今日の俺は朝からなんだかソワソワしていた。
体育祭だからいつもより念入りに髪をセットして、家を出るまでは普通だったと思う。開会式や準備体操も。
けれど徒競走が終わって穂天と話してから、なんだかずっと胸が苦しい。穂天に髪をぐしゃぐしゃにされたし腹がたったのかも、なんて思ったが、不思議と心は満たされている。
熱中症の可能性も考えて出来る限りの対処法はとったが、体調が悪いとかそんなことはなくすこぶる元気だった。
調子が悪くなった時もあったが、それは借り物競争の時だけだ。
穂天を迎えに行けば、クラスのやつらとじゃれついていてむっとする。
連れ出したはいいもののお題の内容について聞かれてしまい、何故か上手く答えることが出来ない。
二人三脚が始まっても、胸の中をいろんなものが渦巻いていて動けなくなってしまう。
別に特に良い匂いがするとかじゃない。ただの石鹸の香りだし、香りなら気を使っている俺の方が絶対良い。
肩幅だって同じくらいあって、柔らかいとかそんなこともなく、身長だってでかい。
なのにどうしてか、思考がおかしくなって上手く歩けない。
人生で初めての最下位のゴールは、すごく恥ずかしくて悔しかった。あんな哀れみに満ちた応援コールをされたのも初めてだ。
そう、今日の俺はおかしい。
綱引きだって、玉入れだって、何故かずっと穂天を見ていた。大した活躍はしていなかったけど。なんだかそういうところもあいつらしくて良い。
全競技が終わって残すはリレーだけとなった今でも、元気すぎていつもより速く走れそうな気がしていた。
待機列に並んで軽く柔軟していると穂天と目が合う。
頑張れよ、と言われ、誰に向かって言っているんだと、自信満々に返す。ふはっとでも聞こえそうな表情で破顔する彼を見ていると、また心臓が痛くなった。
やっぱり念のためリレーが終わったら救護室に行っておこうか? そんなことまで考えだしているとリレーが始まる。
クラスは順調で一位をとっていたが、俺の前の走者が転んでしまった。その隙に何人かに抜かれてしまう。
なんとかその女子は立ち上がりバトンを俺に渡したが、彼女は泣くのを堪えるみたいに唇を噛んでいる。それもそうだろう、自分のせいで一位から最下位になったのだ。
このままでは体育祭が嫌な思い出になってしまう、それはなんだか嫌だった。
「大丈夫だ。俺に任せろ」
それだけ言って走り出す。
なんだか今日の俺はすごく無敵な気分で、どんな奴にも負けない、そんな気がする。二人三脚ではまぁ、少し、あれだったが。
足が軽い。風が背中を押してくれる。
土埃でさえ、俺の障害にはなり得なかった。
そして俺の予想通り、いつも以上のパフォーマンスを発揮することができた。
ゴールにたどり着くとクラスの何人かが走り寄ってきて、嬉しそうに声をかけてくれる。人の波に吞まれながら待機列まで戻ってくると、転んだ女子が走ってこちらにやって来た。
「唯我くん、ごめんなさい! 私のせいで……」
ほっとして気が緩んだのだろう、彼女は今にも泣き出しそうだった。周りの連中もなんと声をかけていいのかわからず困っている。
以前なら、俺も順位のことしか頭になかっただろう。
けれど。こんな時穂天ならなんて言うか、そう考えれば自然と行動できてしまう。
「怪我、大丈夫か? 一応診てもらった方がいい。保健委員いるか?」
俺が声をあげると、クラスメイトが一人、焦って列から出てきてくれた。保健委員に彼女を任せると、クラスメイトの一人が肩を組んでくる。
「なに? どしたのお前! なんか対応が大人じゃん!?」
こいつは俺を嫌っていたのではなかったか。馴れ馴れしい態度を少し鬱陶しいと思いつつ、今までになかった好感触に驚く。
「おい、やめとけってお前。また怒られるって」
俺の反応を楽しむように他の男子が冷やかすが、不思議と怒りなんかは湧いてこない。
昔は己を顕示することに必死で、よく人とぶつかっていた。
だけど今は穂天さえ、俺のことを理解してくれるならそれで充分だった。
「構わない。ま、俺も大人になったんだ」
そう言って得意げに笑い、穂天の方に目配せする。彼を見習い、アドバイス通りにすればいろんなことがうまく行っている、そんな気がした。
