弔想夜夢

 予想していた通り、朱花さんの捜索に時間を割けないまま体育祭の日がやってきた。
 準備期間もほとんどなかったからそんなに大きいものではないが、それでもこういったイベントごとは学生たちの息抜きに必要だ。校内の空気も朝からずっと浮ついている。
 運動場に生徒が集まり、開会式が始まった。校長の長い挨拶も終わり、次は生徒代表挨拶だ。就任直後の二年生の生徒会長は、緊張した様子ながらもきっちり役目を全うしようとしている。
 生徒会長の挨拶には今は亡き前生徒会長への思いが交えられており、彼女と仲の良かった生徒たちが涙ぐんでいた。
 朱花さんが亡くなってからまだそんなに経っていない。彼女たちの涙も無理からぬことだった。
 友人たちも悲しみに暮れているのだ、家族である唯我の心痛は想像に難くない。
 俺は生徒会長の言葉を真面目に聞いている体を装いながら、彼が心配になり様子を窺う。
 俺は平均身長より少し高めで、彼は俺より少しだけ背が高い。お互い後ろの方なので真ん中辺りを探すよりは見つけやすいが、学年が離れているせいで彼の位置はなかなか見えなかった。
 目立つ銀髪のおかげでかろうじて列に並んでる姿を見つける。特別悲しんでるようには見えない、いつも通りの彼、という感じだった。
 俺はそんな彼を見てなんだかなぁ、と思う。
 彼の悲しみや苦しみを俺は知っている。おそらく彼がその痛みに気付けていないということも。
 目下の悩みはそれを彼に伝えるかどうか、だった。
 俺は泣きたいときに泣くべきだし、泣けないなら無理に泣く必要はないと思う。けれど気付かずその傷を無視し続けて、後で大変なことにならないかが不安だった。
 そうはいっても、気付いてないことを突然伝えたところで、感慨なんてなくただの事実になる。
 その事実が後でやってきた時に、先に伝えられていたせいでタイミングを逃してしまったら?
 彼を傷つけたくなくて考えすぎてしまう。
 それだけ自分の中で彼が大事な存在になっていることを理解して、なんだか気恥ずかしくなる。
 俺が考え事をしていると、いつの間にか選手宣誓までが終わっていた。準備体操の軽快な音楽が流れだすと、わずかに残っていた湿っぽい空気は一気に霧散する。
 人が重なって彼の姿は見えなくなり、結局泣いていたかはわからなかった。

 開会式が終わって友人たちとクラスのテントで駄弁る。
 まずは定番の徒競走からだ。一年生から順に並んで走るので、俺たちは呼び出されるまで待機していた。
 くだらないことを話していた時、友人の一人が声をあげる。女子の歓声が一際高くなったことで気付いたようだ。

「な、あの子。生徒会長の弟じゃね? やっぱ派手だよな、あの銀髪」

 どうやらもうじき唯我の出番のようで、走者として列に並んでいる。

「あー、だよな。ピアスもばちばちで怖かったもん俺。生徒会長はおしとやかなのにな」

「校則緩いとはいえあんだけ派手で文句言われないのかね?」

「ほら、あれじゃん。なんか親がすごいとかそんな」

 なんだか、空気が悪い方向に向かっている気がする。このまま話を続けていたら、彼の悪口を聞くことになるかもしれない。
 聞きたくなくて、話題を逸らす。

「でもさ、なんか似合ってない? 自分に合う髪色とかわかるのすごいよな。俺ならミスって変な色になりそう」

 ちょっと不自然だったか? けどもう出してしまった言葉は誤魔化せない。
 俺が失敗したかと内心でドキドキしていると、みんなは少しだけきょとんとしたが、すぐに話題に乗ってきてくれた。

「なに? 穂天、髪色かえんの? 金と銀はいるから~、赤とかどうよ?」

「バカ、受験生なんだから無理に決まってるだろ。穂天も、終わってからにしろよ?」

 おちょくる友人に、たしなめる友人。誰も嫌な顔をせずに話を進めてくれ、気の良い友人たちにホッとする。

「そういえば、穂天ってあの子と仲良かったんだっけ?」

 まぁ、見てた人は知ってるよな。
 彼との関係をなんと表していいかわからず、返事に悩む。
 普通に友達。
 それでいいはずなのに、その言葉だけで済ませてしまうのはなんだか胸が痛んだ。

