弔想夜夢

 結局喧嘩別れしたっきり、唯我とは話せていない。
 どう考えてもあれは俺に非がある。謝りたいと思っていたがタイミングが掴めず、約束していた日曜日になってしまった。
 あの日、家に帰って色々と考えた。
 彼は人を馬鹿にするような人間じゃないから話したってよかったはずだ。
 話せば真剣に聞いてくれただろう、そんなことは分かっていたのに。
 俺が自分を明け渡すことが怖かった。
 踏み出せないのは自分で、なのに図星を突かれてひどいことを言ってしまった。

「朱花さんの時から、何も変われてないな」

 そう独りごちる。
 唯我の願いを叶えるためなんて銘打っているが、俺も彼女に伝えたいことがあるから一緒に探していたのに。
 彼女の死の前日、言えなかったことを言うために。彼女の死を知って、後悔したから。
 悔いのない生き方をしようと思ったのに、結局また同じ過ちを犯していた。

「次会えた時は謝って話をしよう。嫌がられるかもしれないけど、話してくれるなら」

 本当は今日までに彼と会って話をしたかったが、メッセージを入れても彼は返事をくれなかった。
 怒っている? 呆れている? 真相は分からなかったが当然の反応だと思い、俺もそれ以上は連絡を入れられなかった。
 彼は俺にもう話しかけないと言っていたし、彼一人では幽霊が見えないから今日の約束は反故になっただろう。
 そう思うけれど、彼なら一人でも廃屋に向かっているかもしれない。あそこは霊が見えようが見えまいが、近付くこと自体が危険だ。俺は彼が心配であまり眠ることが出来なかった。
 ちょうどあの廃屋に向かう道の最中にファミレスがある。何もなければいいんだ、何かあったら寝覚めが悪いもんな、とか。たまには勉強の雰囲気を変えてみたかったし、とか。あとはファミレスの近くに美味しいパン屋があるからそこでパンを買ったっていい。
 なんて散々言い訳を作って、俺は朝早くからそのファミレスに勉強道具を一式持って待機することにした。
 勉強は遅々として進まず、そろそろこれってストーカーか? なんて疑問を持ちだした頃、派手な銀髪が通りに入ってきた。
 やっぱり来た!
 勢いあまって立ち上がると、机の上に置いていたプリントを落としてしまう。
 急いでプリントを拾って後片付けをし、会計をして彼を追う。
 彼の歩調は速く、店を出るころには見失ってしまっていた。行き先は廃屋だと思うので、とりあえず俺もそこに向かう。けれど廃屋に着いても彼の姿は見えなかった。

「どんだけ足速いんだよ。さすが陸上部か?」

 ほとんど行ってないくせに、なんて心の中で毒づく。
 正直ここに入るのはすごく怖い。あの時頷けたのは、彼も一緒だと思っていたからだ。
 いつの間にかあの年下の少年をこんなにも頼りにしていたことに気づき、俺は内心で自嘲した。
 こんなにも頼っているのに、大事なところは関係ないと突き放すなんて、さすがに都合が良すぎるよな。
 ここは人通りも少なく、全体的に暗い雰囲気が漂っている。うら寂しい風がギ、ギィーっと古びた廃屋を揺らした。
 彼が入って行くのを直接見たわけではないが、彼はここにいる、何となく直感でそう思う。こんな風に躊躇している間にも、彼に危険が迫っているかもしれない。
 俺は大きく深呼吸をして、ゴクリと唾を飲み込み建物の中に入った。
 廃屋からは錆びた鉄とほのかに饐えた匂いがする。
 なんだか少し懐かしい気もする。あの時もこんな嫌な匂いがしていた。
 外よりも中の方が薄暗く、建物全体が軋む様な音が鳴り響いている。

「唯我~?」

 あまり大きな音を出すとあいつがいてバレるかもしれない。そう思って控えめな声で彼を呼ぶ。けれど返ってくるのは空虚な音だけだった。
 まだ入ってそれほど経っていないはずなのに彼に出会えないということは、俺の直感などは勘違いじゃないのか。本当は最初からここに一人きりなんじゃないか、そんな風に思いだす。
 途端に心細く感じ始めて身を縮めた。
 部屋はじめじめとしていて暗く、開いた隙間から差し込む光が唯一の頼りだった。
 小さな物音がすると誰か見てるんじゃないかとか、自分の呼吸音さえ実は違うものの何かなのではないかとか、ありもしない想像が頭を巡る。
 少し考えすぎてパニックになり始めた時だった。肩に何かがあたった感触がする。
 瞬間飛びのき叫び声をあげた。つもりだった。
 けれど唇に何かの感触がして、俺の声はそこに吸い込まれていた。
 目の前には唯我の顔がある。
 唯我を見つけられたことに安堵して話そうとすると、俺の口は彼の手で押さえられていたことに気付く。