彼は完全に虚を突かれた様子で目をパチクリとしている。気の抜けるような表情につい笑ってしまった。
「はぁ~!? お前が大人? どこがだよ!」
意識をそちらに向けていると、クラスメイトがふざけて体重をかけてきた。他のクラスメイトにも面倒な絡み方をされてうんざりする。けれどそこまで悪い気もしないのは彼のおかげだろう。
乾いた喉に水を流し込む。
汗をたくさん流した体は、ようやくひと心地ついた気がした。
もう一度穂天の方を見ると、彼がどこかへ出て行くのが見えた。
三年生のリレーはまだ始まってもいない。どこへ行くのだろうか。気になって少し背筋を伸ばすと、奥に金髪が。
嫌な予感がする。
そう思うが、全学年の競技が終わるまで出場者は場内から出られない。しばらくためらったがどうしても気になって、適当に体調不良を告げて場を離れる。
追いかけてきたはいいものの、どこに向かったか分からず中庭の方まで来てしまった。
その時、ガシャン! と大きな物音がした。それは駐輪場の方からで、自転車が盛大に倒れたような音だった。
同時に、誰かの言い合うような声が聞こえてくる。急いで向かうと、案の定そこには二人がいた。
ただ少し意外だったのは、掴みかかっているのが穂天の方で、幼馴染の方が劣勢のようだった。
「なんでわからないんだ! お前のお母さんだってそんなこと望んでないはずだ!」
穂天はかなり頭にきているようで、俺の存在に気付いていない。
とりあえずこのままではまずい。
「おい、何があったかわからないが一旦落ち着け!」
俺に止められてようやく我に返ったらしい穂天は、少し冷静になって手を離した。
陽稀と話し合いたい。穂天がこの間そう言っていたことを思い出し、今がその時かと、俺はこの場にいていいのかわからなくなる。
これは二人の問題だ。俺が首を突っ込んでいいことではないだろう。そう思うがひとつだけ言っておかねばいけないことがあった。
穂天の家に行った時、気付いた違和感。
その時は確証がなかったから穂天には言わなかったが、家に帰ってビデオを見返すと確かに映っていたのだ。
本当にたまたまだったが、姉の友人たちに聞き込みをした際に撮っていたビデオ。映像の端っこの小さな人影で、その頭が金髪でなければ誰か分からなかっただろう。
けれどこの学校に金髪の人間は彼しかいない。
そのおかげで分かったのだ。
これだけは言っておかねば、穂天は公平に話をすることが出来ない。
そう思って俺は、
「穂天、見たんだ。そいつは――」
けれど、俺の言葉を穂天が制止する。
悲しそうに俺に笑いかけると、彼は幼馴染に向き直った。
「知ってるよ、本当は歩けるんだろう。陽稀」
穂天の言葉を予想していたのだろうか、その幼馴染からは焦燥さえも削ぎ落ちていった。
人が絶望した時というのは、こんな顔になるのだろうか。
彼はまるで幽鬼のようだった。
全ての感情を失くした顔で彼の幼馴染、陽稀は言う。
「お前、全部知ってて傍にいたの? いつから」
彼の声はひどく震えている。目は虚ろで、どこを見ているかわからない。
「最初は気付いてなかったよ。でもお前、中学時代は普通に歩いてたんだろ。だったら無理だよ、そんなの隠し通せるわけない」
穂天を騙していたのは陽稀の方なのに、まるで逆のようだ。
陽稀は責を問われる罪人かのように穂天にすがりつく。
穂天はそれに応えることも、振り払うことも出来ず見つめている。
「じゃあ、ずっと気付かないふりをしていてくれよ……なんで……なんで今更! なんで……! お前まで俺を捨てるのかよ!」
漏れ出す陽稀の呼吸は細く、細く、深い。
「捨てたりなんかしない! だからやりなおそうと思ってるんだろう。俺たち友達じゃないか」
穂天はそう言って彼を慰めるが、彼はかぶりを振る。
「違う、違うんだよ! 友達なんかじゃダメなんだ! 友達じゃお前はどこかに行くだろう! 俺の傍にいてくれよ! 俺を置いてかないで!」
垂らされた糸をちぎれないように彼は懸命にたぐり寄せる。
けれど――、
