチャイムに掻き消されていく。いてもたってもいられず、俺は顔を逸らしてしまった。
「それに、俺、実は瀬戸先輩のことを知っていたんです」
「え?」
「初めて見た時は、すごくハルトに似ているな……、程度でした。でも、ひたむきに柔道に取り組む姿勢に、段々興味が湧いてきて。気付いた時には自分は出場しないのに、試合会場に足を運んで、瀬戸先輩のことを応援するようになりました」
「な、なんだよそれ、全然気付かなかった」
「当り前です。気付かれないようにこっそり見ていたんですから」
恥ずかしいことをさらりと言う久世に、俺は開いた口が塞がらない。
「だから、瀬戸先輩の癖とか、得意技を知っていたんです」
「だからって……」
「瀬戸先輩。去年の冬の大会の団体戦のことを覚えてますか?」
「去年の冬の大会……。あぁ、俺が大将を務めた大会だ」
「そうです」
「でも、なんでそんな試合の話を……」
突然去年の試合の話を持ち出された俺は困惑してしまう。
一体久世は何が言いたいんだ? 俺はまるで探るかのように久世の瞳を見つめた。
「実はあの試合、俺も見に行ってたんです」
「え? そうなのか?」
「はい。あの試合は忘れられません」
確かに、あの時の大会での試合は、今でも忘れることができない。
先輩が引退し、中堅が不戦敗というハンデを負った中、副将の萩原が根性で勝利をおさめ迎えた俺の番。試合は一分け二敗で大将戦へともつれ込んだ。
「県大会で優勝したい」というその一心で、俺は無我夢中だったのを今でも鮮明に覚えている。
あの試合では、制限時間ギリギリに俺の背負い投げが決まり、県大会優勝を勝ち取ることができた。
「あの時の瀬戸先輩の背負い投げ、本当に凄かったです」
「お前、本当に試合を見に来てたんだな?」
「はい。どうしても瀬戸先輩が気になってしまって……」
「お前が気になったのは俺じゃなくて、ハルトだろう?」
「あははは! そうかもしれません。ごめんなさい」
(あ、久世が笑った……。こいつ、こんな風に笑えるんだ……)
いつも感情の読めない無表情を貫く久世が、ふっと肩を震わせ声を出して笑った。それはまるで、硬い氷が溶けだすような優しい音だった。
初めて見る久世の無邪気な表情に心臓が大きく波打ち、胸の奥が温かく染まっていくのを感じる。
胸の鼓動がやけにはっきりと鼓膜に響き、呼吸も苦しくて、俺は無意識に自分の柔道着の襟を掴む。
初めて見た久世の笑顔は、俺の心の中に深く刻み込まれた。
***
それから毎日、久世はクリスタル・アートのキーホルダーがついたスポーツバッグを持って練習へとやって来る。
早くも柔道の勘を取り戻したらしく、もう久世に太刀打ちできる柔道部員は、俺以外にはいない。それでも、俺は全国区の選手の力に圧倒されてしまっていた。
けれど、自分より強い相手と練習できることは嬉しくもあり、刺激にもなる。いつの間にか、俺は久世と柔道をすることが楽しみになっていた。
畳の上で躍動する久世の動きは、誰にも追いつけないほど鋭く、眩しい。
その姿に心を奪われると同時に、自分との決定的な差を見せつけられているようで、奥歯を噛み締める。久世を頼もしいと感じる度に、自分の無力さが突き付けられえるようで、喉の奥がひりつくような葛藤を覚えた。
「ようやく昔の勘を取り戻してきました」
そんな俺の葛藤など知らない久世は、いつものように無表情で俺に話しかけてくる。
久世ははじめの頃は不愛想で取っつきにくい印象があったけれど、慣れてしまえば大きな犬のように懐いてきてくれる。
いつも少しだけ緊張したような顔で俺の傍へとやってくる。決して口数が多いわけではないけれど、それでもそんなちょっとした変化が嬉しい。
「慣れたどころじゃなくて、また全国制覇を狙えるんじゃないか?」
「いや、まだまだです。これからも日々精進します」
「あ、うん」
俺に向かって深々と頭を下げる久世。この礼儀正しいのは以前から変わっていない。
堅物で不愛想だけれど、どこか憎めない。久世はそんなキャラクターだった。
「でも、どうせならば県大会で優勝したいので、ハルトの衣装を注文しておこうと思います」
「はい?」
「王子の洋服はレア物なんですが、昨日ようやく通販で見つけたんです。今日帰ったら早速注文しておきますね」
「そ、そうか……」
「制服の方はもう注文してあるので安心してください」
「あ、うん。安心したよ」
「瀬戸先輩がハルトの衣装を着てくれるのが楽しみだなぁ」
そう言いながらふわりと微笑む久世。
(あ、また笑った……)
俺は久世が笑う度にドキドキしてしまう。普段笑顔を見せないイケメンが、時折見せる笑顔の破壊力は半端じゃない。しかも久世は俺の前でしか笑わないような気がする。
そういった俺の傲慢さが「自分は彼の特別なんだ」と勘違いを起こしてしまう原因となっている。
でも何度自分に「久世はあれが普通なんだ」と言い聞かせても、俺の勘違いはなかなか修正をすることができない。
「本当にいい加減にしろよな、俺」
「え? どうかしましたか?」
「いや、なんでもない!」
不思議そうに顔を覗き込んでくる久世に向かい、俺は笑って見せた。
それから毎日久世と部活で顔を合わせる度に、少しずつ仲良くなっていることが俺は嬉しかった。それに、こんなにも一生懸命努力しているんだ。絶対に勝たせてやりたい……。いや、俺が勝たせてやるんだ。いつしか俺の心の中に、そんな願いが芽生えていた。
「乱取りはじめ」
「お願いします!」
俺の乱取りの一番最初の相手は久世だ。俺と久世が乱取りをやると、七割がた俺が負けてしまう。しかし、たまに久世に勝てた時の快感は堪らない。
だから、俺は久世と勝負をすることが好きだった。
組み合った瞬間、互いの筋肉が硬くせめぎ合う感触がダイレクトに伝わってくる。
久世の荒い呼吸が首筋に触れ、額から滴る汗が俺の肌に流れる度、視界が白く染まっていくような感覚。
技をかけ、かけられ、畳の匂いと泥臭い熱気に包まれていくうちに、日常の悩み事がちっぽけに思えてくるから不思議だ。
「今だ!」
「くッ⁉」
久世のほんの一瞬の隙をついて俺は得意の背負い投げの体勢に入る。久世が抵抗したけれどももう遅い。その大きな体はふわりと空に浮き、次の瞬間畳に叩きつけられた。
「よっしゃー!」
乱取りの末、ようやく手にしたはずの勝利。