「あぁ、そういえばこの間教室来てたよな。隣のクラスの柊と喧嘩してなかった?」

「え? 何それ。HRの後に来てたやつじゃなくて? 穂天が急いで出てったやつ」

「違う違う、それとはまた別。柊と一触即発って感じで怖かったよ。あの時止めに入れなくてごめんな」

 なんて、優しく謝られて弱ってしまう。彼らは何も関係ないのに。

「いや、全然。特に問題もなかったし」

 俺は慌ててそう否定する。実際はあれ以降色々あったのだが、わざわざ話すようなことではない。

「そう? それならよかったけど」

「柊は、まぁ、なぁ」

 一緒に話してた三人が気まずそうに目くばせする。
 それもそうだろう。陽稀は学校でも嫌な雰囲気の集団に属しているので、敬遠されているのだ。

「てかさ、柊は幼馴染って話聞いたけど生徒会長弟はなんなん? どこで知り合ったん? 委員会?」

 聞かれるだろうなと思ってはいたが、幽霊を一緒に探しています! なんて言えるはずがなく、言葉を濁す。

「あ~、なんか声かけられてたまたま? 三年知り合いいないらしくて、色々聞きたかったんだって」

 俺の明言を避けた言い方に、彼らはほ~んと曖昧に頷いた。
 盛り上がっていた場の空気が淀む。俺が壁を作ったことは簡単にばれていた。
 居心地が悪くなった俺はおもむろに立ち上がる。

「ごめん、俺水筒忘れたみたい。とってくるわ」

 ありもしない忘れ物の話をしてその場を後にする。
 友人たちは、整列までに戻って来いよ~と気軽に送り出してくれた。
 歩きだした後ろでは、もう新しい話題で盛り上がり始めている。校舎に向かいながら横目でレーンを見たが、唯我はもういなかった。話に気を取られている間に走り終えてしまったらしい。
 こういったお祭り時に一人でいると、なんだか感傷に浸ってしまう。
 彼らは悪い人間じゃない。
 むしろ、俺の聞かれたくないことを放っておいてくれる、距離感の丁度いいやつらだ。俺が選んで、そういうやつらと友達になった。
 でも唯我との関係の心地よさを知った今、俺がいなくても回る彼らの世界をなんだか少し寂しいと思ってしまう。
 俺が踏み出せば彼らも応えてくれるのだろうか。
 それはそれで、急に勝手な気がするが。気付けば欲張りになっていて、嫌になる。
 唯我のこともそうだ。
 俺は彼に何を求めているのだろうか。大切なことを思い出させてくれた。それだけで十分なのに、これ以上を考えるのは求めすぎだ。
 校舎に着く手前の自販機で適当な飲み物を買う。
 買ったばかりのそれは、冷却が壊れかけているのかなんだかぬるい気がした。
 手ぶらで帰るのも気まずくて、欲しくもないジュースを買ったが選択を間違えたかもしれない。
 ぬるいジュースを手に持て余していると奥から誰かが歩いてくる。

「皇さんもさぁ、もうちょっと考えて自殺しろよな。いい迷惑だよ本当に」

 あまりの強すぎる言葉に、つい自販機の裏に隠れてしまった。
 どうやら二人で話しながら運動場の方に向かっているようだ。

「言い過ぎだってお前。疲れてんだよ、息抜きに楽しも?」

「だから、その息抜きが縮小されてんだろうが。そもそもなくなってたかもしれないんだぜ? 身勝手すぎるよな」

 彼の言葉は間違ってはいない。
 別の世界を生きる俺たちにとって、関わりのない人間の死なんてそんなものだろう。俺だって朱花さんと前日に話してなければ、唯我と知り合ってなければ、彼女の死は他人事だった。
 拳をぎゅっと握る。
 彼らが冷たい訳ではない、人間なんてそんなもの。自分のことに精一杯で、他人に目をかけられるのはほんの一握りなんだ。知らない誰かを大事に出来る人は、それだけで特別だと思う。
 小さく息を吸い込み、そこから離れようとすると前方から人が来ていたことに気付く。
 唯我だ!
 今の話が聞こえていたのだろうか、唯我はズンズンと彼らにむかって歩いていく。
 喧嘩になるかも、まずは慰めた方がいい? いや、聞こえていたかを確認して、と頭で段取りを組んでいる間に唯我は彼らの前まで到着していた。
 まずい、そう思ったのも束の間、唯我は頭を下げる。