「いい加減にしろよ陽稀! 今のままじゃダメなんだよ俺たちは! 俺がお前の嘘を問い詰めなかったのはお前のためじゃない! お前のお母さんのためなんだよ!」
彼が必死に掴んだと思っていた糸は、とっくにちぎれていたようだ。
陽稀は髪をぐしゃぐしゃに振り乱して嘘だ、嘘だ、とうわごとのように呟く。
「俺のためじゃないの? お前はずっと俺のために生きてきてくれたんじゃないの? わざわざお前を縛りつけたのに?」
陽稀の様子は見ていられないほどだった。
地獄というものがあるのなら、こんな人間が沢山いるのかもしれない。
「ひどい、ひどいよそんなの。じゃあ最初から振り払えよ。お前はわかってたんだ、俺の言ってることに正当性がないこと。こんな風に情けをかけてぬか喜びさせるなよ!」
釈迦の優しさで繋がっているように見えていた糸を、恨めしそうに彼は見つめる。
「それは……本当にごめん。俺が最初から、お前と話す勇気を持ててたら違ったんだ。お前の気が済むならって黙ってた俺が悪いんだ。お前のお母さんに償いたくて」
涙をこぼして動かなくなってしまった陽稀に穂天は告げる。
「信じてくれるか分からないけど、あの日お前の命が助かったのは多分、お前のお母さんのおかげなんだよ。だってあの日以降、彼女に会えなくなったから」
穂天は陽稀から目を逸らさない。
「彼女はちゃんとお前を愛していたよ。消える間際に言ってた、大好きって」
けれど、陽稀の目は穂天を映さなかった。
「俺がお前を説得できて、止められていたら彼女は消えずにすんだ。だから俺は償いをすることに決めたんだよ。だけどこれが正しいのか、ずっと悩んでた。なんとなく間違ってる気がしてたんだ」
穂天の言葉に陽稀は嗚咽を繰り返しながら返す。
「間違ってていい。間違ってていいから、ずっといっしょにいて」
まるで帰り道を失った、小さな子供のようだった。
穂天は彼に手を伸ばす。この手を取って欲しい、そんな切実な表情だった。
「陽稀……ちょっとずつでいいんだ。ちょっとずつ、立ち上がって歩き出そう。俺が傍に居るから。もう一度、子どもの頃みたいにやり直そう」
そんな穂天の手を、彼は強くはたいて落とす。
「違うんだよ、お前のそれは俺を選んでない。選んでないんだ。俺のものになってくれないなら、どこかへ行ってくれ」
地獄の底から穂天を睨みつけた後、彼はそう言って地に伏せて泣き出した。
その姿はまるで神へ懺悔するようだった。
穂天はやるせない様子で立ち尽くしている。
これ以上傷つく彼を見ていられなくて、俺はそっと彼の肩に手を置いて声をかけた。
俺に連れられながらも、まだ彼は気にかかるらしく陽稀に対して叫ぶ。
「俺、待ってるから。いつでも、いつまでも、待つから」
穂天もとっくのとうに泣いていたのだと思う。
悲痛な面持ちの彼を連れて歩く。
穂天の気持ちも理解できるが、俺は陽稀に同情することはできなかった。穂天は最後まで手を差し伸べていた、それを受け取らなかったのはあいつ自身の選択だ。
あいつは傍にいて欲しいと願っていたくせにその努力を怠った。卑怯なやり方で彼を縛り付けようとした。ならばこの結果も致し方ないことのように思う。
このままグラウンドに戻るのは穂天の体調を考えると酷なことに思われて、保健室に連れて行く。
そこにはたまたま備品を取りに来ていた保健の先生がいて、しばらく休ませて欲しいことを伝えた。
先生は救護室と保健室を往復しているらしく、ずっとここにはいられないけどそれでもよければと中に入れてくれた。
置いてきた陽稀が気になって、一応先生に伝えておく。
それだけで先生は事情を色々と察してくれたようで、見に行っておくわねと答えてくれた。
穂天をベッドまで連れて行き、腰掛けさせる。
その場にいていいのか、戻ったほうがいいのか測りかねていると、穂天がぽつりとこぼす。
「やっぱりうまくいかなかったな。なんとなく、そんな気がしてたんだ。陽稀と俺の想いにズレがあることはわかってたから」
疲れきった顔で、下手くそに笑う。
きっと後悔しているのだろう。自分の中で消化し切れていないのだろう。
この二個上の先輩は思ったより器用じゃない。