「ああ、悪い。あんたが叫びそうだったからつい」

 俺がもごもごしていると、彼は手を離してくれた。

「俺なりに幽霊について調べたんだ。こういう所で大きな声を出すのはやめた方がいいって書いてあったから」

 俺は少し呆気にとられながら返す。

「あっ、ああそうだな。大きな声を出すのは良くないかもな」

「やっぱりそうか。後は塩とか線香とか良さそうなものは全部持ってきたんだ。ニンニクとか十字架も」

 そう言いながら彼は鞄から奇妙奇天烈なものを出していく。もちろんカメラも、と言って決めポーズをした。

「ニンニクとか十字架は吸血鬼だろ。塩とかも逆効果になるって話も聞いたことあるぞ」

「何!? だめなのか。じゃあどうしたらいいんだ」

 彼は困ったように言いながら、十字架を眺める。
 なんだか普通だ。俺はかなり思い詰めて来たつもりだったんだが。

「一応俺に考えがなくはない。今は、ちょっと言えないが」

 気まずさに目線を逸らしながら言うが、彼が気にした素振りはなかった。

「そうか、それは頼りになるな。ちなみに役に立つか分からないがこんなものも持ってきた」

 そう言って彼が真剣な顔で取り出したのはアダルトビデオだった。

「ごっふっ」

 予想外の物の登場に咳き込む。

「おま……、なん……! それ……!?」

 女教師モノのどぎつそうなやつ。

「あ、おい、勘違いするなよ。俺がよく遊びに行く親戚の兄ちゃんのものだ。幽霊対策にはエッチな物もいいらしいと聞いてな」

 しれっと言い募る彼に、これは俺が逆におかしいのか? と宙を仰いだ。
 高校生にそんなもの貸すなよ、と親戚のお兄さんに呆れる。
 彼は今出したものを鞄にしまいながら呟いた。

「来ないと思ってた。まさか来てくれるとは」

 彼の声に喜色を感じたのは俺の願望かもしれない。
 そうだ、ふざけてる場合じゃなかった。

「ごめん」

 彼の言葉で本題を思い出した俺は、しっかり頭を下げて謝る。

「言い過ぎた。俺が大人げなかった。図星を突かれてひどいことを言ったんだ。お前の言う通り向き合ってなかったのは俺だ」

 俺がそう言うと彼の方も頭を下げてきた。

「俺こそごめん。あんたの言う通り、姉さんに重ねて甘えてたと思う。あんたの隣は居心地がよくてつい。あんたはあんたなのにな」

 久しぶりに素直な気持ちで話すことが出来て俺は泣きそうになった。こうやって喧嘩をして、言いたいことを伝えて仲直りして、そんなのはいつぶりだろうか。昔はそれが当たり前だったのに。

「なぁ実は俺、お前に言ってなかったんだけど、朱花さんが亡くなった前日、話をしたんだ。って言っても、五分とかそれぐらいの時間だけど」

 そう、まだ一度も話してない話だった。
 俺が唯我に協力した理由。
 確かに彼に根負けしたのも事実だが、本当は俺にも望みがあったからだった。
 俺から聞く初めての話に彼は驚き言葉を失う。少し逡巡したのち、此方を真っ直ぐ見据え続きを促した。

「俺は美化委員長なんだけど、後輩への引き継ぎとか諸々報告に生徒会室に行ってたんだ。そこで朱花さんに会った」

 別に好きで委員長をやってたわけじゃない。何となく流れで押し付けられて。
 だからその日も適当に報告書を提出して帰るつもりだった。
 けれど彼女は俺に話しかけて来たのだ。悩みがあると。

「俺と彼女は特に関わりがあるわけじゃなかった。だから相談したいって言われて、なんで俺なんだとは思ったよ」

 けれど、思い詰めた様子だったから無下には出来なかった。

「でもまぁそれで、少しだけ相談に乗ったんだ。時間は短かったけれど大切な話なんだろうなと、思った」

 正直俺は人のほしい言葉を伝えるのが得意だ。ずっと周りの顔色を伺ってきたからそういうのが得意になってしまった。俺は彼女が言って欲しいんだろうなって言葉を返したんだ。