「すまない。姉さんが迷惑をかけた」

 驚きで言葉を失う。今までの唯我なら、おそらく掴みかかっていただろう。それが、怒らないどころか謝罪をするなんて。

「い、いや、その、別に本気で言ってたんじゃなくて。ちょっと疲れてたって言うか、何かにやつ当たりしたかっただけっていうか……」

「そ、そうそう。全然本気じゃないから。俺たちも、ね。なんか悪かったね。ごめんね」

 彼らもこっそり愚痴を言いたかっただけで、遺族に謝罪されるとは露ほども思っていなかったのだろう。肩透かしを食らった彼らは苦笑いをして、所在なさげにそそくさと逃げて行く。
 彼らが走り去ったのを見届けて唯我のもとへ駆け寄った。

「大丈夫?」

 唯我はまだ、足元をじっと見つめたままだったが俺の声を聞いて振り返る。

「あんた、見てたのか」

「ごめん、たまたま。出るタイミング見失ってたらお前が来て、更に出られなくなっちゃって。」

 俺に返事する彼の表情に、特に悲しみは見えない。ただ事実を受け止めているだけ、そんな顔。

「お前の対応は大人だったけど、別に謝らなくても良かったんじゃないか? お姉さんの悪口言われてるんだぞ」

 俺はなんだか献身的すぎる唯我が不安でそう言うと、彼はいたずらっぽく笑った。

「なんだ、あんた心配してくれてるのか? 大丈夫、ちゃんとむかついてるぞ。けど、それはそれ。これはこれ、だ」

 男子三日会わざればなんとやら。噂には聞いていたが、実際に自分が体験することがあるなんて。

「姉さんのせいで体育祭のプログラムが削られてるのは事実だし、三年は最後の体育祭だ。不満が出るのは仕方ない」

 唯我の成長に親のように嬉しくなる。
 たかだか高三の経験が浅い俺では、その成長が良いことか悪いことかはわからない。けれど、他人と衝突しないことは少なくとも悪いことではないだろう。

「あんたが教えてくれたんだぞ」

 そう言って彼は俺の目を見てはにかむ。

「あんたとか、姉さんがかっこいいのはなんでだろ? って俺なりに考えたんだ。それはさ、周りを見てるからなんだよな。相手の気持ちになって行動できるからだ。俺もそうなりたいって思ったんだよ」

 元々大型犬っぽかったし、弟みを感じてはいたが、年下力も少し会わないうちにカンストしたようだ。
 俺は目の前の少しだけ高い頭をわしゃわしゃとかき混ぜる。おい! セットしてるんだからやめろ! なんて聞こえてきたが、気にせずぐちゃぐちゃにしてやった。