他人との交友関係をそつなくこなせるから器用に見えてしまうが、他人の気持ちを優先しすぎて、自分がパンクしていることに気づけない。今だって自分より俺を優先してしまっている。
けれど俺は先輩のそんなところが好きだった。
彼が幼馴染と喧嘩している間、俺は昔姉から聞いた話を思い出していた。
「姉さんが昔、こんな話をしてくれたことがある。小学生のころ、母さんからもらった大事なぬいぐるみを、近所の意地悪な男子に取られたらしい」
そいつは高学年で体格も良くて、姉さんは怖くて取り返すことができなかったのだという。
「それでも諦めきれなくて公園でずっと泣いてたら、男の子が一人、声をかけてくれたそうだ」
その子は姉さんと同じくらいの年で体格もそんなに良くなかった。
けれどひどく優しい子だったらしい。
「上級生にボコボコにされても、ぬいぐるみを取り返してよかったねって笑うんだ」
取られたぬいぐるみなんかより自分の方がずっとぼろぼろで。なのに自分のことのように笑ってくれたって。
ヒーローを見つけたって、嬉しそうに笑う姉さんが教えてくれた名前は――、
「ひなた」
俺の言葉に彼は目を見張る。
「あんたの昔の苗字、ひなた、だったんじゃないか?」
ひなたは名前にも多い。当時の姉さんはひなた君、と呼んでいたから下の名前と勘違いしていたのだろう。
だから俺は穂天と、姉の憧れのひなた君を、同一人物だと認識できなかった。今の今まで、この話を思い出せなかったのも別人だと思っていたからだ。
そう、つまり。
「あんたが姉さんに似てるんじゃなくて、姉さんがあんたに憧れて真似をしてたんだ」
姉さんと穂天の既視感がようやく繋がる。
「あんたはさ、俺の憧れでもあるんだよ」
彼の両手を取り、目を合わせて話す。瞳からは抑えきれない涙が溢れていた。
過去の話をした時でさえ、こぼれなかったものだ。
彼が泣くのはきっと誰かのためなのだろう。
「あんたはずっとかっこいいよ。昔も、今も」
罪人は糸を自分で切ってしまったけれど、垂らされた糸の意味を考えるだろう。
垂らされた糸の想いに気付けた時、彼は地獄の中でも歩く道を見つけられるのではないか。
そして相手は釈迦なんかじゃなく、ただの同じ人間だったということを理解できるのではないだろうか。
彼の、穂天の想いは、無駄ではなかったと俺は思いたい。
これは穂天のことが好きな、俺のエゴでしかないが。
穂天は自分に自信がなくて、沢山迷って、その結果全ての責任を背負おうとする。
陽稀の荷物を俺は降ろせない。
それは彼が背負わなければならないものだからだ。
けれど、その代わりひとつ取り去ってやれるものがある。
姉の憧れが穂天であるならば。
「姉さんのこと穂天は気にしてたけど、姉さんは意外と頑固で決めたことは貫くんだ。あんたに相談した時も本当はもう決めてたんだと思う」
そう、俺の知ってる姉さんはそういう人だ。
みんな優しくて思慮深いなんて言うが本質をわかってない。だから俺は、自殺した姉さんは何かを決めていたのだと思っている。
「姉さんは、ただあんたに背中を押してもらいたかっただけだと思うよ。憧れの、穂天に」
冷たく聞こえないように、殊更に優しく声をかける。
――けれど、後悔を断ち切れるようにきっぱりと。
「あんたも言ってたが、姉さんの死を引き摺るのは本当に自意識過剰だからやめろ。姉さんはあんたの意見なんて気にしてないよ」
彼は涙を流しているのに息を殺そうとして、唇を噛み締めた。涙も鼻水も止められていないのだから、大声をあげればいいのに。
泣くのも下手くそなんだなと俺は笑った。
「穂天、俺はあんたのことが好きだ。だからあんたのことを笑わせたい」
穂天の目から涙を拭いながらそう伝えると、彼は目を見開き、口をぱくぱくとさせる。驚きで涙は少し止まったようだった。
「返事はすぐじゃなくていい。ゆっくりでいい、でもいっぱい、俺のこと考えてくれ」
陽稀のことより俺を考えてくれ。
お前はきっと自分を責めるだろうから。
穂天はきちんと気持ちを伝えたのだ。わかりあおうと努力したのだ。その事実を大事にしてほしい。
そんな想いを込めて握る力を強くした。
「兄弟揃って同じ人に惹かれるなんてな」
そう言って笑うと、彼はもっと泣き出してしまった。