けれど、悔しさに顔を紅潮させギラついた瞳で「もう一本、お願いします!」と食らいついてくる久世の姿を見た時、俺の心臓が跳ね上がった。
俺が知っている久世は、マメ部でいつもパソコンの前でブツブツと何かを言いながら作業をしていたオタクだった。
そのオタクが実はイケメンで、柔道も全国区の実力の持ち主。
そして、今自分に負けた悔しさを惜しみなく爆発させ、再び向かってこようとしている。
(なんだよ、このギャップは……)
自分を追い詰める久世の熱に、負けたくないはずの自分がときめいてしまっているなんて……。
マメ部の久世と、今一緒に柔道をしている久世。それはまるで別人のようで、俺の心を激しく揺さぶる。
「俺ってギャップ萌えするタイプだったんだ」
悔しそうに顔を歪め、柔道着の襟を正す久世を見て俺は言葉を失ってしまう。
「もう一本お願いします」
「あ、うん。来いよ」
完全に集中力が切れてしまった俺は、熊のように自分に突進してくる久世に、あっけなく投げられてしまった。
俺が柔道場の扉の前に立ち涼んでいると、久世がのっそりと俺の傍にやってくる。
どうやら俺は、この男に懐かれてしまったらしい。
でも、恐らく俺だけに向けられるだろう悔しさを滲ませた苦悶の表情や、柔らかな笑顔を見ることができることに、やっぱり俺は喜びを感じてしまう。
久世が俺だけに見せる顔がある──。そんな現実に、俺は優越感を覚えた。
「今日は瀬戸先輩に一本取られてしまいました」
「いいじゃん。たまには先輩に花を持たせろよ」
「でも、昨日ハルトの王子バージョンの衣装を注文してしまいました。だから、俺は負けるわけにはいかないんです」
「そっか……」
その久世の言葉に俺の胸にズキンという痛みが走る。
久世は『俺』じゃなくて『ハルト』の為に戦っていたんだ。
そう思った瞬間、風船のようにパンパンに膨らんでいた心が一気にしぼみ、心の中に隙間風が吹き込んだ気がする。
「……俺、何を勘違いしていたんだろう」
ポツリと呟く。
(久世はやっぱり漫画・研究部の部員なんだ)
それに気付いてしまった俺は、なんだか寂しくなってしまい、唇を噛んで俯いた。
でも、どうしても久世にときめいてしまう。
俺の心は大きく揺れた。
その翌日。それは昼休みがもう少しで終わるという頃だった。
俺が学食から教室へ戻ろうと廊下を歩いていると、渡り廊下を歩く久世を見つけ足を止める。移動教室だろうか? 数人の友達と一緒に歩いているところだった。
次の瞬間、俺の心臓が大きく飛び跳ねる。鼓動がどんどんと速くなり、手にじっとりと汗が滲んだ。
久世と一緒にいるのはマメ部の部員たちだろう。その輪の中で久世は笑っていた。
それは俺に向けられる武骨な笑顔とは違う、軽やかで無防備な表情。
その笑顔を見た瞬間、羞恥心や裏切られたという思い、それから喪失感。色々な感情が大波のように押し寄せてきた。
あぁ、俺は勝手な線引きをしていただけなんだと、自分の勘違いが急に恥ずかしくて堪らなくなる。
「何が俺だけの前で笑うだよ……」
胸の奥が締め付けられるようにギュッと痛む。
誰の目にも触れるあの渡り廊下の光が、まるで独占欲を暴くスポットライトのように眩しくて……。俺はただ、俯くことしかできなかった。
***
久世が柔道部に来るようになって、一週間が経過した。
彼は一日も練習を休むことなく、週末の練習にも顔を出してくれている。その真面目さに、俺と柔道部の顧問の先生は感心しっぱなしだ。
今日も、クリスタル・アートの主人公、ハルトのタオルを首に掛けた久世が「お世話になります」と俺に向かって深々と頭を下げた。
大会までもう少し。
嬉しいことに萩原の手術も成功し、順調に回復しているらしい。これで県大会優勝が決まれば、こんなにうれしいことはないだろう。
ハルトのコスプレを除いては……。
試合が近い分、念入りに準備体操をしてストレッチもした。
「よし、じゃあ次乱取り行くぞ」
「はい」
後輩たちが移動していく中、久世はやはり俺の前に並ぶ。
(そんなに俺と乱取りしたいのかな?)
と、不思議になるけれど、久世はいつも真っ先に俺と乱取りをやりたがるのだ。
これは心してかからないと……。俺も自然と気合が入っていく。
「はじめ」の号令と共に「お願いします!」と久世が俺に近づいてくる。その殺気だった雰囲気は怖いくらいだ。
久世と向かい合い、互いの柔道着を掴む。その瞬間、道場の空気が凍り付いたように静まったような気がした。
俺が隙を探して一歩踏み込むと、久世はそれを待っていたかのように俺の腰を引き寄せ、密着させる。背中に回された大きな手が俺の背骨をなぞるような圧力を感じ、耳元で「もっと来い」と囁かれた気がした。
抗いたいのに、久世の胸板に押し付けられた俺の心臓は、彼のペースで激しく鼓動を刻み始めている。
(あ、ヤバイ……)
その瞬間グイッと強く腕を引かれ、体がフワリと宙に浮く。そのまま畳に叩きつけられた。
久世の内股が決まり、畳に叩きつけられた衝撃と同時に、右足首に走った鋭い痛み。
「いってぇ……」
俺は右足を抱えて蹲った。
「先輩、大丈夫ですか⁉」
後輩たちが驚いたような顔で俺の方に向かって走ってくる。みんなが青ざめた顔をしながら俺を取り囲んだ。
それはそうだ。大会三週間前に部長が怪我だなんて洒落にならない。
最悪のシナリオが俺の頭を駆け巡った。
「瀬戸先輩大丈夫ですか⁉ すみません、俺のせいで……」
「久世のせいじゃないよ。俺が上手く受け身が取れなかったんだ」
「でも……」
「大丈夫。少し休めば動けると思うんだ」
心配そうに俺の顔を覗き込む久世に向かい笑って見せた。
本当のところ、少しずつ痛みは引いてきている。きっと少し休めば大丈夫だろう、と体を起こそうとした瞬間──。
久世は迷いもせず俺のことを抱き上げた。
「え? ちょ、ちょっと久世!」
「捻挫でもしていたら大変です。保健室に行きましょう」
「保健室⁉ だから少し休めば大丈夫だって!」
「駄目ですよ。大会前の大切な体なんです」
「待て、久世、待ってよ!」
「待ちません!」
柔道で誰かを背負うのとは真逆の、されるがままの無防備な体勢。
久世は勢いよく走り出す。彼の腕の中で視界が大きく揺れ、保健室へと走る久世の荒い息遣いを耳元で聞く。
柔道着を着た男が、柔道着を着た男をお姫様抱っこして走る姿を見た生徒たちが、呆気にとられたような顔で自分たちを見ているのがわかる。
(超恥ずかしい……!)