「お前、なんか見ない間に大人になったな~! かっこいいよ!」

 手を止めて素直に唯我を賞賛する。
 俺と目が合った彼は突然ウッ、と呻いて胸を押さえた。

「え、なに? どうした? なんか痛い?」

 彼はそのまましゃがみ込んでしまう。

「いや、なんか、不整脈……?」

 彼の曖昧な返答に不安になる。

「えぇ、それ大丈夫なの? 保健室行く? ていうかなんか休む場所があるんだっけか?」

 熱中症だろうか? 救護室まで一緒に行こうとしたら彼に止められる。

「いや、大丈夫だ。もう少し様子を見て、悪くなったら自分で行く。それよりあんた、まだ順番大丈夫なのか? 三年の徒競走はまだ終わってないだろ」

「あ! お前がいるってことは一年はもう終わってるのか! やば、早く戻らなきゃ」

 急いで戻りたいが、体調不良を置いていくのは気が引けてもだもだしていると彼に背を押された。

「本当に平気だから。早く戻れって」

「悪い、ごめんな。あ、そうだこれやるよ! 水分補給しろよ! ぬるくてごめんだけど!」

 手元にあった飲み物だけ渡して急いで走る。無駄な買い物をしてしまったと思ったが、彼に活用してもらえるなら悪くないなと思った。

 徒競走の整列にはギリギリだったが間に合い、無事に種目を終える。
 出る種目は選択制で、全員参加のものとは別に一競技選ばなければいけなかったので俺は玉入れを選んだ。
 唯我は借り物競争にしたらしい。流石、花型の人気どころを取っている。そういうところも彼っぽい。
 次に始まるのは借り物競争なので、今回は見学だ。
 借り物競争のお題は面白いものが多く、体育祭の中では特に注目のイベントだった。
 ルールは簡単でぐるぐるバットから始まり、お題を引いて相手を探す。その後、お題の相手と二人三脚をしてゴールに到着した順位を競うというものだ。
 先生や友人なんかは無難だが、たまにあるトリッキーなお題はなかなか面白い。俺も体育祭の中では一番楽しみにしていた。

「去年のお題も良かったよな、今年は何があるかな?」

「やっぱ恋愛系がいいよな。好きな子とか? 俺も出たかった〜! 青春して~!」

 始まった借り物競争を眺めながら、隣の友人に相槌を打つ。

「ジャン負けはしょうがないって。まだワンチャン借りられる側もあるかもだろ」

 俺の適当な返事に、友人の目がキラリと光った。

「なによ、穂天ってば。誰かに連れてかれる自信があるわけ? もしや、お前裏切ったな?」

 天誅じゃあ~! とふざけだした友人からヘッドロックを食らう。降参だ! なんて馬鹿みたいに騒いでいると、目の前にお題を持った唯我が来ていた。
 まさか、と嫌な予感に身を固める。
 けれど最後通告は呆気なく突きつけられた。

「穂天、来てくれ」

 漫画のヒロインよろしく手を差し出されてしまう。
 周りはひやかしムードに入っており、ひゅ~と囃し立ててくる。実際のお題がどんな内容であれ、しょうもないことで盛り上がれるのが男子高校生。ここで恥ずかしがって渋っていれば余計に目立つ。
 唯我め! と内心で恨みながら、あたかもノリノリのように立ち上がり彼の手を取った。

「ふつつかものですが……」

 そんなふざけた返しにクラスはまた盛り上がる。
 俺がおふざけをしている間、唯我はずっと冷めた視線をこちらに送っていた。
 お前が悪いんだろうが!
 文句を言いたいのを我慢して、唯我の手を取って走り出す。
 二人三脚のコーナーに着くと、彼は紐を結びだした。
 なんだか手持ち無沙汰でつむじを眺めながら尋ねる。

「お題なんだったの?」

 彼はビシッと音が鳴りそうな勢いで固まった。もしや、何か変なお題を引いたのだろうか。
 けれど彼は答えてくれず後でわかるだろ、と小さな声で言い、紐を結び終えてしまった。
 わかるけど、気になるから聞いているのであって。そう思いつつ肩を組まれたので何も言えず一緒に走り出す。
 ところが、二人三脚が全然上手くいかない。
 身長は同じくらいだから走りやすいかと思っていたのだが、唯我の走り方がひどくぎこちないのだ。何故か右手と右足が同時に出ているし、掛け声にタイミングが合わない。何度ももつれ合って転んでしまった。
 割と序盤に走り出したのにあまりにも息が合わず、他の参加者に次々と抜かされてしまう。
 他人と行動を合わせることが苦手そうだとは思っていたがここまでとは。終いには観客たちからも声援を送られ、見守られる始末だ。
 ここまでくると俺も面白くなって笑いだしてしまう。唯我だけが顔を赤くして眉間にシワを寄せていた。女の子はそんな彼が珍しいのか、きゃいきゃいと騒いでいる。
 そして何度も転びながらようやっとゴールまで来た。ゴールではお題の発表と、お題の相手からひとこと言う決まりで、司会に唯我のお題が渡される。
 みんなゴールしていたので目立つ中でのお題発表となり緊張した。
 お題について聞いた時、不穏な空気を出していたから人に紛れられるうちにゴールしたかったが仕方がない。
 内心ドキドキしながら発表されたお題は『笑顔が見たい人』だった。
 触れにくい。
 なんとも触れにくいし、俺も恥ずかしい。
 司会も対応に困ったようで、お~っと、これは……? と言葉を探しあぐねているようだった。
 気まずい空気に耐えきれずマイクを半分奪って答える。