体育祭だからいつもより念入りに髪をセットして、家を出るまでは普通だったと思う。開会式や準備体操も。
けれど徒競走が終わって穂天と話してから、なんだかずっと胸が苦しい。穂天に髪をぐしゃぐしゃにされたし腹がたったのかも、なんて思ったが、不思議と心は満たされている。
熱中症の可能性も考えて出来る限りの対処法はとったが、体調が悪いとかそんなことはなくすこぶる元気だった。
調子が悪くなった時もあったが、それは借り物競争の時だけだ。
穂天を迎えに行けば、クラスのやつらとじゃれついていてむっとする。
連れ出したはいいもののお題の内容について聞かれてしまい、何故か上手く答えることが出来ない。
二人三脚が始まっても、胸の中をいろんなものが渦巻いていて動けなくなってしまう。
別に特に良い匂いがするとかじゃない。ただの石鹸の香りだし、香りなら気を使っている俺の方が絶対良い。
肩幅だって同じくらいあって、柔らかいとかそんなこともなく、身長だってでかい。
なのにどうしてか、思考がおかしくなって上手く歩けない。
人生で初めての最下位のゴールは、すごく恥ずかしくて悔しかった。あんな哀れみに満ちた応援コールをされたのも初めてだ。
そう、今日の俺はおかしい。
綱引きだって、玉入れだって、何故かずっと穂天を見ていた。大した活躍はしていなかったけど。なんだかそういうところもあいつらしくて良い。
全競技が終わって残すはリレーだけとなった今でも、元気すぎていつもより速く走れそうな気がしていた。
待機列に並んで軽く柔軟していると穂天と目が合う。
頑張れよ、と言われ、誰に向かって言っているんだと、自信満々に返す。ふはっとでも聞こえそうな表情で破顔する彼を見ていると、また心臓が痛くなった。
やっぱり念のためリレーが終わったら救護室に行っておこうか? そんなことまで考えだしているとリレーが始まる。
クラスは順調で一位をとっていたが、俺の前の走者が転んでしまった。その隙に何人かに抜かれてしまう。
なんとかその女子は立ち上がりバトンを俺に渡したが、彼女は泣くのを堪えるみたいに唇を噛んでいる。それもそうだろう、自分のせいで一位から最下位になったのだ。
このままでは体育祭が嫌な思い出になってしまう、それはなんだか嫌だった。
「大丈夫だ。俺に任せろ」
それだけ言って走り出す。
なんだか今日の俺はすごく無敵な気分で、どんな奴にも負けない、そんな気がする。二人三脚ではまぁ、少し、あれだったが。
足が軽い。風が背中を押してくれる。
土埃でさえ、俺の障害にはなり得なかった。
そして俺の予想通り、いつも以上のパフォーマンスを発揮することができた。
ゴールにたどり着くとクラスの何人かが走り寄ってきて、嬉しそうに声をかけてくれる。人の波に吞まれながら待機列まで戻ってくると、転んだ女子が走ってこちらにやって来た。
「唯我くん、ごめんなさい! 私のせいで……」
ほっとして気が緩んだのだろう、彼女は今にも泣き出しそうだった。周りの連中もなんと声をかけていいのかわからず困っている。
以前なら、俺も順位のことしか頭になかっただろう。
けれど。こんな時穂天ならなんて言うか、そう考えれば自然と行動できてしまう。
「怪我、大丈夫か? 一応診てもらった方がいい。保健委員いるか?」
俺が声をあげると、クラスメイトが一人、焦って列から出てきてくれた。保健委員に彼女を任せると、クラスメイトの一人が肩を組んでくる。
「なに? どしたのお前! なんか対応が大人じゃん!?」
こいつは俺を嫌っていたのではなかったか。馴れ馴れしい態度を少し鬱陶しいと思いつつ、今までになかった好感触に驚く。
「おい、やめとけってお前。また怒られるって」
俺の反応を楽しむように他の男子が冷やかすが、不思議と怒りなんかは湧いてこない。
昔は己を顕示することに必死で、よく人とぶつかっていた。
だけど今は穂天さえ、俺のことを理解してくれるならそれで充分だった。
「構わない。ま、俺も大人になったんだ」
そう言って得意げに笑い、穂天の方に目配せする。彼を見習い、アドバイス通りにすればいろんなことがうまく行っている、そんな気がした。