俺たちを見る生徒たちの視線が痛くて、穴があったら入りたい気分だ。
しかし久世の顔を見ると真剣そのものだ。きっと俺に怪我をさせてしまった、なんとかしなければ……と、必死なのだろう。もう、それほど痛みもないのに。
久世は足で保健室の扉を開けると「先生! 瀬戸先輩が大怪我をしました!」と声を張り上げる。
「え? 大丈夫?」
心配そうな顔で俺に駆け寄ってくる養護教諭。柔道の練習中に、さぞや大怪我をしたと思ったのだろう。
「瀬戸君大丈夫? どこが痛いの?」
必死に俺の体を診察してくれる養護教諭に、俺は「もう大丈夫です」と小さな声で返答する。羞恥心のあまり、養護教諭の顔を見ることさえできない。
久世の好意はありがたかったけれど、俺はそれ以上に恥ずかしくて……。顔から火が出そうだ。
保健室で右足首を冷やしてもらい、湿布を貼って貰った俺は、自分の足で歩いて柔道場へと戻ったのだった。
その日の部活終わり、心配した久世が、俺がいつも使っている駅まで送って行ってくれることとなった。
あの後、部活は休んだけれど、今歩いても全く痛みはない。だから久世に何度も「もう大丈夫だから」と言ったのに、彼は「いや、送って行きます!」と一歩も引かなかった。
この不愛想な男はどうやら強情な性格らしい。俺は仕方なく駅まで送ってもらうことにした。
「瀬戸先輩、足が痛いなら言ってくださいね? 俺が背負いますから」
「背負うって、おんぶってこと?」
「そうです」
「嫌だよ! 恥ずかしい! もう痛くないから大丈夫だよ!」
学校内でお姫様抱っこされただけでも十分恥ずかしいのに、こんなにも人が行き交う道でおんぶだなんて……。久世は一体何を考えているんだろうか? 一瞬で俺の頬は熱を持ってしまう。
「だって嫌なんです。俺のせいで、瀬戸先輩まで試合に出られなくなることが……」
「柔道に怪我は付き物だから、仮に俺が怪我をしたとしても久世のせいじゃないよ」
「……それでも、嫌なんです」
いつもブスッとした表情をしている久世の顔が急に暗くなり、俯いてしまう。
もし久世が大型犬で、耳と尻尾があったならば、きっと力なく垂れ下がってしまっていることだろう。
「俺、去年の冬の団体戦の試合を見に行ったって話したじゃないですか?」
「……あ、うん」
「あの時の瀬戸先輩のことを今でも鮮明に覚えてるんです」
久世は俺の方を見ながらそっと笑みを浮かべる。その瞬間俺の心臓がトクンと跳ね上がる。彼は笑っているのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「一分け二敗で迎えた大将戦。先輩は緊張からか顔を強張らせていた。それでも敵を真っすぐに見据え、ぶれることなんてなかった。あの時の瀬戸先輩、本当にかっこよかったです」
「そっか……。ありがとう」
「悪に立ち向かうハルトみたいで、俺、感動しました」
「あ、やっぱりハルトなんだ……」
普段お世辞を言わない久世から飛び出した言葉に喜んだのも束の間。結局俺は、久世にとってハルトの代わりでしかないのか……。
そう思った瞬間。ズキンと胸が張り裂けそうに痛んだ。
「その時俺思ったんです。瀬戸先輩は俺が守りたいって」
「……え?」
「瀬戸先輩は俺が守るんだって。そう思いました」
その時俺の右手がふわりと宙に浮き、久世に手を握られる。こんなに人がたくさんいるところで何やってんだよ! と言いかけた言葉を俺は呑み込んだ。普段は使わない裏路地には人の姿はなく、俺たち以外には誰もいなかったから……。
「本当は、今更だけど柔道部に転部しようか悩んだんですが、そんな勇気もなく……。だから、今回先輩が声をかけてきてくれて、俺、嬉しかったんです」
「久世……」
「だから心配くらいさせてください。この裏路地は滅多に人も通りません。だから、手を繋いでも大丈夫です。それに、足が痛かったら背負いますからね」
「もう痛くないから……大丈夫……」
「ならよかった。でも無理はしないでください」
ふわりと向けられた笑顔に、心臓の奥が不意に撃ち抜かれる。
駅までの距離、繋いだ手から伝ってくる久世の体温は、俺の心拍数とシンクロするように熱を帯びていく。
『やっぱり恥ずかしいから手を離して』
普段なら冷静に返せる言葉も、今は胸の奥で詰まってしまう。
俺を保健室まで運んだ久世の力強さと、自分に向けられる柔らかな眼差しに、俺は『柔道部部長』を完全に忘れ、ただ弱い一人の男として久世の中に溶けてしまいたいという、抗えない情動に溺れていた。
そして、久世が俺とハルトを比較する度に胸がチクリと痛む。
久世が俺を慕ってくれるのは、敵に立ち向かうハルトに似ているから。そして、自分に向けらえる優しさは、自分の押しに対する愛情──。
久世は俺の中にハルトを見ていて、本当の俺を見てくれていないような気がして、寂しさに襲われる。
「なんだよ、このモヤモヤは……」
俺は奥歯を強く噛み締める。
悔しくて、寂しくて、目頭が熱くなるのに、久世の手を振り払うことはできない。
俺たちは大通りに出るまで、手を繋ぎ続けたのだった。
それ以来、俺と久世の距離感が変わったような気がする。
今まで先輩と後輩だったのが、まるで王子とボディーガードだ。これではますますクリスタル・アートのハルトに近づいてしまう。