「いや、光栄です! 最近友達になったばかりなんでね! 仲良くなりたいって思ってくれたのかも!」

 随分と言い訳がましくなってしまった。焦って俺は言葉を重ねる。

「俺もね、もっと仲良くなれると嬉しいです!」

 司会も俺の言い分に乗っかることにしたのだろう。軽い合いの手を入れてくれる。

「素敵な友情ですね! 皇くんはイケメンだから、ここに女子が来ていたら戦争になっていたかもしれません!」

 おもしろおかしく茶化してくれ、妙な空気だった周囲は再び笑いに包まれた。
 司会に感謝しながら、場外に出ていく。
 出場者はまだ残る必要があるらしく、別れを告げ出て行こうとした時、唯我に呼び止められた。

「いつもはこんなんじゃないんだ」

 急に何の話かさっぱりわからない。俺が返事に困っていると、唯我はもっと大きな声を出した。

「二人三脚! 中学とかは上手く出来てたんだ。今日はなんでか緊張して、上手くいかなかっただけというか」

 彼の視線はあっちこっちと定まらない。
 そうか、彼は赤面していたものな。恥ずかしくて誰かに言い訳したい気分なのかも。そういうことは自分にも身に覚えがあるので素直に聞いておいてやることにする。

「そっか、そういうこともあるよな。環境が変わって出来てたことも緊張するようになったのかも」

 俺なりに彼の欲しい言葉に寄り添って答えたつもりだった。けれど彼はなんだか釈然としない様子だ。
 こういうのは得意なつもりだったので、答えを外したらしいことに少し落ち込む。

「そっか……そうなのかもな、そういうこともある、よな?」

 けれど彼も理解できていないから納得できなかっただけのようで、俺の言葉を聞いて無理やり納得することにしたようだった。
 そのまま彼に見送られ、自分のテントに向かおうとする。
 後からじわじわとお題を思い出して照れてきた。仲の良い人間が他にいなさそうだし、消去法だったのかもしれない。
 そう思ってもなんだか恥ずかしいし、友人にはいじられそうだ。いや、逆にいじりにくいのかも? なんて考え事をしていたら人にぶつかる。
 前を見ていなかったことを反省して、相手に謝ろうとすると、そこにいたのは陽稀だった。

「ご、ごめん。陽稀。前見てなかった」

 彼はひどく機嫌の悪そうな顔で眉を吊り上げ、こちらを睨みつける。

「そんなに楽しかった? 俺に気付かないくらい」

「え? 何の話……」

 訳が分からずそう返すと、強い力で肩を握り込まれる。
 皮膚に爪が食い込んで痛い。

「っ、おい。なんだよ、痛いって」

 痛みからつい、陽稀の手を払いのけてしまった。引き剥がされた手を、陽稀は呆然とした顔で見つめている。
 ごめん、と謝りかけて唯我との約束を思い出した。
 陽稀にきちんと思いを伝えると決めたのだった、簡単に謝るべきじゃない。そう思い、別の言葉をかける。