「無難に返事したよ。彼女は納得して、決心してた。自分で言うのもなんだけど、回答としては九十点くらいのものだと思う」

 ただ実は、俺の方が納得してなかったんだ。

「本当は言いたい言葉があった」

 彼女の欲しい言葉じゃなくて、俺の言葉。
 けど、自分の言葉を伝えることが怖かった。だから言えなかった。
 また失敗したらどうしよう。それに、自分も出来てないことを他人には言うのか? って。
 本当は、あの時。

「理解して貰えなくても、わかりあえなくても、言いたいことは言わなきゃって言いたかったんだ」

 これは、俺が陽稀に思ってること。
 ずっと陽稀に言いたいことがあった。
 伝えて、話して、わかりあえなくても仕方がない。けれど、言わなきゃ何も始まらない。ずっとわかってるんだそんなこと。
 だけど一度も行動に移せなかった。
 俺が臆病だから。弱虫だったから。

「朱花さんにも言えなかった。言いたいこと、全部しまい込むようになってしまったから」

 唯我は何も言わない。
 ただ黙って俺の話を聞いている。

「彼女の死の原因に、俺がそれを言えなかったから。なんて理由があるとは思わない」

 たった、数分しか話してない俺が彼女の死を背負うなんて烏滸がましい、そう思う。
 ――けど。

「俺がそれを伝えられてたら、結果は何か変わってたかもしれない」

 そう考えるとずっと、喉に小骨が刺さったようなんだ。
 最初は大した痛みじゃない、けれど痛みはじくじくと広がっていく。

「夢に見るんだ。屋上から落ちていく彼女を。頭は忘れようとしてるのか、ちょっとずつ曖昧になっていくけど、それでも今も」

 広がった痛みは無視できない程になっていった。

「だから、俺は決めたんだ。これからは後悔のないように生きようって」

 きちんと伝えようって。

「そう決めた時にちょうどお前から声をかけられた」

 良い機会だと思った。

「朱花さんに本当のことを言えずにごめんって謝って、それから俺もできるようになるよって。言おうと思ってたんだ」

 勝手なんだけど、誓いみたいなものを立てるつもりだった。あとは今更だけど俺に出来ることはないかって、彼女に聞きたくて。
 唯我を手伝いたいって気持ちに嘘偽りはなかったけど、俺も自分の望みを遂げようとしてた。

「なのにお前の手を振り払ったあの日、俺は何も変われてなかった」

 そう、結局理想ばかりが先行して、肝心な行動が伴っていなかった。
 変わるって決めたんなら、あの時変わってなきゃいけなかったんだ。

「だから何回腹決めんだよって感じなんだけど、ここからちゃんと変わるから」

 お前の隣に並べるような人になるから。

「言いたいこともちゃんと言う。だからまずは手始めに俺の話をさせてくれないか。それから良ければお前の話も聞かせてくれ」

 そう言って俺は手を差し出した。
 俺の言葉を真剣に聞いていた彼は少し頬を緩ませ、手を握り返してくれる。もう相手にしてもらえないかもしれないと思っていたから、俺は嬉しくなった。
 緊張していた体からゆっくりと力が抜ける。

 けれど、そうなってくると人間とは欲張りなもので、少し不満が生まれる。

「俺メッセージ送ったんだけど、なんで返してくれなかったんだ?」

 彼は驚いて、鞄からスマホを取り出して確認する。

「すまない。見てなかった。クラスラインがうるさかったから通知を切ってたんだ。ほら、もうじき体育祭があるだろう?」

 彼の発言を聞いて俺は呆れる。

「お前なぁ、そういうところだぞ。話しかけられてるかもしれないんだから確認ぐらいしろ」

 自分に返事をしなかったことより、クラスに馴染む気がない彼が心配になる。

「喧嘩の時のあれは本心じゃないんだけどさ、お前の良さを俺は知ってるから、周りの人に勘違いされてるのはやるせないよ」

 彼の交友関係に俺が口を挟むべきでないことは分かっている。けれど理解されない苦しみを俺は知っているから、つい、熱がこもってしまった。
 俺の言葉を聞いて彼は晴れやかに笑う。