最近、クリスタル・アートのアニメを全話見てみた。久世がそんなにもハマるアニメとは一体どんなものかが気になったのだ。すると、自分とハルトがよく似ていることに驚かされる。
リビングでクリスタル・アートを見ている時、家事をしていた母親が手を止め、「あら、この主人公、紬にそっくりじゃない!」と驚いていた。
本当に俺とハルトは見た目がそっくりなのだ。
だから、久世に優しくされても、心配してもらっても素直に喜ぶことができない。
久世には、俺を見て欲しいのに……。
(あのアニメオタクの馬鹿野郎……)
俺はクッションを抱えてソファーに寝転んだ。
俺の怪我騒動をして以来、俺は久世と手を繋いだことを思い出しては、頬が熱くなるのを感じる。
(久世の手、俺の手より大きくて、ゴツゴツしてたなぁ)
俺は自分の右手を見つめる。
きっと久世も、あの大きな手で柔道を頑張ってきたのだろう。
俺は今まで柔道一筋で来たから、誰かとお付き合いをしたこともない。だから手を繋いだのなんて、もしかしたら幼稚園の遠足が最後かもしれない。
ただでさえ、柔道は相手との距離が近いスポーツだ。組み合った瞬間、久世との距離はゼロになる。
普段保っているはずの心地よい距離感なんて、この柔道には存在しない。
柔道着越しに伝わる体温と、鼓動の速さまでがわかってしまうくらいの距離が、どうしても恥ずかしい。
(こんなことを考えていたら、また怪我をするぞ)
そう自分に気合を入れてみるのだけれど、逃げ出したい思いと、このまま久世に囲まれていたいという矛盾した心が、ただただ顔を熱くさせる。
「おい紬、いい加減にしろ!」
俺は自分の頬を叩き、気合を入れ直したのだった。
準備体操、ストレッチ等を怪我のないようにしっかりと行い、打ち込みの次は寝技の練習だ。一番体が密着する時でもある。そんな中、俺の心臓が再び早く鼓動を刻み始めた。
(しっかりしろ、俺。こんなんじゃまた怪我の騒動を引き起こすぞ)
俺は何度も自分の頬を叩き、気合を入れる。
そして目の前には久世──。
俺たちは正座したまま向き合い、「よろしくお願いします」と畳に手を付きお辞儀をした。
「寝技、はじめ!」
「お願いします!」
その号令と共に久世が一気に距離を詰めてくる。
正直なところ、俺は立ち技が得意で寝技が苦手だ。寝技では久世にほぼ勝ち目がない。
俺は体重が軽いから、久世のような体格のいい選手に一度抑え込まれてしまうと、逃げることはできない。技術でなんとかカバーしようと試みるものの、久世は寝技も得意らしく今まで負けてばかりだ。
なんとか久世の攻めに耐えていたが、仰向けにされた俺の上に、彼の重みが乗る。逃げ場を塞ぐように四肢を固められ、視界の全てを久世の肩幅に占領される。
乱れた呼吸が互いの頬を掠め、汗ばんだ肌が密着する度、心臓の鼓動がどこまでが自分で、どこからか久世のリズムなのかわからなくなる。
畳の硬さも忘れて、ただ久世の支配下で身動きが取れなくなるこの時間が、どうしようもなく甘くて、そして恐ろしい。
久世に抑え込まれ少し経ってた頃「久世、もう完敗だ」と彼の肩を叩く。すると久世は「よっしゃー!」と嬉しそうにガッツポーズを作った。その行動は幼くて、可愛らしく見える。
「もう一本行くか?」と声をかけようとした時、久世が俺の右足にそっと触れた。
「瀬戸先輩、足はもう大丈夫ですか?」
「え?」
「今日普通に練習してますけど、もう痛くないのか、ずっと心配してました」
そう言いながら久世が心配そうに俺の足を擦ってくる。その瞬間、くすぐったさに堪え切れず。思わず吹き出してしまった。
「あははは! 久世、そんなに優しく触ったら擽ったい!」
俺が身を捩って笑うのを見て、久世は面白がるように、悪戯っぽい瞳で足の裏を追いかけてきた。
「もしかして、瀬戸先輩、くすぐったがり屋さんですか?」
「うん! 久世が優しく触るからくすぐったくて……。あはははは!」
「じゃあ、ここもくすぐったいとか?」
「そこも駄目! あははは! お腹痛い!」
「あはは! 瀬戸先輩の弱点見つけちゃいました」
さっきまでの真剣な雰囲気はどこへやら。先輩として毅然としていなければ……という強がりはどこかへ消え去り、畳の上で二人、声を上げて笑い転げる。
(久世って、こんな風に馬鹿笑いするんだ)
久世の笑顔は子どものように無邪気で、とても可愛らしい。
彼の意外な一面を見たような気がして、それも嬉しくて仕方がない。
それと同時に、この笑顔を向ける相手が自分だけだったらいいな、と感じてしまう。
久世の手のひらが触れる場所から、今まで感じたことのないほど純粋な親密さが、じわりと胸の奥まで広がっていくのを感じた。
腹を抱えて笑う俺たちを、ほかの部員たちが呆然と眺めていたなんて、俺たちは気付きもしなかった。
俺は久世との縮まっていく距離が嬉しくも思いつつ、強い戸惑いを感じていた。
***
それはある日の部活が終わった後のことだった。
俺が帰りの支度をしていると、久世が俺の傍に寄ってくる。いつも通りスポーツバックにはハルトのキーホルダーが揺れていた。
「瀬戸先輩、この後何か用事がありますか?」
「あ、いや、特には……」
「ならば、少し付き合ってもらえませんか?」
「……え?」
俺は今まで部活が終わった後、今はもう卒業してしまった先輩や、今いる後輩たちとファミレスによってご飯を食べて帰ったこともある。でもまさか、久世に放課後誘われるなんて……。俺は少しびっくりしてしまった。