彼は完全に虚を突かれた様子で目をパチクリとしている。気の抜けるような表情につい笑ってしまった。
「はぁ~!? お前が大人? どこがだよ!」
意識をそちらに向けていると、クラスメイトがふざけて体重をかけてきた。他のクラスメイトにも面倒な絡み方をされてうんざりする。けれどそこまで悪い気もしないのは彼のおかげだろう。
乾いた喉に水を流し込む。
汗をたくさん流した体は、ようやくひと心地ついた気がした。
もう一度穂天の方を見ると、彼がどこかへ出て行くのが見えた。
三年生のリレーはまだ始まってもいない。どこへ行くのだろうか。気になって少し背筋を伸ばすと、奥に金髪が。
嫌な予感がする。
そう思うが、全学年の競技が終わるまで出場者は場内から出られない。しばらくためらったがどうしても気になって、適当に体調不良を告げて場を離れる。
追いかけてきたはいいものの、どこに向かったか分からず中庭の方まで来てしまった。
その時、ガシャン! と大きな物音がした。それは駐輪場の方からで、自転車が盛大に倒れたような音だった。
同時に、誰かの言い合うような声が聞こえてくる。急いで向かうと、案の定そこには二人がいた。
ただ少し意外だったのは、掴みかかっているのが穂天の方で、幼馴染の方が劣勢のようだった。
「なんでわからないんだ! お前のお母さんだってそんなこと望んでないはずだ!」
穂天はかなり頭にきているようで、俺の存在に気付いていない。
とりあえずこのままではまずい。
「おい、何があったかわからないが一旦落ち着け!」
俺に止められてようやく我に返ったらしい穂天は、少し冷静になって手を離した。
陽稀と話し合いたい。穂天がこの間そう言っていたことを思い出し、今がその時かと、俺はこの場にいていいのかわからなくなる。
これは二人の問題だ。俺が首を突っ込んでいいことではないだろう。そう思うがひとつだけ言っておかねばいけないことがあった。
穂天の家に行った時、気付いた違和感。
その時は確証がなかったから穂天には言わなかったが、家に帰ってビデオを見返すと確かに映っていたのだ。
本当にたまたまだったが、姉の友人たちに聞き込みをした際に撮っていたビデオ。映像の端っこの小さな人影で、その頭が金髪でなければ誰か分からなかっただろう。
けれどこの学校に金髪の人間は彼しかいない。
そのおかげで分かったのだ。
これだけは言っておかねば、穂天は公平に話をすることが出来ない。
そう思って俺は、
「穂天、見たんだ。そいつは――」
けれど、俺の言葉を穂天が制止する。
悲しそうに俺に笑いかけると、彼は幼馴染に向き直った。
「知ってるよ、本当は歩けるんだろう。陽稀」
穂天の言葉を予想していたのだろうか、その幼馴染からは焦燥さえも削ぎ落ちていった。
人が絶望した時というのは、こんな顔になるのだろうか。
彼はまるで幽鬼のようだった。
全ての感情を失くした顔で彼の幼馴染、陽稀は言う。
「お前、全部知ってて傍にいたの? いつから」
彼の声はひどく震えている。目は虚ろで、どこを見ているかわからない。
「最初は気付いてなかったよ。でもお前、中学時代は普通に歩いてたんだろ。だったら無理だよ、そんなの隠し通せるわけない」
穂天を騙していたのは陽稀の方なのに、まるで逆のようだ。
陽稀は責を問われる罪人かのように穂天にすがりつく。
穂天はそれに応えることも、振り払うことも出来ず見つめている。
「じゃあ、ずっと気付かないふりをしていてくれよ……なんで……なんで今更! なんで……! お前まで俺を捨てるのかよ!」
漏れ出す陽稀の呼吸は細く、細く、深い。
「捨てたりなんかしない! だからやりなおそうと思ってるんだろう。俺たち友達じゃないか」
穂天はそう言って彼を慰めるが、彼はかぶりを振る。
「違う、違うんだよ! 友達なんかじゃダメなんだ! 友達じゃお前はどこかに行くだろう! 俺の傍にいてくれよ! 俺を置いてかないで!」
垂らされた糸をちぎれないように彼は懸命にたぐり寄せる。
けれど――、
「いい加減にしろよ陽稀! 今のままじゃダメなんだよ俺たちは! 俺がお前の嘘を問い詰めなかったのはお前のためじゃない! お前のお母さんのためなんだよ!」