「なぁ、陽稀。こういうのやめにしないか。ちゃんと話がしたい」

 陽稀は強張った表情をゆっくりとこちらに向ける。彼の瞳孔は不自然に開ききっていた。

「は?」

 陽稀はようやっと、その一文字を絞り出したといった風で。なんだか異様な雰囲気にしり込みしてしまう。

「また、どこかで時間を作ってくれないか」

 少し、か細い声になってしまっていたかもしれない。
 それでも話し合いの場を設けたくてお願いすると、陽稀は顔を伏せてしまった。

「なんで……、なんでだよ……なんで俺を選ばない?」

 陽稀の言葉は要領を得ずわからない。そのうえ表情も見えなくなってしまって、どんな気持ちで話しているのかもさっぱりだった。

「陽稀?」

 俺の問いかけに陽稀が揺れる。
 陽稀は返事をくれず、そのまま足を引きずって行ってしまった。


 陽稀とのことは気にかかったが、体育祭は着々と終わりに向かっていく。
 例年なら応援合戦なんかもあったが、準備に時間がかかるものは省かれていた。そのためほとんどが競技になっており、息つく間もないままプログラムは進行する。
 応援合戦の代わりに全員参加の綱引きが増えたこともあり、終わり間際にはかなりくたくたになっていた。
 自分の出番が全て終わり、残すところはクラスの代表者のみが出るリレーだけだ。
 もう俺の出番はないので、気楽な気持ちで見られる。こういう時、足が速くなくて良かったかもな、なんて暢気なことを考えた。
 唯我はさすがにリレーのメンバーに選ばれているらしく、待機列に並んで待っていた。
 これだけの運動をこなしておいて、まだ元気そうな彼を見ると恐怖を覚える。
 普段の運動量が違うんだろうな。
 最初は唯我のことを天が何物も与えた男だと思っていたが、彼はかなりストイックな努力家だ。今となっては当然の結果な気もする。
 そんなことを考えていると彼と目が合った。リレーの待機列が俺のテントと近かったので、彼も見られているのに気付いたのだろう。
 声には出さず口だけで頑張れよ、と伝えておく。すると彼は不敵な笑みをこちらに寄こしてきた。
 キザだな~と思いつつ、最近になってはあの不遜なところも気に入り始めているので手に負えない。
 自分に呆れてふっと鼻で笑うと、彼は胸を押さえてまたしゃがみ込んでいった。本当に大丈夫だろうか? あいつ。
 そうこうしている間にリレーが始まる。
 彼はアンカーを務めるらしかった。唯我のクラスは順調に走っていたが、前の子が盛大に転んでしまう。
 なんとか立ち上がって唯我にバトンを渡したが、その時には既に最下位になってしまっていた。
 泣きそうな彼女に唯我は何か言って走り出す。
 最後の走者は半周ではなく一周走る予定だが、他のクラスはもう走り出しており、少し差をつけられてしまっていた。
 みんなが祈るように見つめる中、彼はぐんぐんと他を追い抜いていく。
 あまりの速さに周りが呆気に取られていると、彼はついに一位になってしまった。
 ゴールをした彼はクラスに温かく出迎えられ、大喜びでもみくちゃにされていた。
 先程転んだ子が彼に近寄って何か話しかけている。ほっとして気が緩んだのだろう、彼女は泣き出してしまいそうだった。
 そんな彼女の様子に周囲があわてふためいているのはこちらにまで伝わってくる。会話の内容までは聞こえないため、俺はハラハラと見守ることしか出来ない。
 彼女に向かって唯我が何かを言う。
 一瞬空気が凍ったが、次の瞬間にはクラスメイトたちがなんだか楽しそうに盛り上がりだした。良かった、よくわからないが上手くいったらしい。
 ホッと胸を撫でおろしていると、唯我がこちらを見て片目を瞑ってみせた。
 これまたキザな。顔が良くなかったら許されないやつだな。
 俺が視線に呆れている間に、彼らは楽しそうにもみあいを始める。唯我の肩に腕を置いているのは、あの時彼を悪く言っていた嫌なクラスメイトだった。
 調子の良いやつらだな、あの時はさんざん馬鹿にしていたのに。
 彼らの様子を見て俺は苦々しい気持ちになる。友人に誤解されたままでいるのは悲しいと自分で言った癖に、もてはやされる彼はなんだか面白くない。
 なんだよあいつら、不良が子犬拾った理論じゃねぇか。
 素直に喜べない自分にもなんだかイライラする。自分が願ったことの癖に、中途半端だ。
 モヤモヤした気持ちで彼らを眺めていると後ろから声をかけられた。誰かが俺を呼んでいるらしい。
 テントの外に出てみると、そこには太陽に背くように陽稀が立っていた。
 陽稀の表情は影になっていて読み取れない。

「さっきの話。ちょっといいか」

 地の底から響くような、低く唸る声。
 暗く重い声に思わず肩が跳ねた。
 どこかで話し合いを設けられたら、とは思っていたが、今日言い出して今日になるとは。覚悟が決めきれていなかったのもあり、足が竦む。
 それでも話をすると決めたのだ。彼に約束したのだから。
 深く呼吸を吸い込んで一歩踏み出す。

「わかった。場所を変えよう」

 俺は陽稀の顔を見据える。
 陽稀は俺の記憶より、ずっと憔悴しきった顔をしていた。