まぁ、コンビニに誘われた理由なんて何となくわかるけどね。
「もしかして、今コンビニでやってるクリスタル・アートのクジが引きたいとか?」
「え? 先輩よくクジのこと知ってますね?」
「久世があまりにも『ハルト、ハルト』って騒ぐから、最近はクリスタル・アートのことが気になって仕方がないんだ」
「本当ですか? それは嬉しいです」
久世はそう言って、キラキラと瞳を輝かせる。
そんな久世に『実はクリスタル・アートのアニメを全部見た』と言うこともできず、大きく息を吐く。なんだか、久世の世界に引き込まれてしまったようで、面白くなかったから。
「そのクジはクリスタル・アートのキャラクター、全七種類のアクスタがランダムですけど必ず貰えるクジなんです。でもクリスタル・アートは人気だから、一人四枚しかクジが引けなくて……。もう何十回と引いたんですが、どうしてもシークレットのハルトだけが出ないんです」
「アクスタ? なにそれ」
「アクリルスタンドの略で、キャラクターのイラストがアクリル板に印刷してあって、飾れるようになってるんです」
「へぇ……」
「でも、シークレットのハルトだけなかなか出なくて……。でも、俺、どうしても欲しいんです」
そう言いながら悲しそうに俯く久世を見ると可哀そうになってしまう。
久世も俺たちに協力してくれているのだから、俺も力を貸してやりたい、そう思ってしまった。
「ちなみに、いくらくらいそのクジに使ったの?」
「そうですねぇ。一回が八百円くらいするから一万くらいかな?」
「一万⁉ お前何やってんだよ! もったいない!」
「でもやっぱりシークレットはレアだけあって、なかなかはるとのシークレットは当たらないんです」
「でも……やっぱりもったいなくないか?」
「推しの為ならもったいないなんてことはありませんよ!」
「そ、そういうものなのか?」
「そういうものです! 俺、命に代えてもハルトのアクスタをゲットしたいんです!」
先ほどまであんなにも凛々しい姿で柔道をしていた久世と、今目の前でクリスタル・アートについて熱く語る久世はまるで別人のようだ。
「瀬戸先輩がクジを引いたら、レアのハルトが出ると思うんですよね」
「そうかなぁ。でも久世がそれだけ引いて無理だったんだから、きっと出ないよ」
「そんなことありません。瀬戸先輩をハルトが呼んでいる気がするんです」
「……わかった。付き合うよ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
久世は切れ長の瞳をキラキラとさせながら、帰り支度を始めたのだった。
その足で駅から一番近いコンビニへと向かう。
そんなにも、レアのハルトのアクリルスタンド(略してアクスタと言うらしい)が欲しいのならば当たりのクジを引いてあげたい……。そう思うと、なんだか緊張してきてしまう。
コンビニに入り、一枚だけでは心許なかった俺は、二枚のクジを引いた。隣にいる久世はソワソワしながら四枚も引いていた。
それだけで三千二百円……。高校生には痛い出費だろうが、久世に迷いは見られない。
しかし四枚全部開けた久世は「駄目でした」と肩を落とす。そんな久世を見ていると、どうしてもレアのハルトを出してやりたいと思ってしまった。
「ようし……」
俺は一枚目を引いてみたけれど、久世がたくさん持っているアクスタだった。
「これが最後の一枚……」
どうにか久世にレアのハルトを当ててやりたい俺は、緊張してきてしまう。クジを開ける手が少しだけ震えていて、可笑しくなってしまった。たかがクジなのに……。
(どうか当たってますように……!)
最後の一枚を開いた瞬間、隣にいた久世が「えッ⁉」と、目を見開く。そんな久世にびっくりしていると、久世が俺に飛びついてきた。
「瀬戸先輩、これレアのハルトです! 大当たりですよ!」
「え? 本当に⁉」
「瀬戸先輩、マジでありがとうございます!」
「じゃあ早くアクスタと交換しておいでよ」
「はい! 行ってきます! 瀬戸先輩、本当にありがとうございます!」
久世は嬉しそうに俺が当てたクジを持ってレジへと向かっている。心なしかスキップしているようにさえ見えて、可笑しくなってしまう。
そんな姿を見ていると俺まで心が躍ったけれど、同時に、そんな純粋な笑顔を自分以外に向けていることに、少しだけ胸がチクリと疼いた。
久世は滅多に笑わない。そんな久世の喜びに満ちた表情を、俺だけに向けて欲しい──。マメ部の部員でもなく、ハルトでもない。俺だけに向けて欲しいんだ。
そんな子どもみたいなヤキモチを妬いている自分に気付いて、少しだけ恥ずかしくなってしまう。
(アニメのキャラクターにヤキモチを妬くなんて……)
満面の笑みでレジにクジを持っていく久世を見て、俺は唇を噛み締めた。
コンビニから駅までの帰り道、久世は「一人で帰れるから!」と言っているにも関わらず駅まで送ってくれた。
久世はレアのハルトのアクスタを手に入れられたことが余程嬉しかったのか、鼻歌なんて口ずさんでいる。それなのに、俺の心はどんよりと曇り空だ。
『久世は俺とハルト、どっちが大事?』
『柔道部とマメ部どっちが大事なの?』
ずっと心の奥に棘のように刺さっていた疑問。もう何度口にしたいと思ったことだろうか? でも結局は変なプライドが邪魔をして、その度にこの言葉を呑み込んできた。