彼が必死に掴んだと思っていた糸は、とっくにちぎれていたようだ。
陽稀は髪をぐしゃぐしゃに振り乱して嘘だ、嘘だ、とうわごとのように呟く。
「俺のためじゃないの? お前はずっと俺のために生きてきてくれたんじゃないの? わざわざお前を縛りつけたのに?」
陽稀の様子は見ていられないほどだった。
地獄というものがあるのなら、こんな人間が沢山いるのかもしれない。
「ひどい、ひどいよそんなの。じゃあ最初から振り払えよ。お前はわかってたんだ、俺の言ってることに正当性がないこと。こんな風に情けをかけてぬか喜びさせるなよ!」
釈迦の優しさで繋がっているように見えていた糸を、恨めしそうに彼は見つめる。
「それは……本当にごめん。俺が最初から、お前と話す勇気を持ててたら違ったんだ。お前の気が済むならって黙ってた俺が悪いんだ。お前のお母さんに償いたくて」
涙をこぼして動かなくなってしまった陽稀に穂天は告げる。
「信じてくれるか分からないけど、あの日お前の命が助かったのは多分、お前のお母さんのおかげなんだよ。だってあの日以降、彼女に会えなくなったから」
穂天は陽稀から目を逸らさない。
「彼女はちゃんとお前を愛していたよ。消える間際に言ってた、大好きって」
けれど、陽稀の目は穂天を映さなかった。
「俺がお前を説得できて、止められていたら彼女は消えずにすんだ。だから俺は償いをすることに決めたんだよ。だけどこれが正しいのか、ずっと悩んでた。なんとなく間違ってる気がしてたんだ」
穂天の言葉に陽稀は嗚咽を繰り返しながら返す。
「間違ってていい。間違ってていいから、ずっといっしょにいて」
まるで帰り道を失った、小さな子供のようだった。
穂天は彼に手を伸ばす。この手を取って欲しい、そんな切実な表情だった。
「陽稀……ちょっとずつでいいんだ。ちょっとずつ、立ち上がって歩き出そう。俺が傍に居るから。もう一度、子どもの頃みたいにやり直そう」
そんな穂天の手を、彼は強くはたいて落とす。
「違うんだよ、お前のそれは俺を選んでない。選んでないんだ。俺のものになってくれないなら、どこかへ行ってくれ」
地獄の底から穂天を睨みつけた後、彼はそう言って地に伏せて泣き出した。
その姿はまるで神へ懺悔するようだった。
穂天はやるせない様子で立ち尽くしている。
これ以上傷つく彼を見ていられなくて、俺はそっと彼の肩に手を置いて声をかけた。
俺に連れられながらも、まだ彼は気にかかるらしく陽稀に対して叫ぶ。
「俺、待ってるから。いつでも、いつまでも、待つから」
穂天もとっくのとうに泣いていたのだと思う。
悲痛な面持ちの彼を連れて歩く。
穂天の気持ちも理解できるが、俺は陽稀に同情することはできなかった。穂天は最後まで手を差し伸べていた、それを受け取らなかったのはあいつ自身の選択だ。
あいつは傍にいて欲しいと願っていたくせにその努力を怠った。卑怯なやり方で彼を縛り付けようとした。ならばこの結果も致し方ないことのように思う。
このままグラウンドに戻るのは穂天の体調を考えると酷なことに思われて、保健室に連れて行く。
そこにはたまたま備品を取りに来ていた保健の先生がいて、しばらく休ませて欲しいことを伝えた。
先生は救護室と保健室を往復しているらしく、ずっとここにはいられないけどそれでもよければと中に入れてくれた。
置いてきた陽稀が気になって、一応先生に伝えておく。
それだけで先生は事情を色々と察してくれたようで、見に行っておくわねと答えてくれた。
穂天をベッドまで連れて行き、腰掛けさせる。
その場にいていいのか、戻ったほうがいいのか測りかねていると、穂天がぽつりとこぼす。
「やっぱりうまくいかなかったな。なんとなく、そんな気がしてたんだ。陽稀と俺の想いにズレがあることはわかってたから」
疲れきった顔で、下手くそに笑う。
きっと後悔しているのだろう。自分の中で消化し切れていないのだろう。
この二個上の先輩は思ったより器用じゃない。
他人との交友関係をそつなくこなせるから器用に見えてしまうが、他人の気持ちを優先しすぎて、自分がパンクしていることに気づけない。今だって自分より俺を優先してしまっている。