「わかった。あんたがそう言うなら」

 彼の笑顔に胸が満たされるのとは裏腹に、背筋に冷たい汗が流れた。
 急に足元が泥に変わったかのように、ぐらぐらとすくわれる。
 視界がぶれる。
 彼の奥、扉の先に、よく知った嫌な感覚が近づいてきている。
 それに気付いてしまえば、次第に腐った肉の匂いも鼻につき始めてきた。
 急に平衡感覚を失ってしゃがみ込んだ俺を心配して、彼が身を寄せる。その彼の腕を咄嗟に掴み走り出した。
 彼は一瞬バランスを崩しかけたが、体勢をなんとか持ち直しついてくる。

「どうしたんだ急に! 何があった!?」

「やばい! あいつはやばい! 早く……! あいつが、!」

 彼が何か話しかけていることはわかったが、逃げることに必死で支離滅裂な言葉しか出てこない。
 どこか隠れられる場所はないかと躍起になって探す。朽ちて開けられそうにないドアや、ドアそのものがない部屋を通り過ぎ、比較的綺麗な場所まで辿り着く。そして目についた立て付けの緩いドアを開けて中に入った。
 壁を背にして、部屋の隅に縮こまって二人で息を殺す。
 どうか通り過ぎてくれますように、そう願って、無意識に唯我を腕の中に覆い隠した。
 しかし気配はどんどん近づいてくる。
 心臓が早鐘を打つ。
 息を殺したいのに、近づく気配に我慢できず呼吸が溢れ出す。ハァハァと漏れ出す荒い息と、周りに反響する音が脳に届いて出ていかない。
 体中に汗をかいて、冷たいのか暑いのかよくわからなくなっていた。
 呼吸が、うまくできない。
 その時、手に温かいものが触れる。それは唯我の手だった。
 パニックになった俺を落ち着けるように、じっと俺の目を見つめ、手を重ね合わせて問うてきた。

「俺に、できることはあるか?」

 それは不安でいっぱいの心に、染み渡るような優しい声だった。
 彼も今が異常事態なことに気がついているのであろう。額には汗をかき、僅かにだが呼吸を荒げている。
 それでも俺がパニックであることを理解し、努めて冷静に、穏やかで暖かな声で話しかけてくれた。
 彼の体温に少しだけ安心する。
 こちらをまっすぐ捉える眼差しは、焦点の合わなかった視界を元に戻してくれた。
 気持ちばかりの冷静さを取り戻した俺は、ここで今考えられる最善の策を思いつく。
 けれど本当に行動に移すことはためらわれた。
 俺が躊躇していることに気付いたのだろう、掴んでいた手を強くギュッと握り、大丈夫だと目で訴えかけてくる。
 俺はこの温もりをなにがなんでも失いたくない。
 なら。――今できるすべてを。

「キスしよう!」

「は!?」

 彼は驚きのあまり身を固くする。瞳は見たことがないほど真ん丸になっていた。
 俺は二の句を継がせず続ける。

「どえろいやつ!!!!」

 今度こそ彼は絶句していた。
 けれど頭の回転が追いつくのを待つ時間はない。すぐそこまで奴は迫ってきている。
 これで見逃してもらえるかはわからないが、悩んでる暇はない。
 彼の肩をひっつかみ、勢いのまま唇をぶつける。力が強すぎたのだろうか、わずかに鉄の味がした。
 そんな押し付けるだけのキスではダメだ。
 もっと、もっとこうと頭では思うのだが、いろんな感情でぐちゃぐちゃになった頭ではどうしていいかさっぱりだった。
 奴の気配はまだ迫ってきている。
 はやく、もっと、はやく。
 けれど思考はどんどん靄がかかっていく。フツフツと頭が湯立ち動けないでいると、口内にぬるっとした生暖かいものが入ってきた。
 驚きで思わず目を開けると、眉間にシワを寄せ苦しそうにこちらを見てくる彼の目とぶつかった。

「ッ……ふっ、う……ン……」

 思わず吐息が漏れる。
 彼もあまり経験がないのだろう、口内の動きは拙い。けれど、俺だって同じようなものなのでお互い様だった。
 ただ絡ませて、こすり合わせるだけのようなひどく幼い口づけが続く。
 とても立派なキスじゃない。
 けれど彼の熱い眼差しが、心も体も焦がす。

「ハ、……つ……、ぅ……」

 混ざり合ってひとつになって、もはやどちらの声かすら分からなくなっていた。
 息継ぎのタイミングもよく分からず、二人してさっきよりも荒い呼吸を繰り返す。
 その間も唇が離れることはなかった。
 もっと、と貪るように彼を強く抱きしめようとした時、腰のあたりに手が這う感触がした。
 急な刺激に驚き肩を跳ねさせる。そのはずみに後ろの壁に背中をしたたかに打ち付けた。
 思わず口が離れる。