……でも、俺はやっぱり知りたい。
俺が急に立ち止まると、久世が「なんだ?」と言わんばかりに振り返った。
「瀬戸先輩、どうしたんですか?」
久世が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
そんな顔を見れば、迷惑を掛けたくないとやっぱりまた何も言えなくなってしまう。だって、こんなことは子どもの我儘と同じだ。久世だって困ってしまうだろう。
だけど、俺はやっぱりもう駄目だ、黙っていることはできない。拳をグッと握り締めた後、久世に向かって問いかけた。
「久世はなんで柔道部に来たんだ? 俺の為? それともハルトの為か?」
「瀬戸先輩……なんで急にそんなこと……」
俺の言葉に久世が戸惑いの表情を隠しきれない。それはそうだ。急にこんなことを言われたら、久世だって困ってしまうだろう。
「ごめん、久世」。俺は心の中で、そう謝罪した。
「久世は俺にハルトになってほしいから柔道部の応援に来てくれているんだろう?」
「……べ、別にそんなわけじゃ……」
「俺は久世にとってハルトの代わりなの? 久世は俺のことを瀬戸紬として見てくれないのか?」
「瀬戸先輩、それって……」
「俺は、ハルトの代わりなんて嫌だ」
一気に心のわだかまりを吐き出した後、涙で目の前が滲む。心が張り裂けそうに痛くて、唇を強く噛む。
(あぁ、なんて情けないんだろう)
俺は自分の不甲斐なさを心底呪った。
「瀬戸先輩、それってヤキモチですか?」
「……え?」
「瀬戸先輩は、もしかしてハルトにヤキモチを妬いているんじゃないんですか?」
「…………」
「図星、ですね」
目の前で久世が意地悪そうに笑う。その初めて見た久世の表情に、鼓動が一気に速くなる。今の久世は年下のくせに、色っぽくて、男らしい。心臓がドキドキしてしまった俺は、制服の胸のあたりをギュッと掴んだ。
「ヤ、ヤキモチなんかじゃ……」
「嘘だ。先輩はハルトにヤキモチを妬いてる」
「だったら、なんだって言うんだよ?」
「いや、嬉しいなって思って」
「……嬉しい?」
「はい。嬉しいし、可愛いなって思いました」
「別に可愛くないし……」
「いいえ。可愛いです」
ヤキモチを焼いた俺の心を見透かしたように、久世がいきなり正面から抱き締めてきた。
「瀬戸先輩。そういうところも可愛いですね」
なんて、今まで見たことのないような余裕のある表情で言われて心臓が跳ね上がる。
今目の前にいる久世は、マメ部の久世でも、柔道部の久世でもない。
逃げ出したいような、このままずっと閉じ込められていたいような矛盾した感情で、足に力が上手く入らない。久世という男に、自分の全てが掌握されていく。抗うことさえ忘れて、ただただその腕の中に溶けていくしかなかった。
「俺は、先輩もハルトも大好きです」
「そっか……」
「……でも、俺が先に好きになったのは先輩なんですよ」
「え? 何? 電車の音で聞こえない!」
「別になんでもありません」
その瞬間、スピードを上げて線路脇を通過する電車に久世の声が遮られてしまい、大事な部分を聞くことができなかった。
「聞こえなかったからもう一度言ってよ」
「嫌です」
「言えって」
「だから嫌です」
俺は久世の腕の中で、その瞳から彼の感情を探ろうとした。
でも意地悪な久世はこの話をあしらうかのように笑った後、俺を更に強く抱き締める。
柔道全国区の男に抱き締められた俺は、呼吸さえ上手くできない。なんて馬鹿力なんだろうか?
苦しくて、でも温かくて……。
触れ合う胸から感じる久世の鼓動が、鼓膜の奥に響き渡った。
***
瀬戸が柔道部に来て一か月が経った。
今日は、高校生活最後の柔道の大会だ。団体戦と個人戦で勝利を収めれば関東大会に出場できるし、負ければそのまま引退となる。
俺はもちろん個人戦でも勝ちたいと思っているけれど、ずっと一緒に練習をしてきた仲間たちと力を合わせて戦う団体戦が好きだ。
結局萩原の怪我は完治せず試合には出場することができなかったけれど、会場に応援に来てくれるらしい。その代わり、予定通りに久世が出場することとなった。
「やっぱり緊張する」
会場に広がる慣れ親しんだ匂いも、柔道着が擦れる音も、これで最後かもしれないと思うと胸の奥が冷たくなる。
何百回と結びなおした帯を締めながら、試合会場を眺めると、ただ途方もない寂しさが込み上げてくる。
どんなに辛い練習でも、ここには確かに俺の居場所があった。その扉を閉じて、また次の場所へと歩き出さなければならないかもしれないという現実に、今、静かに立ち尽くしている。
本当なら、萩原と一緒にここに立ちたかった。でも、今俺の横には久世がいる。この逞しい存在が、俺の心を奮い立たせる。
「瀬戸先輩、頑張って県大会で優勝しましょうね」
「久世、よろしく頼むぞ」
「はい。任せてください」
その短い返答に、彼が一生懸命努力した一か月が詰まっているような気がして、胸が熱くなる。
今俺の隣に立っているのは、マメ部の部員ではなく、紛れもなく柔道部員だ。俺はその凛々しい姿に見惚れてしまう。
「県大会で優勝して、ハルトの王子のコスプレをしてくださいね」
「あ、まだその話覚えてたんだな?」
「当り前でしょう? 俺はそれを楽しみに、今日まで練習を頑張ってきたんですから」
「あははは……。そっか……」