けれど俺は先輩のそんなところが好きだった。
彼が幼馴染と喧嘩している間、俺は昔姉から聞いた話を思い出していた。
「姉さんが昔、こんな話をしてくれたことがある。小学生のころ、母さんからもらった大事なぬいぐるみを、近所の意地悪な男子に取られたらしい」
そいつは高学年で体格も良くて、姉さんは怖くて取り返すことができなかったのだという。
「それでも諦めきれなくて公園でずっと泣いてたら、男の子が一人、声をかけてくれたそうだ」
その子は姉さんと同じくらいの年で体格もそんなに良くなかった。
けれどひどく優しい子だったらしい。
「上級生にボコボコにされても、ぬいぐるみを取り返してよかったねって笑うんだ」
取られたぬいぐるみなんかより自分の方がずっとぼろぼろで。なのに自分のことのように笑ってくれたって。
ヒーローを見つけたって、嬉しそうに笑う姉さんが教えてくれた名前は――、
「ひなた」
俺の言葉に彼は目を見張る。
「あんたの昔の苗字、ひなた、だったんじゃないか?」
ひなたは名前にも多い。当時の姉さんはひなた君、と呼んでいたから下の名前と勘違いしていたのだろう。
だから俺は穂天と、姉の憧れのひなた君を、同一人物だと認識できなかった。今の今まで、この話を思い出せなかったのも別人だと思っていたからだ。
そう、つまり。
「あんたが姉さんに似てるんじゃなくて、姉さんがあんたに憧れて真似をしてたんだ」
姉さんと穂天の既視感がようやく繋がる。
「あんたはさ、俺の憧れでもあるんだよ」
彼の両手を取り、目を合わせて話す。瞳からは抑えきれない涙が溢れていた。
過去の話をした時でさえ、こぼれなかったものだ。
彼が泣くのはきっと誰かのためなのだろう。
「あんたはずっとかっこいいよ。昔も、今も」
罪人は糸を自分で切ってしまったけれど、垂らされた糸の意味を考えるだろう。
垂らされた糸の想いに気付けた時、彼は地獄の中でも歩く道を見つけられるのではないか。
そして相手は釈迦なんかじゃなく、ただの同じ人間だったということを理解できるのではないだろうか。
彼の、穂天の想いは、無駄ではなかったと俺は思いたい。
これは穂天のことが好きな、俺のエゴでしかないが。
穂天は自分に自信がなくて、沢山迷って、その結果全ての責任を背負おうとする。
陽稀の荷物を俺は降ろせない。
それは彼が背負わなければならないものだからだ。
けれど、その代わりひとつ取り去ってやれるものがある。
姉の憧れが穂天であるならば。
「姉さんのこと穂天は気にしてたけど、姉さんは意外と頑固で決めたことは貫くんだ。あんたに相談した時も本当はもう決めてたんだと思う」
そう、俺の知ってる姉さんはそういう人だ。
みんな優しくて思慮深いなんて言うが本質をわかってない。だから俺は、自殺した姉さんは何かを決めていたのだと思っている。
「姉さんは、ただあんたに背中を押してもらいたかっただけだと思うよ。憧れの、穂天に」
冷たく聞こえないように、殊更に優しく声をかける。
――けれど、後悔を断ち切れるようにきっぱりと。
「あんたも言ってたが、姉さんの死を引き摺るのは本当に自意識過剰だからやめろ。姉さんはあんたの意見なんて気にしてないよ」
彼は涙を流しているのに息を殺そうとして、唇を噛み締めた。涙も鼻水も止められていないのだから、大声をあげればいいのに。
泣くのも下手くそなんだなと俺は笑った。
「穂天、俺はあんたのことが好きだ。だからあんたのことを笑わせたい」
穂天の目から涙を拭いながらそう伝えると、彼は目を見開き、口をぱくぱくとさせる。驚きで涙は少し止まったようだった。
「返事はすぐじゃなくていい。ゆっくりでいい、でもいっぱい、俺のこと考えてくれ」
陽稀のことより俺を考えてくれ。
お前はきっと自分を責めるだろうから。
穂天はきちんと気持ちを伝えたのだ。わかりあおうと努力したのだ。その事実を大事にしてほしい。
そんな想いを込めて握る力を強くした。
「兄弟揃って同じ人に惹かれるなんてな」
そう言って笑うと、彼はもっと泣き出してしまった。