「い、っ~!」

「お、おい! 大丈夫か!」

 急に俺が痛がりだしたので、冷静さを取り戻した彼が声をかけてくれる。
 俺を心配して覗きこむ彼の髪は心なしか乱れていて、先ほどまでの激しさを物語っておりボッと顔に火が灯った。

「だ! 大丈夫! 大丈夫だから」

 彼も最初は心配そうな顔をしていたが変色する俺の顔を見て、じわじわと朱色が移っていった。

「そ、そうか。ならいいんだ」

 絶妙に気まずい空気に支配される。
 お互いになんて声をかければいいのか分からなくなっていた。
 そのとき一陣の風が吹く。
 ギィっと気味の悪い、廃屋の軋む音が俺たちを現実に引き戻した。

「そうだあいつは!?」

 音を立てないようにしていたのに大きな声を上げてしまったことに気づき、焦って外の気配を探る。気付けば無我夢中になって、存在を忘れていたのだ。

 幸い気配は既になくなっていた。
 安堵から脱力する。壁に背を預けてもたれかかり、肺に溜まっていた空気をゆっくり吐き出した。
 次いで笑いがこみ上げてくる。
 本当にこんな間抜けな方法で追い払えるとは思っていなかったのだ。
 いや、追い払えたとかではなく無視されただけかもしれないが、それでもどうにか難は逃れたのだ。
 突然笑い出した俺に彼は不審な目を向けたが、そのうちつられて一緒に笑い出した。
 ひとしきり笑い合った後、ゆっくりと彼に向かって話す。

「本当はさ、念仏とかも覚えてたんだけど、必死になったら頭から飛んでっちゃって。どうしようかと思った」

 あぁ、それで、と彼は納得しかけ、先ほどのことを思い出したのか視線をそらした。
 また変な空気が流れだす。
 薄暗くてはっきりとわからないが、彼の耳はほのかに赤い気がした。おそらく自分も同じようなものなので、ここが明るくなくて良かったと思う。
 そして、どちらからともなくとりあえずここを出ようかという話になった。
 また奴に遭遇しないよう、足早に廃屋を後にする。

「なぁ、あんた。とっておきの策があるって言ってなかったか?」

「とっておきとまでは言ってないよ。まあ、だから、その。念仏を唱えることと、お前と同じ……」

 なんだか恥ずかしくなって、最後はかなり尻すぼみになってしまった。
 これじゃあまるで最初から彼とのキスを考えていたみたいじゃないか。

「違うんだって、本当に! 幽霊は生命力が苦手だとかいう話があって、具体的にどうとか考えてたわけじゃ」

 焦って言い募る俺に、彼は堪えきれないというように笑みをこぼした。

「必死すぎだろあんた。俺は何も言ってねぇから」

 なんだか生暖かい眼差しにいたたまれなくなって、もう出口まであと数歩の道のりを早歩きする。
 なんだ、なんだよあいつ! なんなんだ! 俺より年下のガキのくせに! 二年しか変わらないけど! 大人の余裕みたいなのを見せやがって!
 内心で文句を言いながら外に出る。数歩後から彼が笑いながらついてくる足音がした。
 外に出ると本当にようやくひと心地ついた気がする。
 まだ少し空気が澱んでいる気がするが、それでも中とは大違いだった。

「これで分かってもらえた? ここは危ないって」

 彼は自分の目で見て体感して、ようやく納得できたのだろう、静かに頷いた。

「姉さんはここにいたか?」

「全部の部屋を見てないから絶対とは言えないけど、ここにあいつの気配以外は感じられなかったよ」

 それにいたとしてもあいつに吸収されてるんじゃないか、なんてことまでは言えなかった。
 そうかと彼は頷きを返す。

「なぁ、あんたこれからどうするんだ?」

 時刻は三時を少し過ぎた頃だった。お開きにするにはまだ早い。
 彼は暗に話の途中だろう? ということが言いたかったようで、足元の小石をコロコロと弄んでいた。
 先ほどまでの大人びた様子はなりを潜め、大きな犬のような彼に頬が緩む。
 俺は少し考えたのち、彼に提案する。

「じゃあ、うちくる?」

 彼の尻尾がピーンと立ち上がった気がした。