前言撤回。こいつはやっぱりマメ部のオタクだ。それを痛感した今、百年の恋も冷める思いがした。
今日団体に出るメンバーは一年が先鋒。二年の二人が次鋒と中堅、そして俺が副将で久世が大将だ。
今日までみんな少ない部員数の中で、本当によく頑張って来てくれたと思う。感謝の思いで胸が熱くなる。
そして隣には久世。こんなにも頼もしいピンチヒッターに恵まれた俺は、本当に幸せ者だ。
きっとこの広い会場のどこかにいる萩原に「見守っていてくれ」と心の中で語りかける。
俺は戦う。自分とみんなの為に。悔いは残さない。そう心に誓った。
月守高校は順調に団体戦を勝ち進み、決勝戦まで進んだ。ここに来て俺たちと対戦することとなった学校は、去年の優勝校。部員も月守高校の何倍もいる。
(この高校に勝てるのか……)
俺の心に不安が大波のように押し寄せる。
ただ、俺の隣には久世がいる。
(久世がいれば大丈夫だ)
いつからか俺は久世を心の支えにしていた。
試合は中堅まで進み一勝二敗。これで俺が負ければ優勝の望みはゼロとなる。
「瀬戸先輩、久世君、すみません」と涙を流す後輩たちを見て、俺の胸が締め付けられた。
泣いて謝ることなんてないんだ。部員がたった五人しかいない柔道部が、県大会の決勝まで上がってこられただけでも奇跡なのだから。
「大丈夫だ。後は任せろ」
歯を食いしばり泣く後輩の肩をそっと叩き、俺は試合場へと向かう。
会場のざわめきが嘘のように遠のき、畳の上に対峙する相手の吐息だけが鮮明に聞こえる。
二勝一敗、この一戦が全てを決めるという重圧に、指先までが小刻みに震える。
しかも決勝戦、というだけあり観客の数がかなり多い。心臓が口から飛び出してきそうなほどの緊張感に包まれた。
けれど、その震えは怯えからくるものではなかった。ここで負けられないという強烈な責任感と、限界に挑みたいという昂ぶりが混ざり合い、俺の心はどこまでも澄み渡っている。怖い、それ以上に震えるほどワクワクしている自分がいた。
「瀬戸先輩、頑張ってください!」
「おう!」
久世が俺の両肩を叩いてくれる。それに背中を押させるように「副将、前へ」という号令と共に俺は試合会場の中心へと歩を進めた。
「はじめ!」
という合図と共に相手へと向かって行く。相手は俺とそれほど体格の変わらない選手だ。でも、油断なんてできない。
柔道着を掴む指先に、相手の僅かな重心の揺らぎが伝わる。柔道場の空気が鋭く張り詰め、互いの荒い呼吸音だけが耳元で重なった。
相手が仕掛けてくる一瞬の隙、その刹那に全神経を集中させる。
今、この瞬間の攻防だけが俺の全てだ。世界から余計なノイズが消え、ただ相手と自分だけが剥き出しの意思をぶつけ合っている。その時──。
「瀬戸先輩、今だ!」
久世の声が鼓膜の奥に響く。
その言葉に誘導されるかのように、捨て身で放った背負い投げが完璧に決まった。
審判の「一本!」の声と同時に、全身の力が抜けて畳に倒れ込む。
よかった……。と安堵して顔を上げた先には、誰よりも嬉しそうに目尻を下げて笑う久世の姿があった。その笑顔を見た瞬間、胸の奥でずっと重石になっていた責任感や緊張が、音を立てて崩れていく。
(あぁ、俺はこいつの笑顔が見たかったんだ)
強くなるためじゃなくて、ただ久世と分かち合いたくてここまで走って来たんだと、肺の奥が熱くなるほど鮮明に気付いてしまった。
「勝ててよかった……」
大きく息を吐きながらみんなの元へと戻ると、「よくやった!」と俺を温かく迎えてくれる。
(これだから俺は団体戦が大好きなんだ)
嬉しくて、目の前が滲んで見えた。
これで二勝二敗。後は久世に委ねよう。俺はそう感じていた。
大丈夫。彼ならやってくれるはずだ。
「あとは俺に任せてください」
「おう、任せた」
そう言って、二人でグータッチを交わす。
仲間の元を去っていく久世の後ろ姿は、いつの間にか俺を追い越すほど頼もしくなっていた。
彼を勝たせたいと必死だったあの感情の正体が、今になって心臓を叩く。
久世自身の為に勝たせてあげたいと思っていたのは、ただの言い訳だった。本当は誰よりも傍にいたくて、誰よりも俺のことを知ってほしかった。
柔道を通して、久世を独り占めしたかったんだ。
「あ、そうか……」
俺は久世のことが、ずっとずっと好きだったんだ──。
だから実在しないハルトに嫉妬したり、マメ部の部員の存在が面白くなかったり。
俺は今まで部長として一人で「何とかしなくちゃ」「頑張らなくちゃ」と思っていた。しかし久世の「任せてください」という言葉が温かい涙となって溶けだしていく。
ただの勝利じゃない。久世が俺のために戦ってくれるという事実に、喉の奥が熱くなる。
(こうして誰かと苦痛を分かち合えることができるんだ)
そう思った時、やっと自分の本当の想いに触れた気がする。
「久世、好きだ。頑張って」
俺は小さな声でエールを送った。
久世が畳の中央に引かれた線の前に立つ。彼の相手は恐らく百キロ超級の選手だろう。あの久世が小さく見えた。
「はじめ!」という合図と共に久世が相手に向かい突進していく。
二勝二敗の今、この試合で勝った方が県大会優勝だ。
「久世、頼む……」
俺は神にも祈る気分だ。試合時間の四分間が異常に長く感じられる。
互いに譲らぬ攻防戦の中で、久世の息が上がる度に俺の心拍数も跳ね上がる。
(早く、早く決まってくれ……!)
そう祈る一方で、久世が重量級を相手に怪我をしないでほしい、という臆病な願いも胸を過る。ハラハラと波打つ感情は、もはや他人事ではない。
俺の願いの全てが、あの広い畳の上にある久世の一挙手一投足に繋がれてしまう。
「お前、かっこよすぎるだろう」
目頭が熱くなったから、慌てて手の甲で涙を拭った。
残り三十秒。お互いに技がなかなか決まらないまま、疲労が蓄積しているのがわかる。
しかし久世の瞳からは「諦める」という感情が見えない。積極的に技をかけ、相手を翻弄する。その次の瞬間──。
「あ……」
久世が放った大外刈りは、あまりに綺麗で、まるで世界がスローモーションで流れているようだった。
審判の「一本!」という宣告さえ、どこか遠い異国の出来事のように響く。
ただ、畳の上で輝く久世の姿から目が離せない。強くて、ひたむきで、眩しい。
この胸の奥に灯った熱い想いは、もう誤魔化すことなんてできなかった。ただ純粋に、久世を見つめている自分に気付いた。
久世が勝利を収めた瞬間「わー!」という歓声が上がり、柔道場が震えるほどだ。
皆が月守高校の勝利を祝福してくれている。俺の今までの苦労が報われた瞬間だった。
「久世、ありがとう‼」
我慢なんてできなかった。
試合を終えて戻ってきた彼の胸に、気付けば駆け寄ってしがみついていた。自分でも驚くほどの無防備さで。
すると久世は少し戸惑ったあと、俺の背中に優しく手を回してくれた。
「先輩の為に頑張りました」
遠慮がちに、けれど確かな体温を持って返された抱擁に、張り詰めていた鎧が全て剥がれ落ちていく。
ずっと追いかけていた夢が、叶った瞬間だった。
「久世、本当にありがとう」
何度繰り返し伝えても、きっと言い尽くすことなんてできない。
抱き締めた彼の背中から伝わる熱が、張り詰めていた俺の心を溶かしていく。
「ありがとう」
「瀬戸先輩だって頑張ったじゃないですか?」
「久世には適わないよ」
「そんなことはありません。俺たちは平等です。どっちが上とか、どっちが下とかないですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ……」
戦い終えたばかりの荒い呼吸、滲んだ汗の匂い。その全てが堪らなく愛おしい。
久世は俺の為に、こんなにも必死になってくれた。そう思うと『俺はハルトの代わりなんだ』という劣等感なんてどうでもよくなった。
ただ久世の髪を撫で、その温もりを心まで味わいたい。
俺が守りたかったのは柔道の勝利だけではない。こうしてお互いを感じあえる、この愛おしい存在そのものでもあったんだ。
こうして久世たちのおかげで、月守高校は県大会優勝という華々しい成績を収めたのだった。
でもその時の俺はすっかり忘れていた。
久世は本当は柔道部ではなく、マメ部の部員だということに──。
***
県大会が終わった後、俺は久世の家に呼び出された。
約束通り、ハルトの王子のコスプレをするために……だ。
ハルトの衣装がどんなものか一応アニメで予習はしてきたものの、あんな奇抜な洋服を着るなんて……。想像するだけで顔から火が出そうだ。
(約束なんかしなければよかった)
と今更ながら後悔するけれど、約束は約束だ。男に二言なんてない。
俺は意を決して久世の家に乗り込んだ。
久世の家に着くと、家には彼しかおらず「どうぞ」と招き入れてくれる。そして、久世の部屋に一歩足を踏み入れた俺は、言葉を失ってしまった。
六畳くらいある部屋にはフィギュア棚がたくさんあり、その中には高価そうなフィギュアとアクスタ、ぬいぐるみが大量に飾られている。
壁にはポスターがきちんと額に入れられて飾られており、オタクの部屋そのものだ。
俺は溜息をつきながらグルッと部屋を見渡した。
「これは凄いな」
「はい。集めるのには大分苦労しましたが、全部俺の宝物です」
「そっか。久世はゲームを作るのが得意なんだよな? 後でやらせてくれよ」
「本当ですか? 瀬戸先輩が俺の作ったゲームをしてくれるなんて嬉しいです!」
そう言いながら満面の笑みを浮かべる久世。俺も久世が好きな世界を知りたい……。最近はそう思うようになっていた。
「……ん?」
ふとカーテンレールに視線を移すと、ハルトの王子用の衣装が綺麗にハンガーに掛けられて飾られてある。
(あ、あれを俺が着るのか……?)
思わず息を呑む。
きっとかなり高価な物だろう。ディスカウントショップに売っているハロウィンのコスプレ衣装と違い、とても精巧に作られている。
「ようやく瀬戸先輩に着てもらえる日が来ました」
「あ、うん。そうだな……」
俺は衣装を撫でながら大きく息を吐く。その衣装は柔らかく、とてもいい肌触りだった。
これを着るだけでなく写真を撮られるのかと思うと、緊張のあまり体が凍り付いたように動かなくなってしまう。
「前に瀬戸先輩が『自分はハルトの代わりか』って聞いたじゃないですか? あの時電車が通ってちゃんと聞こえてなかったかと思うんですが……。俺の話を聞いてもらってもいいですか?」
「あ、うん」
久世が真剣な面持ちで俺を見つめてきたから、俺は真正面から彼と向き合った。
こんなオタク部屋の主のくせに、なんでこんなにイケメンなんだろう……。そう不思議になってしまう。
「瀬戸先輩はハルトの代わりなんかじゃありません。だって、好きになった順番が瀬戸先輩の方が先だったんですから」
「え? そうなの?」
「はい。俺は元々漫画やアニメ、ゲームが好きだったので高校ではマメ部に入りました。でもやっぱり柔道も捨てきれず、時々試合を見に行っていたって話したでしょう? そこで、瀬戸先輩を見つけて……。一目惚れでした」
「は?」
「だから、柔道の試合を見に行って、俺は瀬戸先輩に一目惚れしたんです」
「…………」
「ずっと前から、先輩が好きでした」
耳元でそう囁かれて、心臓が耳の奥で鳴っているんじゃないかと思うくらい激しく暴れて、思考なんて全部吹き飛んだ。
久世が俺の腰に手を回し、距離をゼロに詰めてくる。逃げ場なんてどこにもない。
「それからクリスタル・アートのハルトを見つけて……。一瞬であのアニメの虜になりました」
「久世……」
汗ばんだ掌の体温が服越しに伝わって、呼吸が浅くなる。
こんな、どうしようもなく乱される感覚、初めて──。
久世の瞳に映る自分を見ているだけで、体が熱くて震えが止まらない。
俺はただ、久世の腕の中で翻弄されるまま、この甘い痺れに呑み込まれていった。
次の瞬間、ふわりと俺の唇に久世の唇が重なる。それは柔道のように荒々しいものではなく、ショートケーキのように甘く、柔らかいものだった。
(あ、俺、今久世とキスしてる……)
そう自覚するまでに少しだけ時間がかかってしまう。
一度離れた唇は、もう一度確かめ合うように、先ほどより深く重なった。
(こいつマメ部のくせに、なんでこんなに手慣れてるんだ?)
そんなことを思っていると、耳元で久世の低い声が聞こえてきた。
「ハルトのコスプレを着てもらうのも楽しみですけど、脱がすのはもっと楽しみですね」
「……え?」
「瀬戸先輩、覚悟しておいてくださいね? 俺、寝技も得意なんです」
「……知ってる……」
「ならよかった」
久世が目の前でにっこりと笑う。そんなにも可愛らしい笑顔を向けられたら、何も言い返せなくなってしまうじゃないか……。
俺は心の中で、白旗を振ったのだった。
【完】



